一章 神降ろし
黄金に揺れる稲穂。見渡す限り金の絨毯。視界いっぱいに映る景色はとても幻想的だった。肌を撫でる風が心地よい。
だけど、目の前にこんなにも美しい景色があるのに俺の胸はどうしようもなく苦しい。なぜこのような気持ちになるのかがわからない。精一杯堪えていなければ涙がこぼれ落ちそうだ。
俺はこの場所を知らない。だけどこの先に起こることは知っている。
次は啜り泣くような声が聞こえてくるのだ。
「――」
すると予想通り、泣き声が聞こえてきた。足が勝手に動き、泣き声の元へと黄金をかき分けて進んでいく。
いつもより視界が高い。ここにくるとすこしだけ大人になるのだ。
そうして進むことしばらく。
黄金をかき分けた先に一人の少女がうずくまっていた。
長い黒髪に隠れていて顔は見えない。どうして泣いているのかもわからない。だけどそんな少女を見ていると胸がひどく痛む。
「――」
俺が何かを口にする。すると少女はゆっくりと顔を上げた。
紅玉のような紅い瞳が俺を見つめる。
知らない顔だ。この少女が誰なのかはわからない。だけどひどく懐かしい。
少女は俺を認識すると涙を拭った。
「――」
なにかを言ってから少女は温かく、柔らかい笑みを浮かべた――。
目覚まし時計の音が部屋に響き渡り、俺は薄く目を開けた。
「……またこの夢か」
目覚ましを止め、身体を起こす。
夢の記憶は鮮明に残っていた。
なにせもう何度も見た夢だ。細部まで覚えてしまった。
「誰なんだろうなあの子は……」
きっと俺が失くしてしまった記憶に関連している。そうは思うが確かめる術はない。
「刀至?」
名前を呼ばれ、視線を上に向ける。すると二段ベットの上からこちらを覗き込む少年がいた。
「おはよう和樹」
彼の名前は桜庭和樹。一緒に暮らしているが、俺とは血の繋がった兄弟というわけではない。
ここ、児童養護施設「岩戸」で暮らす家族だ。
「おはよう刀至。またあの夢?」
和樹が自分の頬を指差した。そのジェスチャーに俺は自分の頬に手を当てる。そこには流れた涙の後があった。
夢を見るといつもこうなる。
「まあ……な」
「なにか思い出した?」
「いや、いつも通りなにもだな」
何度も見ている夢だが、俺には何一つわからない。
あの幻想的な場所がどこなのか。少女は何者なのか。そしてすこし大人の俺は本当に俺なのか。
なにせ俺には昔の記憶がない。
院長先生によると約五年前の真冬に岩戸の玄関に捨てられていたという。俺が持つ一番古い記憶はこの施設のベッドで目を覚ましたところからだ。あの時は自分の名前すら覚えていなかった。
名前が判明したのは、俺の入れられていた籠に「刀至」と書かれていたかららしい。
刀に至る。そんな珍しい漢字に珍しい名前だが、それから俺は岩戸刀至になった。
「いつか思い出せるといいね」
「だな」
和樹の言葉に頷き、思考を切り替える。
頭を悩ませたところで記憶喪失が治ることもない。
「……さてと。今日は明日の大晦日の買い出――」
「――お兄ちゃ〜〜〜ん!」
バタンと凄まじい勢いで扉を開け、現れたのは美里咲希。俺の三つ年下で妹のような存在だ。
……まあ俺の年齢は推定でしかないが。
一番近そうなのが和樹の中学一年生なので俺も同じということになっている。正確に俺が何歳なのかは誰も知らない。
そんな妹は扉を開けた勢いのままベッドに飛び込んできた。避けると危ないのでしっかりと受け止める。
少し痛いが兄なので我慢だ。
「おはよう咲希。朝から元気だな」
「うん! 今日は大晦日だからね! お蕎麦食べるんだって!」
「それは夜な。それはそうと先生からおつかい頼まれてるんだけど咲希も行くか?」
「うん! 行く! 早く行こ〜!」
咲希は俺の言葉に瞳をキラキラと輝かせた。なぜこんなに懐かれているのかはよくわからないが、俺とお出かけできるだけで楽しいらしい。
咲希は早く行きたいらしく、俺の手をぐいぐいとひっぱる。
「おはよう咲希ちゃん。ちなみにお店はまだやってないよ?」
「おはよ! カズにぃ! じゃあお店が開くまで遊ぼう?」
「でも咲希ちゃんは院長先生の手伝いがあるでしょ?」
「あっ……」
和樹の言葉に咲希はしまったと声を漏らした。
そして揺れる瞳で俺を見てくる。まるで捨てられそうな仔犬のようだ。
俺は苦笑を漏らす。
「じゃあ咲希のお手伝いが終わったら行こうか」
「ほんと!? ぜったいだよ!? 置いてかないでよ!?」
「わかったよ。早く院長先生のところ行きな」
「うん! またあとでね! お兄ちゃん! カズにぃ!」
ドタバタと走り去っていく咲希を俺と和樹は手を振って見送った。
「それはそうとなんで俺はお兄ちゃんで和樹はカズにぃなんだろうな?」
「なんかトウにぃは言いにくいんだってよ」
「……大したことない理由だったな」
「そんなもんだよ……っと。じゃあ僕たちも支度しようか」
「だな」
そうして俺と和樹はベッドから出て身支度を整えるべく部屋を後にした。
