あああああああああああ
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――会議室の空気は、冷えた金属の匂いがした。
五十嵐黒成は椅子に深く腰を下ろし、背後の壁にかけられた黒いプレートを見上げる。
そこには彼の階級が刻まれていた。「SS級」。
たった数ヶ月前に研修を終えたばかりの人間が、ここまで上り詰めるのは異例中の異例だった。
「よぉ、噂の新人モンスターさんよ」
声と共に、赤堀詩恩が入ってきた。黒い制服の前をはだけ、軽口混じりに近づいてくる。
「コードネーム、“アビス”だっけ? カッコつけすぎじゃねぇの」
黒成はちらりと目を向けただけで答えなかった。
詩恩は勝手に椅子を引いて座り込み、口角を上げた。
「SS級だかなんだか知らねぇけど、相棒は俺だからな。今日でわかるぜ、研修で取れた勲章と実戦の泥の違いってやつが」
「……口が軽いな」
「ははっ、褒め言葉として受け取っとくわ」
空気が少し乱れたその時、冷たい声が会議室を裂いた。
「静かに。作戦会議の場です」
ユリカ・カザミが入ってきた。コードネーム“ヴァイン”。銀縁眼鏡の奥の瞳が鋭く、資料を机に置いた瞬間、空気が張りつめる。
「五十嵐黒成――いえ、“アビス”。あなたが今回の任務の中核です。SS級である以上、凡庸な働きは許されません」
黒成は小さくうなずいた。
詩恩が口を挟む。
「やれやれ、SS級ってだけで荷が重いな」
ユリカは彼を一瞥し、冷ややかに告げた。
「荷ではなく責任です」
場を制するその冷徹さに、黒成は内心で苦笑しかけた。
詩恩とユリカ。正反対の性格。
だが今日から、この三人がチームとしてヴォイドポータルへ潜ることになる。
スクリーンが点灯し、映像が浮かび上がった。
地下収容区画。そこに開いた“裂け目”――ヴォイドポータル。
光を吸い込み、音を呑み込む暗い楕円。
映像越しにすら、視線を引きずり込む力があった。
『……かえレ……噓ニ……』
かすかな声がスピーカーを震わせ、会議室の空気を冷やす。
詩恩が肩をすくめ、黒成に目をやった。
「聞こえたか? これが噂の“噓に帰る”ってやつだ。アビスさんよ、準備はいいか?」
黒成は無言で立ち上がった。
ポータルの闇が、確かにこちらを見返していた。
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黒成は控室のベンチに腰掛けていた。
天井の蛍光灯がじわじわと点滅し、張り詰めた空気の中で呼吸が浅くなる。
『――疲れてるね、黒成』
まただ。頭の奥に、やさしい女の声。
目を閉じると、白い光の粒が集まり、狐の姿を形作った。
「……レアリア、だな」
『はい。もう名前を覚えてくれた?』
ふわりと尻尾が揺れ、レアリアは嬉しそうに黒成の横に腰を下ろした。もちろん実体はなく、そこにいるのは黒成の意識の中だけだ。
「さっき言ってた“代償”ってやつ。結局なんなんだ?」
レアリアは首を傾げ、小さく笑った。
『そんな怖いものじゃないよ。あなたの左目……そこに印が出るの』
「印……?」
黒成はためらいながらポケットから小型のミラーを取り出し、左目を覗き込んだ。
瞳の外縁に、淡く白い紋様が浮かんでいる。渦のような、星のような、不思議な形。
「……これは……」
『契約の証。力を使えば濃くなって、強く光ることもある。でも痛みはないし、害もない。ただ――』
「ただ?」
『この世界では、その印を見れば、誰もが“契約者”だと気づく。だから隠しておいたほうがいいよ』
黒成はミラーを閉じた。
小さな代償。だが確かに、自分がもう「普通」ではない証だった。
『ねぇ黒成』
レアリアは尻尾を揺らし、いたずらっぽく目を細めた。
『私はあなたの力になる。でもそのかわり、あなたも私を守ってね』
「……ああ」
黒成は短く答えた。だがそのとき、ドアが開き、ユリカが入ってきた。
「五十嵐黒成。……あなた、なにを鏡で見ていたのですか?」
鋭い視線に、黒成は一瞬だけ目を伏せた。
左目の奥で、紋様がかすかに脈打つのを感じた。
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演習場の天井は高く、工場のように無機質だった。
金属製の壁には衝撃吸収材が貼られ、中央には射撃用のダミーターゲットが並んでいる。
「五十嵐黒成――コードネーム“アビス”。これより、能力適性試験を開始します」
アナウンスの声が響く。
ガラス越しに見守る隊員たちの中には、詩恩やユリカの姿もある。
詩恩はワクワクした顔で手を振り、ユリカは無表情にペンを走らせていた。
黒成は深く息を吸った。
手を銃の形に構え、狙いをダミーへと定める。
――空気を、掴め。
周囲の気圧がぐっと収縮する。指先に見えない粒子が凝縮し、透明な塊が生まれる。
それを撃ち放った瞬間――
「ッ!」
轟音が響き、ダミーの頭部が粉砕された。
破片が床に散らばり、場内に静寂が落ちる。
『見事だね、黒成』
レアリアの声が脳裏を撫でる。
「……次」
黒成は両手を広げ、掌を前に出した。
空気を板状に凝縮し、前方に展開する。
試しに隅に置かれた機械アームが鉄棒を叩きつけると――
ガァン!
