12話
リーアは一人、石碑のある丘へ向かう。
道中、すれ違う人々の表情はやはり暗い。
あちこちで議論する姿が見られ、中には言い争いにまで発展しそうなやり取りも聞こえる。
アザゼイの街全体を覆う暗雲を晴らす方法は、解決策がないために現状はどうしようもないという諦めの気配が強い。
(やっぱり、だめだったわ)
昨日、ハーリファ子爵に会いたいと望んだリーアにラルはこう言った。
『それは、やめたほうがいい』
から始まった長すぎるお説教にリーアはなにも言わなかった。
その説教が、自分を案じるからこそのものだとわかっているので反論の言葉を飲み込んだといったほうが正しいか。少々過保護ではと言おうしたが、ラルの表情は大真面目だったので素直にうなずくだけに留めた。
(それに、彼らの意向を無視したくはないわ)
この町の問題はラルたちの考えが優先されたほうがいいと、リーアは思っている。
彼らの考えや判断を無視して勝手に動くのは望ましくないだろうし、この世界における貴族を把握できていない自分が、伯爵令嬢として正しい振る舞いができるか怪しいのは事実だし。
(権力を有効活用したかったのだけど、ここは大人しくしておいたほうが良さそう)
今は、アザゼイの町の人々の判断を邪魔しない。
今日もラルは町長のもとを訪ねているし、なにか支援を望まれたときに動くことができればと考えながら、リーアはたどり着いた丘で足を止めた。
ここへ来た理由は一つ、石碑に刻まれた文字を解読するためである。
あのときは、レイラに話しかけられてしまってその先に進むことができなかったが、今日は最初から読み解くことを決めて用意もしてきた。グレンに紙とペンを借りて、書き写すつもりだ。
石碑に歩み寄って、刻まれた文字に触れる。
(やっぱり、アルファベットに当てはめられそうなのよね)
アルファベットは全部で二十六。
(これは、Aかしら?)
石碑に刻まれた、Aによく似た文字はリーアが知るAよりは角張っていて真ん中に丸のような記号があるものの、とりあえず今はAと判断することにする。そうしてまずは近いと思われる文字を順に書き起こしていく。
石碑の前に立ち、一心にペンを走らせるリーアに声をかける者はいない。
「……これで」
とりあえず近しい記号をアルファベットに当てはまることはできた。
多少、強引に合わせたものが数文字あるが、大体はアルファベットの形に非常に近い。RやTは同じと言っても過言ではないくらいだ。
「一応、文章なんでしょうけど文法が同じとは限らないわ。まずはわかりやすい単語から……」
そうして、リーアは石碑に刻まれた文字を今度は単語として抜き出していく。
(これはSで、次はU、M……。SUMMONでいいのかしら?)
そんなことを考えながら、リーアは黙々とペンを進めた。
単語として抜き出していくたびに、意味が浮かび上がってくる。
(読み解けた単語は、召喚と伝記、大陸、それから信仰と祈り。求める心、大きな罰と追放? 抜き出してみたけどわからない単語は、たぶんこの世界での固有名詞……)
リーアは、自分が書き起こした単語に手で触れる。
この石碑の中で最も使われている単語。
「O、G、M、A、L……、オグマル?」
この石碑はどうやらオグマルなる存在がメインのようだった。
オグマルは、どうやら信仰の対象であったらしい。となると、神様的な存在かもしれない。
そのオグマルがなにか大きな罰を受けたのか、追放されたのか。単語だけではその部分は判断しづらいが、オグマルがとても重要な存在だということはなんとなくわかる。
(この世界で聞いた宗教はデーウルグス教だけ。デーウルグス教というくらいだし、神様の名前はデーウルグス、よね)
リーアの日記にオグマルという単語は出てこなかったし、ラルたちの家にあった本にも出てくることはなかった。
(今の人たちが読めない文字が刻まれた石碑となると、この石碑は今よりもずっと昔に建てられたもの。昔に信仰されていた神様なら旧帝国時代に存在していたのか、それともそれより昔のものなのか……)
そこまで考えて、リーアは息を吐いた。
アザゼイの町がそれどころではないとわかっているが、こうして歴史を辿るのはどうしてもワクワクしてしまう。石碑が遺した真意を辿ってみたくなる。
こんなことをしている場合ではないが、とリーアはちょうど石碑を囲む真ん中に立って他の石碑を見回した。
すべてを読み解けば、オグマルのことがわかるだろうか。
「オグマル——」
そう口にした瞬間だった。
超音波のような高音が周囲に響いて、リーアは咄嗟に耳を塞いだ。
くらりと脳が揺れて、足に力をいれて踏ん張る。そうしないと立っていられない。
(一体なにが……)
徐々に高音が収まり、リーアは深いため息を吐き出して目を開いた。
「は、」
息が漏れた。
目を閉じていたのは数秒に過ぎなかったはずなのに。
リーアの眼前に広がっていたのは荒廃とした大地だった。
芝生に覆われていたはずの地面はひび割れて乾いていた。ひび割れた地表からは生命の気配などまるで感じられず、空気もよどんでいる。
曇天の空は昼夜の区別がつかず、紫がかった霧で覆われている。濁った水の臭いが、どこからか漂ってきた。耐えられないほどではないが、不快には感じる臭いだ。そしてあれだけ目立つ石碑が、まるで最初からなかったように消えてしまっていた。
「……これは」
立ったまま眠っているのだろうか。
一歩と足を踏み出し、硬い大地の感触を確かめる。夢のような感じはない。
少しずつ余裕が出てきたリーアは、周囲を見渡した。
(急に違う場所に来たのかと思ったけど)
さっきまでいたアザゼイの町の丘で間違いない気がする。
石碑がなくなっただけで、丘から降りていく道の場所は変わっていない。ただ、遠くに見えていたアザゼイの街並みは紫がかった霧に覆われているせいで建物がはっきりと見えず、大きな黒い影に見えて不気味に映る。
そこまで考えて、リーアは弾かれたように顔をあげた。
「ラルたちは——」
あの音をきっかけに風景が変わっただけなら、町にいる人たちは混乱していないだろうか? ラルとグレンはなにかに巻き込まれていないだろうか?
