6話
書棚に並ぶ本の間に挟まれていた古ぼけた紙を、ラルは手に取った。
四つ折りに畳まれていたらしいそれを、ラルは机の上に広げる。大きさ的には印刷用紙でたぶんA2くらいのサイズ。描かれているのは地図のようだ。
だいぶ古いもののようで、紙の材質は少しざらついていた。
「これって、地図よね?」
「イステリアルス大陸の全体図。親父の遺したものだ」
「遺したもの……」
「グレンからうちの親のことは聞いたんだろ? 親父は歴史にも興味があってな」
どうしてわかったのだろうと不思議に思ったが、そういえば先ほどの会話で親の話になったとき、グレンはリーア”も”親がいないのかと聞いてきた。それは兄弟に親がいないと知っている前提の会話だと、ラルはすぐに気づいたようだ。
意外と話を聞いていて鋭いなと思いながら、リーアは地図に目を落とす。
見たことのない地図だ。描かれている縦長の大陸一つをイステリアルスと呼ぶのなら、どこからどこまでがロジェーリン王国なのだろうか。
「この国境沿いから上がロジェーリン王国、下が見捨てられた土地だ」
ラルが指し示したのは大陸の真ん中。そこを横に滑らせていく。
大陸を真っ二つにして下なら、見捨てられた土地はかなり広いように思える。
「同じくらいの規模だわ」
そして、ロジェーリン王国と見捨てられた土地で二分されているのなら他に国はない。大陸全体の大きさは地図だけでは判断できないが、この大陸は島国という認識でいいのだろうか。
「この見捨てられた土地に、旧帝国の首都があったことは知ってるか?」
「ええ、それは知ってる」
「かつては大陸全土を旧帝国が治めていたそうだ。旧帝国時代の首都は見捨てられた土地の下のほうにあって、見捨てられた土地に住んでいる連中はそこを利用して生活していると聞いている」
「なるほど。見捨てられた土地と呼ばれるようになった経緯は?」
リーアの疑問に、ラルは眉根を寄せた。
「……教会の連中曰く、神に見捨てられたせいだと。連中はそれを一般常識にしたいようだが、実際にその土地に住んでいる連中の言い分は単純に人の住めない土地になったからだと言っていた。俺もそう思ってる」
「人の住めない土地……」
道理で、自分が見捨てられた土地に行くと言ったときにラルとグレンが難色を示したわけだ。今のロジェーリン王国は平民の生活を見ても水準が高い。そこと比較すれば、見捨てられた土地での生活はだいぶ厳しい環境に追いやられているのだろうと想像がつく。
「生活するにはだいぶ困難な地だと聞いている。作物は育ちにくく、空気は澱んでいる。天候も安定しないそうだ。それから夜になると、場所によっては奇怪な動物が徘徊するという話も聞いた」
「奇怪な動物?」
これは初めての情報だった。普通の動物とはなにが違うのか。
「よく知られる動物と比べると姿が不気味で、奇妙な動きをするんだと。そいつらは決まった場所に徘徊しているだけで近づかなければ襲ってこないそうだが。見捨てられた土地はそういう物騒な話をよく聞く」
「それは、ちょっと。怖いわね」
「身を守る術がないと危険な場所ではある。それにロジェーリン王国の貴族の令嬢って肩書きが、だいぶ生き辛くさせると思うぞ。向こうの連中は、異教人と侮蔑の意味を込めて呼ぶ王国民をよくは思わない。ましてやその王国の貴族なんざ、どういう扱いを受けるか」
「それはそうね。王国民を嫌う彼らの気持ちはわかるもの」
アザゼイの町の人々の異教人に対する差別意識が薄いのは稀で、王国民の大多数は見捨てられた土地に住む人たちに悪感情がある。これは逆も然りと言える。
自分がなんの準備もなく見捨てられた土地の人々と出会ったらどうなるかは想像に容易い。ラルの言うように怒りや不満をぶつけられる可能性は高い。自分の人となりはともかく、貴族という自分の立場が彼らにとって憎しみの対象になりうるということだ。
「うちの町にたまに物を買いにくる連中を知っているが、世間話ができるくらいで親しいわけじゃない。俺が紹介することも難しい。だからお前が見捨てられた土地に行くのは……」
「わかってる。教えてくれてありがとう。考えを改めるわ」
