契約結婚②
……幼い頃から十分な食事をとってこなかったせいだろうか。
傷んだ薄紫の髪に、生気のない灰色の瞳、病人のように青白い顔、がりがりにやせ細った娘が姿見鏡の前に立っていた。アメリアである。
これでも働いていた伯爵家では、周囲から驚かれるほどよく食べていたのに、肉付きは良くなかった。男性が好む部分は、もちろんぺったんこだ。おかげで、良くも悪くも男性から言い寄られることはなかった。
「高価なドレスより、使用人服のほうが似合っているわね」
ヴェンツ侯爵家へ嫁ぐ日、伯爵家が退職金と併せて青色のドレスをプレゼントしてくれた。アメリアが持っていた洋服は、平民が着るようなものばかりだったからだ。
宝石も付けて見栄え良く着飾ってくれたが、せっかくのドレスが不憫に思えてならない。
それでも伯爵家と元同僚たちに見送られ、アメリアは侯爵邸にやって来た。
馬車から降りると出迎えてくれたのは白髪の老執事とメイドが二人。歓迎されていないのは明らかだった。
老執事はアメリアが運んできた手荷物の少なさに驚いていたが、追及はされなかった。
「アメリア様が侯爵邸で過ごされるお部屋へご案内いたします」
書類上はすでにヴェンツ侯爵夫人になっている。
カルロは大々的な公示を避けるため結婚許可証をとり、教会での挙式を早々に行った。挙式といっても参列者はおらず、神父の前で誓いの言葉を述べ、結婚誓約書にサインをして終わりの味気ないものだった。
それでも立場は侯爵家の女主人である。
しかし、老執事がアメリアを「奥様」と呼ばなかったのは、彼を筆頭に使用人全員がアメリアの存在を認めないということに他ならない。
案内された部屋が夫婦の間でなく客間であれば尚の事、アメリアの立場は良くて客人、悪くて厄介者ということだ。
「御用がある際は、ここへいるメイドにお申し付けください」
通された部屋に、嫁いできたアメリアのために用意された物は何一つなかった。後ろでは、手荷物を運んでくれたメイドがクスクスと笑っていた。
結婚の条件を提示されたときから分かっていたではないか。
──これが契約結婚であること。
夫からの愛は望まないこと。公の場において侯爵夫人の役目を果たすこと。侯爵家の内情を外部へ漏らさないこと。侯爵家に泥を塗るような行動は慎むこと。
そして──別邸には絶対に近づかないこと。
他にもいくつか決まり事を並べられたが、すべて覚えていられる自信がなかった。
ただ、お飾りの妻でいることが、アメリアが侯爵家で暮らしていくために、最も重要な項目だと気づかされた。
期待せず、望まず、求めず、ただ大人しく息を潜めて過ごすことが、最善の方法であると……。
侯爵邸で暮らし始めて数日、アメリアは様々なことに気をつけなければいけなかった。
朝早くノックもなしに入ってくるメイドに、あらかじめ心の準備をしておかなければいけない。顔を洗う水は冷たく、タオルは時々生乾きの臭いがして息を止めながら使わなければいけなかった。数着しか持ってこなかった洋服は洗濯に出すとどこか破れており、着る前に確認する必要があった。
その中でも、とくに注意しなければいけなかったのが食事だ。
夫となったカルロとは挙式以来、顔を合わせていない。
当然食事に誘われたことはなく、常に運ばれてきた食べ物を部屋でとっていた。それを食べ物というなら、そうなのだろう。
しかし、実際はカビの生えたパンや、火を通さなければいけないものが生焼けであったり、腐ったものが混ざっていたり、盛られた食事が異常に塩辛かったり、味がまったくしなかったりすることもあった。飲み物も雑巾を絞ったような臭いがして吐き気を催した。
普通の貴族令嬢だったら発狂していたかもしれない。悪意が込められたそれらに、泣き出して実家へ帰っていたことだろう。
──けれど、アメリアは違った。
彼女の場合は、実家こそ危険な場所だと考えていた。
ここは実家と違い、柔らかな絨毯の上に高級な家具が揃えられ、ベッドには暖かな布団があり、食事だって嫌がらせさえなければきちんと三食出してくれる。
それから湯浴みもできて、朝から晩まで働くこともなかった。
両親に放置され、使用人たちから罵声を浴びることもなければ、幼い弟と身を寄せ合いながら、明日も無事に生きられるか考えなくても良かったのだ。
侯爵邸の人間は、アメリアがこれまでどのような環境で育ってきたか知らないだろう。
そして、彼女の持つ特別な能力も……。
食事が不味いのは残念だが、パンが出るだけ贅沢だ。腐った食べ物も害を成さなければ関係ない。味だって我慢すれば済むこと。
メイドは顔色ひとつ変えず食事をとるアメリアに、正気を疑うような表情を浮かべたが、そんなことで体を壊すような娘だったら幼少期のうちに命を落としていたはずだ。
「ご馳走様。それから食後のデザートとお茶も出してもらえるかしら?」
アメリアはどんな境遇にも耐えられる体をくれた神に、感謝せずにはいられなかった。