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1話

 ここは、どこだ。


(……身体があつい)


 痛みが続いている。息が苦しい。これは一体どういうことだ。

 重たい瞼をなんとか持ち上げる。

 見えたのは伸びた雑草、聞こえてきたのは水の音、香るのは土の匂い。

 ここは、どこだ。

 口には出さずに繰り返して身体を持ち上げようとするが、力が入らない。

 繰り返す呼吸が短い。病室ではないどこかで自分は“また”死ぬとでもいうのか。


(どうなってるの……)


 自分が今、どこにいるのかだけは把握しなければ。

 明らかに違うのは痛みの感じ方。病室にいたときは、内側から強く締めつけられるような痛みだった。けれど今は転んだときのような擦り傷があちこちに。骨折のような痛みはないが、打ち身のような感じがする。高いところから落下でもしたのか。

 前へと伸ばした自分の手を見て思う。

 フリルのついた袖口は着ていたパジャマではない。

 身体を締めつけるのは普段着けている下着ではないような気がする。腰元をしっかりと締めつけているそれが呼吸を苦しくさせる。


「は、……誰か、」


 意を決して、両手を地面について身体を持ち上げようとした——が、どうしても力が入らない。

 このままこんな知らない場所で野垂れ死ぬなんて冗談ではない。


「……倒れてる、………、……大丈夫か!」


 突如、遠くで若い男の声がした。

 返事をしようとしたが、喉が張り付いて声が出なかった。

 たすけて、と口を動かす。声に出たかはわからないが。

 足音が近づいて、何者かが自分に触れたのが分かった。呼吸が苦しくて意識を保てなくて、それが誰かまではわからなかった。

 周囲が騒がしくなる。それに反して、意識は急速に追いやられていく。

 たすけて、ともう一度つぶやいた。

 誰かが力強く、自分の身体を持ち上げてくれたような気がした。


++


 余命を宣告されたとき、雪野原紫乃ゆきのばら しのは自分の死を実感するまでにだいぶ時間を要した。

 身体中を蝕む痛みに、嫌な予感はしていた。けれど、余命を宣告されるほどのものだとは思っていなかった。宣告されて、身体から気力というものが失われていくのがわかった。

 自分の人生は大したものではなかったのだなと、病室のベッドに座りながら紫乃は考える。

 そこに悲哀はなかったと思う。諦めという気持ちが近い。


(……私ってなにをしたかったのかしら)


 物心つく前に両親を事故で亡くし、伯母の家に引き取られた。伯母はシングルマザーで従妹たちがいたが、彼女たちとの関係は最悪だった。

 伯母はなにか意見を言おうものなら暴力を振るったし、したくはない家事や掃除なんかはいつも押しつけてきた。そのくせ、自分の娘は甘やかす。伯母が紫乃を虐げるので、伯母の二人の娘も真似るようになった。

 紫乃を嘲笑ったし、彼女たちは紫乃を虐げることで自分たちが優位だと実感しているようだった。年齢こそ紫乃が二人より上だったが、年上の従姉をぞんざいに扱ってストレス解消にでもしていたのだろう。

 両親が遺したらしい保険金は後見人となった伯母が使っていたようで、それを大人になって知ったときには悲しみよりも呆れのほうが先に出て、なにも言わなかった。


(こうして思い返してみると、もっとやり返しておけばよかったわ。なんで我慢したのかしら)


 ただ、幼いときは一方的に虐められたが、途中からはそれも変わった。


(自分のことも他人のことも感情的にならなくていい。そうすれば、傷つかなくてすむ)


 処世術というのか。それを覚えてからは、彼女たちとの関係も変化した。

 高校に入るころには、伯母や従妹たちの悪意にも平然とできた。

 彼女たちはわかりやすくて、苦しんだり悲しんだりすると喜ぶが、歯牙にも掛けないでいると飽きてしまう。

 反抗せずに従順を示せばひどくならないことを知ったし、自分を卑下して彼女たちを持ち上げれば悪い気はしないようだった。


(それからはずいぶんと楽になったわ。彼女たちに期待しなければいいもの)


 家族に夢を抱くことはない。誰にも心を許してはいけない。


(自分の身も守れればと思って、護身術を習ったのは正解だったわ)


 アルバイトをしながらお金を稼ぎ、いくらかは家に入れたが、自分の習い事にも使った。その甲斐もあって暴力で脅せないと知ると、伯母は大人しくなった。

 高校卒業後、大学に行くお金なんてなく、学力は優秀と言われていたので奨学金制度を利用する手もあったが、大学に行ったところで目標も見つけられないと、さっさと働き始めた。家を出て自分で生活し、家族に関与されないような生活をしたかった。