硬質な音が響き、鉄棒は跳ね返された。
防御壁。透明だが鋼鉄より硬い。
「……!」
ガラス越しに、見守る隊員たちがどよめいた。
黒成は息を整えた。だが次の瞬間、左目がチクリと痛み、紋様が淡く光を放った。
「……」
ユリカのペンが止まる。
彼女は黒成の目を見ていた。
詩恩は気づかないふりをして笑っていた。
『それ以上は、まだ無理だよ』
レアリアが囁いた。
『無茶をすれば、私もあなたも疲れちゃう。今日はここまで』
黒成は手を下ろした。
演習場に再び静寂が落ちる。
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演習場の熱気が冷め、黒成は汗を拭いながら退出した。
控室に戻ると、隊員たちがざわつきながら能力の話をしている。
「すげぇよな、アビスの空気砲。あんな威力、SS級でもなかなかいねぇ」
「見た? 盾もやばかった。透明なのに鉄壁だぜ」
「さすが黒成さん……」
称賛の声が耳に入るが、黒成は無言で水を口に含むだけだった。
その横で、詩恩が「やっぱカッコイイな~」と無邪気に笑っている。
――だが、ユリカだけは違った。
彼女はノートパソコンを開き、淡々とタイピングしていた。
画面に映るのは黒成の個人データ。研修の成績、身体能力検査の結果、契約記録……
「…………」
ユリカの眉がわずかに動く。
「どうしたんだ?」詩恩が覗き込もうとする。
「……何でもありません」
ユリカは即座に画面を閉じた。だが視線は黒成に向けられていた。
彼女が見つけた“異常”――
五十嵐黒成のファイルには、生年月日が欠落していた。
年齢、誕生日、戸籍データ……通常なら必ず記録される項目が、きれいに空白になっている。
「……契約の痕跡」ユリカは心の中で呟いた。
「この男、やはり“ただのSS級”ではない」
黒成は背を向けたまま、水を飲み干す。
左目の奥で淡い光が脈動し、レアリアの囁きが聞こえた。
『バレてるよ、黒成。……でも大丈夫。私がいる』
彼は小さく吐息をつき、何も言わずにタオルで顔を拭った。
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黒成が額の汗を拭っていると、場内スピーカーから低い声が響いた。
『コードネーム:アビス。管制室へ』
「……呼び出しか」
黒成は立ち上がった。
詩恩が不安そうに見上げる。
「また? さっき帰還したばっかだろ。休ませろよな、ほんと」
「任務があるなら行くしかない」
黒成は淡々と答え、ジャケットを羽織る。
その横で、ユリカは腕を組んだまま視線を逸らした。
「……命令ですからね。拒否権はありません」
管制室のドアが開くと、巨大なモニターに地図が映し出された。
そこには、赤く点滅する円――新たに開いた ヴォイドポータル の座標。
「位置は東亰郊外。旧工業地帯の地下シェルターだ」
指揮官が硬い声で説明する。
「最近の観測データによれば、“噓人”と“噓獣”が同時に出現している可能性がある。潜入調査と殲滅を兼ねる」
黒成の眼が細まる。
隣に立つ詩恩が、わざと明るい声を出した。
「おっしゃー! 行ってやろうぜ、黒成!」
ユリカは腕を組み直し、冷たい声で言い放った。
「ふたりの命が懸かっていることをお忘れなく。特に……あなたは、アビス」
黒成は返事をしなかった。
ただ、左目の奥で淡く光る紋様を押さえるように、指先をほんの少しだけ当てた。
――再び、ヴォイドへ。
レアリアの声が静かに響いた。
『黒成、次はもっと大きな試練になるよ。……でも、楽しみだね?』
黒成は、わずかに口の端を上げた。
「――出撃だ」
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夜の東亰郊外。
