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精霊術師③

 別邸のメイド長ベラは、夫に先立たれた四十歳の未亡人だ。

 一度は結婚を機に退職したが、事情を知った前ヴェンツ侯爵が再雇用してくれた。給金はどこよりも高く、断る理由はなかった。

 しかし、離れている間に変わってしまった侯爵家の内情を知っていれば──また、なぜ自分が呼び戻されたのか分かっていれば、再び足を踏み入れることはなかっただろう。


「ジェナ様、午後のお茶をお持ちしました」


 ベラの主な仕事は、別邸の主とも呼ばれるジェナの世話をすることだ。

 退職する前はジェナの先輩メイドとして彼女の教育を任されていたが、今は立場がまるで違う。


「ありがとう、ベラ」


 ベッドの上で屈託のない笑顔を見せるジェナは、昔と変わらない。

 ジェナは、前侯爵が懇意にしていた商会の娘だ。

 付き合いの深かった商会の夫妻が事故で亡くなると、前侯爵は夫妻の子供を引き取ってきた。前侯爵は友人の子供である姉弟を、我が子以上に寵愛した。

 ……それも、そのはずだ。

 商会の夫人、つまりジェナとルーカスの母親と前侯爵は、長く続く不倫関係にあったのだから。

 ツィンゲル大国では、貴族が社会的地位を示す手段の一つとして愛人を持つことがある。男性に限らず、女性も後継者を生んだ後は自由に振る舞っていることが多い。

 かと言って、すべての夫婦がそれらを黙認できていたかと言えば、決してそうではなかった。

 前侯爵の妻である前侯爵夫人は、夫の不倫にプライドが傷つけられたと嘆き、たびたび衝突している光景が見かけられた。

 元王女としての立場を考えれば、前侯爵夫人の怒りはもっともである。前侯爵はジェナとルーカスを養子に迎え入れようとしていたが、前侯爵夫人がそれを許さなかった。

 その経緯もあり、商会の夫妻を事故に見せかけて殺し、前侯爵を不治の病にして殺したのも──そして、ジェナを前侯爵と同じ病にしたのも、前侯爵夫人の仕業と口にする者が後を絶たなかった。

 火のないところに煙は立たないと言うが、証拠が何も出なかったため、噂はあくまで噂として片付けられた。

 ただ、前侯爵夫人の怒りの矛先は幼い姉弟にも向けられ、前侯爵の目が届かないところで酷い嫌がらせを受けていた。当時、まだ事情を知らなかったベラは、幾度となく間に入ってジェナたちを守った。

 ベラが再雇用された、一番の理由である。

 もし、すべてを知っていたら違う選択をしていただろう。欲を出すべきではなかった。


「今日はまだカルロとルーカスが顔を見せないの。忙しいのかしら?」

「……ええ、そのようですね」


 尋ねられたベラは曖昧に頷き、ジェナのためにベッドテーブルを用意してお茶を準備した。

 身分は同じでも、ここでは彼女がベラの主人だ。

 ジェナとルーカスの実情を知った前侯爵が、前侯爵夫人の息のかかった使用人たちを全員辞めさせたのだ。

 ある者はクビにされるだけでなく、酷い拷問が待っていた。その後、彼らは消息不明になり、密かに命を奪われたのだという噂が流れ、使用人たちは一様に震え上がった。

 以来、侯爵家では平民にも関わらずジェナとルーカスを、後継者であったカルロと同等に扱うようになっていた。全員が保身に走った形だ。


 ジェナの前にお茶とお菓子を出したベラは、一旦退室した。

 廊下へ出た途端ベラは息を大きく吸って、吐いた。ジェナのいる部屋に入ると、妙に息が詰まって苦しくなる。やはり、余命わずかの病人を相手にしているせいだろうか。

 ベラは廊下を歩きながら、窓の外に見える本邸を眺めた。

 あそこでは今、悪夢の再来とも言える使用人たちへの取り調べが行われている。

 新しくやって来た侯爵夫人への嫌がらせが明らかになったのだ。

 とても聞くに堪えない内容の嫌がらせに当主は激高し、拷問に近い糾問を受けているに違いない。自らの罪を告白した使用人は良くてクビか、悪くて晒し刑などの処罰が待っているはずだ。

