0. 宵ノ三番地 瀬々市愛2
「紗奈が決めたなら、私も、頑張る」
そう青年を見上げた瞳は、新たな決心に、懸命に立ち向かおうとしているかのようで、青年はそっと肩から力が抜けた思いだった。
この子は大丈夫だと、思えたからだ。
「それで良いの?」
「あなたの家よりは、楽しそう」
「はは、そりゃそうだ」
冗談混じりに言って笑ってみせる少女に、青年も微笑んだ。
「駄目なら逃げ出せば良い。また俺が探しに来るよ」
「うん!」
少女が青年から体を離すと、その足元から再び煙が沸き起こった。彼女の体を煙がすっぽりと包んでしまうと、それは徐々に足元へと消えていく。少女の足元にはテディベアのぬいぐるみがあり、少女を包んだ煙は、そのテディベアへと吸い込まれていった。
青年はテディベアを手に取ると、埃で汚れたその顔を指で優しく拭い、ほっとした様子で頬を緩めた。
「きっと、大丈夫。あの子は優しい子だよ」
そう呟き、青年は狭いその場所を抜ける為、横向きで歩いていく。暗がりから外へ出ると、太陽が照らす青空に目を細めた。
ふぅ、と息を吐き振り返る。
彼が居たのは、とある一軒家の敷地内に置かれた倉庫の中だ。奥の物はどうやって取り出すのだろうと首を傾げたくなる程、倉庫の中はぎっしりと物が詰め込まれ、入る道を作るのも一苦労だった。
そんな青年の足元で、茶色い毛並みを持つプードルが、ぴょんぴょんと跳び跳ねている。プードルが見つめているのは、あのテディベアだ。青年は口元を緩めて腰を折ると、プードルの頭を撫でてやった。
「ありがとうな、この子を守ってくれて」
きっとこのプードルは、このテディベアの思いを聞き、その思いを尊重してくれたのだろう。テディベアが一人で、倉庫の奥まった場所まで移動するのは困難だし、青年にはこのプードルが、ただいたずらに持ち出したのではないように思えた。
青年のそんな思いが伝わったのか、プードルは「ワン!」と吠えながら、嬉しそうに尻尾を振っている。それから、早く早くと言わんばかりに青年の足元で跳びはね、駆け出しては振り返り戻って来るので、青年は「分かった分かった」と、その頭を撫でながら、プードルの後についていく。
その途中で、青年は思い出したように胸ポケットから眼鏡を取り出した。フレームなしの薄いレンズで、何処にでもある普通の眼鏡のようだが、それを掛けると、どういうわけか翡翠の瞳の色が黒へと変わった。どの角度から見ても、もうただの黒い瞳にしか見えない、不思議な眼鏡だ。
青年は、倉庫から一階のテラスへ回ると、そこから家の中へと顔を向けた。テラスから家の中へと続く戸は開け放たれており、すぐそこにはリビングがある。大きなソファーには、二十代の髪の長い女性と、三歳位の髪を二つに結った少女が座っている。青年の姿に気づくと、二人は揃ってその表情を綻ばせた。
「見つかりましたよ、ぬいぐるみ」
「テディちゃん!」
青年の手にあるテディベアを見つめ、二つ結びの少女は満面の笑顔で駆けてくる。彼は床に膝をつき、少女にテディベアを差し出した。
「少し汚れちゃってるけど」
「佳奈がキレイにしてあげる!」
「よろしくね」
「ありがとうございます、どこにあったんですか?」
佳奈がぎゅっと大事そうにテディベアを抱き締めれば、その後ろから、髪の長い女性が心底安堵した様子でやって来た。この女性が、紗奈だ。青年は顔を上げると、苦笑いを浮かべた。
「倉庫の奥の方に」
「そんな所に…すみません、プーちゃんが持って行っちゃったのかな」
「わんちゃんは責めないでやって下さい。きっと…一緒に遊んでくれたんじゃないでしょうか」
「ね」と声を掛ければ、プーちゃんと呼ばれたプードルは青年を見上げて「ワン!」と吠え、再び尻尾を振った。その様子に微笑んで、青年はテディベアを抱く佳奈に向き直った。
「このテディベア、寂しがり屋なんだ。きっと、紗奈さんがとても大事にしてくれてたから、紗奈さんに会いたくなって、迷子になっちゃったのかも」
「佳奈の側にいても寂しい?」
「佳奈ちゃんが大切にしてくれたら、きっとこの子も安心するんじゃないかな」
「佳奈、大事にする!紗奈ちゃんより、大事にする!」
ぎゅっとテディベアを抱きしめる佳奈に、紗奈も嬉しそうに笑った。
「良かったな、大事にしてもらえよ」
青年はテディベアにそう呟き立ち上がる。どことなくテディベアの表情も明るくなった気がするのは、気のせいではない筈だ。
「では、これで失礼します」
「ありがとうございます、本当に見つけて頂いて良かった」
「あなたが大切にしてくれたから、帰って来たんですよ」
青年はそう言って微笑んだ。
青年の名前は、瀬々市愛、二十六歳。
「宵ノ三番地」という、ちょっと変わった店の、店長代理を務めている。
彼は物の化身が見える瞳を持つ、探し物屋だ。