剣の舞の少女.四
「オデエさん、あんたたち神様が余計な事をするから、話がややこしくなっているんですよ。少しは反省したらどうです」
私が突然現れてそう言ったから、絵馬を手に取ってしけじけと眺めていたらしいオデエさんは面食らった様に私を見返した。
「何だ突然。何か進展はあったのか」
「進展も何も、江里口君の夢枕に件の山神が立って、貴様が白面の娘をたぶらかす云々などと文句を言いに来たそうですよ。お仲間のする事くらいきちんと律していただかないとこちらが迷惑する」
「なに、天狗の奴、そんな事までしやがったのか」
オデエさんは絵馬を元通りにかけ直した。
「何です天狗とは」
「修験道の神は極端に行くと天狗道になるんだよ。半分は妖怪みたいな奴だ。愛宕の太郎坊だの鞍馬の僧正坊だのみたいに山一つ任されている大物はともかく、有象無象の天狗は考えに屈伸性がないから困る」
「成る程」
伊吹に会った日は、面倒になっていたから、ひとまず家に帰って寝た。そうして翌日、また出かけてオデエさんの所に来たのである。
オデエさんは苛々した様子で、祠の前を行ったり来たりした。
「本当に無茶ばっかりする奴だ。天狗道に足を突っ込んでいる奴はする事が性急でいかん」
「そちらの都合はどうでもよろしい。江里口君は明日香君が自分を好いているらしい事を察していますよ」
「本当か。それは好都合じゃないか」
「好都合なものですか。江里口君は明日香君に告白されても断ると言っています」
「なんだと! 伊吹の奴、どういうつもりだ!」
髪の毛を逆立てて憤慨するオデエさんに、昨日の顛末を話して聞かした。
オデエさんはうろたえた様に唸った。
「け、剣舞があいつらの恋を阻んでいるだと……」
「つまりあんたが邪魔なのではないですか」
「やかましい、邪魔しているのは天狗の方だ。くそ、まずいぞ。縁結びの神としてこのままではおられん。何とかせねば。おい何樫、どこへ行く」
「僕はもう帰ろうと思う」
「駄目だ。乗りかかった舟だろうが、お前も協力しろ」
「はあ」
「まずいなあ……伊吹も明日香も生真面目だからなあ……」
協力しろと言われたけれど、オデエさんは腕組みして唸るばかりで何の方策も立たない。
私は石垣に腰をかけて煙草をくわえた。空は灰色で、しかし雲は薄く、雨が降りそうな気配はない。それでも空気はじっとり湿って重い。
オデエさんはしばらくぶつぶつ言っていたが、やがて私の方を見た。
「ひとまず明日香とも話して来い。早まって告白したらまずい状況なわけだから、少し押し留めておくんだ。こうなった以上、おれの方は天狗を抑えねばならんらしい。風神と話をしに行かにゃ……気は乗らんが宗次にも頼まねばいかんか」
初めからそうしておいて欲しいと思ったけれど、これ以上口論したところでくたびれるだけで無意味だから、はいはいと請け負って家に帰った。
部屋の前に立つと、中がうるさい。
変だなと思いながら中に入ると、座敷童子の紗枝が貧乏神どもを追っかけ回していた。
私の部屋には物がほとんどないから、何かをひっくり返すとかそういう心配はないけれど、狭い部屋の中でどたどたしているから、何だか危なっかしい。
「紗枝君ではないか、何をしているのだ」
私が言うと、女の貧乏神の背中に飛びついていた紗枝はこちらを見た。
「おう、邪魔してるぞ。遊びに来たんだ」
「座敷童子が自分のお座敷を飛び出してどういうおつもり」
「へへへ、それが今はたけがいるだろう。そのせいか知らないけど、不思議な事におれは随分自由が利く様になったんだ。勿論あんまり長くは無理だけど、こうやって貧乏神に会いに来れる様になった。今まであすこから滅多に出られなかった分、いっぱい遊んでやるんだ」