大晦日、夜。
俺は咲希や和樹、他の子供たち、先生たちと一緒に施設の一室で年越し蕎麦を食べていた。
時計を見ると年が明けるまではあと僅か。部屋には大晦日特有の高揚感が漂っていた。
普段は夜になったら消されているテレビも今日ばかりは液晶から光を放っている。
皆が皆、年越しの瞬間を今か今かと待ち侘びていた。
俺も例には漏れず。普段は眠っている時間だったが目は冴えていた。しかし子供たちの中には眠気に負けてウトウトしている子やぐっすり夢の中の子もいた。
咲希もそんな子達の仲間で今や俺の膝の上でスヤスヤと夢の中だ。
……まあいっぱい遊んだもんな。
咲希とはおつかいに行った後も少し寄り道して遊んだ。だからいつもより疲れていたのだろう。
だけど年越しはみんなで迎えると張り切っていたのでそろそろ起こさなければ。
「年が明けるまであと一分となりました!」
テレビに映っているリポーターが興奮した様子でマイクを握っている。
画面には六十という文字が大々的に表示され、カウントダウンが始まった。
「咲希。起きて。年が明けるよ」
肩を揺すると寝ぼけまなこを擦りながら伸びをした。
「おはよ咲希」
「んぅ〜おはよぅお兄ちゃん」
「ほらクラッカー持って」
「ありがとぉー」
俺は先生から受け取っていたクラッカーを咲希に手渡す。
年明けまではあと僅か。
「三!」
テレビのカウントダウンが三になり、リポーターも指を三本立てている。
リポーターの顔にはとびっきりの笑顔が浮かんでいた。俺や咲希も釣られて笑顔になる。
その頃には他の寝ていた子供たちも完全に目を覚まし、みんなで声を合わせて「三!」と言った。
「二!」
俺がクラッカーを構えるのを見て、咲希も笑顔で真似をする。
「一!」
そしてその瞬間はやってきた。
――パンパンパン。
軽やかな破裂音が鳴り響いた。そして。
――血の花が咲いた。
「え?」
べチャリと顔に暖かい液体がかかった。部屋中に濃密な鉄の匂いが充満する。
俺はそれがなんなのかがわからなかった。
いや、理解したくなかっただけかもしれない。
一瞬前まで先生だったモノが、バランスを崩して倒れていく。それが俺の目にはやけにスローモーションに映った。
震える手で顔に付いた液体を拭うと、そこには真っ赤な血があった。
……なんだ……これ。
ぎこちない動作で首を動かし、膝の上を見る。
「さ……き……?」
そこにいつもニコニコ笑っていた咲希はいなかった。なにか肉があり、断面から血が吹き出している。
「ひぃ――」
「ハッピーニューイヤー!」
誰かが悲鳴をあげようとした。だがこの場には似つかわしくない陽気な声にかき消される。
いつの間に入ってきたのか、扉の前には男が立っていた。
ブロンドの長髪を後ろで纏めている男だ。
白いスーツに白いシルクハット。手にはステッキを持っている。
マジシャン。
男を表す言葉で一番近いのはこれだろう。
しかしそんなふざけた格好であるにも関わらず、目は獲物を品定めする蛇のように細められている。
そんな男は腕を組み、シルクハットのつばを摘んで扉に寄りかかっていた。
俳優のような大袈裟な格好と血だらけの教室に現実感が薄れていく。まるで映画の中に入ってしまったかのような不思議な感覚を覚えた。
「年が明けましたよ? ほらクラッカーを鳴らしてください?」
男は惚けるように言って柏手を打った。その全ての仕草がわざとらしい。
教室がシン――と静まり返った。
誰も声をあげなかったのは奇跡だと言えるだろう。
「やらないのですか……? ……まあいいでしょう」
男がこれみよがしにため息をつくと、大袈裟に肩をすくめる。そしてゆっくりと部屋に入ってきた。
カツカツと無機質な足音が響く。
見知らぬ男が近付いてくる恐怖。
そんな未知の感覚に子供の一人、俺よりも年下の少女が堪えきれず悲鳴をあげてしまった。気付けば部屋の外へ向かって駆け出している。
「待って――」
相手が何をしてくるかわからない以上、下手に動くべきではない。だけど幼い少女にはそれがわからない。
男は冷ややかに駆け出した少女を一瞥した。
その視線だけで背筋が冷たくなるような怖気が走る。
しかし男は興味が失せたのか、視線を外した。
……え?
一瞬。ほんの一瞬だけ見逃すのかと思った。
しかしそんな甘いことはない。
部屋から出ようとした子供は扉を通った瞬間に細切れとなった。
……は?
悲鳴すら上げることなく子供が一人死んだ。
おそらく死んだことにすら気づかなかったのではないか。それぐらい一瞬の出来事だった。
何が起きているのかはわからない。だけど全員が理解した。ここからは逃げられない――と。
そんな事実に部屋中が恐慌に陥りかけた。しかしそれを牽制するように男がニコリと微笑む。
「私は騒がしいのが嫌いなんです。いいですね?」
それだけで俺たちは口を開けなくなった。そうしなければ命はない。
それが本能で理解できる。
……どう……する?
