裏世界探訪記.一
現世に生きる我々は、この世界だけが現実だと思っている節があるけれど、世界というのは何層にも重なっていて、ふとした時に迷い込んだり、あるいはそちらの世界の者と出くわしたりという事がある。
そういうものの中で、こちらに出て来るものを怪異と呼び、あちらに迷い込む事を神隠しと呼んでいる。
綾科はそういった世界との境界が他所に比べて曖昧な場所で、だから神だの妖怪だのといった物騒な連中が幅を利かしている。神無月の出雲と同じくらいと思ってよい。
しかしそれでも私共の方に出て来る連中はあくまで一部でしかなく、裏側の綾科にはそういった連中が、それこそ現世の人間と同じくらい沢山溢れている。そういう所に人間が迷い込む事もある。
神隠しとは、行方不明を超常的現象として扱う方法とされており、古来は人さらいの隠語であるともいわれている。
そういった人間による神隠しも勿論あっただろうけれど、勿論、本当の意味での神隠しの事例も多数ある。
とはいえ、言葉の通りに神様が人間をお隠しになる事はそう多くなく、実際は人間の方が何かの拍子に境界を跨いでしまい、違う世界へと迷い込んでしまう事がほとんどである。
尤も、神様の方がその境界線を曖昧にしている場合もあるから、厳密にいえば神様のせいなのだろうけれど、そういう細かい事を考えると面倒だから、よす。
多くはそうやって神隠しに逢ったまま帰って来ないけれど、綾科みたいに、人外の世界とかかわりの深い場所だと、そういった行方不明者を捜しに行くという事態が発生する。
私も捜索を頼まれた事があって、今回はその話をしようと思う。
しかし私が行って帰って来ただけの事で、面白い話の種などありはしない。その面白くない話を、時間をかけてしようと思う。
時節はいいし、差し当たって私には何の用事もない。だからゆっくり話す。読者の方が忙しいかどうか、それは私の知った事ではない。
○
六月が終わって、七月も一週ばかり経つと、急に梅雨空が晴れ晴れとして、毎日が暑くなった。梅雨明けは例年よりも早かったようだが、七夕はいつもと同じ様に雨模様で、雲の上で織姫と牽牛とが会ったのかどうだか判然としない。
勿論今までも暑かったけれど、それまでのじめじめした蒸し暑さとは違った、陽光による熱気は、容赦なく私共を照り付けて汗を流させた。
私の部屋も窓と戸を開け放しているけれど、吹き込んで来る風も温かいから、あまり意味がない様に思われる。しかし、汗でぬれた肌には温かい風も冷たく感じるから、まったくの無意味と言うほどではない。
こうなるととても暑くて寝ていられないから、ここのところは朝から目が覚める。
一度目覚めると又寝をしようという気にもならず、団扇をばたばたやりながら、部屋の中でぼんやりと座っている。
貧乏神どももすっかり元気をなくして、溶けた様に部屋の壁にもたれかかって動かない。
ここ最近は暑さのせいか紗枝も遊びに来なくなって、静かになったのはいいけれど、どのみちこれでは不快で仕様がない。
窓の向こうには青空が広がっている。ぎらぎらした日差しの下に甍が並んでいる。
あちこちでぶうぶうと吹き上がっているのは湯気である。ここいらは温泉地で、道端に足湯があったりもするし、湯をあちこちに送る為のパイプみたいなものが伸びていて、湯気はそこから吹いている。あれが熱気を放っているなどとは思わないけれど、見ていると余計に暑くなる様な気がした。
次第に団扇を仰ぐのも面倒になって、窓辺でぼんやりとしていたけれど、このまま部屋にいても仕様がないと思い出したので、意を決して立ち上がった。
「どうした」と爺が言った。
「ここにいても仕様がない。散歩に行くよ」
「そうか」
「貴君たちはどうする」
貧乏神どもも大儀そうにしていたが、やはり部屋にいても仕方がないと思ったらしく、のそのそと立ち上がって私について来た。
表に出ても暑い。日が当たる分だけ、部屋の中の熱気とは違うものがある。
空気もあまり動いていない。風神の怠慢である。
じりじりと焦がされる様な心持で裏通りを当てもなく辿っていたが、街中にいても仕方がないと思い出した。