工業地帯はすでに廃墟と化し、錆びついた煙突や崩れかけた倉庫が無数に並んでいた。
街灯はところどころで途切れ、闇の中に三人の影が浮かぶ。
「……不気味だな」
詩恩が鼻を鳴らし、懐中ランプをくるくる回した。
「ホラー映画のロケ地にでもなりそうだ」
「任務中です。集中してください」
ユリカの声は冷たい。懐中端末を開き、地図を確認している。
黒成は二人の少し後ろを歩いていた。
靴底が砂を踏みしめる音だけが、広い夜に響く。
『黒成』
頭の奥に、レアリアの声が落ちてきた。
『空気が淀んでる。あそこ……倉庫の裏、地下に入り口があるよ』
黒成は歩みを止め、顎で指し示した。
「……倉庫の裏。地下に通じるはずだ」
ユリカが一瞬、目を細める。
「……根拠は?」
「勘だ」
「勘ねぇ~、でも黒成の“勘”って結構当たるんだよな」
詩恩がにやりと笑い、肩をすくめた。
三人は倉庫の裏手に回る。
鉄製のシャッターは落書きに覆われ、すでに何十年も開けられていないように見えた。
黒成は掌をかざす。
空気を圧縮し、シャッターの隙間にねじ込む。
ギリギリ……と金属が歪み、やがて鈍い音を立ててシャッターが押し上がった。
「便利だな、それ」
詩恩が感心した声を漏らす。
「体力は食う」黒成は短く答えた。
ユリカは腕を組み、冷静に言った。
「入口は確認できました。では、潜入を開始します」
黒成の左目が淡く光る。
その紋様に、ユリカの視線が一瞬だけ吸い寄せられた。
『黒成……ここからは本当に危ないよ』
レアリアの声が柔らかく響く。
『でも、私が一緒にいる。心配いらない』
黒成は答えず、闇の口を開けた地下への階段を見下ろした。
――潜入開始。
三人は静かに足を踏み入れていった。
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錆びついた鉄階段を降りるたび、足音が低く反響した。
湿った空気がまとわりつき、鼻を刺すような鉄とカビの匂いが漂う。
「……くっさ。空気悪ぃな」
詩恩が袖で鼻を覆う。
「換気は止まって久しいはずです。構造は旧型の防空シェルターに似ていますね」
ユリカは端末を照らしながら、淡々と歩を進める。
黒成は黙って後をついた。
壁のひび割れからは黒い染みが滲み出し、ところどころでコンクリートが剥がれていた。
――その染みが、まるで生き物のように蠢いて見えた。
『黒成、気をつけて』
レアリアの声が一瞬だけ低くなる。
『ここ、普通の廃墟じゃない』
彼はわずかに目を細めた。
長い通路を抜けると、錆びた鉄扉が待ち構えていた。
表面には古い警告文――【立入禁止】の赤字がかすれて残っている。
「ここか」
黒成が前に出る。
彼は掌を扉に向け、空気を凝縮させる。
バシュン! と音を立て、透明な弾丸が錆を砕き、錠前を吹き飛ばした。
扉がきしみを上げて開く。
そこには、広大な地下室が広がっていた。
壁は半ば崩れ、天井からは水滴がぽたりと落ちる。
だが中央に――異様な光景があった。
「……出たな」
黒成の声が低くなる。
空間そのものが歪み、黒い穴のような球体が宙に浮いていた。
それはまるで、周囲の光を飲み込みながら脈動している心臓のようだった。
ヴォイドポータル。
「観測データどおり……いえ、それ以上に不安定ですね」
ユリカが淡々と端末に記録を取る。
詩恩は額に汗を浮かべ、拳を握った。
「うわ、近づくだけで寒気がする……」
『黒成』
レアリアの声が少しだけ震えていた。
『これは普通のポータルじゃない。中で……“何か”が待ってる』
黒成は一歩、前へ出た。
左目の紋様が淡く光を帯びる。
「――行くぞ」
三人は同時に、ヴォイドポータルへと歩み寄った。
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