8話
お手製のホットサンドは二人に好評で、グレンには作り方を教えてほしいとねだられた。
貴族はこうやって食べるのかと感心されたが、これには曖昧に笑うしかない。
この世界における貴族の食事は良いものを食べていそうなのでホットサンドくらいあるかもしれないが、実際の食事事情は知らないので。
「本当に美味かった。片付けはグレンがやるから休んでくれ」
ラルが言い終わるより早くグレンは食器を片付けていた。なんて素早い動きだ。
手伝おうと思ったのにと眉根を寄せつつ、身支度を整えるラルに首をかしげる。
「ラルはどこへ?」
「町長んところにな。リーアのことを話しておく必要があるだろ? ついでにリーアの家の事情も伝えることになると思うが、町長だけに留めておく」
「ありがとう、配慮してくれて」
その町長なる人が信頼できるのかは判断しづらいが、ラルがこう言っているのだ、悪い人ではないだろう。
家族の事情もまあ、知っていてもらったほうが行動しやすいし隠すことでもない気がする。
「領主には伝える必要はないだろ、たぶん」
「……領主って?」
「アザゼイの町はハーリファ子爵の領内なんだ」
知らない貴族の名前が出てきた。ハーリファ子爵というのはリーアの記憶にもなかった。
まぁ、それもそうか。リーアは東部出身で、南部の貴族なんて知るはずもないし。
ふと。ハーリファ子爵を頼れば、父親に自分の話が届くだろうかと思ったが。
「領主は評判が悪くてな。うちの町にやってくるそいつの部下もだいぶ態度が悪い。領主自身も夫婦仲が悪くて、愛人を何人も囲ってるって話だ。女絡みであんまり良い噂を聞かない。それに相手を見て態度を変えたり、下の連中に暴力を振るったりとかな」
「……印象が悪いわね」
「リーアも近づかないほうがいい、その見た目じゃ変に絡まれる可能性が高い」
確かにと思う。自分となったリーアの容姿は客観的に見てものすごく美人である。そのハーリファ子爵が、リーアの見た目を気に入って絡んできたらものすごく厄介だ。それは避けたい。
(……子爵か。この世界の貴族の位ってどんな感じなのかしら?)
伯爵、子爵という称号が出てきているので、いわゆる封建制かと思っているのだが実際はどうなのだろう。この世界の貴族事情はもう少し調べておかないと、リーアの実父である伯爵と、縁を切るという交渉をする際に困りそうだ。
「ああ、それから。マントを羽織って外に出るといい」
ラルが椅子の背もたれにかけられていたそれを手に取って広げると、フードのついた黒くて丈の長いマントだった。
「町の人たちはリーアのことを知らない人が多い。絡まれないよう人目は避けたほうがいい。町長との方針が決まるまでは問題を起こさないでくれ」
「わかったわ、ありがとう」
「この後、グレンと買い物に行くんだろ?」
「ええ」
「それならグレンのことを頼む」
そう言って出て行くラルを見送って、どうしたものかとリーアは考える。
ひとまず兄弟の家に厄介になることを決めたが、次の行動はどうすればいいか。
安全な場所で暮らしていくことが最終目的だが、土地勘がないためにどこに住むのが安全かはわからない。このままアザゼイの町で暮らしていくのも良いが、ラルとグレンに迷惑がかかることは避けたい。
いずれは自分の力で仕事を得て生活をすることが理想だが、先にしなければいけないことは。
