9話
「例の、愛人を囲っているという噂の?」
たしか、ハーリファ子爵だったか。良い噂を聞かないとラルが言っていた。
物陰に身を潜めながら尋ねると、ラルはうなずいた。
「毎月、部下がようすを見に来る。あれこれと因縁をつけてくるんだが、まぁ、憂さ晴らしだな。昔は町長が相手をしていたんだが、町長だけに背負わせるのは申し訳ないって話になって、ああして町長以外の誰かが対応することもある。運悪く町長が捕まることもあるがな」
視線の先で、男の人を囲むようにして怒鳴りつけている兵士たち。
対する男の人は姿勢を低くして耐えているように見え、リーアは眉根を寄せた。人が怒鳴られている姿を眺めているだけというのは不快になるものだ。
「なにを怒鳴っているの?」
「税収が少ないから引き上げを検討しているとか、あとは作物の供給が間に合っていないだとか」
「それ、本当?」
そんなことをあの男の人に言っても無駄だろうと。
そんな気持ちで尋ねたリーアに、ラルは肩をすくめて見せた。
「税収は俺じゃわからないけど、作物は天候の被害が少なかった今年は豊作なほうだ。というか、あいつらはきちんと調べて言っているわけじゃない。一応、この町のようすを見て回ることが仕事らしいが、アザゼイの町は嫌われてるからな。あれこれと難癖をつけてもいいって考えなんだろ」
「呆れるわ、無駄な時間じゃない」
そして、それを了承している領主の評価も下がるというもの。
更に言えばアザゼイの町がいくら忌避されているとはいえ、難癖をつけるだけが仕事なんて哀れだ。重要な人間ならこんな仕事を要求されないと思うので、ここにいる兵士は暇人認定して良いのかもしれない。
「まぁ、いつもの光景なんだ。逆らわないで黙っていれば早く終わる」
ラルの言うとおり、張り合いがないと思ったのか兵士たちの怒鳴り声が薄れている。
嫌味な物言いにも表情を変えることなく耐え続けている男の人の心情はなんとなくリーアにも覚えがある。いや、リーアというより紫乃のほうだ。叔母や従姉妹の嫌味に対して、耐え続けた自分の心情を思い出して共感をしてしまう。無表情で耐え続ける男の人を労いたいくらいだ。
(私はこの連中に見つからないほうがいいわね)
一応、自覚はないがフォアサース伯爵の娘なので。
「終わったようだな。……しばらく待ってから町長の家に入ろう」
兵士たちが去っていき、男の人も町長の家に入っていく。
それらを見守ってから歩き始めたラルに続くように物陰から出る。
町長の家は他の家よりも一回り大きかったが、装飾は意外にも質素だなという印象でちらりと見えた庭はとても綺麗に整えられていた。
ラルの案内を受けて歩みを進めると、玄関から少し進んだ先の大きな部屋があって、数人の男たちが立っていた。その中には、先ほど怒鳴られていた男の人もいた。
部屋の中央、椅子に座っていた町長と思しき老人は、リーアに気づくと立ち上がって深々と頭を下げる。
自分よりもはるかに年上のお爺さんに目上に対する態度を取られたことが初めてだったこともあり、内心で慌ててしまったが、貴族ならば平然と受け入れるべきなのだろうとも思う。焦った表情が顔に出なかっただろうか。
「高貴な方をお招きしますのに、このように粗末な場所で申し訳ない」
立ち上がる老人が杖をついているのを見やり、リーアは首を振った。
「いいえ、こちらこそ厄介になってしまう形で申し訳ありません。それに今の私は高貴なものではありません。そのような丁寧な対応はしないでください」
そうリーアが言った瞬間、室内にわずかなざわめきの声が広がった。
なにか失言しただろうかと内心で首を捻っていると、対面にいる老人が苦笑した。
「……ラルから聞いていたとおり、不思議な方だ」
