精霊術師⑤
ガシャン、と音を立てて、床に投げつけられたグラスが割れた。
別邸の一階にある部屋のひとつ。カーテンが閉め切られたそこは薄暗く、薬品の臭いが充満した場所だった。
「──こんな薬で、私の病が治るわけないじゃない……っ!」
別邸のすべてを与えられた女性は、一日の大半をベッドの上で過ごしている。
ある日、両親を失って悲しみに暮れる彼女を、高級な服を着た男性が迎えにやって来た。ヴェンツ前侯爵である。彼のおかげで、ジェナは弟のルーカスと共に侯爵邸で暮らすことになった。
前侯爵はジェナたちを我が子のように可愛がり、姉弟の生活は一変した。食事も、洋服も、教育も、貴族の子供と変わらない扱いを受けてきた。
しかし、前侯爵夫人はそれを快く思わず、使用人を使ってはたびたび嫌がらせをしてくるようになった。
前侯爵夫妻の仲は常に険悪だった。よく言い合っている二人を目撃した。
一方、ジェナの両親は、ルーカスが生まれた辺りからどこか余所余所しくなった気がする。まるで、仮面を被った夫婦のように振る舞っていた。
子供の頃は、その理由が分からなかった。
彼らが仲たがいしていた原因を知ったのは、随分と後になってからだった。
「ジェナ、ジェナ……! 頼むから、これを飲めば少しは楽になるからっ」
親の身勝手な行動によって、犠牲になるのはいつだって子供だ。
前侯爵に似ているという理由で、前侯爵夫人から一切の愛情を受けてこなかったカルロは、今はこうしてジェナにすがりついている。彼にとって、家族と呼べる者はジェナとルーカスだけだ。
彼が盲目的にジェナを愛するのは、他に手を差し伸べてくれる人がいなかったからだ。たった一人の後継者として、侯爵家の重圧を背負ってきたカルロは、ジェナとルーカスだけが心の拠り所だった。
そして、ジェナもまた──弟以外では、カルロしかいなかった。
前侯爵が亡くなった後は、カルロだけが唯一の味方だった。侯爵家で生き延びていくには、彼の力が必要だった。立場の違いから何度も離れようとしたが、侯爵家から出ればジェナもルーカスも簡単に消されていただろう。両親と同じように。
見えない何かが足元から忍び寄り、命を奪っていきそうで恐ろしかった。安全な場所は、カルロの隣だけだった。
けれど、すでに魔の手は伸びて罠にはめられ、ジェナの体は病に蝕まれてしまった。
「ごほ、ごほ……っ、はぁ、あ……カルロ、私とても苦しいの……だから、今すぐ殺して……? 貴方の手で死ねるなら……嬉しいわ」
「ジェナ、ダメだ! そんなこと言わないでくれ、私が君を殺せるわけないだろ!?」
ジェナは激しく咳き込み、血を吐いてシーツを赤く染めた。
胸が締め付けられるように痛み、息ができないほど苦しくて、体中がバラバラにされていく気分だ。
それでもジェナは上体を起こし、手を握り締めてくるカルロの両手を取って自分の首元に運んだ。
「……簡単よ、──ね?」
カルロはこれまでジェナの頼みなら何でも聞いてくれた。
ジェナたちの両親の命を奪ったのが自分の母親かもしれないと疑うようになってからは、一層優しくなった。彼は恐れていたのだ。ジェナとルーカスが自分から離れていってしまうんじゃないかと。
だが、今のジェナにはどこかへ行く力も残っていない。
──死、以外は。
「……やめて、くれ……ジェナ……っ」
カルロの手を自分の手のひらで覆ったジェナは、優しい笑みを浮かべた。
命を奪ったところで、貴方は何も悪くないと安心させるように。
一方、カルロは指に力を加えたらそのまま折れてしまいそうなほど細い首に息を呑んだ。
すぐに手を離そうとしたが、ジェナがそれを許さなかった。次第に、連日続く睡眠不足と、幾度となく繰り返される同じやり取りに、正しい判断ができなくなっていた。