物騒な話だと思った。
爺がぐったりした様子で壁にもたれかかった。
「また座敷童子が現れるなぞ、なんという所だ」
「出て行っても構わないよ」
「それはそうだが、どうにもそういう気が起こらん。困ったものだ」
何だかよく解らないがそうなのだろう。
紗枝は床に腰を下ろして、着物の袖をぱたぱたと振った。
「あー、楽しい。しかし何樫、お前一人で出かけるなんて、神社にでも行ってたのか?」
「神社というよりは祠だ」
「誰の」
「オデエさんだよ」
「オデエさんか。随分会わないな。元気か?」
「元気だが、面倒事を持ち掛けて来るから辟易している」
「何だ面倒事って」
事の顛末をかいつまんで説明すると、紗枝は腹を抱えて笑い転げた。貧乏神どももにやにやしている。
爺が座り直して口を開いた。
「お主、場を引っ掻き回しておるだけではないか」
「僕に言われても困る。天狗が余計な事をするからいけない」
「それはそうかも知れんが、お主がオデエさんの名前を出したから、伊吹少年も余計に恐縮したのではないか」
「なぜ」
「山の神だけならばまだしも、剣舞の面の神にも怒られていると思えば、この恋は実らせるものではないと思うのも無理はあるまい」
「しかしオデエさんは怒っているわけではない」
「お主はそれを伝えておらんだろうが」
成る程、道理である。しかしこの爺は理屈っぽくていけない。
ともかく万年床に腰を下ろして煙草をふかした。明日香と話をしろと言われたけれど、何を話せばいいのか解らない。そもそも私は話なぞしたくないから、困る。
紗枝が私にすり寄って来て、猫なで声みたいな変な声を出した。
「おれの力が必要じゃないか。座敷童子が力を貸せば百人力だぞ」
「結構です」
「なんでだ! 面白そうじゃないか、のけ者にしないで交ぜておくれよ」
それが本音だろうと思った。
ともかく仕方がないから、また放課後まで待って、それから出かけた。紗枝も一緒である。
爺は紗枝と一緒にいるのが嫌だと言って部屋に残ったが、女の方の貧乏神は事の顛末が気になるのか、紗枝に怯えながらも私について来た。
それで高校に着いたけれど、変な三人連れ、といってもうち二人は人ではないけれど、そんな連中が校門の所に立っていれば、当然警戒される。
用務員が出て来て、どうしましたと言った。
「人を待っているのです」
「誰です」
「中野明日香君」
「生徒ですか。何年の何組」
「それが解らないのです」
「はあ」
用務員は怪訝そうな顔をして私共をじろじろと見ていた。もう授業が終わったらしく、校庭では運動部らしいのが走ったり歩いたりしている。
「ここで待っていて埒が明くのか」
と紗枝が言った。
「僕にも解らないけれど」
「剣舞をやっている娘なんだろ。詰め所に行くのが早いんじゃないか」
それはそうかも知れないが、囃子連の詰め所に行った時の様に子供に小突き回されてはたまったものではない。しかしこのまま用務員に不信の目を向けられているのもいい気持のするものではない。
「貴君、明日香君を呼んでくれませんか」
「だから何年の何組ですか」
「解らないから、職員室にでも行って聞いてください」
用務員は変な顔をしていたが、私なぞにかかずらっているのが勿体ないと思ったのか、というのは私の邪推に過ぎないけれども、ともかく職員室に行ってくれた。
そうして戻って来て曰く、もう帰っただろうという事である。用務員はここいらに住んでいるわけではないらしく、あまり要領を得た顔をしていない。
「鬼剣舞の稽古場がどうとか担任の先生が言っていました」
「有難う」
それで紗枝と貧乏神を連れて詰め所に向かった。