「そうでしょうか?」
「私どもと目を合わせて丁寧な言葉で会話をしてくださる貴族なぞ、王国にはおりませんよ」
それはまぁ、アザゼイの町の扱いを知ればそうなるとは思うが。
「私の身分は父親に保証されているだけで私自身はなにもない、ただの娘です」
付け足すと中身は貴族令嬢でもないただの一般人でもある。
年配の人に対してタメ口で横柄に振る舞うなどできようはずもない。
「そうですか。はは、ラルやグレンが気を許すわけだ」
町長の言葉に、ラルは弾かれたように顔をあげた。
「町長、俺は別に気を許してるわけじゃ」
弁明するラルに微笑みだけを向けて、町長は話を続ける。
「ラルから事情は聞きました。複雑な事情を抱えているようで」
「ええ。ご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが、この町に不利益がないよう気をつけますので、しばらく滞在させていただきたくて」
「なんの。ご自由に過ごしてください。ただ一つ、提案なのですが」
そこで言葉を切り、町長が「座っても良いでしょうか」と尋ねてくる。
そんなことわざわざ聞かなくても良いのにと思いながらうなずくと、町長から「そちらもどうぞ」と椅子を勧められたので、町長の対面席に腰を下ろすことにした。
隣に立っていたラルも座るのかと思ったが、ラルは背後に立ったままで座る気はないようだった。
「ラルとも話していたのですが、こういう場合はいっそ同情を買うほうが良いかと思いましてな」
「と、言いますと?」
「貴族の娘が滞在すると聞けば、町の住人も顔を顰めるでしょう。これはこの町にとっては致し方ないもの。ただし、義理の母親に殺されかけてなんとか逃げ延びた不遇な貴族の娘と聞けば、憐れむ気持ちのほうが強くなる。苦しむ年若い娘に、無駄に絡む者を抑えられるのではと」
「……なるほど。確かにその通りかもしれません」
「ですが、家族の内情を吹聴されたくない気持ちがあれば隠すべきでもある」
「いいえ。それに、それはラルたちのためにもなります。貴族の令嬢を保護していることより、殺されかけた貴族の令嬢を保護したとなるほうがラルたちの心象も良くなる。私を保護することで、ラルたちに無駄な偏見や噂が起きるのは避けたいので、同情を買うというのは私も同意します」
実際、そこは気掛かりな部分ではあった。
先ほどグレンと一緒に買い物をしていたとき、グレンの知り合いの店主たちはからかうだけに留めてくれたが、自分が貴族だと知られて、あんなふうに笑い合える店主たちとグレンの関係性が悪化することは避けたいとは思っていた。
自分の家族の内情が知られることは正直に言ってダメージはない。むしろ、ラルやグレンのイメージが良くなるほうがずっといい。
「おい、リーア。俺たちのことは気にするなと」
会話に割り込んできたラルを見上げる。
「二人は良い相手とかいるの?」
「いるわけないだろ」
憮然とした表情で答えるラルに、町長が笑い声をあげた。
「はは、ラルは町の娘たちから人気があるのですが、本人がどうも乗り気ではなくて」
「そうでしたか。もしも、相手がいるのなら変な噂が立つのを避けるべきかと考えたのですが、相手がいないにしても、家族でもない年頃の男女が生活するという部分が彼らにとって悪い噂にならなければと思いまして」
「ご配慮ありがたい。では、とても辛い目に遭ったということを誇張してはどうですか?」
「いいですね。ただ、ハーリファ子爵の耳に入らない程度に留めていただければ」
噂がどこまで広まるかはあれだが、領主に届くのだけは避けたいと。
そんなリーアの気持ちを察してくれたのだろう、町長はうなずいた。