彼女を失いたくないと思いながら、彼女がいなくなれば楽になれるだろうか……という考えが、頭をよぎる。
いけないことだと分かっているのに、ジェナに誘われるまま指が動いてしまう。
言いようのない感情が押し寄せて、カルロの頬に涙が伝い落ちた。
──誰か、誰でもいい。
この状況から救ってくれるなら、どんなことでも受け入れよう。そう願うことしかできなかった。
刹那、部屋の扉が勢いよく開かれ、ルーカスが駆け込んできた。
「姉さん……!」
室内に入ってきたルーカスは、一瞬ジェナとカルロの光景に愕然とするも、すぐに彼らに駆け寄って二人を引き離した。
解放されたカルロは指先に残る感触に震え、その場にへたり込んだ。
「……あの、大丈夫ですか?」
その時、頭上から声がして視線を上げた。
滲んだ視界の先には、書類上の妻が心配そうな表情で立っていた。初めて顔を合わせた時はか弱そうな女性だと思っていたのに、なぜか今はここにいる誰より心強く見えた。
カルロは必死で声を発しようとしたが、喉がカラカラに渇いて口を動かすだけで精いっぱいだった。
すると、アメリアは小さく頷いた。
「分かっております、そのために来たのですから」
声の出ない言葉をしっかり聞き取った彼女はカルロの前に立つと、胸を押さえて倒れ込むジェナに近づいた。
「ジェナさんを仰向けに。それから、窓を開けてもらえますか?」
「わ、分かりました」
焦りを滲ませたルーカスは、一人落ち着いているアメリアの言葉に従い、ジェナをベッドに寝かせてから窓を開けに行った。カーテンが開かれると、午後の暖かな日が差し込んで部屋を明るく照らした。
「……ジェナさん、私です」
胸を押さえて苦しむジェナに声を掛けたアメリアは、ふいに左手を持ち上げて手のひらを天井に向けた。
直後、外から強い風が流れ込んでくる。
それは部屋の悪い空気を浄化し、アメリアの手のひらに集まってきた。
「あ、貴女は……また、会ったわね」
「ええ、またお会いしましたね」
彼女たちが初めて顔を合わせたとき、それほど言葉は交わしていなかったように思う。なのに、二人の間に流れる雰囲気は、久しぶりに再会した友人のようだった。
「ねぇ、あの時のように、私の痛みを消してくれるかしら……?」
ジェナは吐き出した血によって汚れた手をアメリアに向かって伸ばした。
普通なら躊躇してしまいそうだが、アメリアはジェナの手を取って握り締めると、祈るように口を開いた。
「──精霊様に私の願いを伝えます。ここに癒しの力を与え、彼女の苦しみを取り除いてください」
彼女が呪文のような言葉を唱えると、窓の外にあった草木が一斉に動いて葉を揺らし、再び風が入ってきて今度はジェナの体を覆った。
カルロも、ルーカスも、目の前の光景にただ言葉を失っていた。
その中でもジェナだけが、体から消えていく痛みに穏やかな笑みを浮かべ、静かに目を閉じて眠り始めた。
アメリアは安定したジェナの様子を確認すると、握っていた手を下ろして彼女の体に布団を掛けた。
「まさか君は……精霊術師、なのか?」
カルロは、ジェナの治療を終えたアメリアの背中に尋ねていた。
この大陸では最も珍しい精霊術師。
アカデミーでは間違いなく入学資格が与えられる存在だ。数年前にもこのツィンゲル大国から精霊術師が現れたことに、上層部は大騒ぎした。国にとっては名誉なことだからだ。ただ、その精霊術師は保護対象だったため、素性などは公表されていない。
けれど、アメリアが使った治癒はまさに精霊の力だった。
「はい、旦那様がご覧になった通りです」
凄い能力を持って他人を癒やしたにも関わらず、アメリアは一つの作業を終えたような顔で淡々としていた。