朝から雨は降っていないけれど、晴れてもいないから、所々道路が湿っている。場所によっては水が溜まったままになっていて、それが薄明るい空の光を照り返して、変に光っていた。
「紗枝君、僕は常々思うのだけれど、僕みたいな怠惰な人間が何をするのに動き出すという、その最初の一押しというのは人間業ではないと思う」
「自分で動いているんじゃないのか」
「誰が動かしても同じ事なので、問題は動いている僕と動いていない僕はまるで別物だという事です。その別々のものを一つの体で間に合わせているという点が難しい」
紗枝が何だか解らないという顔をしているうちに詰め所に着いた。
詰め所は漆喰塗りの塀に囲まれた物々しい外見の建物で、在善寺のすぐ隣にある。中ではもう稽古が始まっているのか、口唱歌に合わせて床を踏む音が聞こえている。
外門を入ると屋敷の入り口がある。武家屋敷の様である。
玄関は広く、下駄箱に沢山の靴が突っ込まれていて、真正面にはお不動さんの像があり、その上に南無不動明王という大きな書がかけられ、左右に廊下が伸びている。右側には台所があって、左側が稽古場である。台所の方は何だかどたどたしていて、うるさい。
「ははあ、流石は本家本元、ずんと重い気配があるな」
紗枝が面白そうに言った。魔を祓うお不動さんのお膝元であるせいか、貧乏神は少しびくびくしている。
頼む頼むと案内を乞うと、台所の方からおばさんが出て来て「あら何樫さん」と言う。
「めっずらしいねえ、どうしたの。貧乏神さんまで一緒で」
「明日香君に用があるのでね」
「あら、そうなの。明日香ちゃんなら稽古場にいるわよ」
と言うなり、おばさんはさっさと引っ込んでしまった。
ひとまず上がり込んで、廊下を左に辿って行くと、障子の前にスリッパが並んでいて、その向こうで床を踏む音が聞こえている。
障子を開けると、老若男女、動きやすい服装をした連中が、左腰に模造刀、右手に扇を持ってあちこちに立っていた。今日は初心者の稽古らしい。
「デグヅクデグヅグデグヅグヤ、デグヅクデグヅグデグヅグヤ、の、で、ここでもう一度、トォ! で決めて、デェデェ、デェデコデ、と」
誰かが口唱歌を言いながら見本を踊っている。束ねた黒髪が動きに合わせて揺れる。明日香である。流石に動きがしっかりして、見事なものだと思う。しかしむしろ上手過ぎて手本にするのが難しい様にも思われた。
皆稽古に集中しているのか、私共が入って来たのに気づいていない。気づいた者も、ちょっと一瞥しただけでまた元通りに前を向く。真面目で結構な事である。
稽古場は木の床で、同じく木の壁がぐるりとある。
ガラス張りの窓がいくつかあって、体育館というか道場というか、やはりそういう雰囲気である。
邪魔にならぬ所に腰を下ろし、練習しているのを眺めていると、やがて時間が来たのか、ありがとうございました、と稽古していた人たちが銘々に片づけを始めた。
こちらに気づいた明日香が汗を拭き拭きやって来た。
「何樫さん」
「お邪魔しているよ」
「ええ、見学なんて珍しい……あれ、貧乏神さんと……もしかして椿屋の?」
「おれを知っているのか。まあ剣舞関係者なら直会で来た事があるかもな。よろしくな」
紗枝が馴れ馴れしくそう言って、明日香の手を取った。明日香は笑ってそれを握り返した。
「どうぞよろしく。椿屋さんには何度かお邪魔しました。中野明日香といいます」
「ふふん、可愛いな。いい手をしている」
そう言って紗枝は明日香の手を撫でている。明日香はくすぐったそうに笑った。
「貴君は教導役を任されていたの」
「ええ、今日は一般の人を招いた講座なんです。市民講座っていうのかな。毎週やっているんですよ」
「皆素人か。教えるのは大変ではないかね」