考えてみれば、ここのアパートの落ち着く前はあちこちを放浪し、眠くなれば地を布団、天を屋根にして眠っていた。布団で眠るという事に慣れてしまうと、そういう事を忘れてしまう。
考えに屈伸性がなくなっていけないと思ったから、ともかく部屋を出て、しばらく野で草を枕に眠ろうと考えた。
しかし当てがないから、考えがまとまらないままに、ひとまず街中をぶらついていると、日傘を差した連中が目立つ。着物を着ているのも多い。
綾科の住人もそうだけれど、ここらでは着物の貸し出しもしているから、観光客も着物を着て歩き回っている。着物の柄だの所作だので、地元民と観光客の区別がつくのが面白い。
店の軒先では風鈴が鳴っている。肌に感じるほどの風はない様に思われるけれど、風鈴が鳴る程度の風は吹いているらしい。
道端の水路には水ではなく温泉が流れている。温泉には色々な成分が混じっているから、それが段々と水路にこびりついて、奇妙な凹凸と模様を生じ、ずっと見ていると気味が悪い。
歩いていると矢張り暑い。石畳の参道の向こうに陽炎が立ってゆらゆらと揺れている。とても歩いていられたものではない。
参道の脇の木陰に入って、煙草をくゆらせながらぼんやりしていると、歩いていたらしい誰かがあっと言って空を指さした。通行人たちが次々に上を見る。
私も目を細めて眺めてみると、上下とも藍色の袴姿の人間が、三人ほど空を飛んでいた。飛んでいるというよりは走っているという風に見える。皆手に吹き流しの様な長い長い布を持っていて、それがひらひらとたなびいて何だか綺麗である。
観光客らしいのは皆手に手に携帯電話を持って興奮気味に写真を撮っている。全部白か黒になってしまうのにご苦労な事である。
三人が空を走り去ってから、それを追っかける様に風が吹き出した。涼しく、さわやかな風である。やれやれと息をついて木にもたれかかった。
「風宮か」と爺が言った。
「そうらしいね。風を吹かしに来たのだろう」
私はそう言って、飛んでいた三人が姿を消した方を見た。向こうの山の上に、木造の大きな風車が回っているのが見えた。
綾科は、かつては有力な家が治めるいくつかの郷に分かれていた。その主家たる風宮、龍峰、稲荷山の三つの家は、現在でも名家として綾科住民たちの尊敬を集めている。
御三家とも呼称されるそれらの家々は、それぞれに風神、龍神、稲荷神の御使いを務めており、古い時代には神職も兼任していたのだろう。
科学万能の時代にあって、未だ数々の術を行使できると言われている。さっき飛んでいたのは雲踏みという術で、風神の眷属である天狗なども扱う事ができる。ひらひらした長い吹き流しは、涼風を吹かせる術の為のものだろう。
風神の御使いである風宮家は、綾科の山手側を治めていた一族で、現在もその辺りに本家の屋敷がある。木造の大きな風車は昔からあるもので、大事に手直しされながら、未だに風を受けてぎいぎいと回っている。
煙草をもみ消して立ち上がった。
「結局、どこに行くという当てはあるのか」
と爺が言った。
「ないけれど、涼しい所がいいね」
「ならば街中で便便としている法はあるまい」
「うむ。川にでも行ってみようか」
誰も反対しないから、そういう事になった。
大参道から裏路地に入り、くねくねと辿って行くうちに商店より住宅の数が増え始め、人の数も減って来た。新しい建物も勿論あるけれど、一昔前の様な古い構えの建物も多く、貧乏神たちがそんな家を眺めて詰まらなそうにしている。そういった家はどこも屋敷神がいるから、貧乏神が入れないのだろう。
住宅街を通り抜け、畑の間や小道を辿って行くと、やがて川に行き当たった。
綾科は現在の中心部である大参道付近は建物も集まって賑やかだが、そこから離れると昔ながらの自然が多く残っている。特に山と川とは大事に保全されている。これも神様だの神様でないのだの、つまり人間以外に配慮した結果らしい。
綾科に流れる一級河川である綾科川は川幅が広く、緩やかな流れの大河である。
海に近い河口の辺りは流石にコンクリートなどで整えられているが、上流へと遡って行くほどに川幅は狭まり、次第に両側から木々がかぶさって鬱蒼とし、動物や変のものの気配が濃厚になって行く。
私と貧乏神たちは悠然たる川の流れを眺めながら、土手を上流へと辿って行った。