(フォアサース伯爵の娘を捨てる方法よね)
伯爵の娘という価値が“リーア”についてまわる以上、これを取り除かねばならない。自分が生きていると知ったときに義母が再び命を狙ってくることがないよう、義母が満足する条件で縁を切りたい。伯爵の娘でなくなった自分には義母も興味をなくすだろう。
(あの人が命を狙った理由が、伯爵の娘以外にあるなら厄介だけど)
その部分を知るためにも、いずれ一度はフォアサース領に行かなければならないだろう。
リーアの記憶の断片があるにしても相手は家族ではなく他人。父親に毅然と立ち向かうつもりではあるが、どう相対するのが正解なのか。
「片付け終わったぜ! リーアの服、買いに行くか!」
突如、目の前に現れたグレンにリーアは目を瞬いた。
なんだか懐かれている気がする。
「うわ、なんで頭を撫でるんだよ。……なんか恥ずかしいだろ、こういうの」
「ごめんなさい、頭を撫でたくなって」
「謝ることじゃないけど、さ。……も、もういいだろ!」
首を横に振って、グレンはリーアに身支度を整えるよう言った。
照れているらしい頬の赤みは指摘しないことにして、リーアは着替えを済ませ、マントを羽織ってフードを深く被る。
借りている自分の部屋で鏡と向き合い、顔半分が隠れていることを確認して鞄を持つ。
自分が一時的に使うだろう食器と衣服は、自分の、いやリーアのお金を使うつもりだ。ラルとグレンに出してもらうわけにはいかないし、買い物をする流れでこの世界の通貨の仕組みも把握しておきたい。
「アザゼイの町を案内するぜ!」
やけに元気なグレンの後を追って、リーアも家を出た。
そういえば、と思う。自分の足でこの世界の外を歩くのはこれが初めてだ。
昨日は疲れてすぐに眠ってしまったので、家の外を見る暇もあまりなかった。
だから、ひんやりとした朝の空気をいっぱいに吸い込んで空を見上げた——その先。
(……あれは)
一瞬、なにかの見間違いかと思った。だが、目を凝らしても“それ”は消えない。
澄み切った朝の空に、どこまでも続く赤い線。不思議と不吉な印象はなく、どちらかといえば神秘的に見えるのはきらきらと輝いているからなのか。毒々しい赤色ではなくて、空に溶けるような淡い赤色。
その赤い線は、なにかの形のように見える。
(横長で細長い丸? でも、一部分は凹んでいるように見える。……ああ、花びらに似ているような)
思い当たるものが出てくると、その形に見える。
「グレンくん。あれって、なにかしら?」
リーアは空を見上げたまま、隣に立つグレンに尋ねた。
グレンはリーアの視線の後を追って、首をかしげると。
「うん? 雲だろ?」
「……そうね。今日は天気が良さそう」
「おう! まずは買い出しだな、こっちだ!」
そうして意気揚々と歩き出すグレンを追って、リーアも足を踏み出す。
グレンは素直な子だ。感情も顔に出るタイプで、器用に隠して嘘をつく性格をしていないのは一日しか経っていないけれどよくわかる。なら、あの反応も間違いない。彼にはあの赤い線が“見えて”いない。
(グレンくんには見えなくて、ラルには見えてるってことある?)
どちらかといえば。
不思議な体験続きの自分に問題があると考えるほうが自然では?
(あれは、私にしか見えていない?)