頭が混乱する。いまだ状況が飲み込めない。
だけど不幸中の幸いだったのは今繰り広げられている光景があまりに非現実的過ぎたことだ。きっと頭が状況を正しく理解していたら俺は動けなくなっていたことだろう。
だから俺は敢えて腕の中には意識を向けない。
状況は絶望的。だが行動を起こさなけれ待っているのは死だ。
俺は周囲に視線を走らせた。
無事なのは自分を含め八人。大人は既にいない。
全員子供だ。息を殺し泣いている子、ガクガクと震えている子。涙を流している子。誰もが絶望している。
だけどそんな中で俺と同じく息を潜めているのが一人。
……和樹。
俺の親友。いや、親友なんて言葉では言い表せない。身寄りのない俺たちにとっては、そう。
――『家族』だ。
そんな彼の方へ視線を向けるとパチっと目があった。
内心で安堵の息をつく。和樹の目は死んではいなかった。この絶望的な状況で思考を続けているのがわかる。
しかし状況はより悪い方へと転がり落ちていく。
「――ふむ。これはこれは……最初から当たりを引きましたねぇ」
男が俺を見た。瞬間、笑顔がニヤリと歪んだモノへ変貌する。ぞわりと鳥肌が立った。
男が歩いてくる。
来るな来るなと願いながらもその願いは叶わない。
男は目の前まで来るとその歩みを止めた。
「キミ……名前は?」
男が悍ましい目つきで覗き込んでくる。それだけで動けない。震えが止まらない。まるで蛇に睨まれた蛙のように。
俺の様子を見た男は大仰にため息をつくと言葉をこぼした。
「――殺しますよ?」
ぞわりと背筋が怖気立つ。室温が氷点下になったかのような錯覚を覚える。舌が乾き、言葉を上手く発せない。
明確な生命の危機に血の気が引いていき、呼吸が浅くなる。
――このままじゃ死ぬ。
そう思った瞬間、フッと身体が軽くなった。窒息寸前だった肺がひたすらに空気を求めて喘ぐ。
「いやはやこれは失礼しました。名前を聞くのならばまずは自分から。基本でしたね」
男は掴み所のない態度でそう口にした。
そのまま彼はまるで映画に出てくる貴族のような所作でお辞儀をする。
「私の名前はヒュー・デル・アガルト。かつて奇術師と呼ばれた魔術師です」
その姿は堂に入っており、取ってつけたものでないことは一目瞭然。もしかしたら本当に貴族なのかもしれない。
そんな考えが浮かぶ。だけど今はどうでもいい。
それより彼、ヒューは信じられないことを口にした。
…………魔術師?
心の中で反芻する。それは小説や漫画、御伽噺の中。空想上の存在だ。
俺も恥ずかしながら夢想したことがある。もしも魔法を使えたら、と。だけどやはりあくまでも魔法は空想。決して現実になんてなりはしない。
しかし目の前の男が冗談を言っているなんて、とてもではないが思えなかった。彼の瞳は真剣そのもの。
それに現実離れした今の状況がヒューの言葉に説得力を持たせている。
なにせ人間の頭が弾け飛び、子供が細切れになったのだ。こんなもの、魔法でなければありえない。
「私は名乗りましたよ?」
ヒューはにっこりと笑顔を浮かべてそう言った。俺は震える喉を必死に動かし言葉を紡ぐ。そうしなければ殺される。それがわかっていた。
「……と……刀至。岩戸刀至……です」
「トウジ君ですか。いいでしょう。キミには神の器になっていただきます」
ヒューがパチンと指を鳴らし、訳のわからない言葉を口にした。
魔術だの神の器だの、立て続けに理解を超えた情報が押し寄せてくる。
気を抜けば思考を停止しかねない。
「……言ってしまえば、キミは選ばれたのです。なにせ神になれるのですから」
ヒューが大袈裟に両手を広げていやらしく嗤う。まるで最悪な舞台役者を見ている気分だ。
その笑みを見て、俺は神の器とやらが碌でもないものだと確信した。
……逃げなきゃ。
周囲に視線を走らせる。扉はふたつ。しかしそこを通るのは自殺行為だ。細切れになんてなりたくない。
他の出口は窓だけ。だがこの部屋は三階にある。
窓を突き破ったとしても――。
「――いいですねぇ。どうすれば生き残れるのか、どうすれば逃げられるのか。考えていますね? 生命は危機に陥った時にこそ輝く。よく考えてください? チャンスは一度ですよ?」
ヒューは余裕の笑みで告げた。近くにあった椅子に腰掛け、腕まで組む始末だ。
彼にとってこれは一つの舞台なのだと俺は悟った。
完全に舐められている。だが好都合。ヒューは完全に油断している。ならば今は思考を動かす方を優先しなければならない。
この気紛れもいつまで続くのかわからないのだから。
状況は絶体絶命。控えめに言って最悪。窓を破っても良くて骨折だろう。走れる状況ではなくなってしまう。子供たちを連れてとなると尚更だ。
俺は横目で怯えている『家族』を見た。
それがいけなかった。
「ふむ。キミはすごいですねぇ。この状況で自分だけでなく皆を助けようとしている。ですがそれは不可能です。……と言ってもキミは諦めないのでしょうね」
ヒューがわざとらしく呆れたように肩をすくめる。まるで思考を読んでいるかのような言い草だ。
そしてヒューが右手を上げる。何をしようとしているかは明白。俺は手を伸ばし声を上げた。
「やめ――」
しかし俺の想いは届かず――。
――パンパンパン。
子供たちが破裂した。
死んだ。死んだ。死んだ。
助けられなかった。
「さてお荷物は消えました。どう動きますか?」
「ああああああああああああああ!!!」
慟哭が部屋中に響く。憎悪が胸の裡に湧き上がる。
……許さない! 絶対に許さない!