 命令されて従うだけの仕事は“今までと同じだったから”楽だし、愛想笑いをして、相手を褒めて自分を卑下すれば上手く立ち回れた。


(でも、それって本当に上手くやっていたのかしら)


 今にして思う。自分の意思や言葉を飲み込むことは正しかったのかと。

 生きやすくなったこととは反対に、他人を信頼できなくなった。自分の感情を素直に誰かに伝えることは難しいことだったし、心を明かすこともできなかった。

 学校ではその場凌ぎの八方美人で立ち回ったが、本心を打ち明けられる友人など今に至るまでできなかったし、卒業後に疎遠になるのは当然だった。

 たぶん、紫乃は上手く立ち回っているように見えて、実はもう感情が麻痺していた。そして精神的に図太くしたたかになったつもりでも、ずっと積み重なっていた苦痛は消化されていなかったのだ。

 人生が面白くなくて、言われるがままに従い続けて、無理をして、ついには身体のほうが悲鳴をあげた。

 わずか二十五年。自分の人生はなんだったのか。


(もっと、好きなことをすれば良かった)


 病室の窓から見える、見事な紅葉。こうして風景を楽しむこともなかった。

 自分の人生がどこまでも哀れで愚かで、馬鹿馬鹿しいほどに惨めだ。

 入院に関する手続きを終えれば伯母が見舞うこともなく、従妹たちが顔を見せることもない。友人もいない。会社の同僚も形式程度に顔を一度出しただけ。そうしてこのまま自分は死んでいくのだろう。それならいっそ、他人はどうでも良い。自分だけでも自分を大切にしてあげたかった。


(大学にだって行って、興味のあることを知って学んで、自分の知らない場所へ行って……)


 そして美味しいものを食べて、見たことのない風景をこの心に焼きつけて。

 紫乃は、ふと視線を落とした。ベッドに転がる一冊の本。

 子供のころから今に至るまで唯一の趣味といえば読書だった。

 その中でも、紫乃が大好きだったのは歴史だ。

 歴史は自分ではないたくさんの人の生きた証。世界史も日本史も、正史も、フィクションの歴史小説だってなんでも好んで読んだ。

 今にして思うと現実逃避の意味合いもあったのだろう。けれども、歴史の中には自分が触れられない未知があって、それを辿り、知識を得るのは紫乃にとって楽しいことだった。


(世界遺産とか見て回ったりしたかったし、まだ読んだことのない本だってたくさんあったのに)


 短い自分の“歴史”が終わろうとしている、なんて。

 その事実が虚しいなんてことを考えていたときだった。

 身体中に激痛がはしり、ベッドのそばにあったナースコールに手を伸ばす。呼吸ができない、視界が薄れる。直感的に死ぬのだと、理解した。

 なんてあっけない自分の歴史なのかと自嘲したはずなのに——。


++


 まず最初に感じたのは嗅覚。優しい花の香りがする。

 ゆっくりと瞼を持ち上げると木目の天井が見えた。身体全体を覆う薄手の布がやけに重い。


(ここは、)


 また場所が変わったらしい。たぶん、誰かの家。そこで自分は寝かされているようだった。

 未だ身体は熱を持っているが、先ほどよりは和らいでいる気がする。紫乃は朦朧としながらも周囲を探った。

 近くには誰もいないと考えたところで、扉の開く音が聞こえた。

 近づく足音が、すぐそばで止まる。


「あ、起きたのか? 気分はどうだ?」


 そう言って顔を覗き込んできたのは、十代の青年のようだった。

 鮮やかな赤い髪にまだ幼さを残しながらも精悍さがある整った顔立ち。

 髪の色は、まぁ、やんちゃな子が染めているくらいにしか思わないが、瞳は黄緑色のような色合いだ。カラコンにしては、あまりにも自然に青年に馴染むその瞳。そして、正確な年齢はわからないけれど、年齢に見合わぬしっかりとした体躯。なにか格闘技でもしているのだろうか。


