あー、婚約破棄したい!
あー、婚約破棄したい!
王立学園のテラス。十六歳になったばかりのリデルはそんなことを考えていた。
手にしたカップには、少しぬるくなった紅茶。
春の日差しを受けたそこに、シケた顔の自分が映り込んでいる。
黒髪の、そこそこ整った容姿の少年だ。
そう、そこそこ。
王太子殿下だの他の王子様方だの、公爵家の嫡男だの侯爵家の跡取りだの。
そういった容姿端麗! 文武両道! 顔ヨシ! 頭ヨシ! センスヨシ! な方々に比べれば、自分などはそれこそ木っ端。完全なモブでしかないワケで。
一応、子爵家の跡取りではあるものの、子爵なんて男爵より一つ上なだけ。
数ある貴族の中では『零細』とか『中小』とかの範疇に含まれてしまう。
あ、間違ってたわ、自分。
そもそも比較になりゃしない。比べること自体おこがましかった。
これは何とも、不敬不敬。
心を読む魔法の使い手が偶然通りかからないことを願うリデルであった。
あー、婚約破棄したい!
さらにぬるくなった紅茶を口に含みつつ、彼はそう思うのである。
そんなことを思ってしまう理由は、何とすぐ目の前にあったりする。
自分の向かい側に座っている、婚約者のアリーシャだ。
リデルの家と縁の深い男爵家の令嬢で、一緒に育った幼馴染でもある。
一応は貴族令嬢のクセに、アリーシャはとにかくおてんばだった。
小さい頃は、それこそリデルも何度泣かされたかわからない。
気が強く、運動もできてケンカも強い。
さらに、頭の回転も速い上、口も達者で舌が回った。超一流の屁理屈使いだ。
昔のアリーシャの父親の口癖は「何で男に生まれなかったんだ」だった。
だが、昔だ。それはあくまで昔の話なのだ。
今、リデルの目の前に座っているのは、目も冴えるような可憐な美少女。
ゆるく波打つ金の髪は陽光を受けて輝きを放ち、瞳の色は突き抜ける空と同じ。
卵型の輪郭に、細い眉、やや釣り上がり気味の可愛げのある瞳。
紅茶を啜る唇は小ぶりで、とても屁理屈をこねくり回すようには見えない。
昔は散々暴れ回った彼女も、今となっては女性らしい華奢な見た目をしている。
肌の白さは磁器の如く、されどもそこに病的な色合いは微塵もない。
絶世。
まさに絶世の美少女。としか、言えない。
他にどう形容すればいいんだ。
リデルの貧弱な語彙力では、とても今のアリーシャの美しさを表現しきれない。
絶世の美女。すごい美女。とてつもない美女。あとは、えーと、えーと……。
「何ですの、リデル様。こっちをじっと見つめて」
「うぇ?」
考えているところに急に声をかけられて、のどの奥から変な声が出た。
「ずっと黙りっぱなしで、わたしのことを見つめて。何なんです?」
「え、いや、え~、あ~……」
疑わしげに見つめ返されて、リデルは答えに窮する。
ここで『君に見とれていただけだよ』とでも返せればまた違うのかもしれない。
王子さま方や貴公子さん方なら、きっとそう返していた。
しかし、平々凡々な子爵家嫡男でしかないリデルには、そんな発想すら出ない。
「えーっと……、もしかしてそのネックレス、こないだ僕があげたヤツ?」
と、いうワケで、そんなどうでもいいことを話題に出してしまうのである。
そのネックレスは、旅行先で買ってきたお土産で、そこでしか採れない特別な宝石をあしらっている、という売り文句だったので買ってみた品だった。
「そうですよ。今頃気づいたんですの? ずっとつけてましたのに」
「うわっちゃ~……、ごめん……」
紅茶を啜りつつ、不満げに語るアリーシャに、リデルは片手で頭を抱えた。
全然気づかなかった。贈ったのは自分自身だというのに……。
ダメだ~、やっぱダメだぁ~。
自分如きじゃ、今のアリーシャには絶対釣り合わないって~、無理だって~!
