1. ほろ苦い初恋5
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「少し休めば、すぐに良くなる。よくある事なんだ、だから、多々羅君は何も悪くないからな」
「…はい」
正一に促され多々羅が通されたのは、愛の部屋だった。愛の部屋は、二階の端の角にある。階段を挟んで左手側にはずらりと部屋が並んでいるが、右手側には、愛の部屋が一部屋あるだけだ。角部屋なのでバルコニーもあり、客室としても使用されていたので、多々羅もその部屋の存在は知っていたが、瀬々市の家に愛という少女がいた事、ここが愛の部屋だというのは、この日、初めて知った。
部屋を入る前に廊下を振り返ると、遠くから賑わう声が聞こえてくる。多々羅にとっては一大ピンチの状況を、皆は知らないで楽しい時間を過ごしている。そんな風に考えていたからか、愛の部屋は、まるで人々の目から逃れるように存在しているようで、それが多々羅の不安を更に煽っていた。
「さぁ、部屋に着いたぞ」
正一が愛に声を掛けるのを聞いて、多々羅は慌てて部屋に飛び込んだ。
愛の部屋は、多々羅の六畳の子供部屋が幾つ入るだろうと思えるくらい、とても広い部屋だった。結子達の部屋にも入った事があるが、二人の子供部屋よりも広く感じる。
部屋には天外付きの大きなベッドがあり、正一はそこに愛の体を横たえた。その姿は、まるでどこかのお姫様のようで、多々羅の胸は自然と、ドキドキと音を立てた。だが、ベッドが大きすぎるのか、愛がまだ子供だからか、彼女を挟んで大人が二人は眠れそうなそのベッドで眠る愛の姿は、多々羅にはとても寂しく思えた。
そうでなくても、子供の一人部屋にしてはこの部屋は広すぎる。
本が開かれて幾つも置かれた勉強机、難しそうな本が詰め込まれた本棚、洋服ダンス。家具はそれくらいで、子供部屋とは思えない、何とも殺風景な部屋だった。多々羅には、まだ愛がどういう人間かも分からないのに、それがまるで、愛の孤独を示しているかのように感じられて、多々羅は少し怖くなる。正一は大丈夫だと言うが、このまま愛は目を覚まさないのではないか、こんな寂しい部屋で、寂しいまま消えてしまうのではないか、そう思ったら怖くて堪らず、かといってその手に触れる事もいけない気がして、多々羅は自分のシャツの胸元をぎゅっと掴み、弱気に騒ぎ出す心を必死におさえていた。
またもや多々羅にとっては長い時間が流れていたが、実際は、五分もしない内に愛の主治医が飛んで来た。恐らく、彼もパーティーに招待されていたのだろう。
ジャケットを片手に、慌てた様子でやって来た彼は、梁瀬信之、この時の年齢で五十代半ば辺りだろうか。顎髭を生やし、髪を後ろに結った、どこか洒落た佇まいの男性だ。彼と一緒に、先程の使用人、春子もやって来ていて、多々羅は彼女に促され、一度部屋の外に出る事になった。
「多々羅さんは、何も心配いりませんからね」
そう春子は気遣って声を掛けてくれていたが、多々羅には、春子の声がどこか遠くから聞こえてくるようだった。
それからは、多々羅は春子と共にやって来た結子も交え、ただ祈るように部屋の前で待つばかりだった。
春子には、他の部屋で待とうと言われたが、多々羅はどうしてもこの部屋の前から動くことが出来なかった。そんな多々羅の気持ちを思ってか、春子と結子も、多々羅を置いていくことも無理に連れて行くこともしないで、ただ側に寄り添ってくれていた。
時折、正一が慌ただしく部屋の出入りを繰り返していたが、やがて信之の診察と治療は無事に終わり、多々羅が部屋に通される頃には、愛も落ち着きを取り戻した様子で、あの広いベッドで安らかな寝息を立てていた。
結子と共にベッド脇で愛の様子を見つめながら、多々羅は部屋の外に出た正一と信之を目で追った。
「…愛ちゃんね、うちに来て二週間になるんだ。それでね、今度、正式に私達の家族になるんだよ」
結子の言葉に、多々羅は驚いて結子に視線を戻した。
結子は、七歳にして美少女だ。肩までの黒髪と、今日は水色のドレスを着ている。大きな瞳を細め、優しく愛を見つめている姿からは、愛が大好きだという事が伝わってくる。お気に入りのドレスを着せる程、結子にとって愛は既に可愛い妹なのだろうと、多々羅は感じていた。
だが、その優しい瞳が悲しく揺れ、多々羅は不思議そうに結子を見つめた。
「でもね、体があまり強くないんだって。こうして倒れちゃう事、今日が初めてじゃないの。愛ちゃんの瞳ね、とっても綺麗なの!なのに、それが原因かもしれないんだって。お医者さんも、良く分からないんだって」
瞳と聞いて、多々羅は愛が片目を押さえていた事を思い出す。あの時は遠目でよく見えなかったが、多々羅は、愛の瞳はどんな瞳なのだろうと想像する。キラキラしていて、きっと宝石のように綺麗なのだろう、だって愛はとてもキラキラして輝いていた。
こちらを振り返った時の愛の姿を思い出し、多々羅は途端に頬が熱くなったが、すぐに頭を振ってその思いを振り払う。
今はドキドキしている場合じゃない、愛が大変なんだからと、愛の寝顔を見つめれば、多々羅の高鳴る胸は、次第に痛みを伴っていく。