「いえ、皆さん真剣に取り組んでくださるし、自分の動きを見直す事にもなるし、悪くないです」
相変わらず生真面目な娘だと思った。
「他の連中がいないね」
と何気なく言うと、明日香の表情が曇った。
「……今日は龍神社で神前舞がありまして、そちらに皆出払っているんです」
おやおやと思った。それでは明日香は神前舞の組から外されてしまった事になる。紗枝が小さな足で私の肩を蹴っ飛ばした。
「無神経な奴だな、お前は」
「やめなさい」
貧乏神が変に慌てた挙動で腕をぱたぱた振った。明日香を気遣っているらしい。
明日香は苦笑交じりに頭を掻いた。
「ありがとうございます」
講習者たちが挨拶して帰って行って、稽古場がしんとした。
もう外も日が暮れかけて、窓の外が暗くなっているせいか、室内の明かりで硝子が鏡の様になっている。
稽古場は閉めるけれど、ちょっと手伝って欲しい事があるのだがと言われた。嫌だけれど、断ったって仕方がないから促されるままに稽古場を出た。
玄関から入って廊下を右に、つまり稽古場を出て廊下を直進すると、突き当りに台所があり、左側に襖があって、そこが座敷になっている。
八畳の座敷が三間並んでいて、それが襖で区切られている。剣舞連の連中が何か会合を行う時は、襖を取り払って長方形の部屋にするらしい。
座敷に入る前に台所を覗き込むと、おばさんたちが三、四人、がやがやと話をしながら鍋で何か煮たり、皿やコップを並べたりしている。よく見るとおじさんも交ざっている。
「今日の神前舞が終わったら、ここで直会があるんです。襖をしまって座布団を出しておきたいんですけど、手伝っていただけますか」
「そうか」
台所のおばさんとおじさんは、残って支度をする組なのだろう。
それで襖を取っ払って、廊下を挟んだ向かいの小部屋に仕舞い込み、そこから座布団をいくつも運んで並べた。
そんなに大変な仕事ではない。さっさと済んで、やれやれと思っていると、お茶でもどうかと言われたから適当な座布団に座った。
貧乏神は物珍し気にきょろきょろと辺りを見回している。紗枝は部屋の隅を指でなぞって眉をひそめていた。
襖を取り払った座敷は無暗に広い。そこにぽつねんと座っていると、何だか落ち着かない気分になって来る様な気がした。
そうしているうちに明日香が稽古着から着替えて来た。地味な薄青の紬に黒い袴を違和感なく着こなしている。
綾科では普段着が着物の若者は珍しくない。貧乏神も紗枝も着物だから、シャツにジーンズ履きの私の方が変に見えるくらいである。
貴君はいつも袴だねと言うと、踊る時にいつも袴だから、慣れようと思って普段着にしているうちにこうなった、と言った。
「粗茶ですが」
と茶托に乗った湯飲みを差し出した。有難く頂戴して顔をしかめてすすっていると、
「なあ、雑巾はないか」
と紗枝が突然言った。明日香は目をぱちくりさせた。
「台所にありますけれど」
「ちょっと借りるぞ」
そう言って座敷を出て行った。座敷童子的に、掃除が行き届いていないのが気になって仕方がないらしい。明日香は困った様に私を見た。
「ええと、いいんでしょうか」
「やらせておけばいいさ。座敷童子なんだから」
雑巾がけなんか始める紗枝を横目に、私共はお茶を飲んだ。明日香は腕時計を見て、ふうと息をついた。
「八時頃に仕出しが着く予定なんです」
「どこの」
「東仙さんです」
老舗の大きな仕出し屋である。精進料理などにも対応しており、剣舞連も贔屓にしているのだろう。
「たまにくぼたからも取ると聞いた事があるけれど」
「そうですね。人数が多い時は東仙さんで、少ない時なんかはくぼたさんにお願いしてます」
「汁物はこちらで作るのだね」