内心に悲鳴をあげつつ、リデルはため息をつく。
幼馴染として育ってきた自分とアリーシャではあるが、現在のこの格差よ。
凡の凡たる自分に対して、彼女の何とまぶしいこと。
小さい頃はガキ大将だったクセに、今やどこぞの姫君かと見まごうばかり。
容姿の美しさだけではない。
紅茶を飲むその動きからしてすでに洗練されていて、気品に満ち溢れている。
リデルも、この王立学園に在籍している以上、他の令嬢のことも見知っている。
自分のような下級貴族ではない、本物の貴族の御令嬢。
伯爵家だの侯爵家だの、辺境伯の令嬢とかもいる。
当然、彼女達も正しい礼儀作法と深い教養を身につけた、いっぱしの淑女だ。
だが、それでもリデルは思うのである。
アリーシャがあまりにもブッチギリすぎる……。
その容姿も、その所作も、何もかもがレベルが違いすぎる。
幼馴染としての贔屓目を差し引いても、なおアリーシャ一人だけが群を抜く。
彼女は、完璧な淑女だ。
男爵家の令嬢にしておくのはもったいないと、誰もが噂するレベルで。
ゆえに必然、アリーシャを狙う男は多い。とても多い。かなり多いのだ。
例えば伯爵家の彼とか、侯爵家のあの人とか、公爵家のあの方とか。
え、王家?
みんなアリーシャ狙いに決まってるじゃん。王太子含めて。ハハハ、当然当然。
しかし、アリーシャの婚約者はリデルである。
それについては、王太子ですら覆すことは許されない。
王太子殿下のもっと上、ほかならぬ国王陛下がそう定めた。
別に、リデルが特別というワケではない。
単に『特別な理由なく一度結ばれた婚約を破棄することはダメです』という決まりがあるだけだ。そして、それを決定したのが国王陛下なのだった。
まだ現国王が王子だった頃、兄だった王太子が婚約破棄で盛大にやらかした。
婚約者だった公爵家の令嬢を捨て、別の令嬢を王妃に据えようとしたらしい。
そこで揉めに揉めて、最終的に王太子は廃嫡された。
そして新たに王太子となったのが、第三王子だった現国王なのである。
王家史上類を見ない黒き歴史として、その詳細は今にまで伝わっている。
なお、捨てられた公爵家令嬢は現王妃とのこと。色々ドラマがあったのだろう。
要するに、アリーシャとリデルは何事もなければこのまま結婚するという話だ。
だからこそ、リデルは婚約破棄をしたい。
アリーシャには自分よりも相応しい男がいる。絶対いる。いないはずがない。
彼とて、自分なりに努力はしている。アリーシャの隣に立てる男であるために。
でもやっぱり、リデル自身は容姿も才も平凡の域を脱せなくて……。
アリーシャの隣に並べて絵になるのは、自分などではなく貴公子さん方なのだ。
悲しい現実である。しかし、認めざるを得ない事実でもある。
だが、それを態度に出すと、アリーシャから「気にするようなことじゃない」と強い調子で言われてしまうので、こうして心の内だけで完結させるようにしているが。
リデルはアリーシャを愛している。
顔が可愛いとか、礼儀ができているとか、そんなうわべは割とどうでもいい。
あ、いや、別にアリーシャの美しさを否定してるワケではない。
もちろん彼女の顔も好きだ。可愛い。本当に心から綺麗だと思っている。
ただ、それだけじゃないというだけだ。
彼は、アリーシャがアリーシャだから、好きなのだ。
彼女が自分の妻になってくれるのならば、こんなにも嬉しいことはない。
ただ――、
「はぁ……」
「また、ため息。さっきから、本当に何なんですの?」
「え、ああ、紅茶が美味しくてね、落ち着いただけだよ。相変わらず、君が選んでくれる茶葉にハズレはないね。このほのかな甘みと香り、前に行ったお店のだろ? 君が気に入ったって言ってた茶葉だよね」
「あら、覚えててくれたんですのね」
「当然」
アリーシャと話しながら、それでもリデルは思わずにはいられない。
彼女と一緒になれることは、自分の人生でも最大の幸福だろう。
だけど、自分の幸せが、アリーシャの幸せとは限らない。
彼女をもっと幸せにできる男は他にいるのではないか。そう考えてしまうのだ。
アリーシャには、とびっきり幸せになって欲しい。
心の底からリデルはそう願っている。だからこそ――、
あー、婚約破棄したい!
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
あー、婚約破棄したい!