段々と河口から離れて、もうこの辺りはあまり海の影響を受けないだろうという辺りまで来ると、河原が砂利に覆われて、水遊びをする子供たちの姿も見受けられる様になって来た。
土手の途中に大きな桜の木があって、青々した葉で涼し気な影を地面に投げかけている。その下に古い祠が据えられて、お地蔵さんなんかも並んでいた。
その木陰に女が一人腰を下ろしていた。
薄水色の着物を着て、髪の毛はしっとりと濡れた様に艶やかであるが、それに不釣り合いな大きなぼろぼろの麦わら帽子をかぶっている。これはこの辺りの土着神の一柱である川神のサナミさんである。
サナミさんは顔を上げて「あら」と言った。
「こんにちは何樫。お元気?」
「ご無沙汰ですサナミさん。僕は相変わらずですよ」
「だろうねえ」
サナミさんはほうと息をついて、もそもそと膝を抱え直した。
「貧乏神を引き連れて、わたしに何かご用事?」
「用事なぞありません」
「そう」
用事はないけれど、ここまで歩いて来て随分汗をかいた。休憩がてら涼ましてもらおうと、木陰に腰を下ろした。貧乏神たちも隣に並ぶ。
サナミさんは小首を傾げてこちらを見た。
「用事はないのじゃないの」
「ありません」
「じゃあどうしているの」
「用事がなけりゃいちゃいけませんか」
「そんな事はないけれど」
「暑いので、休んでいるのです」
「最初からそう言いなさいよ」
サナミさんは呆れた様に木に寄り掛かった。そうして貧乏神を横目で見た。
「あなたたち、家の外を連れ回されちゃ大変だね。特にあんたみたいな名のありそうな貧乏神がこんな所で縛られちゃ、じれったいんじゃない?」
「お気遣い痛み入るサナミ姫。しかしどうにもこやつから離れられぬのだ」
と爺が言った。名のある貧乏神らしいが、そんな事は私の知った事ではない。
この辺りまで来ると、何となく涼しい様な気分である。気のせいかも知れないが、気のせいでも気分がよくなるならば別に構わない。
いい具合に風が吹いていて、しかし鬱陶しいというのではなく、心地よいくらいの涼風である。頭上の桜の葉がさわさわと音を立てた。
サナミさんが気持ちよさそうに目を閉じてほうと息をついた。
「ああ、いい風を吹かしてくれる。風宮の連中は真面目だね」
「風神さんはご自分ではちっとも動きませんね」
「格の高い神様はそういうものよ。わたしらみたいに人に近くて親しみやすい神もいるけれど、そういう神様ばかりじゃ御威光ってものがなくなるからね」
「僕は風神さんに御威光を感じた事はありませんけれど」
「お前は誰に対してもそうじゃないの。神様だってお前の尊敬を欲しいなんて思わないよ」
それはそれで変な気がするけれど、まあいい。
爺が川の方を眺めて、おやと言った。
「川ざらしか」
「ああ。そうそう。あれの為に風神さんに風を吹かしてもらったんだろうね」
とサナミさんが言った。
いつの間にか川を渡す様に紐が張られ、そこにいくつもの長い布が下げられてひらひらと風にたなびいている。川で染めた布をさらし、それをああやって吊るして干しているのである。今も七八人くらいの連中が、川に入って長い布を水につけていた。
川向うは旧稲荷山地区だが、川のこちら側は風宮家の管轄だった土地だそうで、今現在も彼らの分家筋が多く暮らしているという。
山手に近いこの地では昔から山から得た染料による染め物が盛んで、こうやって川を使って作業をする。色とりどりの布がたなびく様は、さながら五月の鯉のぼりを彷彿とさせた。
「あんな風によく高い所から吊るせるものですね」
「そりゃ風宮の分家筋の仕事なんだから、雲踏みでちょいちょいだよ」
それは確かにそうかも知れない。しかし何だか物騒な気がした。サナミさんはあくびをして、私の方を見た。
「お前も雲踏みくらい使えただろう」
「使えますけれど、使わない様にしているのです」
「どうして」
「あんまり使うと妖怪じみて来ますから」
私が言うと、サナミさんはけらけらと笑った。貧乏神どもも笑っている。何が可笑しいのかさっぱり解らない。
大きな雲が流れて来て、不意に辺りが陰った。そうして雲が通り過ぎるとまた日が差す。後からまた雲が流れて来て影が出来る。どうやら切れ切れの雲が少しずつ流れて来ているらしかった。