「はい。中身の入った鍋を持って来るのは大変ですし、榊原さんのけんちん汁は凄く美味しいんですよ」
そんな風に屈託なく笑う明日香は、すっかり吹っ切れた様に見える。しかしさっき龍神社での舞を外された事を話す時は、勿論悲しげであった。
そういえば、伊吹の方には夢枕に天狗が立ったそうだが、明日香には何もなかったのであろうか。
「貴君、朝霧での舞以来、何か変わった事はないかね」
「変わった事?」
「神様が夢枕に立ったりさ」
「いえ、そういう事は特に……」
「オデエさんに会ったりしていないかね」
「オデエさんに? いえ……お参りしたのも前の事ですし」
と明日香は頬を染めてもじもじした。縁結びの祈願をしに行ったのだと思い出したらしい。
「倒れた時の事は覚えていないのかね」
「ぼんやりとだけ。でもはっきりとは解らなくて」
どうやら、朝霧で倒れた時の事の詳細もあまり覚えていない様である。天狗も伊吹にばっかり怒って明日香に何もしない辺り、助平な奴だと思った。
尤も、明日香の方も恥ずかしがって本当の事を隠している可能性もある。しかしそんな追及をしても仕方がない。
「元々龍神社でも白面をやる予定だったの」
私が言うと、明日香はどきりとした様に視線を泳がしたが、やがて首を横に振った。
「朝霧さんの所は若手舞でしたからわたしでも白面を任せてもらいましたけど、龍神社ではもっと上手い人が白面を踊る予定でした」
「じゃあ別の面で踊る予定だったのかね」
「いえ、今日は踊る予定はありませんでした。するにしても鉦か笛だったと思います」
「じゃあ別に失敗を咎められたわけではないじゃないか」
「それは……そうですけど」
と明日香は俯いてしまった。私の隣にいる貧乏神が、ぷんぷんと怒った様子で私を何度も小突いた。
鬱陶しいから知らん顔をしていると、今度は掃除を終えたらしい紗枝が後ろから私の脇腹を引っ掴んだ。思わず体をよじらずにはいられない。
「やめなさい」
「本当に無神経者だな」
「どうして」
「どうしてもくそもあるか。お前は引っ込んでいろ」
それならそれで構わないから、壁に寄り掛かってお茶をすすった。
紗枝はふんと鼻を鳴らして明日香に向き直った。
「恋してるんだろ」
「え? はぇ? どうして……」
「おれは座敷童子だ。そんな事はお見通しだ」
明日香は途端に真っ赤になって両手で頬を抑えた。座敷童子だからも何も、私から話を聞いたからなのだが、明日香の方は紗枝の言う事を鵜呑みにしている。信心の度合いの違いだろう。別に口を出す事でもないから私は黙っている。
「お前さん、どうしたいんだ。おれは当人が望む恋なら応援するが、望まぬ恋におせっかいを焼くつもりはない。そこをはっきりさせてもらいたいな」
紗枝は傲然としている。見た目は幼い娘でも、中身は百歳を超えているから、そういう点で偉そうにしているのだろう。貧乏神がうんうんと頷いている。
明日香は突然の事に頭が追いついていないのか目を白黒させている。
紗枝はにやにやしながら明日香にすり寄った。
「恋は盲目というからな。相手の男の事も聞かせてもらいたいもんだ」
「え、あの、わたし、別に……」
明日香は赤くなってもじもじと両手指の先を絡み合せているばかりで、ちっとも要領を得ない。貧乏神がじれったそうに明日香の着物の裾を引っ張った。明日香は「ひゃあ」と声を上げた。
「あ、あの、い、言わないといけませんか?」
「言いたくないならいいさ。でもお前さん、そうやってずっと自分の気持ちを隠したままでいるつもりかい? 今の関係が壊れるのが怖いのか?」
紗枝が言うと、明日香は俯き気味に口を開いた。
「それは……そうです。あいつとはずっと幼馴染みたいなもので……いつの間に自分がこんな気持ちになっていたのか見当もつかなくて」