王立学園のテラスにて、男爵家令嬢のアリーシャはそんなことを考えていた。
手にしたカップには、少しぬるくなった紅茶。
春の日差しを受けたそこに、すまし顔の自分が映り込んでいる。
波打つ金色の髪が美しい、少しだけ気の強そうな美少女だ。
と、自分で言ってしまうのも何だが、容姿には特に頑張ってるので、構わない。
謙虚も過ぎれば卑屈なだけ。自信があるのならば堂々としていればいいのだ。
もちろん、表向きにはそんなことは言わないけれど。
淑女に必要なのは、完璧な作法と、外向きの謙虚さと、内に秘めた自信だから。
……自信。自信かー。
アリーシャは、己の考えの中にあったそれを思い、ため息を漏らしそうになる。
目の前には、婚約者であるリデルが座っている。一緒に紅茶を飲んでいる。
リデルとは生まれたときから婚約者で、幼馴染の間柄でもある。
同い年だが誕生日はアリーシャの方がわずかに早く、幼い頃は弟扱いしていた。
いや、根本的には今もあまり変わっていない。
アリーシャの中ではリデルは弟、という意識はそれなりに強かった。
ただし、昔のように泣かしたりはしない。
彼は紳士、自分は淑女として教育を施された身だ。昔のようにはいられない。
うん、それもやっぱり表面だけ、なんだけどね。
持って生まれた性格は、四年やそこらの教育で変えられるものではない。
変えられる者もいるかもしれないが、アリーシャは無理だった。
その代わり、表面を取り繕うのは上手くなった。多分、目の前の婚約者よりも。
アリーシャは自分の美しさを知っている。
自分が神より与えられた最たる才能はそれであると、強く自覚している。
だから、磨きに磨いた。
子供の時分から母や侍女に教えを乞い、化粧やお洒落について学んできた。
歌だって、ダンスだって、礼儀作法だって、必死に勉強してきた。
貴族の必修科目だから勉強したのではない。できた方が綺麗だから勉強した。
結果的にアリーシャは最高の淑女となった。
国中から麗しき御令嬢方が集まる王立学園にあって、ひと際輝く宝石となれた。
多くの視線が自分に集まっていることも知っている。
上級貴族の令息や、王子様達から注目されていることも、当然知っている。
――だけど、それが何だっていうのだろう。
本音を語れば、アリーシャはそういった連中に全く興味がわかない。
彼女がこれまで必死に学び、己を磨いてきた理由は、目の前にいる彼にある。
自分の婚約者である、リデルだ。
彼のために、自分は今までずっと頑張ってきたのだ。彼のために。
リデルは、今一つ自信というものを持ち合わせていない。
確かに、容姿そのものは取り立てて特徴があるワケでもないフツメンではある。
運動、勉学なんかも別に優れていることもない、これもやっぱり普通。
女性の扱い方だってこなれていない。口説くなんてこと、発想も湧かなそうだ。
この学園にいる、綺羅星の如き貴公子とは比較することもできない。
と、本人は思っているに違いない。幼馴染だから、その辺はよくわかっている。
ああ、違うのに。
リデルの本当の素晴らしさは、そんなところにはないのに。
内心に嘆きながら、アリーシャは彼からの視線を感じて、問いを投げてみる。
「何ですの、リデル様。こっちをじっと見つめて」
「うぇ?」
彼はびっくりしたようで、変な声を出した。
「ずっと黙りっぱなしで、わたしのことを見つめて。何なんです?」
「え、いや、え~、あ~……」
視線を右往左往させ、口をモゴモゴ、態度はしどろもどろ。
およそ紳士には程遠い反応を見せるリデルだが、やがて、またこっちを見る。
「えーっと……、もしかしてそのネックレス、こないだ僕があげたヤツ?」
…………ッ!
「そうですよ。今頃気づいたんですの? ずっとつけてましたのに」
「うわっちゃ~……、ごめん……」
平然と返すアリーシャに、リデルは片手で頭を抱えて呻いた。
だが、実は彼女の返答は真っ赤な嘘。
ずっとつけてた? いつから? 本当は今日からでしょ!
