3話
意識が浮上して、紫乃は目を開けた。
見上げた先には同じ木目の天井。あの兄弟の家に違いない。
身を起こして、熱が治っているのを確かめる。起き上がった拍子に額から落ちてきた布を枕の横に置いて、紫乃は息を吐く。
頬に触れて、その実体を確認する。これは“現実”らしい。
「リーア、フォアサース」
それが彼女の、いや、今は自分となってしまった名前。
さっき見ていた夢のような現実のような不思議な感覚はなんだったのか。
(とんでもないことになってしまったわ……)
紫乃は、ベッドから降りると周囲を見渡した。
室内に立てかけられた鏡を見つけて、その前に立つ。
「……やっぱり夢の中と同じ。腹部に傷はない」
まじまじと観察して、自分がリーアだと実感する。なんて綺麗な顔をしているのだろうか。
肩と腰の間くらいまで伸びた黒い髪は指通りも良く艶やかで、透き通るとはまさにこのことかと唸ってしまうほどの透明感のある肌。大きく神秘的な紫の瞳に長いまつ毛、理知的な印象を受ける整った顔立ち。
よく見れば紫乃である自分と似ている気がするが、こんなに美人ではなかったように思うのだが。
ふと、ベッドのそばに置かれていた泥のついた鞄に気づいた。
(あの兄弟のものではなさそう)
赤い鞄はデザインからして女性の物のようだ。
自分が寝ていたそばに置かれていたということは、リーアの持ち物だと兄弟は判断したのかもしれない。
少し悩んだ後、紫乃は鞄の中身を確認する。
(これは日記かしら。この袋の中身は、貴金属?)
古ぼけた分厚い本と、宝石がついたネックレスや指輪にブローチ。袋の奥をさらに漁ってみると、見知らぬ紙幣が詰め込まれている。これではまるで。
(リーアは家を出ようとしていた?)
紫乃は手に取った本のページを捲る。それはやはりリーアの日記だった。
一瞬、自分に読める代物だろうかと疑ったが、リーアの身体だからなのか、見たことのない文字なのに頭の中にすんなりと入ってくる。
日記には、あの夢の中で見たリーアの人生が事実だったと証明づける内容が書かれていた。
イステリアルスという大陸の名、ロジェーリン王国という国の名。
ただ、この世界の情報はそれだけ。日記にはリーアの日常が綴られていた。
貴族の事情や、社交界での立ち振る舞いなど。本来、貴族の娘が受けるべき授業が途中で中断され、義妹と同じように学ぶことを許されなかったと記述がある。義母はリーアを徹底的に拒絶した。
子どもの教育が伯爵夫人に一任されていたことも要因だ。そのため、リーアがとても孤立した生活を送っていたのが内容からわかる。
(リーアは狭い世界の中にいることを強要されたのね。社交界にも病弱を理由に出ず、次第に家の外に興味を失っていってなにかを学ぶということを諦めたみたい)
母の死、父親の冷たい態度、義母と義妹からの虐め、使用人からの扱い。
日々の生活で体感する鬱屈とした思いは、やがて周囲の人間にも自分にも諦めへと変わっていった。
(この日記だけ見ると無関心な父親は腹立たしいわね……)
義母は結局のところ他人だが、父親はこれだけの苦しみを娘が味わっているのに気づかなかったのか。
父親はフォアサース本邸ではなく、王都にある別邸にいることが多かったと書かれていたから気づかなくても仕方がない——では済まされない。
この先、父親に会うことがあれば恨み言の一つや二つ、リーアの代わりに言いたいくらいだ。
記述は直近のものへ変わる。
義母が用意した二度目の婚約話は父親によって破談となり、義母はリーアに別荘でしばらく療養するよう提案をしてきた。このころ、リーアはもう義母に反論することを諦めていたから、素直に義母の指示に従った。
ただ、フォアサース邸を出立する前にリーアは知ってしまった。
(信頼していた侍女が義母の命令を受ける姿を見てしまった)
最新のページの筆跡は歪んで、水滴の滲んだ跡が見える。涙だろうか。
『私が何をしたというのでしょう。お父様に反論せず、お義母様の教えを守って今日まで生きてきたのに。どうしてお義母様は私を虐げるのでしょう。私はただ、平和に暮らしたいだけ。権力なんてどうでも良いのに』