私は立ち上がって、土手を下って、河原まで降りてみた。
石がごろごろしている。その隙間から草がぴんぴんと伸びている。遠目には解らなかった凹凸が結構あって、思った以上に歩くのに手間取る。大きな石や、小さな石や、大きな岩や、小さな岩がある。石と岩の境目はどの辺だろうと思ったけれど、解らないからよした。
川辺まで行ってみると、穏やかな流れの表面を風が撫でて、さざ波の様な細かな模様を立てている。
川ざらしをしている連中は、川辺に背負い籠を置いて、その中に染めた布を入れて持って来ているらしい。それを次々に川でさらし、それから片側を持ったまま高く雲を踏んで、頭上に張られたひもに吊り下げる。陽光がぎらぎらと照っているから、薄い染め布はすぐに乾いて、ひらひらと風になびく。
二十一世紀、恭明の時代にあって、こんな古臭い仕事が続いているのは妙な光景である。
世の中の衣類づくりが機械化されている中、あんな風に頑なに手仕事をやめようとしない。しかし手作業でなくては出せない色合いとか、味わいみたいなものがあるらしい。そう思って見れば、成る程美しいと思わなくもない。
手頃な石を見つけて腰を下ろし、そんな作業を眺めていた。
女の貧乏神は着物の裾をまくって、裸足で川の水をぽちゃぽちゃと跳ねさして、何だか面白そうな顔をしている。
「ここでは日が当たり過ぎるのではないか」
と爺が言った。
「それはそうだが、不思議と街中で照らされるよりもマシだね」
「わしには同じに思えるが」
「貴君はサナミさんの所で待っていればよかったのに」
「部屋に残るならばともかく、外ではあまりお主と遠くに離れられぬのだ」
そうらしい。振り向いて土手の方を見ると、サナミさんの姿が小さく見えた。このくらいの距離も駄目なのだろうか。
「見える距離でもいけないのかね」
「厳然と決まっているわけではないが、ある程度距離が開くと、自然にお主の方に足が向く」
「試してみようじゃないか」
それで私は立ち上がって、サナミさんの祠の方に歩いて行った。ごろごろした石に躓きながら歩いて行って、途中で振り向いた。貧乏神たちは元のままに立っている。だからまた歩き出した。
土手の下まで来て、振り返った。貧乏神たちはまだ立っている。
それで土手を這い上がって、サナミさんの祠の前まで行ってみた。サナミさんが変な顔をしている。
「何をしているの」
「貧乏神が落ち着く許容範囲を調べてみようと思いましてね」
それで振り返った。貧乏神たちは川際よりはこちらに来ていたが、それでも途中で立ち止まっていた。大体あれくらいの距離が限界らしい。
爺はその場で行ったり来たりしている。女の貧乏神は水に足を浸けていたかったようだが、私が動いたから出て来たらしい。私の方を見たり、川の方を見たりして、何となく落ち着かない様に見える。
川の中で布をさらしていた連中も、なぜだか手を止めて、不安そうに貧乏神と私とを見ていた。私が貧乏神を置いて行くつもりかと思ったのかも知れない。
貧乏神どもがおたおたしているのが面白いから、煙草をくわえて見ていると、やがて二人してこちらに歩き出し、やがて土手を登って来た。
「何を便便としておるのだ」
「はあ」
「あんまり長く離れられても困る」
「部屋で留守番は出来るのにか」
「あすこはお主が家と決めておるから、わしらも残っていられるのだ」
そうらしい。成る程と頷いている私を、女の貧乏神が恨めしそうな目で見ていた。
次第に日が西に傾いて来て、ぎらぎらしていた日差しが少しもったりとして来た。
私共はサナミさんと別れ、川に沿って上流へと歩を進めた。次第に道が山道になって来て、山に太陽が隠れて影がかぶさって来る頃には、頭上もすっかり鬱蒼とした木々の枝に覆われた。
爺がいつの間にか杖代わりに拾っていた木の棒にもたれて、言った。
「どこまで行くつもりだ」
「当てはないさ。部屋にいても暑いばかりだし、しばらく外で寝ようと思う」
「酔狂者だな」
「そうでもない」
ずっと右手に見えていた川が見えなくなっていて、道もだらだらの上り坂になっていた。辺りは薄暗く、見えない事はないけれど、それでも足元に気を付けないと蹴躓きそうである。