見捨てられた土地へ逃げ込むという計画は一旦取りやめた方がいいだろう。
まぁ、地図を見ても、これだけ広ければフォアサース領のある東部から南部のどこかの町に逃げ込んで生活もできそうだし、見捨てられた土地にこだわる必要はなさそうだ。
「それにしても、そんな危険な場所に人は住んでいるのね?」
「……ある人は故郷だと言っていた。だから離れられないのだと」
故郷だなんて、その理由だけで住み続けようと思うものなのか。
「理由はそれだけ?」
ラルはリーアの疑問がわかっていたように、皮肉げに笑うと。
「まさか。俺がガキだったころに聞いた話だ。ガキの俺に合わせてそう話してくれたんだろ。あの土地に住む人々は旧帝国時代の名残をもつ者たちが多いからな。向こうの連中は王国の民にはなれず、困難な土地に暮らすよう強制されてきた。向こうの連中が王国内に入りでもしたら殺されるか、良くて追い返されるか。連中は王国民になれない。だからうちの町での交易も内密で行っている」
「アザゼイの町の人々は彼らを受け入れているのね?」
「……お前も会ってみればわかる。向こうの連中は俺たちとなんら変わらない普通の人たちなんだ。それを、そこに住んでいるというだけで追い返す気にはなれない。町長含めて俺たちは昔からずっとそうしてきた」
その結果。アザゼイの町も同じように忌み嫌われるようになったと。
「一方は豊かな大地で、一方は困難な土地で。……だいぶ嫌がらせを感じるんだけど、旧帝国にそれだけ恨みがあるの?」
「今の教会や王家は恨みなんてないだろ。ただ、建国した当初はずいぶんと迫害があったと聞く。その名残なんだろうな。王家が、というよりそこは教会側が許さないという話だ」
見捨てられた土地に暮らす人々に対しての強固な姿勢は王家より、教会のほうが根強そうだ。考えてみれば彼らのことを“異教”人と名付けるくらいだ。
「異教という言葉を使うくらいだから、教会側が彼らを拒絶する理由があるのかも。異教人と名付けたのだって教会側だと思えば納得がいく。旧帝国に対する反乱の背景に狂信的な宗教を信仰していたと言われているのよね。表向きは旧帝国時代の悪政だけど、実態は宗教にまつわる戦争だったとか——」
「そのくらいにしたほうがいい」
思いの外、考察が捗ってしまったリーアを止めたのは張り詰めたラルの声だった。
険しい表情のラルに、リーアは首をかしげる。なにかまずかっただろうか?
「なにか問題が?」
「気をつけろ。教会をそんなふうに言うやつなんてこの国にはいない。教会が信仰するデーウルグス教は国教で相応の権限を持つ。異端だと言われて捕まるぞ」
「ああ、そういうこと……」
そこを掘り下げると、強い権力で踏み潰される背景があるということ。
(ちょっと調べてみたいけど)
今の自分は、あまりそこに触れてはいけなさそうだ。
教会側はとりあえず敵に回さないでおこうとは思うが、この場所では。
「でも、今ここにそれを咎める人はいないでしょう?」
ラルも教会側をよくは思っていないようだし。
彼が告げ口をしなければ、バレることもないだろうという意味を含めた。
リーアの言葉に、ラルは目を見張り、次いで口元を綻ばせると。
「ふ、はは。そりゃそうだ。こんな町に教会の連中は来ないしな」
初めて、皮肉めいたものが一切ないラルの笑顔を見たような気がした。
そうして笑うと、グレンに似ているのがわかる。兄弟なのだなと思う。
「——今まで悪かった、だいぶ感じが悪かったのは自覚がある」
笑いを収めたラルが頭を下げたので、リーアは驚いた。
「急にどうしたの?」
今までの会話で謝られるようなことはなかったのだが。
疑問に思うリーアに、ラルは目を逸らすと。
「俺の態度だ。一度、きちんと謝っておくべきかと思ってな。相手をよく知らないのに肩書きで判断したのは俺が悪い。すまなかった」
ああ、そういうことかと思い至る。
確かにグレンと比較するとだいぶ冷たかったが、謝らなければいけないほどラルが酷い対応をとったとは思わなかったので驚いてしまった。
貴族を毛嫌いする背景だって納得できるし、少しずつ態度が変わってくれるといいなと思っていただけに、こうして謝罪してくれるなんて律儀な子だ。