綴られる文字から、夢の中で見た無表情のリーアを思い出す。
『いっそ、このまま領地を離れて誰からも忘れ去られるのならそのほうがいいのに。誰にも脅かされず、生きていたいだけなのに、どうして私にはなにもできないの。顔色を伺って怯えて息を殺して生きたくはない。それなら死んだことにしてフォアサースから逃げれば——』
侍女の計画を知ったリーアは考えた。
黙って殺されるくらいなら近くの町に逃げこみ、行方をくらませればいい。彼女は自分が用意できるだけの貴金属と紙幣、そして日記を鞄に入れた。
その後に起きた出来事は、夢の中で見た侍女と賊と思しき男性のやり取りからわかる。
別荘へ向かうと偽った馬車はリーアを乗せて、難ありの町を目指す。
その町の近くでリーアだけを残して馬車が停まり、合図と共に賊が馬車を襲撃。その際、リーアは腹部を刺されて致命傷を負った。リーアはなんとかその場から逃げたが、おそらく高いところから落下。落下したリーアを捜索はせずに侍女と賊はすぐにその場を離れ、リーアは命を落とした。
「そのときに私はリーアになった」
紫乃は、日記に挟まっているメモを見つけた。走り書きのような文字だ。
(アザゼイの町と書いてある……。そうね、逃げこむ先のことは知っておく必要があるもの)
つまり兄弟たちの暮らすここが、アザゼイの町という認識でいいのか。
そういえば、侍女や賊も言っていたっけ。貴族嫌いの連中がいるからリーアを助けないだろうと。
メモにはこの国のわずかな情報が書かれていた。
(ロジェーリン王国が建国される前、この大陸には、今は旧帝国と呼ばれる国があった。旧帝国は狂信的な宗教を信仰する国家で、時の皇帝は悪政を敷いていた。苦しむ民を救うためにロジェーリン王国の初代国王は剣を取り、反乱を起こした。初代国王は邪悪な旧帝国を平らげ、栄光なる王国を作り上げる……、美談ね)
リーアが書き遺したメモはさらに続く。
(……かつて旧帝国の首都があった場所は現在、“見捨てられた土地”と呼ばれている。イステリアルス大陸の南部に位置し、そこに広がる土地はロジェーリン王国の管轄からは外れている。その見捨てられた土地と隣接しているのがハーリファ領であり、見捨てられた土地から最も近い最南端の町をアザゼイと言う)
頭の中で架空の地図を作っていく。
(アザゼイの町は、忌避されているそうだ。見捨てられた土地に住む人々を王国民は侮蔑の意味を込めて異教人と呼ぶが、アザゼイの町は彼らと交易を行っている疑いがある。貴族の中には、アザゼイの町は見捨てられた土地同様に穢れた人々が住まう町であり、暮らしている人間も普通じゃないと話す者も多い、か)
紫乃は眉根を寄せた。浮かんだのは自分を助けてくれた兄弟だ。
彼らは紫乃にとって命の恩人だ。彼らが自分を見つけて町に運び、看病してくれたおかげでこうして熱も下がった。そんな彼らを悪く言われている気がして、率直に不愉快である。
ただ、と紫乃は思う。弟のほうではなく、兄のほうの猜疑的な眼差しは。
(……リーアのメモを見るに、アザゼイの町の人々は王国民の貴族を嫌っているでしょうね)
リーアの服装から貴族の令嬢だと察しはついただろう。それなのに助けたのか。
より一層、あの兄弟には感謝しなければいけないなと思いながら、紫乃は日記を閉じた。
(この世界はだいぶ興味深いわ)
ありがたいことに、残してくれた日記やメモで今の状況は大体知れた。
王がいて貴族がいて、伯爵という身分がある。この世界は中世ヨーロッパに近いのだろうか。
(見捨てられた土地に住む人々を異教人と呼ぶのよね。なぜ彼らは王国で暮らさないのかしら)
そして、なんの理由があって見捨てられた土地に住むのだろう。
見捨てられた土地の由来は、ロジェーリン王国から見捨てられたからなのか、それとも別の意味合いが含まれているのか。こちらも理由がありそうだ。
(こういうの調べてみたいわ。ちょうどアザゼイの町にいるんだし、見捨てられた土地や旧帝国のことはフォアサース領にいるときよりも情報を得ることができそう。なにより——)
それだけ差別的にみられている土地に逃げ込めば、生きていたといずれ知るだろう義母も暗殺を諦めるのでは?
