別邸の主④
実家にいた頃──家中の装飾品や家具が運び出され、閑散としてしまった部屋に使用人が摘んできた花を飾っていた。
最初は奇麗だと眺めていた花は徐々にしおれていき、最後は枯れて崩れ落ちた。
美しかったのは一瞬で、摘んできた使用人すら覚えていなかったが、幼いアメリアを楽しませてくれた。
……なぜ、今になってそんなことを思い出したのか。
髪についた花びらを取ってくれた女性を前に、アメリアは呆然と立ち尽くしていた。周囲を取り囲んでいた花は、いつの間にか元の位置に戻っていた。
「侯爵家には来たばかり?」
「え、あ……はい、つい最近入ってきたばかりです」
嘘は言っていない。
アメリアを新しく入ったばかりの使用人だと勘違いする彼女に、自分こそがヴェンツ侯爵夫人だと。貴女を愛する男性の妻になった女だと、事実を告げるつもりはなかった。自分の身を守るためにも。
「私はジェナよ。貴女の名前を教えてもらえる……?」
先ほどまでの表情とは違い、無理に笑った顔で尋ねてきた女性──ジェナに、アメリアは初めて疑念を抱いた。
よくよく見れば、ジェナは寝間着にガウンを羽織り、足元は裸足だった。寝室からそのまま抜け出してきたような恰好に、悪い予感がする。
「私は、──……」
ここで本当の名前を名乗るべきか。正体がバレたりしないだろうか。一瞬の内にいくつもの考えが浮かぶ。
しかし、アメリアが答えるより先に、ジェナがいきなり胸を押さえて咳き込んだ。
「ごほ……っ、ごめ、……さい、ちょっと……」
「だ、大丈夫ですか!? 誰か呼んで、……っ」
地面に膝をつくジェナに、アメリアもまたしゃがみ込んで彼女の容態を窺った。
ジェナの顔色は血の気がないほど真っ青で、喉がヒューヒューと鳴っている。
けれど、アメリが他の人を呼びに行こうとするも、ジェナは必要ないと首を振った。とても平気そうには見えなかったが、人を呼ばれることに何か不都合があるのかもしれない。
そうしている間に、ジェナは上体を起こしていることもできなくなっていた。
アメリアはジェナの正面に跪き、彼女の肩を支えた。
近くに寄られた時から何となく気づいていた。
生まれ持った能力のせいだろうか──アメリアは、ジェナの死期が近いことを知った。枯れるのをただ待つ花のように、彼女の命は間もなく散ろうとしている。
アメリアは夫となったカルロが、なぜあのような契約を提示してきたのか理解した。
彼もまた、追い詰められていたのだ。選択の余地もないほど切羽詰まった状況に立たされ、たどり着いたのがこの契約結婚だった。今にも死にそうな彼女を守るために。
もし、ジェナを失うことになったら、カルロはどうなるだろう。
このために契約を結んだ自分は……。
「────……ジェナさん、失礼しますね」
苦しむジェナを見つめたアメリアは、小刻みに震える彼女の両手を取った。すでに意識が朦朧としているジェナに呼び掛けても、返事はなかった。
それはそれで都合が良かった。
アメリアはジェナの両手を握り締め、目を閉じて集中した。
実家にいるときは自分の能力に気づいても、ひた隠してきた。
両親に見つかれば搾取子にされ、家から逃げられないように閉じ込められていたからだ。伯爵家で働いているときも、極力能力は使わなかった。
このことを知っているのは弟のオスカーと、オスカーの保護に尽力してくれた弁護士だけだ。
でも今は、目の前の相手を助けるためにアメリアは動いた。
「自然界を守る精霊様に、私の声を届けてください。私の願いに応じてくださるなら、ここに癒しの力を求めます──」
子どものとき、一度だけ大怪我をしたオスカーに能力を使ったことがある。その時は無我夢中で、どんな呪文を唱えたかすら覚えていない。口にした呪文が正しかったかどうかも定かではない。
しかし、その後に分かったのは、呪文はあくまで集中を促すもので唱える必要はなかった。それでも久しぶりに使うからか、無意識に出てしまっていた。
アメリアが深い集中に入ると、強い風が吹いて花が揺れた。花壇の土が盛り上がり、晴れた空からぽつり、ぽつりと雨が降ってきた。
不思議な力が、繋いだ手を通じて流れていくのが分かる。完治とまではいかないが、今の状態を和らげることはできるはずだ。
「かは……っ、は、はぁ……今、のは……?」
胸を押さえていたジェナは、詰まっていた息を吐き出すと安定した呼吸を始めた。彼女は突然起こった体の変化に驚き、アメリアの顔をまじまじと見つめてきた。
アメリアはすぐに答えることができず、ただ申し訳なさそうに笑った。
しばらくすると、こちらへ走ってくる足音がいくつも聞こえてきた。
どうやらジェナを捜しに来たようだ。そこに、自分を迎えに来てくれた人がいないことは、アメリアが一番よく知っていた。