俺は激情のままになりふりかまわずヒューの元へと走った。殺さないと気が済まない。こいつは生きていちゃいけない存在だ。
しかし、ヒューはハァとわざとらしいため息を吐いた。
「残念です」
落胆したように肩を落とす。それがまた腹立たしい。
「殺してやる!!!」
拳を握り振りかぶる。イラつく顔面を撃ち抜くために。だが、あと一歩のところで横合いから影が飛び出して来て衝突した。
飛び散った血に塗れながらゴロゴロと転がり壁に激突する。
「刀至! しっかりしろ! それじゃダメだ!」
気付けば血塗れの和樹が馬乗りになっていた。
自分を止めたのが和樹だと分かった時、胸の奥に安堵が広がった。子供達は死んでしまったが和樹は生きていた。
部屋中血だらけで気付かなかった。
しかし同時に怒りも湧いてきて衝動のままに吼えた。
「なんでだ! あいつはみんなを殺したんだぞ!」
「わかってる! でもダメだ! 俺たちはあいつには勝てない! わかってるだろ! 無駄に殺されるだけだ!」
和樹は拳を握りしめて涙を流していた。血に染まった赤い涙が俺の頬を濡らす。
その姿にハッと我に返った。
「キミ、いいですねぇ。才能は全くですが、頭がよく回る。さてどう動きますか?」
ヒューが足を組み変えながら笑う。
とても愉快だと言わんばかりの表情で嗤う。
「刀至。考えがある」
和樹が耳元に口を寄せヒューには聞こえないように小声で話す。
「窓から逃げろ」
その言い方はまるで一人で逃げろとでも言うかのように聞こえた。
「だめだ! 逃げるなら和樹も一緒に――!」
「――わかってる! 僕も死ぬつもりはない。でもそれじゃダメだ!」
「じゃあどうしろと!」
「いいか刀至。視線を向けるなよ? 奥から二番目の窓だ。あそこから飛び降りれば下は花壇だ。クッションになって……おそらく助かる」
よくそこまで見ているなと俺は目を見張った。
飛び降りる案には賛成だ。しかしそれにはまだ問題がある。
「あいつが妨害しないとも限らないぞ」
今は椅子に座って寛いでいるが、行動を起こした時に何もしないとは限らない。
「わかってる。だから俺は一緒に行けない。でも俺もちゃんと考えてる。ここで死にたくはないからな」
「……それは?」
「言えない。小声でも聞かれている可能性がある」
「…………わかった。でも本当に考えがあるんだよな?」
「大丈夫だ。俺が嘘ついたことあったか?」
ない。和樹が嘘をついた事は一度もない。
彼は真面目な男だ。曲がったことは嫌いで、いつも正しいと思うことしかしない。
そのせいで上級生と喧嘩になることもしばしばあった。だけど一度もその信条を曲げたことはない。
「死ぬ気じゃないよな?」
「当たり前だろ。家族を残して逝けるかよ。……合図したら振り返らずに走れ」
和樹が上から退く。そして二人でヒューと対峙すふ。
「相談は終わ――」
「――行け!」
ヒューの言葉が終わる前に和樹は合図を出した。打ち合わせ通り俺は一気に駆け抜けた。
和樹が何をするのかはわからない。
今はただひたすらに和樹の作戦が成功するようにと祈って窓までの道を全力で駆けた。
「「うおおおおおおおおお!!!」」
その雄叫びは自分が発したものか和樹が発したものかわからなかった。
俺は両手を交差させ、指定された窓へ勢いよく飛び込んだ。
――ゴツン。
何か硬いものに当たって弾かれたのがわかった。無様に地面を転がる。
何が起きたのかが全く理解できない。
……勢いが足りなかった?