「ははあ。気づくと相手を目で追っていたり、何かあると彼ならどう思うかとか考えたりか」
「う……」
明日香は真っ赤になって、もう顔から火でも吹きそうな勢いである。
「格好いいんだろう。苦み走った顔か」
「い、いえ、伊吹は、優し気な顔です。実際いつも優しくて……」
「そうか、伊吹というのか」
と、紗枝は知っている癖に白々しい事を言う。しかし明日香は照れた様に視線を泳がした。
「は、はい」
「それじゃあ一緒にいる時は幸せだろう」
「そ、それは、はい……でも、最近は面と向かうと照れてしまって、少し素っ気なくなっていたかも知れません……」
「じゃあ嫌われたか」
「いえ、それでも、あいつはこっちを気遣ってくれて、優しくて……それで余計に恥ずかしくなってぶっきらぼうに接してしまって」
「ふふん、可愛いなあ、お前は」
「あう……」
「しかし優しさだけで惚れる様な安い女じゃないだろ、お前さんは。その伊吹君はどんな魅力があるんだい」
と紗枝は追及の手を緩めない。明日香は口をぱくぱくさせながらも、ぽそぽそと話をした。
「物心つく頃からの付き合いで……わたしもお囃子をやっていたし、伊吹も剣舞をやっていて……でもわたしは剣舞の方が好きで、伊吹はそうじゃなかったんです。でも、伊吹はわたしの踊りが好きだって言ってくれて、わたしも伊吹のお囃子だと凄く踊りやすくて……ずっといい友達だと思っていたけど、気づいたら、いつも伊吹の事が気になって、稽古の時も伊吹がお囃子で来てくれるだけで凄く気合が入ったりして……」
ここでも剣舞である。
私は呆れているけれど、紗枝と貧乏神は面白そうににやにやしている。
一通り明日香が話し終えた後、紗枝はおほんと咳払いをした。
「解った、確かにお前さんは伊吹にぞっこんの様だ。けどな、おれは椿屋の座敷童子だ。長年、色んな連中を見て来た。椿屋には新婚旅行で来る様なのもいるし、勿論恋人同士で来るのだっている。長い事見ているとな、続きそうなのとそうでないのとが解るんだ」
「そ、そういうものなんですか?」
「続きそうもないのはな、傍目にはお熱いお二人なんだよ。でもな、互いに自分が好きな相手の姿しか見えてないんだ。新婚や遊びの恋人同士なら猶更だろう。けどな、人と人が付き合うってのは幻じゃないんだ。現実の生活はその先も続いて行く。自分の理想を相手に重ねているばかりでは決して長続きしない。いずれ現実が幻に追いついて、互いに嫌になってしまうのさ。お前さんは、どうだ? 自分の見たい様にしか相手を見ていなかったりしないか?」
紗枝は見た目に似合わぬ老獪さで、明日香の目をじっと見つめた。
明日香はややたじろいだ様子だったが、すぐにいつものきりりとした目つきになって紗枝を見返した。
「わたしは……それほど優れた人間ではありません。間違っているかも知れないけれど……伊吹を自分の都合のいい様に見た事はありません。向こうもきっとそうだと思います」
「それなら、自分に嘘なんかついちゃいけない。そう思える相手なら、自分も誠実に思いを伝えるべきだぞ」
紗枝が言うと、明日香は答えあぐねた様に口を曲げてまた俯いた。その肩を貧乏神がぽんぽんと叩いた。
「貧乏神さん……」
顔を上げた明日香に、貧乏神はにっこり笑ってびしりと親指を立てた。
この連中がこんな事で結託するとは思っていなかった。まったく物騒な話で背筋が寒くなる。
というより、そもそもオデエさんの思惑では明日香に告白を思い留まらせねばならなかった筈である。これでは却ってけしかけている。しかし今更どうしようもない。
その時、玄関の方から案内を乞う声がした。明日香がハッとした様に腕時計を見て立ち上がった。
