契約結婚①
※本作品は一部、流血表現などが含まれます。
大丈夫な方、また他の作品を読んで分かってるよーな方のみ、ゆるやかにお進みください▼
「──先に言っておくが、私には他に愛する女性がいる。夫婦になっても私からの愛は期待しないでくれ。お互い契約で結ばれた関係だということを肝に銘じておくように」
一級品の家具で統一された応接間に、不釣り合いな一組の男女。
二人の間に挟まれたテーブルに置かれた二枚の書類。
どちらも同じ内容が書かれていることを確認すると、アメリア・フローデンはその両方にサインした。
『婚前契約』──これから夫婦になろうとする二人が、結婚してからの約束事を取り交わす契約のことだ。
とくに多くの財産を所有する貴族同士の結婚では当たり前にある。
仕事、日常生活、子供、離縁の条件、財産分与……交わす内容は夫婦それぞれだ。場合によっては同衾の回数や日にちまで決めることもある。こうしてお互いの希望を結婚前に伝えることで、二人の結婚生活がより豊かに、満足のいく関係を築けるというわけだ。
しかし、それは夫婦となる二人が身分差もなく、同じ立場で交わす契約での話だ。
「──終わりました、侯爵様」
書類の一番下に署名したアメリアは、借りた万年筆をテーブルに置いた。
すると、片方の書類を手に取った男は、アメリアの綴った名前を確認した後、
「それで、君の希望はこれでいいのか?」
と、尋ねてきた。
意外に優しいところもあるものだ。わざわざ口の出せない結婚相手を選んでおきながら、最後の最後に確認してくるとは。
どうせ、逃げ出すことは出来ない。彼の言いなりになるしかない。提示された条件は全て呑むしかない。
──今更気遣われたところで、何になるのだろう。
「はい。私の条件はそちらでお願いいたします」
アメリアは背筋を伸ばし、改めて夫となる男を見つめた。
「侯爵様の私生活を邪魔するつもりはありません。また愛する女性が他にいても構いません。私は人並みの生活ができれば、それで十分でございます」
ですから、どうか──その愛、最後まで貫いて下さい……旦那様。
★★
フローデン子爵家の長女、アメリア・フローデンは貴族でありながら、貴族らしい暮らしをさせてもらえなかった令嬢だ。
歳は二十歳。だが、結婚適齢期を迎えても彼女には婚約者すらいなかった。
理由は明白だ。フローデン子爵家は先代の頃から次々に事業に失敗し、没落寸前の貧乏貴族に成り下がったからだ。
負債を抱えた子爵家は、所有していた土地などを手放さなくてはいけなくなり、屋敷にあった絵画や骨董品を売りながら爵位と、首都の郊外にある邸宅だけは辛うじて維持してきた。
使用人は他に行く場所のない者たちだけ。それも給金が滞っており、いつ辞められてもおかしくなかった。
それにも関わらず、フローデン子爵夫妻は自分たちの置かれた立場を理解出来ていないのか、それぞれ愛人を作っては遊び歩いていた。彼らは至るところから金を借りて、外出先では派手に着飾り、貴族らしく振る舞っていた。
おかげで家門の借金は増えていくばかりだ。
一方、アメリアと五歳年下の弟オスカー・フローデンは、両親のいない邸宅でいつもひもじい思いをしながら生活していた。食事は一日一食あるかないか。身支度や部屋の掃除は自分たちで。あとは二人で寄り添うように生きてきた。
そのような環境下にも関わらず、幼い二人が病気や怪我もせず今日まで無事に過ごして来られたのは奇跡に近かった。医者に通う金すらなかったのだから。
立場は貴族。けれど、その生活は平民以下、もしかしたらスラム街の子供と同等かもしれない。
ただ、そんな苦難にも負けず乗り越えてきたからこそ、姉弟の絆はどこよりも深かった。
アメリアは自分より弟のオスカーを優先し、オスカーもまたアメリアを心から慕っていた。二人だったから、何度も折れそうになった心を支え合うことが出来たのだ。
そんな二人に転機が訪れたのは、アメリアが十六歳になった頃だ。
十一歳を迎えたオスカーに、この大陸では珍しい精霊術の力が発現した。
対価を必要とする魔法や魔術とは違い、自然界の精霊から力を借りることで様々な恵みを生み出す希少な存在──それが、精霊術師だ。
目覚ましい覚醒を遂げたオスカーは、三つの国に囲まれたどの国にも属していない全寮制のエルドラド・アカデミーに通うことが決まった。そこはオスカーのような精霊術師を始め、各国の推薦を受けた優秀な生徒が入学できるアカデミーだ。
オスカーは当初アメリアと離れることを拒んだが、アメリアは弟の将来を考えてアカデミーに行くよう言い聞かせた。
本来、十五歳から通うことを許されているアカデミーでは、教育とは別に異能を持った子供の保護活動も行っていた。
特別な力を保有すれば、それだけ危険に晒される。とくに自分の身を守る術を持たない子供は、その対象になりやすい。そこで十五歳に満たない子供は教会や国に助けを求めたり、弁護士を立ててアカデミーと交渉したり、保護を要請することができた。
フローデン子爵家はいつ破綻しても不思議ではない。
今度こそ屋敷から追い出されるかもしれない状況で、オスカーだけでも安全な場所に置いておきたかったのだ。まだ十一歳のオスカーには酷だったかもしれない。けれど、オスカーも最後は納得して涙を堪えながらアカデミーに向かう馬車に乗ってくれた。
そして、オスカーが屋敷から出て行った日、アメリアもまた屋敷を出た。
アメリアは前もって子爵家の親戚である、とある伯爵家に手紙を出し、働き口の斡旋をお願いしていた。すると、その伯爵家でメイドを募集しており、アメリアは暫くその屋敷で働くことになった。
それから四年──。
仕事にも慣れ、メイド仲間とも楽しく過ごしていたアメリアの元に、お世話になっていた伯爵家から突然縁談の話を持ちかけられた。
相手はヴェンツ侯爵家の若き当主、カルロ・ヴェンツだ。
彼の話はたびたび回ってくるせいか覚えている。伯爵邸のメイドをやっていれば、嫌でも社交界の噂は耳に入ってきた。
つい最近、彼の父親である前侯爵を病気で亡くし、爵位を受け継いだばかりだ。
上位貴族にも関わらず、彼もまた婚約者がいなかった。アメリアのような事情があるわけでもないのに、侯爵家の一人息子とあれば年頃の娘を持つ家門がこぞって求婚の手紙を送ってくるはずだ。なのに、彼は二十五歳になった今も独りを貫いていた。
「どうして、私に……」
話を聞かされたときは選ぶ相手を間違ったのだろうと思ったが、結婚するにあたって条件を提示されるとアメリアは納得した。
カルロはアメリアの実家であるフローデン子爵の借金を肩代わりする代わりに、肩書だけのお飾り妻になることを求めてきた。
彼はアメリアの身の上を知ったからこそ、敢えて求婚してきたのだ。
初めから選択の余地はなかった。
傾く子爵家を建て直すことができれば、オスカーが爵位を継ぐことになっても大きな負債まで背負うことはなくなる。当然、それまで両親が新たな借金を増やさないことが前提ではあるが。
アメリアは多少の不安を抱えながらも、結局伯爵の強い押しもあって断ることができなかった。
そして、夫となるカルロと婚前契約を交わした後、アメリアは売られる形でヴェンツ侯爵夫人になった。