Episode 5: 打ち上げの夜に
金曜の17時すぎ、最終報告のプレゼンが終わった。
クライアントのマネージャーは静かに頷きながら資料をめくり、最後のページで手を止める。
「冷静で、筋の通った分析でした。ありがとうございます」
私たちは軽く頭を下げ、会議室をあとにした。
エレベーターホールに出たところで、日向が小さく息を吐く。
「終わりましたね」
「終わったな」
「でも、なんか……“静か”ですね」
私は少し笑って答えた。
「静かに終わるプロジェクトって、たぶん、いいプロジェクトなんだよ」
* * *
夜、プロジェクトルームの明かりを少し落として、4人でささやかな“振り返り”をした。
「これ、買ってきました〜」
日向がコンビニの袋をどさりとテーブルに置く。缶ビール、レモンサワー、ナッツ、チーズ、おでんのパックまで混じっている。
乾杯のようなものはなく、それぞれが、なんとなく思ったことをぽつりぽつりと口にする。
綾瀬が、手元の資料を閉じながら言った。
「論点が論点として成立していて、なおかつ“信じすぎなかった”のが良かったわね。CEOの語りは、明らかに言葉の罠だったし」
「でも、黒崎さんって、一瞬信じてましたよね?」
日向が言って、すぐに「あっ」と口を押さえる。
黒崎は何も言わなかった。
けれど、たしかに、ほんの少し笑っていた。
綾瀬が言葉を添える。
「信じたというより、“受け入れる力”があるのよ。言葉を信じるってことは、思考の構造をいったん預けるってことでもあるから」
「……それ、ほめてます?」
「もちろん」
黒崎は表情を変えずに、おでんのたまごを箸でつつく。
「……おいしい」
なぜか、それだけで場の空気が和んだ。
* * *
21時すぎ。片付けが終わり、私は少し遅れてプロジェクトルームを出た。
エレベーターホールを抜けて1階へ降りると、ビルのタリーズはまだ灯りを残していた。
店の前に、黒崎がいた。
手にはテイクアウトの紙カップがふたつ。
「あ……ちょうど出てきた」
私がそう言うと、彼女は無言で片方を差し出した。
「買いすぎた」
「いや、それは完全に計画的ですよね」
黒崎は答えず、店の横の歩道脇にある細いベンチに腰を下ろした。
私も隣に座る。まだ温かいカップを手に持ったまま、しばらく無言でいた。
「黒崎さん、最後の図解、あれ分かりやすかった」
「ふつうにやっただけ。仮説を壊したあとに、組み直しただけ」
「でも、ちょっと悔しかった」
彼女がぽつりと言う。
「仮説を壊されたことじゃなくて、自分より先に、あなたが“違和感”に気づいてたこと」
私は、コーヒーに口をつけたまま、何も言わなかった。
「でも、助けられた。あの瞬間、引き戻してくれて。……感謝してる」
「戦略的連携ってことで、チャラにしときましょうか」
黒崎がわずかに笑った。
静かで、感情の温度だけがそこにあった。
夜の空気は冷え始めていて、紙カップの熱が手の中にじんわり残る。
ふたり並んで歩き始めたとき、彼女の歩幅が、ほんの少しだけ、こちらに寄っている気がした。
たったひとつのプロジェクト。
けれどその中で交わされた仮説と、崩された沈黙が、
確かに、私たちの間の何かを少しだけ変えていた。