リーアは駆け出すように坂を降りていく。
走っている間も霧のせいか視界が明瞭ではない。
坂を降りて噴水広場にたどり着く。だが、そこには灯りもなく、人の姿も声もない。あらゆる音が吸い取られてしまったかのように、不気味な静寂に支配されていた。
「誰もいないわ……」
息を整えながら周囲を見渡しつつ、ゆっくりと歩く。
何度か来たことがあるが、噴水広場には大抵、何人かは人の姿がいつも見られたのだが——と考えたところで、リーアはぴたりと足を止める。
広場の象徴である噴水へ近づいた。
(泥だわ。これが臭いの原因ね)
近づけば、濁った水の臭いが鼻につく。
咄嗟に片手で鼻を押さえつつ、本来は透明な水が溢れていた場所が紫がかった泥に変わっていることを認める。
(これは夢?)
急にアザゼイの町が荒廃するわけないし、アザゼイの町の人たちがどこかへ消えてしまったというのも現実味がない。ただ、それならばなぜ。自分はこの夢に取り残されているのだろうか。
古典的ではあるが、試しに頬を引っ張ってみた。痛い。
「……夢じゃないのかしら」
深いため息をついて周囲を見渡す。
(とりあえず、ラルたちの家に)
リーアは、漂う霧を煩わしいと思いながら歩を進めた。
明らかな異常事態ではあるが、意外と冷静でいられるのは自分の存在がこの世界において特異的だということと、あの一瞬でアザゼイの町が荒廃するわけはないと考えているからだ。
話ができる人でもいれば、さすがに現実と受け止めてるんだけど、と思いながらラルたちの家に辿り着いたとき、リーアは目を瞠った。
そこに人影があったとき、ラルかグレンのどちらかと思い駆け寄ろうとした。だが、すぐに足を止める。それは二人よりも長身で体格の良い男が立っていたからだった。
この煩わしい霧の中にあっても輝きを放つ紅の髪は、グレンの髪よりもずっと明るい色をしていて神聖な炎のような輝きを放っている。
なにより存在感が尋常ではない。うまく言葉に喩えることができないが、その人が立っている場所だけ雰囲気が違うような気がする。まるで神話を綴る本から抜け出してきたかのよう。
『どうやって入った』
低く艶のある男の声が響いた。
振り返った紅い髪の男と視線がかちりと合う。髪と同じ色合いの紅い瞳は独特だった。虹彩には複雑な紋様が刻まれており、人ならざる者を示すかのようだった。ただの瞳ではない。あらゆる事柄をすべて見抜かれてしまいそうな、畏怖すら感じる瞳。
そして、言うべきはそれだけではない。男の容貌は怖れさえ感じてしまうほど整っていた。どの角度からでも見る者の足を止めてしまうほどの美しさと、力強さを感じるバランスの取れた完璧な肉体で、まるで神様にしか許されない造形美であるかのような。
(神様?)