 その青年は、紫乃の額に手を伸ばして布を取り上げると、水に浸してよく絞ってから再び紫乃の額に布をのせる。

 冷たい布が気持ちが良くて息が漏れる。誰だかは知らないが、きっと彼が助けて看病してくれているのだろう。

 ありがとう、と口に出そうとして、気管が痛んで紫乃は咳き込んだ。


「無理に話さないでいいって。だいぶ落ち着いたとはいえ、熱が治まったわけじゃねぇし。……あ、起きたら水分を取らせろって兄貴言ってたよな」


 青年は、近くに置かれた水差しからガラスのコップに水を注ぐ。


「水を飲んだほうがいいんだって。起き上がれるか?」


 額の布を取って紫乃のほうに片手を差し出してくるので、手を借りて身を起こすと、咳が漏れたし体が軋んだが、起き上がれないほどではなかった。

 ベッドに座ると、青年が背中を支えたままコップを渡してくれる。

 飲み干して、ほうと息をこぼす。地面に転がっていたときより身体が軽い。身体を締めつけていた衣服から解放されたのに気づいた。

 紫乃が身体を見下ろすと、白い簡素な服を着ていた。

 腰元を強く締めつけていた感覚はなくなっているのが、ありがたい。

 あれはなんだったのだろうとぼんやり紫乃が考えていると、なにを察したのか、青年の頬が赤くなった。


「着替えさせたのは俺と兄貴じゃねぇから! あの、おばさんに来てもらってドレスを脱がせて服を着せたから、その。兄貴が傷の手当てをしたときも、ちゃんとおばさんが隣に座って、おばさんが兄貴の指示を受けて包帯を巻いたし兄貴も絶対に見てねぇし、その、だから」


 あまりにも一生懸命弁明するので、紫乃は思わず笑みがこぼれた。

 慌てふためく姿がかわいかったので。


「別に自分の身体が見られたところでなんとも思わないから気にしないで」

「いや、そこは気にしたほうがいいと思うんだけど……」


 実際、あの身体を締めつけていたものがなくなったことのほうが重要だ。だいぶ呼吸がしやすいし、動きやすい。というか、あれはドレスだったのか。病室にいたのにドレスを着て地面に転がっていたなんて、どういう状況だ。

 息を吐いたところで咳が漏れ、青年が慌てるので、紫乃は手を借りて大人しくベッドに横たわった。確かに彼が言うように熱が治まったわけではないらしいのは、重だるい身体の感覚からわかる。

 改めて冷やした布を額に当ててくれるので、紫乃は青年を見上げると。


「ありがとう、あなたが助けてくれたのよね?」

「俺だけじゃないよ、兄貴も。手当ては兄貴がしたんだ。兄貴は医者みたいなもんだから」

「医者みたいなもの?」


 それはどういう意味だろうと不思議に思っていると、開きっぱなしの扉からもう一人の気配。


「資格があるわけじゃない。だから医者ではない」


 そんなことを言いながら歩み寄ってきたのは、いわゆるアッシュグレーだったか。暗めの銀の髪の青年だった。

 印象的なのは、その闇夜でも輝くだろう意志の強そうな金色の瞳。彼もまた目鼻立ち整った顔立ちをしていて、赤い髪の青年よりも年齢が上なのはわかった。そっくりと言うほどではないが、パーツが少し似ているところを見ると、青年が度々口にしている“兄貴”なのだろう。

 案の定、赤い髪の青年——おそらく弟は、近づいてきた兄に安心したように。


「兄貴! この人の熱だいぶ下がったみたいだ」

「そうらしいな」


 そう言って見下ろしてくる兄のほうは、弟と違ってあまり友好的ではない視線を向けてくる。

 弟のほうは素直に心配してくれているみたいだが、こっちは違うみたいだと紫乃は直感で感じ取った。とはいえ、助けられたのは事実なので。


「……あなたにも助けてもらったみたいね。ありがとう」


 猜疑的な視線に、紫乃は微笑んでみせた。あいにくと友好的ではない相手の対応には“馴れて”いるので。

 兄のほうは、素直にお礼を口にした紫乃を不思議そうに見つめ、やがて息を吐いた。


「俺はこいつに言われて手伝っただけだ。運が良かったな、俺たちが森の奥に用事がなきゃ誰も気づかなかっただろう。あのまま放置されていたらどうなっていたか」


 それは彼の言うとおりで。そこに関してはとてつもなく助かったので、素直に感謝の気持ちしかないと考えたところで喉からせり上がってきた咳が漏れた。


「けほ、けほ、ごほ」


 痛々しい咳が出てしまったので、弟のほうが大丈夫かと問いかけてくる。

 答えようとしたが、兄のほうが手を伸ばしてきて紫乃の首筋に触れると。


「まだ寝ていたほうがいい。食事は、……後のほうがいいな。今はとにかく寝るべきだ」


 淡々とした声で指示をする兄のほうに、紫乃は苦笑いを浮かべた。


「そう、みたいね。ごめんなさい、場所を借りてしまって」

「いいんだって、大変なときはお互い様だっていうし。大したもんは用意できねぇけど食べやすいもの用意しておくし!」


 冷めた態度の兄を押しやってそう明るく言ってくれる弟のほうに、紫乃は微笑みを浮かべた。

 対応できるのはそこまでだった。意識が遠のいて、自然と眠気が襲ってくる。抵抗する気力もなく、紫乃は身体が命じるままに目を閉じた。





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