昨日まで、箱から出すのがもったいなくて、ずっとずっと大切にしまってた。
それでも意を決してつけてみたら、いきなり気づいてくれた。
さすがにびっくりして、今日からと答えるのが恥ずかしくなって嘘をついた。
結果、リデルは頭を抱えてしまっている。
それを見るアリーシャは、自分こそが頭を抱えたい気分になっていた。
彼が悩んでいることは知っている。
自分と彼では釣り合いがとれていない。分不相応である。そんな悩みだ。
アリーシャからすれば『ふざけるな』と言いたい。
何のために自分が必死に勉強し、自分磨きに躍起になってるかわかってない。
全部、全部リデルのためだ。
自分を見てくれるいとしい彼のために、綺麗になろうとしてるんじゃないか。
外見が平凡だから、何なんだ。
能力に特徴がないって、それがどうした。
リデルの本当の価値をこの世界で一番よく知っているのは、自分だ。
彼は、自分のことを愛してくれている。
アリーシャという女性を、とにかくよく見てくれている。
例えば、今のネックレスにしたってそうだ。
これはリデルが旅行先で買ってきてくれたお土産だが、あしらわれている宝石は旅行先の地方でしか採れない特別なもので、アリーシャはずっと欲しがっていた。
リデルにも一回だけ話したことがあった。もう、何年も前のことだ。
彼はそのことをちゃんと覚えていてくれた。話したのはその一回だけなのに。
いつもいつも、リデルはこんな調子。
アリーシャ本人ですら忘れていたことを、覚えていてくれたりする。
してほしいことをしてくれる。
言ってほしい言葉を言ってくれる。
自分がそれを求める前に、こっちの希望を叶えてしまう。
そんなこと、他の誰ができるのだ。心を読んでいるとしか思えないほどだ。
そして、きっとリデルの態度は変わらない。
自分が今のような美しさを持っていなくとも、それどころか、ひどく醜くとも。
彼は変わらないだろう。変わらずに、自分を愛してくれる。
自意識過剰な考えかもしれない。だが、アリーシャの中には確信があった。
そんなリデルだから、アリーシャは必死になって自分を磨いたのだ。
最高の彼だから、その隣に立てる最高の女性でありたいと願い、頑張った。
ま、その結果、逆にリデルを深い懊悩へと突き落としてしまったのだが。
本当に、どうしてこうなってしまったのか。
「はぁ……」
ほら、リデルがまたため息だ。
「さっきから、本当に何なんですの?」
「え、ああ、紅茶が美味しくてね。落ち着いただけだよ」
などと、リデルは見え透いた言い訳をする。だがそこから――、
「相変わらず、君が選んでくれる茶葉にハズレはないね。このほのかな甘みと香り、前に行ったお店のだろ? 君が気に入ったって言ってた品種だよね、これ」
…………ッ!?
「あら、覚えててくれたんですのね」
「当然」
そう言ってリデルはニッコリと笑うが、アリーシャは胸がドキドキしていた。
何故なら、今回用意した茶葉は、初めて選んだつもりの品だったからだ。
あれ、行った? あのお店、前に行ったっけ? え、いつ!?
と、記憶を探っても、てんで思い出せない。
アリーシャは極力動揺を表に出さないよう気持ちを抑え、リデルに尋ねてみる。
「リデル様、よくお気づきになられましたわね。一回しか行ったことがないのに」
一回しか、というのは、実はカマかけ。
自分も記憶力は悪い方ではないので、覚えてないなら何回も行ってないはず。
「え? そりゃあ覚えてるよ。四年も前だけど、君と一緒に飲んだお茶だからね」
と、この男、笑顔で爽やかに言い切ったのである。
ちなみにお世辞とかその場凌ぎではない。彼は本気で言ってるだけだ。
これよ、これなのよ。
これこそがリデルの恐ろしいところで、素晴らしいところだ。
四年前と言われて、アリーシャもようやく思い出していた。
行った。確かに行った。王立学園に入学してすぐ、二人で一緒に一度だけ。
どうしてそんなことまで覚えてるの、この男は。
こんな風にされたら、またしても惚れ直してしまうではないか。本当に。
あ~、好き~~~~!
そんなリデルが、本当に大好き~~~~ッ!
ここが自室なら腹の底からそう叫んでいたかもしれない。
しかしアリーシャは完璧な淑女なので、鍛え上げた面の皮で何とか覆い隠す。
本当に、自分には彼しかいない。
つくづくそう思うアリーシャだが、残念なことにリデルがそう思っていない。
自分の価値を知らない彼は、自信のなさから悩み続けている。
アリーシャには、もっと相応しい相手がいるとか。そんなくだらないことで。
いるわけないでしょ。そんなの。
自分の相手はリデル一人。それは家以前に神が定め給うた絶対の決まりだ。
なのに、リデルは納得していない。
それだから、アリーシャは強く強く思うのである。
あー、婚約破棄したい!
婚約をなかったことにして、二人の関係を一回リセットしたい。
そうしたら、堂々と自分からリデルにアプローチをかけるのに。かけるのに!
国王が定めた決まりさえなければ、自分は間違いなくそうしていた。
リデルに、自分がどれだけ彼を愛しているか、骨の髄までわからせてやりたい。
もう、もう!
本当に、もう! リデルのバカ!
その自信のなさ、絶対にわたしが叩き直してやるんだから。
御令嬢の面の皮にて巧みに隠しつつ、アリーシャはそれを強く心に誓った。
「紅茶、美味しいね」
「ええ。紅茶、美味しいですわね」
王立学園の昼下がり、テラスにて、一組のカップルが紅茶を楽しんでいる。
その姿は微笑ましいものだが、彼も彼女も、その胸中で同じことを思っていた。
あー、婚約破棄したい!
さっさろ結婚しろよと言いたくなる、とてもお似合いな二人だった。
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