そんなはずはない。あれだけ走ったのだ。勢いが足りないことなんてことはまずあり得ない。
そもそも感触がおかしい。とても窓に当たった感触ではなかった。それこそ大樹にでも激突した感触だ。
「ぐっ」
くぐもった声が聞こえ、混乱していた思考が現実に引き戻された。弾かれたように起き上がり、声の方を見る。
そこではヒューが和樹の首を掴み、宙に持ち上げていた。和樹が苦しそうにジタバタともがいている。
「和樹!」
「に……げ…………ろ!」
「くくく。良い見世物でした。まさか勝てないと言っておきながら私に向かってくるとは。自己犠牲。いいものですねぇ。……さてそれでは答え合わせをしましょうか」
ヒューが今までで一番清々しい笑みを浮かべた。
全ての目論見がうまく行った子供のような無邪気な笑みを。
「……魔術には結界というものがあってですね。この部屋は外界と隔絶しています。ですから脱出は初めから不可能です」
――ボキッ。
それは自分の心が折れた音か、和樹の首がへし折れた音か。
この男はもとより逃すつもりなど無かったのだ。
逃げようとした子供をわざわざ殺して見せたのはもしかしたら逃げられるのではないかという希望を捨てさせないため。
本当に結界なんてものがあるのなら、わざわざ殺す必要などない。
遊んでいたのだ。逃げられるかもしれないという希望を持たせて。
最初から最後まで。その全てがこの男、ヒュー・デル・アガルトの掌の上。
ボトリと和樹の体が地面に転がる。
「あぁ――」
幽鬼のような足取りで和樹の元へ歩く。ピクリとも動かなくなってしまった『家族』の元へ。
「かず……き? うそだろ! おい。……起きろよ。起きてくれよ!!!」
声を掛けても反応がない。当然だ。首があり得ない方向へ曲がっている。加えて、既に瞳孔が開き、唾液が口から垂れていた。こんな状況で生きているはずがない。
その事実が冷たい水となって心の奥底へと浸透していく。
死んでしまった。
みんな死んでしまった。
ついさっきまで元気にテレビを見ていたのに。
来年はもっといい年になるようにだとか。来年の夏休みはどこへいこうとか。気の早いことを話したり。
ありふれた日常が嘘だったかのように感じる。ガラガラと足元が崩れていくような感覚がした。
「さて、キミにはふたつの選択肢を与えます」
ヒューがにやにやとした笑みを顔面に貼り付け、指を一本立てた。
しかしもはやどうでもいい。
「一つ、大人しく私に着いてくる」
そして男は二本目の指を立てた。
「二つ、首を切断し身体は置いていく。そうすれば軽くなります。正直頭さえあればいいんです」
選択肢などないも等しかった。絶望で心が折れていても生きていたいという生存本能には抗えない。
気付けば俺は半ば自動的に震える足で立ち上がっていた。その様子を見たヒューの口が弧を描く。
「フフフ。……良い仕上がりです。では、行きましょう」
気付いたら森の中にいた。
どうやってここまで来たのか。よく覚えていない。ただひたすら、ヒューの後について歩いてきた。
長らく歩き、既に足は限界だ。だけどもう歩けないなんて言えなかった。
そんなことを言えば間違いなく命はない。
「着きました。ここが祭壇です」
東の空が白み始めた頃、ヒューが足を止めて前方を指差した。
足元ばかり見ていた視線を上げる。するとそこには教会があった。
古びた教会だ。人の気配はなく、蔦が建物を覆っている。屋根は所々崩れていて、尖塔に付いている十字架でさえも折れ曲がっていた。
忘れ去られた教会。
そんな言葉が似合う廃教会だ。
雑草の生い茂った道をヒューは迷いなく進んでいく。遅れたら何をされるかわかったものではない。だから俺は黙って後を追った。
廃教会へと足を踏み入れる。すると内部は外から見た印象とは異なり、そこまで崩れてはいなかった。
しかし廃墟であることに変わりはない。
壁は所々剥がれているし、長椅子には埃が積もっている。
その長椅子も綺麗な状態で残されているものは少なく、歪んでいるもの、壊れているものも多々あった。
中心にある十字架もやはり歪んでいるし、穴の空いた天井からは朝日が差し込んでいる。
ここまでは普通の廃教会だ。どこにでもはないだろうが探せば似たような建物はきっとある。
しかし異質なモノがこの教会にはあった。
それは部屋中に書かれている文字だ。どこに目を向けても文字がある。それこそ隙間もないぐらいにびっしりと。
日本語でも英語でもない奇怪な文字や図形が壁や地面、天井にさえ書かれている。
なんともいえない不気味さに鳥肌が立った。
「ではそこへ立ってください」
ヒューがチャペルの真ん中を指さした。そこには赤黒い五芒星が描かれていた。他の場所と比べてもそこだけ際立って不気味だ。
近くに立つとその文字や図形は血で描かれていることに気付いた。
乾き切っているため、いつ書かれたのかは定かではない。だけど血の匂いだけは濃厚に漂ってくる。
背筋が冷たくなった。しかし従わないという選択肢はない。
俺は大人しく陣の中心に立つ。ヒューを見ると満足そうに頷いていた。
「では始めます」
ヒューが真剣な声で告げた。今までの人を馬鹿にした声とは打って変わり、気が引き締まっているのがわかる。