「今行きます!」
仕出し屋が来たらしい。明日香は足早に座敷を出て行った。紗枝と貧乏神が顔を見合している。
「うーむ、もう少しだと思うんだがな」
貧乏神もこくこくと頷いた。
「貴君らはする事が性急ではないか」
と私が言った。紗枝がふんと鼻を鳴らした。
「お前はする事が見当外れ過ぎて埒が明かん。オデエさんも人選を間違った事をするものだな。こういうのは乙女に任せておくもんだ」
「僕は最初からそう言っているじゃないか。しかし明日香君をけしかけたって、江里口君の方が断ると決めているんだから無理筋だぜ」
「そこの誤解を解くのはお前の役目だろう」
「そうか」
「しかし、その伊吹とかいうのに脈はありそうなのか」
「天狗だのオデエさんだのが余計な事をしなけりゃ上手く行くだろうさ」
「そんなら猶更誤解を解いておけ」
そんな事を話しているうちに、直会の仕出しが座敷に運ばれて来た。
お膳がいくつも座布団の前に並ぶ。お膳の上に飛竜頭と椎茸の煮物、湯葉とこんにゃくの刺身、胡麻豆腐、山芋のしんじょう、はやとうりの漬物、精進揚げ、稲荷鮨に和え物などが並んでいる。精進のお膳である。
台所にいたおじさんやおばさんたちも一緒になって膳を並べているうちに、表が少し騒がしくなって、神前舞に行っていた連中や、檀家筋や神職、氏子連中がやって来た気配である。
どやどやと入って来た紋付を着た連中が、私共を見て目を丸くした。
「これはこれは何樫さん。貧乏神さんまで」
「お邪魔していますよ。神前舞は如何だったの」
「いい具合で、龍神様も喜んでおられた様です……やや、これは椿屋の」
「ああ、杉沢のとこの坊か。いつの間にか随分と恰幅のいい親父になったな。寝小便癖は治ったのか? あの時は洗濯が大変だったぞ? あん?」
と紗枝がにやにやしながら言うと、他の連中がどっと笑った。
「座敷童子さんにかかれば敏夫さんも坊か」
「ええい、やかましいわい。お紗枝さん、ガキの頃の話を蒸し返さんで下さい」
杉沢さんはもう五十を越したおじさんである。それが紗枝みたいなのに坊主扱いされて軽口を叩かれても愉快そうに笑っているのは、ここらならではの光景かも知れない。
「しかし、何樫さんたちがおられるのでは膳が足りるか」
「追加を頼もうか」
「僕らはもう帰ろうと思うから、お構いなく」
「あらら、そうですか。それは残念」
次々に人が入って来て、白けていた座敷が急に陽気になった。
上座に設けられた二席には誰も座っていないが、きちんとお膳が据えられている。あすこはここのお不動さんと、今日の神前舞に行った龍神社の龍神さんの席である。
格のある神々様は私みたいなのには軽々しく姿を見せる癖に、こういった場所には勿体ぶって姿を現さない。尤も、姿は見えないけれどこの場にいるらしい事は気配で解る。
「オデエさんは来ないの」
「お招きしたんですが、忙しいとかなんとかで」
そうらしい。山神天狗と話でもしに行っているのかも知れない。
麦酒瓶が行き交って、お銚子が運ばれて来て、どたどたと賑やかにやっている。
お酒は飲みたいけれど、腰を据えれば長尻する事は目に見えているので、私は貧乏神と紗枝とを連れて座敷を出た。
明日香も行ったり来たりして忙しそうにしている。もうこれ以上話もできないだろう。
帰ろうかと思っていると、稽古場の方から伊吹がやって来るのが見えた。
「江里口君」
「あ、何樫さん」
伊吹は今日もお囃子を手伝っていたのか、きまたに腹掛け、上に法被といういでたちである。手甲脚絆はつけたままだが、鉢巻は解いて首にかけている。道具を片付けていたのかも知れない。
「貴君、今日もお囃子かね」