獣道というほど荒れてもいないが、整備されているわけでもない。
登山道なのか何なのか解らないが、ともかく道らしき場所を辿って歩いて行くと、やがてぽっかりと開けた所に出た。ぼろぼろの木製の鳥居があって、その向こうに廃屋がある。鳥居をくぐって行ってみると、どうやら拝殿らしい。
「廃神社だな」
「うむ」
そこいらには草が伸び放題に伸びている。
綾科の神社の多くはきちんと手入れされているけれど、こういう風に捨てられた様な場所もある。珍しいなと思った。
「綾科の連中が神社を放っておくとは珍しいね」
「意図的ではないか。元は知らんが、ここは人間の為の神社ではない様だ」
と爺が拝殿の前に立って、言った。
私もそちらに行ってみると、拝殿の前にどんぐりや木の実、ガラクタの様なゴム人形や、野の花を摘んで来た様なものが沢山並べてあった。お供え物のつもりらしい。
「狸かな」
「そうだろう」
綾科には化け狸の一党があって、そういう連中は街中に居を構えて人間のふりをして暮らしている。当然そうでない、自然の中で狸として暮らしている者も沢山あって、そういった狸たちがここに来る様である。
「狸神社じゃ金長の系譜か知ら」
「必ずしもそうではあるまい。山神の一種であると思うが」
よくよく見てみれば、拝殿も屋根は抜けていない様であるし、境内に当たる広場もそれなりに掃除されている様である。しかしそこは流石に狸のする事だから、人間がする様に行き届いた清潔さというものはない。尤も私などはそんな事には一向拘泥しない。
流石に山の中になると、街中の部屋よりもよほど涼しい。蚊がうるさいのが難点だが、気にしなければ気にならないから、気にしない事にした。
拝殿の軒先に貧乏神どもと並んで腰を下ろして座っていると、周囲から蜩の声が迫って来る様であった。辺りはすっかり暗くなっているけれど、空を見上げてみると、薄明かりが差していて、しかし星がいくつか瞬いていた。
ぶぅん、ぶぅんと時折嫌に大きな音をさせて飛んで来るのはカナブンである。明かりがなくてもこんなに飛んでいるから、明かりが灯れば大挙して押し寄せて来るであろう。
暗くなってしばらくすれば目が慣れて来て、そこいらに何があるのか解る様になって来るけれど、それでも闇の濃い辺りは真っ黒な塊になっていて、何だか解らない。そういうものは怖い。怖いけれど、怖いというのは私の最も好きな状態の一つだから、構わない。
「あの辺から何かがこちらを見ちゃいないか」
「妖怪か」
と爺が言った。
「何だか解らない。しかし解らないものは、怖いね」
「なぜ怖い」
「解らないからさ」
「解っているものは怖くないか」
「その様な単純な対比ではないが、解っているものに感じる怖さと、解っていないものに感じる怖さは違う。相手が何を持っているか解らなくて怖いのと、刃物をちらつかされて怖いのとは違うだろう」
「そうかも知れぬ」
「思うに、根源的なものを伴う恐怖というのは前者だね。人知を超えたものであるから、理解の及ばぬところが怖い。しかし貴君の様な貧乏神に対する恐怖は、貧乏という実際に対する恐怖であるから、本当の恐怖とは違うね」
「失敬な。畏怖は実際を伴う事も多々ある。怨霊の類がいい例だ。あれは災禍をもたらすが故に畏れられ、祀られておるのだ」
「だから神様への恐れというのは、根源的なものとは少し違うのだ。本当の恐怖に理由はない。しかし神様や妖怪は実害や祟りを伴うから怖い」
「それだけではあるまい」
「そうか知ら」
「わしらは本来形を持たぬものなのだ。祀り上げる対象として形を与えたのは人間だ。要するに、お主の言う得体の知れないものに形を与え、恐怖の理由を明確化したのが神であり妖怪なのだ。すなわち、わしらの恐怖の根源はやはり正体不明にある。たとえ相手が刃物を持っていたとしても、どの様に動くか解らぬという恐怖は残るだろう。なんであろうと、恐怖とは常に得体の知れなさは伴うものよ」
「すると、そのお姿は仮の姿というわけか」
「その辺りは一概にそうだと言えるわけでもないが」
「理由を与えるという点に於いては科学も同じ理屈だね。しかし科学の場合は解らないものに理由を与えて支配を試みる」