これから何が行われるのかはわからない。しかし尋常ではないことなのは明らか。だから俺もとにかく気を引き締める。
死にたくない。その一心で。
ヒューの宣言によって教会中に記述された文字が仄かに発光していく。
彼がステッキで、トンッと地面を叩くと文字が発する光量が増した。溢れた光が脈動し文字を伝い、俺が立っている陣へと吸い込まれていく。
やがて陣がドクンと鼓動し、地面から浮かび上がった。
文字が複雑に絡み合い、変形、回転し立体を作っていく。
みるみるうちに組み上がっていくソレは檻のようにも見えた。
「これから君に神を降ろします。せいぜい自我を飛ばさないように」
そう言い残すとヒューが陣に触れた。その瞬間、彼の身体から紫色のオーラとでも言うべきものが溢れだす。
そして力ある言葉が紡がれた。
「『キタレ』」
ヒューの言葉に呼応するように陣が紫に輝き出す。
次の瞬間、身体全身に耐えがたい激痛が走った。あまりの痛みに視界が明滅し、膝をつく。
「グッ……」
全身が焼けるように痛い。視界が赤く染まる。喉の奥から何かが競り上がってきて、俺は嘔吐した。どろりとした血の塊が地面を汚す。
腕に目を向ければ皮膚が裂け、至る所から血が滲み出ていた。着ていた服がみるみるうちに赤く染まっていく。
「まだまだこれからですよ」
俺を囲っていた陣が突如として収縮し、身体の中へと入ってくる。瞬間、バチっと脳髄の奥で何かが弾けた。
「がぁあああああああああああああああ!!!」
全身を引き裂かれる痛みが、内臓を轢き潰される痛みが、血管に針を流し込まれたような痛みが、筋肉が断絶する痛みが、絶え間なく、そして同時に襲いかかる。
世の中にこれほどの苦痛があるのかと俺は地獄の苦しみの中で思った。
「ガッ――――――!!!」
絶叫で喉が潰れた。空気の抜けたような音が喉奥から漏れ出す。もはや芋虫のように地面で縮こまることしか出来ない。
途中で意識が飛んでも、痛みで覚醒する。それはさながら終わることのない無限地獄。
正気を、自我を保っていられない。
しかしその時、唐突に暖かな光が身体の中に灯った。その光が意識を正気へと引き戻す。
と思った次の瞬間には心が苦しくなるほどのドス黒い何かが身体の中に灯り、感情がぐちゃぐちゃに掻き乱された。
「これ……は? なんですか……それは?」
ヒューが初めて表情を崩した。今までの飄々とした態度は崩れ去り、表情が驚愕に染まる。
しかしそんなことを気にしている余裕など俺にはない。痛みと激情の渦をなんとか堪える。
それ以降、ヒューが口を開くことはなかった。
どれだけの時が流れたのかもはやわからない。一時間かもしれないし、一分かもしれない。はたまた一年かもしれないし、数秒かもしれない。
時間の感覚さえ曖昧になる地獄の中で足音が教会内に響き渡った。
その足音はゆっくりと静かなのにも関わらずやけに耳に響いた。身体を動かす余裕はない。だからかろうじて動かせる目を必死に動かし、足音の主を見た。
そこにいたのは黒の和装を着崩した男だった。歳は三十代後半あたりだろうか。
闇を煮詰めたような漆黒の長髪、黒曜石のような瞳。はだけた胸元は浅黒く、分厚い筋肉に覆われている。背には大太刀を背負い剣呑な瞳をヒューに向けていた。
「これはこれは! まさか実在していたとは!」
ヒューがこちらに背を向け、男に向き直る。
「ほう。オレのことを知っているのか?」
「それはもちろん。超越者で貴方様を知らない人なんて存在しないでしょう」
「それもそうだな。ならば……」
男は目を細めると絶大な殺気を撒き散らしながら口を開いた。
「ここがオレの領域と知っての狼藉か?」
絶対零度を思わせる極寒の声音。濁流のように押し寄せる濃密な殺気。全身を苛む痛みも忘れ、地面を這いつくばるようにして後退る。
「まさかこれほどとは……!」
ヒューは顔を青くしながらも和装の男と対峙していた。
「……滅相もございません。私の目的はあなたに会い、問いを投げかけることです。【神降ろし】は手段でしかありません」
「なるほど。オレがくれば良し。来なければ【神降ろし】を実行する……か。確かにオレはそれを見過ごせない。しかしオレに問いを投げかけるためだけに命を賭けるか。……おもしろい。本当ならオレが答える道理はないと言うところだがオレの前で【神降ろし】をするぐらいだ。その胆力に免じて一つだけ答えてやろう」
「ご寛大な配慮痛み入ります。では……」
ヒューは一度言葉を止めると大きく息を吐き出し、瞳を閉じた。
文字通りヒューにとってこれは命懸けの問いなのが伝わってくる。この問いが男の逆鱗に触れたのならばヒューの命など火を吹くように消え去るだろう。
しかしヒューはこの問いを投げるためにここまで来たのだ。ここで怖気付くわけがない。
瞳を開け、ヒューは決然と問いを放った。
「貴方はこの世界の現状を正しく理解していますか?」
それは抽象的な問いだった。殆どの人間には意味をなさない問いだ。俺にも意味がわからない。
「愚問だな」
しかして男は即答した。疑問を挟む余地もない断言。
ヒューの反応は劇的だった。常に纏っていた飄々とした雰囲気が掻き消え、切羽詰まったように口を開く。
「ではなぜ……!」
「答えるのはひとつだけだと言ったはずだ」
男はヒューの言葉を遮り、ギロリと睨み付けた。ヒューの頬を冷や汗が伝い、ゴクリの喉を鳴らす。
