その愛、最後まで。①
『私には他に愛する女性がいる。夫婦になっても私からの愛は期待しないでくれ。お互い契約で結ばれた関係だということを肝に銘じておくように』
婚前契約を結ぶとき、これから夫になる男がそう言った。
夫婦にはなるが、妻として見ることはないと。
最初から期待していなかった結婚──下手に希望を持たされるよりは、良かったのかもしれない。
逆に条件を問われたとき、「それならば」と。アメリアの出した条件は至極単純なものだった。
葬儀の翌日、カルロは真っ先にアメリアの元を訪れ、昨晩の無礼を謝ってきた。愛する人を失った悲しみから飲みすぎてしまったのだろう。アメリアは素直に彼の謝罪を受け入れた。
それから一日、二日……と、皆が喪に服した屋敷の中はあまりに静かで、使用人とも必要以上に顔を合わせることはなかった。とくにカルロとルーカスは部屋から出てこず、おかげで楽に準備を進めることができた。この屋敷から出ていく準備を。
三日が経った頃、部屋の窓に黄色の綿がふわふわと飛んできた。待ちに待った知らせだった。
しかし、廊下から人の声がして反射的に振り返った。と、扉がノックされて「私だが、入ってもいいだろうか」とカルロの声がした。
「……どうぞ、お入りください」
アメリアが扉に近づくと、泣き腫らした目にやつれた顔のカルロがドアを開けて立っていた。彼はおもむろに「久しぶりに、一緒に食事でもどうだ?」と誘ってきた。
ここ数日、ろくに食事もとっていなかったのだろう。それを見かねた使用人が気を利かせて「奥様とご一緒に食事をされてはいかがですか?」と言ったのかもしれない。
愛人のジェナが亡くなってから、ようやくカルロの妻として見てもらえるようになるとは、実に滑稽な話だ。アメリアは口をきゅっと結び、首を振った。
「──申し訳ありませんが、お断りします」
そう言ってカルロの誘いを断ったアメリアは、一歩後ろに下がった。
断られると思っていなかったカルロは戸惑いながら部屋に入ってきた。その時、彼はアメリアの部屋がすっかり片付いていることに気づいた。元々部屋にあった物以外、アメリアの私物が綺麗さっぱりなくなっていたのだ。そして、彼女の足元にトランクがひとつ置かれていた。
「これは、一体どういうことだ……?」
「ジェナさんが亡くなり、私たちの契約は終わりました。今日、ここを出て行きます」
「……そんなこと、一度も言わなかったではないか」
カルロは信じられないといった顔でアメリアを見てきた。食事に誘ってきたぐらいだ。契約結婚を終わらせ、屋敷から出て行こうとしているなんて露ほども思っていなかったはずだ。
しかしアメリアは、なぜ貴方に伝える必要があるのかと首を傾けた。
「夫人は、私を慕っているのではなかったのか……?」
「ええ、慕っておりました」
「それなら、なぜ!? これからは本当の夫婦として、一緒に過ごせばいいではないか! 私がジェナを亡くしてもこうしていられるのは、夫人のおかげだ! 以前だったら考えられなかった、だから……っ」
カルロはアメリアに近づき、半ば泣き縋るように説得してきた。
彼の後ろでは、開いたままの扉から自分たちの会話が廊下へ筒抜けだった。使用人たちが心配そうに覗いているのが見えた。
そこへ、騒ぎを聞きつけたルーカスがやってきた。ルーカスは状況を確認すると、アメリアに両腕を掴んでしつこく迫ってくるカルロを引き剥がしてくれた。
「カルロ、ひとまず落ち着け……っ」
「放してくれっ!」
ルーカスもここ最近眠れていなかったような、酷い顔をしていた。皆がジェナの死を悼み、彼女と過ごした日を思い返しては悲しみに暮れていたのだ。本気で、愛していたから。
アメリアは深く深呼吸すると、顔を上げてカルロを見据えた。
「……旦那様は私との契約内容を覚えておいでですか?」
「それは……」
「契約を交わす際、自分には愛する人がいると仰いましたよね? そして、ずっとその方を愛し続けると誓いました。ですから私は、もしそれを破ったときは離縁させていただくとお伝えしたはずです」
「待ってくれ、私は変わらずジェナを愛している。たとえ、この世から去ってしまっても彼女を……!」
「でしたら私に何も求めないでください。愛も、体も、心も──何もかも」
夫であるカルロの愛人を受け入れる代わりに、最低限の生活の保障と、アメリアを妻として求めてくることはないよう条件に書き込んだ。
あの時は本当にそれでいいのか確認されるほど、彼の中でそんなことは絶対に起きないと高を括っていたのだろう。愛する人がいるのに、他の女性に手を出すわけがないと。
ただ、お互いに誤算があったとすれば、その愛人が余命わずかだったこと。そして、不治の病だと思っていた愛人の治療を、契約上の妻が行えたこと。そのせいで、契約結婚の二人に微妙な変化が訪れたことは確かだ。
けれど、愛人だったジェナがいなくなった今、契約は白紙となってアメリアを縛るものは何もなくなった。
「それから、私が慕っていたのはジェナさんを心から愛する旦那様であって、旦那様自身ではありません。愛人の存在を隠すために、契約に逆らえないような貴族令嬢を妻に迎えるような男性を、どうして愛せるというのでしょう──」
「……っ、君は、私を謀ったのか!」
彼は、本気で自分が慕ってもらえていると思っていたのか。
純粋に驚いた表情を浮かべると、カルロは顔を真っ赤にさせて声を荒げた。今にも飛びかかってきそうな勢いだが、ルーカスが必死に取り押さえてくれているおかげで助かった。
刹那、後ろの窓が激しく揺れて勝手に開いた。
「やあ、迎えに来たよ──銀貨の君」
外の風が流れ込んできた瞬間、窓辺に一人の青年が降り立った。
風によって視界は遮られたものの、声の主が誰かなど確かめる必要はなかった。アメリアを「銀貨の君」と呼ぶのは一人しかいない。
目を開けば魔導士らしい外套を纏ったウォーレンが、この日を待ちわびていたかのように手を差し伸べてきた。