Episode 1: 仮説とあいさつ
都内、ミッドタウンのオフィスビル。
窓際のタリーズは、平日の昼には珍しく静かだった。
空調はやや強めで、アイスコーヒーを持った指が少しだけ冷たい。
私たちは3人で、いつもの角のカウンター席に腰を下ろしていた。
来週から始まるプロジェクト。
その準備期間として、今週は各チームがインプット資料を読み込み、アサインされたメンバー同士で徐々に感触を確かめていくような、いわば“嵐の前の静けさ”のような週だった。
「プロジェクト、本格始動は月曜からって感じですよね」
日向が、コンビニのサラダラップを半分ほどかじってから言う。
「うん。でも、事前情報見てると、けっこう泥臭い整理になりそうだよ。オペレーションの分解も要りそうだし」私がそう返すと、黒崎が黙って頷く。
「在庫回転率と棚卸資産の論点、曖昧だった」
「ですよね。なんか“ざっくり資料”って感じでした」
日向が笑いながら言い、黒崎は静かにホットサンドをフォークで切り分ける。
初対面ではないけれど、チームとして本格的に関わるのは今回が初めての3人。
誰かが意図的に空気をつくろうとしたわけじゃない。ただ、その沈黙に流されるには、まだ互いの距離があいまいすぎた。
「……あの、私ちょっと思ったんですけど」
日向が紙ナプキンをくしゃっと握りながら言う。
「こういう時期って、ちゃんと自己紹介っていうか、お互いのキャラを話しておくのって、大事じゃないですか?」
唐突すぎて、私は思わずアイスコーヒーを置いた。
「自己紹介って……このタイミングで?」
「はい!なんか、ちゃんと“人として知る”って大事かなって」
黒崎が顔を上げる。
「必要性は……論理的には成立するかもしれないけど、文脈が曖昧すぎる」
「文脈とかいいんですよ〜!私からいきますね!」
空気を読まずに始めるのは、日向の特技だ。
でも、不思議と憎めない。むしろ、その直進的な言葉は、誰かのための突破口になることがある。
「日向です、M&Aアドバイザリーのチームで3年目です。えーと、仕事はまだまだ勉強中ですが、元気と持ち前の雑談力には自信があります!」
思っていたよりも声が張っていて、彼女自身が照れて笑った。
黒崎は沈黙のまま、視線を私に向けた。
私はそれを見て、うっすら笑いながら促す。
「次、黒崎さん?」
「黒崎です。入社4年目。専門はBDDとモデリング。論点が整理されてない議論が苦手です。以上」
「わ〜、らしい……!」
日向は楽しそうに笑う。黒崎は、たぶん本気でそれ以上話す気はなかった。
「じゃあ最後、私か」
私は深く息をつき、ゆっくり言葉を探す。
「……最近、中途で入りました。黒崎さんたちよりちょっと年上で、前職もコンサルでしたが、もう少し事業寄りの仕事をしてました」
「つまり、頼れる先輩枠ってことですね?」
「いや、頼りになるかは別の話ですけど」
「それ、論点ですか?」
「仮説です」
そう言った瞬間、黒崎の口元が、わずかに緩んだ。
昼休みはあと15分ほど。
プロジェクトが始まる前の、このつかの間の余白。
たった数分のやり取りでも、チームの輪郭は、たしかに少しだけ見え始めていた。