「しかし驚いたな。ヒュー・デル・アガルト。お前はそこまで辿り着いたのか。だからこその【神降し】……。オレはお前の評価を改めねばならんな」
男の言葉にヒューは大きく目を見開いた。
「……まさかわたくしめを知って頂けているとは光栄です」
ヒューは大仰な仕草でお辞儀をした。
「殺すつもりできたが今すぐに去るのであれば見逃そう」
「わかりました。もう少しコレを観察したいところですが、目的は既に達しました。私はこれでお暇させていただきます」
ヒューは名残惜しそうにこちらを一瞥するとパチンと指を鳴らした。
すると教会内を覆っている文字の光が灯を消すように無くなった。身体からも痛みが引いていく。
「トウジ君、いきますよ」
ヒューは蹲っている俺を一瞥するとすぐに視線を外し、歩き出した。
どうやら待つつもりはないらしい。未だ痛みのおさまらない身体をひきづるようにして歩き出そうとした。
しかし一歩目で脚からは力が抜け地面に顔面を打ちつける。
男はその様子を見ていた。俺が顔を上げると、男の視線とぶつかった。瞬間、男が大きく目を見開いたのがわかった。
「……待て」
男はヒューに対して待ったをかけた。
「そいつは置いていけ」
男の発した言葉が予想外だったのかヒューは足を止めた。
そして口を開こうとした次の瞬間、ヒューの右腕が吹き飛んだ。
「くっ」
ヒューが右腕を抑え、教会の外まで後退する。切断された腕からは血がどばどばと流れ、地面を汚していく。
「今すぐに去れと言ったはずだが?」
ヒューに男の冷徹な声が届いた。それと共に先程とは比べ物にならないほどの殺気がヒューを襲った。もはや重圧と言っても過言ではない殺気にヒューは体勢を崩す。
しかし気合いで踏ん張ると一つお辞儀をしてから、その場から立ち去った。
男がこちらへと歩いてくる。なんとか立ち上がろうとするが上手くできない。それを見越してか、男は側にしゃがみ込んだ。
そして今まで纏っていた剣呑な雰囲気を消し、人の良さそうな笑みを浮かべる。
「坊主。後のことは心配しなくていい。今は寝ていろ」
その言葉に俺は安堵し、気を失った。
彼が悪人だとはとても思えなかったから――。
目を覚ますと見知らぬ天井が目に入った。
昔、施設のみんなと旅行をした時に泊まった旅館のような木造建築だ。仄かに畳の匂いがする。
俺は状況を確認したくて身体を起こそうとした。しかし全身が激痛に襲われ、起き上がることができない。身体が引き裂かれるような痛みだ。
試しに指の一本だけ動かそうとしても激痛が走った。俺は諦めて身体の力を抜く。
ここがどこなのかも、どうしてこんなところにいるのかもわからない。
だからひたすら天井を眺めていた。
そうしていると自身の身に起きた出来事が少しずつ心に浸透してくる。
……和樹、咲希。
一番仲の良かった親友、自分を慕ってくれていた妹、親のいない俺たちを育ててくれた先生。
紛れもなく『家族』だった人々はもういない。
その事実が俺の心を押しつぶす。
堪えきれず、目に涙が浮かんだ。
まるで悪夢だ。夢ならば早く醒めてくれと目を閉じるが再び開いても視界に入るのは見覚えのない天井。
これはどうしようもなく現実だ。
「くっ……」
何もできなかった自分が情けなくて悔しい。
和樹が初めてついた嘘も無駄にしてしまった。
ギリギリと奥歯を噛み締め、涙が流れ落ちないように上を向いて堪える。
誰も救えなかった自分に泣く資格なんて無いのだから。
「くそっ」
思わず溢れた小さな声は誰にも届かずに消えていく。
何者にも屈しない力が欲しい。今ほどそう思ったことはない。
……でも……もう失うものは、なにもない。
両親はいない。そして『家族』もいない。
ならばやるべき事は決まっている。
胸に決意の焔が仄かに灯る。それは深淵よりもなお深く黒い憎悪の焔。
無様にも生き残ってしまった命だ。使い方は一つしかない。
その時、障子の開く音がした。
「おっ。起きてるな」
部屋に入ってきたのは廃教会に現れた男だった。
身体だけでも起こそうとしたが、男が手で制して止める。
「身体の状態はわかってる。無理すんな」
男の言う通り今もなお指一本動かせない。少しでも動かそうとすると激痛が全身を苛む。
俺は男の言葉に従い身体の力を抜いた。
せめて顔だけでも。そう考えて少しだけ首を動かすと痛みが走り、顔を顰めた。
その様子に男は苦笑して、隣に腰を降ろす。
「さて、オレの名前は鴉羽士道。お前は?」
「……刀至です。岩戸刀至」
「岩戸ねぇ……あの施設から取ったのか」
「はい。俺には家族がいないので」
「そして新しくできた家族も皆殺しか。報われないな」
鴉羽さんの言葉に奥歯を強く噛み締めた。他人から現実を突きつけられて胸に鋭い痛みが走る。
「…………みんなはどうなりましたか」
「ちゃんと埋葬したさ。葬儀も何もかもが全て終わっている」
「そう……ですか。ありがとうございます」
葬儀に立ち会えなかったことが少しだけ心残りだが、いずれ墓参りに行こうと心に決めた。
だがそんな内心なぞいざ知らず、士道さんは信じられないことを口にする。
「それと、お前も死んだことになってるから」
「………………え?」
口から呆けた声が出た。
俺はこうして生きている。生き残ってしまった。なのに死んだことになっている。