深く被ったフードから、そっと空を見上げた。
まだ、赤い線が見える。夜までずっとあんなふうに空に在るのだろうか。
あれは一体、なにを意味しているのだろうか。
++
アザゼイの町はどれも石造りの家で、民家は白い壁と緑色の屋根が多く、統一感があった。
地面に目を落とすとコンクリートではなく石畳。少しでこぼこしているところもあるが、綺麗に舗装されている印象だ。町全体は華美ではないけれど、行き交う人々の表情にさほど暗い印象はない。
街並みは、こういう言い方はあれだが田舎ではないなという印象を受けた。
ロジェーリン王国の最南端に位置する町と聞いたので寂れているのかと思ったが、普通にヨーロッパの街並みに似た印象だ。
都市と呼べるほどの規模ではないが、かといって整備されていない田舎というわけでもない。
(通貨についても、ちょっとわかってきたわ)
通貨はイスという。
銅貨には色の種類があり、数字が刻まれている。
白に近い明るい茶色が一イス、五イス、十イス、五十イスと色が濃くなり重さを伴う。
刻まれている数字は日本で使われていた算用数字を少し崩した形のようで、グレンの買い物を横で見守っていたが、一イス、五イス、十イス、五十イスという認識で合っているようだった。
銀貨は二つ、百イスと五百イスの二種類。
これらも同様に重さが異なる。五百イスのほうが重みを感じる。色合いは似ているが、刻まれている数字は百と五百で、模様も異なる。五百イスのほうが模様が複雑な形をしていた。
リーアが伯爵邸から持ち出したと思われる紙幣は二種類あり、千の数字が書かれていたのは千イスの紙幣、万の数字が書かれていたのは万イスだと推測できる。これはつまり。
(紙幣や硬貨の使い方は日本と同じで、数字もよく似たもの……)
五千円札をみかけなかったくらいで、円と同じように計算して扱うことができそうだ。
これに関しては正直助かったという気持ちだ。
一から知らない通貨を覚えて計算方法も異なるようならだいぶ頭を抱えていたはずだが、日本で使用していた感覚でお金の計算ができるのは非常に助かる。だが、円と同じ仕組みというのは少し気になる。これは偶然なのだろうか。
気にかかることで言えば、手元にある紙幣もそうだ。
(紙幣ってことは印刷技術があるってこと。製本技術もそれなりにあるのかしら?)
そういえば、ラルにイステリアルス大陸の地図を見せてもらったとき、書棚には本が並んでいた。
(冷感保管庫や印刷技術を見ても進んでいるように見えるけれど、一方で技術が進んでいない部分もある。……まあ、そうよね。私のいた世界で開発されたものが、この世界で同じような進化を辿って作られているとは限らないもの)
この世界はどんな歴史を辿って今に至るのか。
旧帝国とロジェーリン王国の歴史をそれぞれ知りたいが、旧帝国が悪しき存在として扱われているのなら適切な歴史書が残っているとは限らない。意図的に改竄されたもの、消去されたものは多いはず。
旧帝国とロジェーリン王国の間には深い溝があるように思えるし、勝者こそが歴史を作れるとはよく言ったもので旧帝国の正しい歴史を調べるのは難しいのかもしれない。
「リーア、どうしたんだ? すげぇ難しい顔してるけど、気分が悪いのか?」
話しかけられて、リーアは顔をあげた。
購入した野菜の入った箱を抱えて案じる瞳を向けるグレンに、リーアは首を横に振る。
「大丈夫。グレンくんこそ、それ重くないの?」
「俺、力だけは自信があるからな!」
「ふふ、頼もしいのね」
そんな会話をしながら二人は買い物を続けた。
幸い、マントを羽織っていたからなのか、声をかけられることも絡まれることもなかった。
大体の店の店長と思しき男たちはグレンと顔見知りのようで、グレンが女性を連れていることをからかうことはあっても、あれこれと追及されることはなかった。
ただ、グレンと並んで歩いている間に強い視線を感じたことは一度や二度ではなかった。
(あいつは誰かと探られていたのかしら?)