「そうかも知れぬ。かつての人間は畏怖の対象として自然に神々を見たが、確かに今の人間どもは自然を解明して支配しようとしているな」
「それを進歩と呼ぶか否か」
「世の中に進むも戻るもありはせん、ただ変化があるのみよ。進化だの退化だのは思い込みに過ぎぬわい。それにしたって、まったく窮屈な世の中になったものだ」
と爺はやれやれと頭を振った。しかし世の中に貧乏人がいる限り、貧乏神が廃れる事はないだろうし、神々様も中々しぶといから、そうそういなくなりはしない様な気がする。
私は煙草をくわえて火を点けた。すっかり暗くなったけれど、紫煙の緩やかに立ち上る様子は不思議に白くはっきりと見える様であった。
いつの間にか女の貧乏神が拝殿前の広場をぽてぽて歩き回っていた。退屈を紛らわしているらしい。
そんな風に歩き回っていた貧乏神が、ふと足を止めて、向こうの草むらを眺めている。真っ暗だけれど、何か見えているらしい。
不意に、貧乏神の見ている先でぽっ、ぽっと音を立てて、小さな火が灯った。それがいくつも数を増やし、ふわふわと浮かびながらこちらへ流れて来た。急に光源が出来て、暗かった境内が少し明るくなったが、その分、別の場所が余計に暗くなった様に思われた。
小さな火は境内を飛び回っていたが、急にぽんと音を立てて消えたかと思うと、何かがころころと地面にいくつも転がった。
目を細めてよく見ると、何だかふはふはした小さな塊である。「かみさまー」「かみさまー」と言いながら転がっている。子狸らしい。女の貧乏神は足元を狸にまとわりつかれてわたわたしていたが、やがてバランスを崩して尻もちを突いた。
「あっ、かみさま、大丈夫ですか?」
転がり回っていた子狸たちが後ろ脚で立ち上がって、まん丸の手で貧乏神の背中をさすったり、草や土がついたのを払ったりしている。狸たちにとっては、貧乏神も神様のうちらしい。
助け起こされた貧乏神は、子狸たちを伴って私どもの方へとやって来た。
子狸たちは鼻をふんふんと動かして、私を見てひそひそ囁き交わした。
「人間がいる」
「でもかみさまも一緒だぞ」
「毛玉ども。ここで何をしておるのか」
爺が偉そうな口ぶりで、言った。子狸たちは「へへー」と言って平伏した。
「おいらたち、今度、裏側に慰安旅行に行くんです」
「親分がそこで余興をしろって言うから」
「だから、その練習に集まったんです」
綾科は物の怪の類に出くわしやすい場所である。それと同時に、我々の現世と違った、神々や妖怪の暮らす世界と非常に近しい。何かの拍子にふとそちらに迷い込んだりする場合もあり、知っている者はこちらを表、あちらを裏と呼ぶ。
私も何回か行った事があるけれど、こちらが人間だと解ると、神様も妖怪も無暗に絡んで来るから、大変面倒くさい。また表世界と違って神社の影響力がないから、悪意を持って近づいて来る輩も少なくないので警戒を要する。
そんな物騒な所でも、狸みたいな連中には曾遊の地であるらしい。
狸自体は妖怪ではないが、綾科の狸は街中に暮らす者も山に暮らす者も人語を解するので、妖怪に近しい部分もあるのだろう。
その成果を見てくれと言うから、見た。ぽんと跳ねて、毛玉が火の玉になったり、梟になったり、三匹重なって大きな毛の塊になったり、何だかよく解らないけれど、女の貧乏神は面白そうに拍手なんかしていた。
爺の方は私と並んで座り、手に持ったぼろぼろの団扇で漫然と顔をあおいでいる。
「貴君は裏には行った事はあるか」
「無論だ」
「こちらとどっちの居心地がいい」
「居心地は向こうの方がいいが、あちらに居過ぎるとこちらに存在できなくなる。そうやって忘れられた神や妖怪は沢山いるからな。居心地がいいからといって油断は出来ん」
「そうか」
そうらしい。しかし居心地がいいならば、別段こちらの世界に固執する必要もない様に思われるけれど、その辺は微妙なものがあるのだろう。
子狸どもは自慢げにいくつも変化の術を披露し、女の貧乏神は喜んでいた。私と爺は退屈な顔を頬杖で支えていたが、狸はちっとも気にしていなかった。
段々億劫になったので、拝殿の中に潜り込んでそのまま横になった。床は硬いけれど止むを得ない。それでも横になっているうちに眠ってしまった。