「どういう……事ですか?」
「文字通りだよ。お前をこのまま元の生活に戻すわけにはいかないからな。自分の状況を正しく把握しているか?」
痛まない程度に小さく首を振った。
なにせ今まで眠っていたのだ。把握などできているはずがない。
「それはそうだろうな。まずあれから一ヶ月経っている」
「……一ヶ月?」
一ヶ月も眠っていたなんてとても考えられなかった。
しかし言われてみるとたしかに身体が倦怠感に包まれている……気がする。痛みでほとんどわからないが。
「ああ。一ヶ月だ。まあ無理もないだろ。あれだけの術式だ。後遺症がなかっただけ運がいい」
「……術式?」
「神降ろしの術式。正確には降ろしてるわけではないんだがな。それはともかく……刀至。まずお前に伝えておかなければいけないことがある」
鴉羽さんが姿勢を正して俺の目を見た。鋭い眼光に廃教会の時の姿を思い出して息を呑む。
「お前は人間ではなくなった」
「人間では……ない?」
そう言われても実感は無い。
身体は痛むが、言ってしまえばそれだけだ。この痛みもそう時間はかからずに無くなるだろう。
「正確に言うと、約半分は人間だ。しかし後の半分は限りなく神に近い。割合で言うと神の部分の方が大きいぐらいだ」
俺には鴉羽さんの言葉が理解できなかった。
いきなり神になったと言われても信じられるはずがない。
しかし彼が嘘を言っているようには見えなかった。
「証拠がその身体の痛みだ。それは無理矢理に神を憑依させるために肉体を作り替えたせいだ」
「肉体を作り替えた?」
「細かい説明は省くが、お前の肉体はもはや人間のそれではなくなっている。言うならば半神だな。さっき言った通り元の生活に戻せなくなったのはこの為だ」
「どういうことですか?」
「神の身体は半分でも貴重なモノだ。それこそ神代……大昔でもないとお目にかかれない。狙ってくる奴らは当然いる」
そんなものは物語の中だけの話だと思っていた。どうやらこの世界はファンタジーだったようだ。
「そこでお前にはふたつの道が残されている」
「なんですか?」
「ここでオレに匿われながら一生を過ごす。或いは魔術師になるか、だ」
鴉羽さんに匿われながら一生をここで過ごす。
確かに不便はあるだろうが安全なことは確かだろう。
しかしそれではこの胸に灯った焔は行き場を失い、やがて消え去るだろう。
そんなことは……それだけ許されない。この焔は決して消してはならない。消してしまったらいつか『家族』と同じ場所に逝った時に顔向けできない。
だが二つ目の道を選ぶには問題がある。なにせ魔術なんてとれにとっては未知の存在だ。そんな人間が魔術師になんてなれるものなのか。
そんな俺の心配を悟ったのか鴉羽さんは苦笑した。
「心配するな。誰か腕利きを紹介してやる」
腕利き。問題はその腕利きが俺の目的を果たすのに足る人物なのかどうか、だ。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「ああ。構わない」
「……奴……ヒューはどのぐらい強いんですか?」
「どのぐらい……か。少なくともこの地球では最上位の強さだな」
「それは紹介して頂ける誰かよりもですか?」
この質問は暗にヒューを超えると言っているのと同義だ。
士道さんは俺の言わんとしていることを正しく理解し、薄らと笑みを浮かべた。
「面白い。お前、アレを殺る気か?」
親友が、妹が、友達が殺された。何も無かった自分によくしてくれた先生が殺された。そしてかけがえの無い『家族』が殺された。
しかし奴は生きている。
これではあまりにも不条理だ。到底許せることでは無い。ならばやるしかない。
強くなって不条理を正す。奴は俺が必ず殺す。
その為にはヒューを軽くあしらった鴉羽さんの力がいる。ただの腕利きでは駄目なのだ。圧倒的な強者でなくては。
「あれでもアイツは超越者だ。人の枠を超えた人外。並の魔術師では束になっても敵わない。そんな存在をお前が殺すと?」
「はい」
「できるとでも?」
「やるしかないんです」
無意識のうちに掌を握りしめた。激痛が全身を襲ったがそんなこと気にしている場合ではない。
痛みを無視して起き上がり士道に土下座をした。
身体があちこちで悲鳴を上げている。しかしこんなことで弱音を吐いていてはヒューを殺せない。
「どんなに辛くても、苦しくても絶対に諦めません」
あの絶望的な状況で和樹は諦めなかった。だから自分も諦めるにはいかない。
「俺は奴を殺さなければいけないんです。俺を弟子にして下さい」
「……オレは厳しいぞ? それこそ修行の途中でお前が死ぬかもしれない。それでもやるのか?」
「覚悟の上です」
返答を聞いた士道は満足そうにニヤリと笑みを浮かべた。
「よろしい。じゃあまずはひとつ目の修行だ。身体を休めろ。話はそれからだ」
着物を翻しながら士道は退出した。その足音が消えるまで俺は頭を下げ続けた。
「ありがとう……ございます」
その言葉は胸に灯った焔をより強く、熱くした。
これは復讐の道。決して褒められた道ではないだろう。和樹や咲希が聞いたら止めるかもしれない。しかし俺の覚悟は既に決まっている。
必ずあの男、ヒュー・デル・アガルトを――。
――――殺す。