そういえば、とリーアは思い出した。
この異常事態になったきっかけはなんだったか。
あのとき、石碑の真ん中に立ってつぶやいた名前は。
「——オグマル?」
この陰鬱な空気の中にあって圧倒的な存在感を放つ男へ、リーアは少しの確信をもって尋ねた。
ようすを伺うリーアに、男は片眉と口の端を吊り上げる。無表情だった男が見せたその表情は、うまい言い方ではないが、人間らしいという感想をリーアに抱かせた。
『なるほど。我の名を知る者がまだ存在していたとは』
「……オグマルと呼んでも?」
『好きにしろ』
そう答えて、男——オグマルはこちらへ近づいてくる。
目の前に立たれると、自然と見上げる格好となる。やはり長身で体格が良い。
興味深そうにリーアを観察したオグマルは。
『豪胆だな。この状況に疑問を抱かぬのか?』
「疑問はあるわ。ただ、この世界に来てからずっと不思議なことが多すぎて慣れてしまっているのかも。今はこの状況の理由を知っているのはあなたなのかしら、と思っていたところ」
『は、冷静な判断だ』
オグマルはリーアを一通り観察すると、おもむろに手を伸ばしてきた。大きな手のひらがリーアの頭に乗せられる。頭に乗った手の重みを感じる。大きな手は頭に乗せられたまま微動だにしない。
しばらく経って頭から手を離したオグマルは不思議そうに目を瞬かせた。
『……ほう。娘、お前は何者だ?』
なんという質問だ。自分が何者かなんて、そんなもの。
「私も知りたいわ。私がこの世界で何者なのかを」
自分がリーア・フォアサースだと受け入れることにはしたが、この世界でどこか異物であるという感覚はいつまでだっても抜けない。まるでそれを指摘されたような気がして、リーアは逆に問い返した。
リーアの言葉にオグマルは首をかしげながら。
『魂が重複……違うな、上書きされたか? 不自然だな。作為的なものか? いまいち判断がし辛い。だが、お前が普通ではないというのはわかった。まぁ、この領域に入ることができた時点で普通ではなかったか……』
何やら一人でぶつぶつとつぶやいて納得したりしなかったりしている。
ただ、リーアはこの世界にきてはじめて“自分を特異”と認識してくれる存在に、少しばかり高揚を覚えていた。石碑によるとオグマルは神様的なものだったらしいし、自分がこの世界でリーアとなってしまった理由を知っているのでは?
「私が何者なのか、あなたにはわかるの?」
リーアの疑問に、オグマルはやや考えた後に息を吐いた。
『そこまではな。だが、我と関与すること、我の領域に入ることにお前の魂が拒否を示していないことがわかった。そのような人間が今のこの大陸の状態で存在するとは思わなかったが』
「……ごめんなさい。私には少し難しい話なのだけど」
そもそも先ほどから言う魂もなにを意味しているのかいまいちわからない。ニュアンスで人の魂だろうかと思っているが、神様的な視点で話されても困る。
オグマルは眉根を寄せるリーアに、肩をすくめてみせた。
『お前にはこの風景はどう見える?』
急に何を言い出すのだろうと思いながら、リーアは素直に周囲を見渡した。
オグマルの向こう側にあるラルとグレンの家は、記憶よりも寂れた印象を受ける。ラルが大切にしていた畑は、噴水広場で見た紫がかった泥でぐちゃぐちゃになっていた。一目でわかる、あれでは畑の機能を果たしていない。あの状態では薬草も育たないだろう。
「……私がいたアザゼイの町が荒廃しているわ」
オグマルはリーアの視線を辿り、うなずいた。
『そう、人の住めぬ土地に成り果てた風景だ。そして、いずれ来たるこの町の末路でもある』
リーアはオグマルを見た。独特な模様が刻まれた紅の瞳には憐憫も諦念もない。ただ、事実だけを淡々と口にしたとでも言いたげだ。そして、そこに関してリーアは思い当たってしまう。
(汚染化の末路が、これなんだわ)
これが未来の風景なら寂れた家や人のいない広場にも理由がつく。人の住めない場所となったため、住民はアザゼイの町を捨てなければいけなくなったのだろう。それなら、ラルとグレンはどうなってしまう? アザゼイの町の住民は? 今でさえ彼らは差別的な視線に晒されているというのに、彼らを受け入れる町は存在するのだろうか。
「この状況を防ぐ方法はないの?」
リーアを一瞥して、オグマルは視線を上へと向けた。
『お前が——、ならば』
「今なんて?」
『……試してみるのは良いかもしれん。お前の魂を通せば我はこの領域から出られるかもしれぬ』
なにを言っているのか。神様的なものはこれだから困る。
「いまいちわからないのだけど。あなたはこの領域から出たいの?」
『出たいという表現は違うな。この領域は元より我のもの。ただ、今はこの領域から自由に出られなくなった。なにかを媒体にしなければ阻害される。その媒体に、お前が使えそうだということだ』
「……あなたがこの領域から出られれば、アザゼイの町がこの末路を迎えることはなくなるの?」
『無論、そこは我に任せろ。だが、まずは実際にお前を媒体にできるかを試したい。その後、我の現状を話してもいい。我が何者であるか、お前になにを求めるかなどという話だ』
求めるか、なんて。嫌な予感しかないが。
ただ、とリーアは荒廃した風景を見回す。
記憶の中にあるアザゼイの町と、荒廃したアザゼイの町。
汚染化といっても、それは畑に支障が出るくらいだと思っていたが、人が住めない状況にまで追いやられるのは予想外だ。
オグマルの言葉がすべて真実だと信用するわけではないが、荒廃したこの光景を前にしては現実的ではないと無視できない。汚染化でここまで酷くならないにしても、オグマルに協力して汚染化自体がなんとか出来ればアザゼイの町は救われる。つまり、神頼みというやつだ。
「いいわ、あなたの媒体とやらになってもいいからアザゼイの町を助けて」
オグマルが口角を釣り上げる。
その悪どい表情に神様ではなく悪魔だったのではとわずかに後悔を抱いていると、伸びてきた人差し指がリーアの額に触れた。そこから暖かな熱が灯り、急速に意識が落ちていく。
『今の言葉、忘れるなよ』