「そうですね。あの領主は美しい女性に目がないものですから」
そう答えて、町長は後ろに立っている男たちに視線をやった。
「お前たち、ラルの言うように警戒するご令嬢ではなさそうだ。こちらにも良く配慮してくださる」
なるほど、見定められていたのかもしれない。
振る舞いによっては町長ではなく、後ろに立っていた男たちがリーアを追い出そうとしたかもしれない。しかし、男たちの表情を見るとこちらに敵意はないようで、町長の言葉に同調してくれるようだった。
「……そうですね。わかりました、では町長の指示通りに」
「ハーリファ子爵の連中がいなくなってからで構いませんか?」
「ご迷惑をおかけします、ありがとうございます」
男たちに一礼すると、男たちは奇妙なものを見る目つきになった。
そこで自分は貴族令嬢だったと思い出したが、まぁ、別に悪いことをしているわけではないし、いちいち釈明する必要もないだろうと特に何も言わないでおいた。
そんなリーアに目を向ける町長は、目を細めて微笑むと。
「ロジェーリン王国に暮らしていて、あなたのようなご令嬢になるものなのでしょうか」
からかいじみた口調に、リーアは困ったように苦笑した。
この世界にきて数日しか経っていないとはさすがに言えないので。
「……どうでしょう。私はだいぶ変わっているので。ただ年長者には相応の態度で接しようとは思っています」
「おや。それでは権力者はどうしましょうか?」
まるで謎かけのような問いに、リーアは少し考え込んだ後。
「相応の責務を果たしてこその権力者であるならば、こちらも礼儀を重んじるべきだとは思います。少なくとも、先ほどの兵士を連れている領主には頭を下げる気にはなりませんけど」
町長は息を吐くように笑った。
「さようで。リーア様のお父上であられるフォアサース伯爵は優れた方のようですな」
「それはどうでしょうか。案外、典型的な貴族かもしれませんよ」
++
ジェイク・フォアサース伯爵。
彼のことをよく知る人は、鉄仮面を常にかぶっている男とからかう。
表情を変えることは滅多になく、常に冷静に物事を判断することからそう評される男だ。
伯爵としての役目をまっとうしているが、かといって常に家を重んじるというわけでもない。
感情的になることはなく、それは家族に対してはゼロに等しい。政略結婚を経て夫婦となった女性とは、利害一致のもと良好な関係を保っていたが、一人娘を残して病没した。
伯爵夫人をあけておくわけにはいかず、彼はすぐに相手を選んだ。
知人の紹介を受け、相手を受け入れた。最初の伴侶とは適度な距離感を維持できたが、次の伴侶は執拗に強固な関係性を求めてきた。
彼は、ずっと前からそれが煩わしかった。しかし一度受け入れた以上は離縁の考えはなく、自分の仕事に介入してくることがないのなら放っておいても構わない。そんな考えで十年以上は経つ。
彼は家族を顧みることはしない。
彼にとって家族とはその程度の存在であり、例外などあるはずもないのだから。
「今なんと言った」
執事からの報告に、紙面から顔をあげた。
無表情な主人に、執事はいささか困惑した面持ちで。
「ですから、別荘へ向かわれたはずのリーアお嬢様が行方不明とのことです。ただ、調べさせた情報によると、リーアお嬢様を乗せた馬車が南部へ向かったという目撃情報がありまして」
ジェイクの秀麗な面立ちが不可解そうに歪められる。
別荘へ向かったという情報も初耳だが、それは無視をしてもいい。
妻であるアメリから、リーアの身体が弱いという報告は聞いている。その療養を理由に別荘へ向かったという報告を聞いたのも一度や二度ではないので、そこに報告義務を課してはいない。今回もその類なのだろうとは思っていたのだが——南部だと?
