契約結婚③
侯爵家の人間と関わらなければ、アメリアの生活は平和そのものだった。
正確には、時間だけがただ過ぎていくだけの日常だった。
働く必要がないとは言え、これまで嫌なことを忘れるほど忙しく働いてきたせいか、暇すぎるのも苦痛を覚える。
余計なことを考えてしまうからだろう。
その大半は良くないことばかりで、とくにアカデミーで過ごすオスカーのことが気がかりだった。連絡手段は手紙に限られており、結婚したことはまだ伝えていない。
このことを知ったらオスカーは憤るか、自分のせいだと悲しむはずだ。
アメリアは弟の反応を予想して嘆息した。
……結婚の報告はもう少し経ってから伝えよう。今は気軽に手紙を出すこともできないのだから。
アメリアはふるふると首を振り、体を預けていたソファーから立ち上がった。
やはり体を動かしている方が性に合っている。とは言え、侯爵邸でアメリアが行動できる範囲は限られていた。
部屋から出るときは専属メイドに必ず声をかけなければいけない。それからどこへ行くのも使用人が目を光らせ、庭や図書室へ足を運ぶのも一苦労だ。
ぴったりと後ろをついてくるメイドに「外を散歩したいのだけど」と言えば、あからさまに嫌な顔をされた。それでもメイドは渋々、アメリアを庭へ案内してくれた。
大陸を支配する三つの国、貿易大国フロイント、資源大国ツィンゲル、農業大国ノールデン──それらの国は近隣諸国を呑み込み、強靭な大国を築いた。
だが、戦争によって奪われた命も多く、中でも魔術師や特殊な異能を持った者たちは欠かすことのできない戦力だったため、半数以上が犠牲になった。
そこへ、当時大陸の中心にあった魔塔の主が各国に掛け合い、魔術師をはじめとする異能者たちの保護を目的とした教育機関を設立した。
それが、エルドラド・アカデミーである。
そして現在、身分に関係なく能力者たちが集うアカデミーは、底の見えない軍事力を所有しているとも言われ、三つの国の均衡を保つ存在にもなっていた。
だが、アカデミーを重要視しているのは各国の王室と上級貴族ぐらいで、それ以外の民は気にも留めていない。直接関わりがなければアカデミーは謎めいた団体であり、属する領主の顔色を窺うのは今も昔も変わりなかった。
アメリアが暮らしているのは、資源大国ツィンゲルだ。
鉱物や森林などの天然資源が豊富で、とくに他国が狙っているのは魔力を含んだ魔水晶である。魔力がない者でも魔水晶を用いて作られる道具によって、より便利で、より快適な暮らしを送れるようになった。
他国では貴族や、裕福な商人までしか出回っていないが、ここツィンゲル大国では平民でも魔道具を使っている。
魔水晶の流通と魔道具の普及に尽力した一人が、初代ヴェンツ侯爵である。侯爵家は魔水晶をはじめ、いくつもの鉱山を所有していた。そのため王室との繋がりも深く、巨大な富を築いていた。
現にカルロの母親であるヴェンツ前侯爵夫人は、ツィンゲル国の第二王女だった。前侯爵を亡くしてから侯爵領に隠居してしまったが、今もなお彼女が社交界にもたらす影響力は絶大だ。
カルロがなぜ愛する女性とではなく、アメリアのような貧乏貴族と結婚するに至ったのか、それは彼の母親が関係しているのではと睨んでいる。
「伯爵家で使用人をしていた癖かしら」
皆が話している噂話に聞き耳を立て、自分に関係ないことでも状況を推測してしまう。
それは幼い頃より常に最悪な場合を想像し、自分が考えるより悪いことは起きないだろうと自己防衛によって培われたものだった。
おかげで危険を回避できなくても精神的ダメージは最小限で済んでいる。ただ、消極的な思考に陥ってしまうのが問題だ。
そんな時は、何も考えず外を散策するのが一番だ。
メイドに案内された侯爵邸の庭は、感嘆の声をもらすほど美しかった。
首都の邸宅はどこも土地に限りがあるため狭くなりがちだが、それでも侯爵家の邸宅は四方を高い壁に囲まれ、豪邸を飾るに相応しい庭園が広がっていた。
アメリアは花壇に沿って歩いた。
一目見るだけで手入れが隅々まで行き届いているのが分かる。実家の庭は、庭とは呼べないほど雑草が生い茂っていたから。
そのまましばらく歩いていると、鮮やかな花が咲いている花壇にやって来た。アメリアが足を止めて花に近づくと、風も吹いていないのに花が揺れた。
後ろに控えたメイドを窺うと、退屈そうにしてこちらを見ていなかった。
アメリアはそっと花に手を伸ばした。すると、花の茎から緑色の蔦が伸びてアメリアの指先に触れた。他にも花壇の土がポコポコと動き、音を奏でているようだった。
けれど、気分転換もつかの間、男の太い声がアメリアの背中に飛んできた。
「ああ、こらこら。花壇の花に触れんでくれっ!」
反射的に振り向くと、作業服に土をつけた大柄の男が大股で近づいてきた。アメリアは花に近づけていた手をさっと戻した。
「困るんだよ! これはジェナ様の、当主様が大切にしている方のために育てている花だ。よそ者が勝手に触って、花がダメになったらどうしてくれるんだ!」
庭師の男は怒りを含ませた表情で声を荒げた。
控えていたメイドは助けに入るどころか、見て見ぬ振りをしていた。むしろ、叱られるアメリアを眺めて満足そうな顔を浮かべている。良い気味だと思っているのだろう。
「ごめん、なさい……気をつけます……」
アメリアは男に謝罪し、花壇から離れた。
さすがにそのまま居座ることはできず庭から出て行こうとすると、まだ近くにいたにも関わらず、男の悪態つく声が聞こえてきた。
一方、アメリアが去っていった庭では、花壇の花が名残惜しそうに揺れていた──。