アザゼイの町が見捨てられた土地から最も近いのなら、この身一つで見捨てられた土地へ向かうのも難しくはない。
(リーアの家族に自分の生存を知られる前に安全な場所を見つけないといけないわ。そして、リーアの家族から離れる理由も考えないと)
フォアサースの伯爵令嬢として生きていくつもりはない。
伯爵家とはうまく決別したい。彼らの都合の良い駒になるのは冗談ではない。今こうして邪魔者扱いされているのなら縁を切るなどして、堂々と家を出たい。
(無関心な父親も伯爵というくらいだから財はあるでしょうし、少しの間の生活費をお願いして、その代わりに二度と彼らの前に姿を現さないと約束すれば、義理の母親も殺すという考えを変えるかもしれないわ)
働かないで暮らせるなら貴族も良いが、命を狙われるのは冗談ではないし、そもそも貴族というのは誰かの生活の上に成り立っているもの。
責任を伴わない自堕落な生活を享受できるほど割り切れる性格ではないと自覚はしているし、かといって貴族令嬢の仕事として政略的に用意された夫に尽くすのも自分には難しい。
この世界で女性が一人生きていくというのがどう認識されるのかはわからないが、まあ、誰の目にも留まらずに静かに暮らしていく場所くらいはどこかにあるだろう、たぶん。
幸い、リーアの機転で貴金属や資金はある。当面の生活費は大丈夫そうだ。
紫乃は改めて、鏡に映るリーアと向き合った。ここから先の“リーア”は自分だ。
さあ、彼女が歩むはず“だった”人生と、これから始まる自分の人生を始めようか。
++
背後で扉の開く音が聞こえて紫乃は——“リーア”は振り返った。
こちらを射抜くような視線を向けてくる金色の瞳。
(確か、こちらを警戒しているのは兄のほう)
鏡の前に立つリーアに、兄のほうは眉根を寄せると。
「なにをしている?」
「いえ、少し考えることがあって。……改めて助けてくれてありがとう」
素直に感謝を述べたリーアに対して、兄のほうは肩を竦めた。
「あの子は? 赤い髪の」
「……あいつは弟のグレン、俺はラルという。お前は?」
名前を訊かれて一瞬、リーアは言葉につまった。“紫乃”と名乗りかけた言葉を慌てて飲み込む。
黙り込んだリーアを不思議に思ったのだろう、兄のほうであるところのラルが聞いてくる。
「どうして黙る? ああ、聞かないほうが良かったか?」
含みのある問いかけと皮肉めいた笑み、そして警戒はらんだ瞳。
(彼はやはり貴族をよく思っていないみたい)
狭い世界に生きてきたリーアが調べられる範囲でも、アザゼイの町の状況が知れるのだ。実際に貴族と接したり、周辺の町や商人などと接したりすればアザゼイの町の住民はわかっているはずだ、自分たちを侮蔑する態度に。
まあ、自分は逆にアザゼイの町に興味があるのだけどとリーアは思う。
(だって見捨てられた土地のことや旧帝国のことは知っておきたいもの)
今後の方針のためと、歴史好きという個人的な趣味も兼ねてではあるが。
警戒を露わにするラルの視線には気づかない振りをして、リーアは微笑んでみせた。
「私の名前はリーア・フォアサース。リーアと呼んでくれて構わないわ」
「……フォアサースというのはこの辺じゃ聞かないが、南部の貴族か?」
リーアは夢の中で見た“リーア”の記憶を思い出す。
ロジェーリン王国はおおよそ東西南北で四分されており、フォアサース領は東部地方に属している。
「いいえ、東部ね。フォアサース伯爵の娘よ。名前は呼び捨てでも構わないわ」
友好的に笑いかけたのに、ラルはなにやら考え込んでいる。
(貴族相手には抵抗があるのかしら?)
兄弟の家の雰囲気や服装から見ても彼らは平民だろう。
貴族を嫌っているだろう彼に無理に呼ばせる必要もないかと考えていると、ラルは眉間に皺を寄せたまま。
「……それなら、リーアと呼ばせてもらう」
苦々しい表情で吐き出されたそれに、彼に一体どういう葛藤があったのかと問いたいところだったが、リーアはそこには触れず。
「グレンくんはどこへ?」
赤い髪の青年を探すようにリーアが視線を彷徨わせると。
「あいつは買い物だ。すぐに戻ってくる」
「お礼を言いたかったの。私をずっと看病をしてくれたのは彼でしょう?」
「……あいつは兄の俺から見てもお人好しだからな」
「そんな彼と一緒に治療をしてくれたのはあなたもでしょう?」
そういうと、ラルは再び顰めっ面を晒した。
なんだか気難しい青年だなと、そんな感想をリーアは抱いた。
「……俺のことは気にするな。それより動けそうならこっちに来てくれ」
部屋の外へ出るよう促すラルにうなずいて、リーアは歩き出した。




