精霊術師④
いつものソファーに座って図書室から借りてきた本を捲っていると、扉がノックされた。入室の許可をすれば初めて見るメイドが、アメリアのためにお茶と軽食を運んできた。
「──奥様、お茶をお持ちしました」
アメリアは緩みそうになる顔を堪え、メイドが準備してくれるのを今かと待った。
目の前には淹れたてのお茶、軽食にはサンドイッチやお菓子が並べられる。侯爵家に来てから、初めてのティータイムだ。──否、生まれて初めてだ。
美しい花が描かれたカップと、白い皿に載せられた宝石のようなお菓子に興奮が抑えきれない。
メイドが退室するまで平静を装っていたアメリアは、一人になった途端勢いよく本を閉じて、テーブルに並んだそれらを満足そうに眺めた。
これまで受けてきた嫌がらせの数々をカルロに伝えると、彼は驚くほど激怒し、本邸で働く使用人全員の調査を行った。
彼の知らないところで何が起こり、何がなされていたのか。
幸い、使用人の取り調べは公平に行われたという。
もちろん中には嘘を吐く者もいただろう。自分の身を守るために、作り話をでっちあげる者もいたはずだ。けれど、今は嘘を見破る魔道具のおかげで、使用人たちは偽りを述べることができなかった。
そして、真実を口にした彼らの処罰は迅速に行われた──。
期限を待たずして謹慎処分が解かれたアメリアは、先ほどまで図書室にいた。侯爵家の図書室だけあって中は広く、ジャンルごとに分類された本が本棚にぎっしり詰まっている。
子供の頃は文字を習うこともできず、弟に本を読んであげることもできなかった。それに、本では腹を満たすこともできなかったから。
しかし、成長してから出会った弁護士によって、知識を身につければいずれ役に立つと言われ、隠れながら弟と猛勉強した。その甲斐あって、文字が読めるようになった。本が一冊まるごと読めるようになり、そこで様々な知識も得ることができた。
アメリアは精霊に関する書物を探し、その一冊を手に取った。
自身の能力に関して、分かっていないことが多い。情報を得るにはアカデミーの図書館へ行くのが一番だが、それはオスカーの仕事だ。弟にとっても、自分自身を知る良いチャンスだ。
だから、アメリアは今いる場所で自分にできることをやるつもりだった。……時間が有り余っているというのもある。
調べる本を決めたアメリアは、廊下に出て部屋へ戻ろうとした。
それまで彼女に見向きもしなかった使用人たちが、さっと頭を下げる。急に変わってしまった邸宅の雰囲気に、アメリアは慣れなかった。
その時、廊下の奥から騒がしい声がして振り返った。
何事かと様子を窺うと、見覚えのあるメイドが髪を振り乱しながら走ってきた。彼女の後ろからは、数人の騎士たちが追いかけてくる。
メイドはアメリアの姿を見つけると、一瞬驚いたものの、すぐに目を輝かせてにたりと笑った。彼女はアメリアの専属として仕えていたメイドだった。
「ああ、奥様! 侯爵夫人……っ! 私が、私が馬鹿でした……! どうか、愚かな私をお助けくださいっ!」
「────……」
メイドはアメリアの前で跪くと、神に懺悔でもするような姿で謝ってきた。ぼさぼさになった髪に顔は傷だらけで、身に付けていた衣服はボロボロだ。
「奥様の服に針を仕込んだのは私です! ですが、それは他の使用人に言われて仕方なく! これからは心から奥様にお仕えします! だから、どうか……っ!」
異常に目を血走らせたメイドは、両手を伸ばしてアメリアのスカートにしがみついてきた。
見れば、メイドのふくらはぎが真っ赤に染まっていた。何度も鞭で叩かれたのが分かる。赤く腫れ上がったところへ、さらに鞭で打たれ続け、皮膚と肉が裂けてしまっている。動けないほどの痛みを伴っているはずだ。
「罰はすでに受けました! ですから、ここから追い出さないでください! 仕事を失って家に帰れば、私は両親に殺されてしまいます……!」
涙ながらに訴えてきたメイドは、半ば狂気じみていた。追いかけてきた騎士たちも、彼女の姿にたじろいで手を出せずにいる。
彼女もまた生まれた時から家族には恵まれなかったのかもしれない。
だが、アメリアは憐れにも見えるメイドを、ただ見下ろしていた。
「何を騒いでいるのですか」
後ろからまた気配もなく現れた男が、アメリアの横に立って肩を並べてきた。ルーカスである。彼はアメリアにしがみつくメイドに気づくと、顔を顰めた。
「騎士の皆さんは突っ立ったままですか?」
「も、申し訳ありませんっ」
ルーカスは立ち尽くす騎士に向かって声を掛けると、騎士たちは慌ててメイドを捕らえた。
悲鳴を上げて暴れる彼女を後ろから羽交い絞めにし、引きずりながら連れていくと、廊下の絨毯には血の跡が点々と続いた。これは掃除が大変そうだ。
「使用人の処罰が終わるまでは危険ですので、夫人は部屋でお過ごし下さい」
「……分かりました」
収拾がつかなくなった現場を素早く収めたルーカスは、アメリアに一礼してから立ち去った。
年齢的には彼のほうが上なのに、彼も姉を持つ弟だからか。鋭く睨まれても、まったく怖くなかった。まるで、機嫌を損ねたときのオスカーを相手にしている気分だ。
アメリアはふっと口元を緩め、部屋へ戻った。
それが、先ほど身に起きた出来事だ。大きな騒ぎだっただけに、使用人の間で広く共有されたことだろう。
──こんな形で「奥様」と認められたくはなかったけれど。
それでも豪華になった食事と、扱いが丁寧になった使用人に悪い気はしない。
アメリアはカップを手に取って、貴族夫人らしく優雅にお茶を飲む真似をした。実際は、ろくにマナーを身に付けられていないため、人前で飲み食いすることは避けなければならない。今後のことを考えれば、社交界活動を始める前にマナー全般を学ぶ必要がある。
アメリアは先のことを考えながら、ふと窓の外へ目をやった。
一瞬で生えたリンゴの木は、一晩過ぎると何もなかったように消えてしまった。ただ、夜にこっそり収穫したリンゴは消えなかった。現在、ベッドの下には大量のリンゴがある。
他の種も試してみたかったが、期限付きと分かれば慎重にならざるを得ない。
これから先、何が起きるか分からないのだから。
それでもアメリアは、一人のティータイムを存分に楽しんだ。
胃も、心も満たされてしばらく本を読みながらうとうとしていると、そこへ真っ青な顔をしたルーカスがアメリアの元へやって来た。廊下で会った時とは、様子が全く違っていた。
「……姉さんがっ」
事態を察したアメリアは、ルーカスと共に別邸へと急いだ。