「なぜ、リーアが南部へ向かう理由がある」
「調べていますが、理由は今のところわかっていません」
現在、確定といえる情報のみお伝えしますと。
そう締め括った執事に、ジェイクは眉根を寄せた。
「アメリはなんと言っている?」
「いえ、それは」
言いづらそうに目を逸らした執事に、ジェイクは息を吐くと。
「構わん、本人が言ったままを伝えろ」
「……その、捜索の優先度は低くてもいいと、おっしゃっていました。家を出て行った者など放っておけと」
「ふむ、だろうな」
前妻との間にできた娘のリーアと、妻のアメリの関係が良好でないのは知っていた。アメリが異常に毛嫌いし、家から追い出したがっていることも情報として把握している。
伯爵令嬢の嫁ぎ先として相応の相手を選ぶよう何度も伝えたのにも関わらず、縁談相手として問題の多い貴族の息子を推し進める始末。
何度となく諭してきた。伯爵夫人に相応しい振る舞いをしろと。
憎悪、嫉妬といった個人的な感情を抑え、理性的な言動を心がけろと。
なぜ子どもでもない相手にそのような基本的なことを言わなければいけないのかと辟易しながらも苦言を呈したジェイクに対して、アメリは最初こそ反省を口にするが、あれが口だけに過ぎないことは明らかだ。
(煩わしいな)
と、数年前からジェイクはアメリに対して思っている。
此度の問題に関しても、アメリの関与は間違いないのだろう。
(再婚した前後はもう少し合理的な女だと思っていたが)
リーアに対しても、露骨な感情は抑えられると思っていたが。
自分との間に娘ができて、確固たる地位を築けたと思ったのか、態度は日増しに悪くなり、昨今は使用人からの不満も聞こえてくる始末。出会ったころの受け答えに賢さを感じた記憶が今はもう遠い。
離縁するほどではないかと放っておいたが、フォアサース家の醜聞になり得る振る舞いをしているようなら検討する必要も出てくる。
「リーアは馬車に乗っていたのだろう? まずはそれを探せ」
我が家の馬車を見つけて、そこからリーアの行動範囲を探っていく必要がある。
伯爵令嬢であるリーアの行動範囲など知れている。ほとんどフォアサース領から出たことのない娘だ。土地勘のない場所であちこちと動き回ることはしないだろう。
「南部の貴族に協力を仰ぎますか?」
「アメリの関与が考えられる以上、我が家の問題を他の貴族に明かすわけにはいかない。フォアサース家の醜聞にしかならん。伯爵家の騎士団に捜索させる。私の命令だと伝えろ、アメリの言葉は無視して構わん」
「かしこまりました」
「万が一にも、リーアが死んでいる場合だが」
「旦那様、そのような言い方は……」
口を挟む執事を手で制して、ジェイクは可能性として語る。
「感情はいらん。死んでいた場合はリーアの遺体を確保して公表せねばなるまい。そのためにも、捜索は必須だ。他の貴族に先に見つけられては、フォアサース家の令嬢になにがあったかと無駄な憶測を誘発するだろう」
「……承知いたしました。リーアお嬢様の捜索をなによりも優先いたします」
息を吐いて椅子の背もたれに身を委ねたジェイクは、ふと思いついたように。
「アメリをどう思う?」
「……奥様のことを、私に聞かれましても」
能力を買っている執事は顔に出すことはない。
けれども、良い即答がないことが答えのようなものだとジェイクは思う。
王都にあるこの屋敷を管理している目の前の執事も、フォアサース領にある本邸を管理している執事も決して口には出さないものの、アメリに対する不満があるのだろう。そして、それを数年前から感じ取ってはいたが、離縁という発想に至るまでにはないと思っていた。しかし。
「“利口”だと思っていたのだがな」
独り言のように、ぽつりとこぼす。
リーアを気に入らないのなら好きにすればいい。
だが、個人の感情と伯爵夫人としての振る舞いを切り分けられないのならジェイクにとっては“必要ない”側の人間になる。公私を分けられない人間はジェイクが最も嫌う存在だ。
(……行方不明か)
リーアの顔を思い浮かべようとして、顔を顰めた。
数年前から会っていないような気がした。いや、会っていないというのは語弊がある。ジェイクがリーアに意識を向けることがなかったため、最近のリーアの顔を思い浮かべることができなかったのだ。
だが、理知的だった母親と違って陰鬱とした空気を放つ娘であることは知っている。
あのリーアが、行方不明となっている状況で決断力を備えて動くとは思えない。
(面倒なことになった)
深くため息をついてジェイクが手を振ると、心得たように執事が一礼して部屋を出ていく。
残った部屋で一人、浮かんだ思考を全て振り払うと紙を手に取った。