「気にしないで。私が貴族として変わっているだけのことだから」
「そうだな、リーアは確かに変わっている」
「……面と向かって変わってると言われるのは微妙な気分ね」
顔を見合わせて思わず笑みをこぼしたところで、片付けを終えたグレンが戻ってきた。
「話終わったのか? どうなったんだ?」
「なにもなってないわ。ラルにいろいろと教えてもらっただけだから」
「……それなんだが。しばらくうちに住む気はあるか?」
一瞬、誰になにを言われたのか把握に遅れた。
え、と声を漏らすリーアの声にかぶさるように、机に両手をついてグレンが声をあげた。
「兄貴、いいのか!?」
「なんでお前が喜ぶんだ」
「俺もそう思ってたからさ! リーア、行くところがないなら俺らんとこにしばらくいればいいぜ。俺と兄貴が協力するし、部屋だって余裕はあるからさ。服は母さんのがあるけど。小さいか?」
「リーアには金がある。服は自分で用意できるだろ。古着を押しつけんな」
「母さんの服は綺麗にしてるし! 洗濯すれば使えるぞ?」
「リーアにとっては他人の服だろ。気を遣わせるようなことをするな」
「あ、そっか。ごめん」
しゅんとしてうつむくグレンに、リーアはようやく口を開いた。
「待って。その、それは遠慮しようかと」
「え、なんで? リーアは行くところないんだろ?」
不思議そうに尋ねられて、リーアは答えに悩んだ後。
「王国民はアザゼイの町の人々を忌み嫌うのでしょう? 私を探しに来るかもしれない連中があなた達に危害を加えたり、嫌な思いを与えたりするのは嫌だもの。だから、ここを離れようと思っていて」
「それだけが理由なら俺たちが引き下がることはない」
「どうして?」
「危害も嫌味も、どちらも経験しているから今さらとしか思えない」
「貴族の人たち嫌味ばっかりだからな!」
グレンのほうは笑顔で言うことではないのだが。
まあ、確かに。異物扱いしてくるとも言っていたし、嫌味は慣れっこなのだろう。だが、それとこれとは別だ。危ないところを助けてもらっただけに飽き足らず、部屋を一室借りることになるなんて厄介になり過ぎだ。
幸い、お金はあるのだからこの場所にこだわらなくとも済む——のだが。
「なにもずっと住めとは言わない。お前の中で、今後の動向が決まったら出て行ってもいい。だが、無理にここを離れて安全な場所を探すのは勧めない。頼れる人がいるようには見えないしこの辺の土地勘もないのに、どこを目指すつもりだ?」
それはそうだ。ラルの指摘になにも返せず、リーアは黙りこむ。
「一時的な避難だと思えばいい。……お前が嫌でなければ」
嫌でなければ、なんて。嫌であるはずがないだろう。
ラルもグレンも、こちらの事情を知っているので動きやすいし、なにより二人は自分のことを考えてくれていると思う。
この世界にきて、リーアになって。怒涛の展開にも関わらず、最初に出会えた世界の人間が彼らで良かったと思える二人だ。彼らの申し出に、自分が嫌になることなんてないのに。
「……わかったわ、お世話になります。ただ、私の父親のことでなにか巻き込まれそうになったら必ず私に言って。できる限り、二人のことはもちろん、この町に不利益のないようにしてみるわ」
「ああ。だが、あまり気負うなよ。俺たちは本当に気にしていない」
念を押すように言われて、リーアは苦笑した。
グレンのことをお人好しと言っていたけれど、ラルも十分お人好しの部類に入るのではないか。
「なあ、つまり、リーアはしばらく一緒に住むんだよな?」
黙っていたグレンが、リーアとラルの顔を交互に見る。
その隠しきれない喜びの感情に、ラルは目を細めると。
「……お前は能天気でいいな」
「なんだよ、それ! リーアはさっきの部屋をそのまま使ってくれていいぜ。あ、掃除もしないと」
「部屋の大きさは我慢してくれ。あと、綺麗でもないとは思うが」
そんなことを言いながら、リーアを迎えるために動き出す二人を慌てて引き止める。
負担にならないようにと思いながら、リーアは感謝の気持ちを口にした。
「ありがとう、二人とも」