 別邸の使用人たちは免れたが、安心はできない。

 こんなことが一体いつまで続くのか、ベラは後悔と共に深い溜め息をついた。





 魔道具が広く普及すると、それまで日の中でしか行えなかった仕事が、夜でも昼間のように明るい部屋でできるようになった。

 おかげで夜の食事は豪華になり、社交界シーズンの王宮では毎晩夜遅くまで舞踏会が開かれた。

 当然、平民の活動時間も長くなり、領主としての仕事も増していった。

 食堂でひとり食事を済ませたカルロは、執務室に戻って今日中に片付けなければいけない書類に取り掛かった。

 ここ最近、色々な出来事に見舞われたせいか、仕事が溜まっている。

 ジェナが病に倒れてから睡眠時間を削って彼女を見守ってきたカルロは、食事以外で休息らしい休息を取っていなかった。

 しかし、体は疲れているはずなのに、今日はやけに目が冴えていた。

 ──あのような出来事があったせいだろうか。

 カルロは抑えきれない怒りに舌打ちすると、一旦記憶を追いやるようにして仕事に没頭した。


 時間も忘れて机に向かっていると、部屋の扉がノックされた。続けて「当主様、ルーカスです」と声が掛けられた。

 カルロが「入れ」と命じると、ルーカスはなんとも言えない顔で入ってきた。

 従者として感情を表に出さないよう教育されてきた彼でも、今回は思うところがあるようだ。


「……本邸にいる使用人の取り調べが終わりました。こちらが報告書です」


 ルーカスは持ってきた書類をカルロに手渡した。

 使用人の調査には、侯爵家の騎士の中でも、敷地の外で活動することが多い者たちに依頼をした。彼らは屋敷内の使用人と交流が少なく、公平を期すためだ。

 カルロは早速報告書に目を通すと、使用人が行ってきたアメリアへの容赦ない仕打ちに愕然とした。

 囚人でも食べないような食事を運び、彼女の衣類に針を仕込み、洗濯物は地面に投げ捨ててボロボロにしてから洗うなど──本当にこんなことが、自分のすぐ傍で行われていたのか。


「なんてことを……っ」


 誰もが皆アメリアを、夫から見放されたお飾りの妻だと捉えていた。だが、彼女は紛れもなく貴族であり、使用人に過ぎない彼らが、ぞんざいに扱って良い存在ではなかった。

 それにも関わらず、アメリアに嫌がらせを行った使用人は「ジェナ様のために」と、もっともらしい理由をつけて処罰を免れようとした。

 中には「夫人が旦那様の気を引くために、このような嫌がらせを私たちに命じました!」と、嘘をつく者までいた。

 アメリアとカルロの間で取り交わされた契約は限られた者しか知らないため、カルロが嫌々結婚したと思っていたようだ。

 だが、実際は契約結婚であるため、アメリアがカルロの気を引こうとするなど、あるはずがなかった。

 カルロ自身を欲しがっていれば、契約を交わす時から態度に表れていたはずだ。けれど、アメリアはカルロに一切の関心も持っていなかった。

 むしろ今回の出来事でも、彼女はカルロを一連の首謀者だと思っていたのだ。


『──違うのですか?』


 感情のない冷ややかな灰色の瞳を思い出して、カルロは前髪を掻き回した。

 アメリアは明らかにカルロを疑っていた。

 口にこそ出さなかったが、あれは知らないから訊いているのではなかった。すでに確信を持った言葉だった。

 一体誰が、これほど道徳から外れた嫌がらせを命じるというのか。

 わざわざ契約をしてくれる女性を見つけてきたというのに。カルロにとってジェナがいる間は、アメリアの存在が必要不可欠なのだ。

 妻となったアメリアと距離を取り、客間へ通したのも、彼女のためだった。

 侯爵夫人となる者が代々使ってきた部屋に通せば、アメリアは間違いなくカルロと夫婦の関係にあると思われてしまう。それは、後の彼女にとって良くないことだ。

 だから、敢えて客人扱いしているというのに、揃いも揃って勘違いをしてくれたものだ。


「今回の件は公にできない。罪人を晒せば侯爵家に傷がつく。その代わり、とくに罪が重い者は地下の牢屋に繋ぎ、食事は夫人に出した物と同じものを与えるように。それ以外の者は、鞭打ちにしてから追い出してくれ」

「……畏まりました」

「それから執事は、監督不行き届きで母上の元へ送り返すように。……こちらは厄介払いができて良かったが」


 報告書を見れば、使用人の実に三分の一が屋敷から姿を消すことになる。

 果たしてそれが、本当に良かったと言えるだろうか。カルロは嘆息して額を押さえた。

 使用人を新しく雇うには時間と資金が必要だ。同じことを繰り返さないために、使用人の応募で集まってきた者の身辺調査を行わなければいけない。

 考えれば考えるほど、疲れが一気に押し寄せてきた。

 カルロは視界が霞んできたのを感じ、目頭と鼻の付け根の間を指先で揉んだ。

 そこへ、ルーカスがおもむろに口を開いた。


「……夫人に、ジェナ姉さんの治療をお願いするつもりか?」

「お前は反対か?」

「夫人はまだ信用できない。前侯爵夫人との繋がりはないにしても、いつ寝返るか分からないじゃないか」


 相手は元王女で、自分の夫や、夫の愛人を死に至らしめたかもしれない相手だ。

 何一つ愛情を注がず、社交界での地位と、自身の利益だけを追い求めてきた人だ。

 それゆえ、今でも多くの権力者を味方につけている。油断をすれば、カルロですら今の立場から追いやられるほどに。


「そうだな……。だが、私たちには時間がない。今こうして議論している間も、ジェナの命は尽きかけようとしているんだ」

「……ああ、分かっている」


 必死で作り上げてきた領域から出れば敵だらけの世界で、自分たちには時間がない。

 彼らは愛する人のわずかな命を守るため、立ち止まっている暇はなかった。

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