常に監視されているという感じではない。
遠くからじっと、自分の存在を観察している、そんな気配があった。
あまり良い気分ではなかったがそれも致し方ない。この町において自分が異分子であることは自覚しているラルとグレンに悪い影響がないと良いのだが。
それだけが心配だと思いながら、食器や服を買い足して兄弟の家に着く。
家に入ると、リビングでラルが待っていた。
「リーア、少し話が」
「服を置いてきてからでもいい?」
うなずいたラルに応じて、リーアは数点購入した服を部屋へと運ぶ。
服は質素なワンピースや、動きやすいズボンを選んで購入した。服の生地はなにが使用されているのかはわからないが、触り心地は悪くなく、日本で着ていた服とさほど変わらない手触りだった。
ベッドの上に服を置いて急いで戻ると、リビングにはラルしかいなかった。
「グレンくんは?」
「保管庫に行った。悪いけど、一緒に来てくれ」
「町長さんのところ?」
「ああ。一度、話がしたいと。大丈夫か?」
「もちろん」
実際、リーアもアザゼイの町の町長とは顔を合わせておきたかった。
今度はラルと一緒に家を出る。
ふと、見上げるとそこには変わらず赤い線が。
(……あれは、ずっとあるのかしら)
並んで歩くラルに目を向けて、赤い線のことを聞こうかと思った。
だが、グレンとは違ってラルは追及してくるだろう。なんでそんなことを聞くのかと。
そう聞かれたときに返す言葉に窮しそうなので、リーアは別のことを尋ねた。
「グレンくんになにも言わずに出てきてしまったけれど」
「俺が話をしておいたから大丈夫だ。そっちこそ悪いな、グレンの相手をしてもらって」
「私がしてもらったような気がするわ」
リーアの言葉に、ラルは笑って肩をすくめると。
「うちは親もいねぇし、親戚もいない。なんか楽しくなってんだろうな。あとお前がその服を着ているのもあって、ガキのころの思い出の中にいる母親を見ているのかもな」
ああ、なるほどとリーアは朝食のときを思い出した。
あのときはどんな料理を作るのか気になっていたのだろうと思っていたが、ラルにはそんなふうに見えていたのだ。確かに、あのとき自分にあれこれと聞いてくるグレンには少し幼さがあって可愛らしいとは思っていたが。
「ふふ、グレンくんが楽しんでいるならそれでいいわ」
「まぁ、身体はしっかりしてきたけどあいつもまだガキだし」
「グレンくんって何歳?」
「十五だ。俺は十七」
リーアが二十歳だったはずだから、ラルとは三歳差でグレンとは五歳差になる。
グレンは十五歳に似つかわしくない体躯をしているし、ラルは見た目も振る舞いも年齢のわりには大人びているように見える。
ラルのほうは年が近いと思っていたので、三歳差もあるのは少し驚いた。
「意外。あなたはもう少し上かと思ってた」
「リーアは? あ、いや。年齢を聞くのは失礼だったか?」
「大丈夫。私は、……えーと。たぶん、ちょうど二十歳かしら」
「なんでそんなうろ覚えなんだ」
自分のことではない記憶を辿るのは難しいなと内心で思いながら、リーアは指摘に対して曖昧に笑うしかなかった。
そんな話をしながら、ラルの案内で町長の家へと向かう。
歩いて行った先に、中央に噴水がある広場のような場所へと辿り着いた。
噴水広場らしき場所から伸びている道は総じて六つほど。その中で上り坂になっているのは二つあって、ラルが選んだのは右側のほうだった。
「あっちは?」
もう一つの上り坂を指差して尋ねると。
「その先には石碑がある。興味あるのか?」
聞き返されて、リーアはうなずいた。
「今、興味を持ったわ。時間があったら行ってもいいかしら?」
「その時は案内する」
石碑というくらいだから、なにか文字が刻まれているはず。なにかの記念碑か、それともアザゼイの町の歴史に関するものなのか。
どちらにせよ、この世界の歴史に興味を持っている自分にとってはだいぶ興味がそそられる。
町長に挨拶を済ませた後、ラルに案内をお願いしようと心に決めて歩を進めていると、アザゼイの町でも一際大きな門構えの屋敷の前に辿り着いた。
他の民家よりも目立つ屋敷の前に人影が四人ほど。
誰だろうと首を傾げたリーアの腕を、ラルが引いた。
「ラル?」
「路地に隠れるぞ」
言われるがまま、路地に身を潜ませたラルに従ってリーアも身を隠す。
そこからこっそりと顔だけ出して覗くと、似たような服を着ている兵士と思しき男が三人、門の前に立つ男になにやら怒鳴り声をあげている。言い争いというよりは、一方的に責めているように見える。
「彼らは?」
やかましい怒声に眉根を寄せつつ尋ねると、ラルも同じように顔を顰めて。
「領主んとこの部下だ」