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瀬々市、宵ノ三番地  作者: 茶野森かのこ


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9. ミモザと楓13


「愛!」


その声に、閉じかけた視界、愛の視界を覆う黒が、瞬く間に晴れていく。愛の体は勢いよく床に叩きつけられ、背中を打つ痛みに顔を歪めれば、愛は、はっとして体を起こした。


今、化身に心を奪われかけていた。


その事実にぞっとして、直後に浮かんだ楓の顔に、愛は焦って辺りに視線を走らせる。すると、すぐそこに、楓の体を床に抑えつける正一の姿があった。正一は、愛が禍つものに心を奪われかけている事に気づき、すぐに楓から愛の体を離すと、楓に取り憑いた禍つものを祓ったようだった。それにより、愛の腕に巻きついた黒い影も消えたのだろう。正一が楓を床に抑えつけていたのも、禍つものをその体から追い出す為だ。正一は、禍つものを祓い終えると、すぐさま楓の容体を確認し、愛に向かって声を掛けている。指示を出されている事は分かるが、愛には、その言葉がどうしても頭の中に入ってこなかった。


呆然としたままの愛に、正一は心配と不安に瞳を揺らしたが、それも束の間、すぐに気持ちを切り替えて楓を抱えると、廊下を駆けた。とても八十代の体とは思えないが、これが正一だ。直後、「車をお願いします!梁瀬(やなせ)医院へ!」と、正一の焦る声が、遠くから聞こえてきた。


愛は震える指で、転がるミモザのイヤリングに触れた。


「…ごめん、」


ごめんなさい。届かない言葉を繰り返し、愛はそのイヤリングを抱きしめ、床に踞った。


自分の思いに囚われ、楓の言葉じゃないと分かっていたのに、何も出来なかった。

彼女に傷を負わせてしまったと、自分を責めるしか出来ない、いくら責めても、起きた事実は変わらない。取り返しのつかない事をしてしまったと、愛は暫くその場から動けなかった。





それから、楓とは会っていない。

楓を襲った禍つものは、楓の父が買ってきた古美術の器に潜んでいたようだった。

あの場には、不自然に床に転がっている器が一つあり、恐らくそれだろうという事だった。正一によって祓われた禍つものは、その存在が消える。後に、新たな思いがその器に宿っても、それは、あの禍つものとは全くの別人だ。なので、祓われてしまえば、人を襲った動機も、今はもう知ることも出来ない。


禍つものは、見える人間を襲わない。そもそも見える人間がほとんど居ないという理由もあるが、見える人間は大体が宵の店の関係者で、対抗策を知っているからだ。

だから禍つものは、見えない使用人を襲った。

最後に楓に取り憑いたのは、自分が祓われる事を恐れ、形振り構わず楓の体を使って逃げようとしたからなのかもしれない。


化身の気配が消えた器は、宵の店が引き取る事となった。器は念の為、厳重に封を施して木箱にしまい、零番地の壮夜(そうや)に手渡した。禍つものを出した物は、化身の存在が消えても、可能な限り零番地に引き渡す事になっている。宵街が管理すると聞いてはいるが、その先は、愛も正一も、誰も確かめようのない事だった。




楓は三ヶ月間眠り続け、今も通院している。片足を引きずるようになってしまったのは、禍つものによる後遺症の為だ。それでも、楓の状態は、まだ良い方だという。

正一の祓い方が良かったのか、あれだけ禍つものに体を支配されていたのに、体をまだ動かせる状態だ。

だとしても、良かったと、言える話ではない。

愛がすぐに祓っていれば、禍つもの、その思いの根付きも今よりは軽かっただろうし、後遺症を負わずに済んだかもしれない。快活な性格で、楓は愛をよく外へ連れ出した。軽やかに歩く事も、今ではままならない。

それが申し訳なくて、合わせる顔がなくて、愛は楓に会いに行く事すら出来なかった。


そして、愛は再び人と距離を取った。一人でいい、宵の店も、危険な物も、瀬々市から遠ざけるべきだ。


そして、自分を忘れてくれたら。


だけどそれは、ただ逃げているだけだと気づかされた。


それを気づかせてくれたのは、多々羅だった。



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