「ええ、笛です。今日は凄かったですよ、久々に宗次さんがカッカタで、龍神さんも大笑いしていらっしゃった様でした」
「立花君が踊ったの。しかし姿が見えないね」
「一度お寺に戻って僧衣に着替えて来ると仰ってました」
「そうか」
話している伊吹を、紗枝と貧乏神がまじまじと見ている。
「ははあ、お前さんが伊吹だね」
「えっ、そうですが……あれ、もしかして椿屋の」
「ふふふ、真面目そうだな。悪くない」
「え、あの」
伊吹が困惑していると、台所の方から声がした。
「伊吹、ちょっと手伝ってくれ」
「あ、はい! じゃあ、すみません、失礼します」
と行きかけた伊吹を私が呼び止めた。
「ああ、貴君」
「え、何ですか」
「オデエさんは怒ってはいない。むしろ貴君たちを応援する意図があって僕に面倒事を押し付けたのだ。神様なんぞの言う事は放っておいて、自分の思いに正直でよろしいだろう」
「んん? それって……」
「では僕たちは帰るからね」
「ちょ、待ってください。それってもしかして中野の……」
「ほらほら、おれたちに構っている暇などないぞ。あの子を泣かすなよ」
紗枝がにやにやしながらそう言うと、貧乏神が伊吹の背中を両手で押した。
伊吹が突き飛ばされる様に台所の方を向くと、丁度出て来た明日香とばったり鉢合わすところだった。
○
夏越の大祓は、一年がちょうど半分終わった事を祝うのと、その半年の間に溜まった汚れを払い、残りの半年を健やかに過ごせる様祈願する催しである。厄払い自体は六月の半ば頃から茅の輪が飾られる事で始まり、それをくぐる事によって無病息災を願う。
六月晦日の大祭が間近になると、家剣舞といって、綾科の旧家などの庭先や、住宅街の広い空き地などを巡って剣舞が舞われる。
お囃子が巡り囃子と呼ばれる調子のお囃子を演奏しながら町内を練り歩き、踊り手たちは順々に家などを巡って、庭先や街角で厄を払うために勇壮に舞い踊る。
無論、一つの踊り組だけでは賄えないから、いくつもの踊り組が分担して、市内のあちこちで踊るのである。これを見に来る観光客は多く、この時期の綾科は賑やかである。
そうして晦日の大祭になると綾科神社に舞台は移り、日中から神楽殿の前で剣舞と神楽が始まる。
剣舞が幾番か舞って、神楽も数演目を舞う。神楽は神社の巫女たちが行う純然たる神事の舞もあるが、綾科の町内各地の神楽組で行われている滑稽な里神楽も挟まれ、観客は大いに笑ったりする。
そんな事を互い違いにやって、最後は巫女の神楽舞で終わる。
里神楽で笑い、勇壮なる剣舞と優美な神楽舞を見ると身も心も引き締まると言うけれど、私は引き締まった覚えがない。面白いとは思うけれど、それだけである。
「よし、行きましょう」
店の戸に鍵をかけた蓮司君が言った。手に折詰らしい包みを持っている。同じものを下げた梓さんと私と、三人で連れ立って神社に行こうというのである。
今日は昼間の間は神社に行って、夜からの営業らしい。朝から午前の間に蓮司君は夜の仕込みを済ませた様である。
貧乏神どもは勿論来たがらなかったら部屋で留守番である。
まだ梅雨雲がぐずぐずしていて、昼下がりの空はすっきりと晴れた様な具合ではないが、それでも時折雲の隙間から青空が覗いた。
大参道も人でいっぱいである。観光客が多く、ここに軒を連ねる商店は書き入れ時らしい。
そんな人ごみの間を縫ってだらだらの坂を上り、神社へと辿り着く頃には、汗と湿気で肌がじっとり湿っていた。
「もうじき夏本番ですね」
と蓮司君が額の汗をぬぐいながら言った。
境内まで上がると、もう舞は始まっていた。今は巫女神楽らしく、優美な笛の音と、巫女の鳴らす錫杖の涼し気な響きが、ぎゅうぎゅうと詰まった人の間を通り抜けて聞こえて来る様であった。人に交じって、人間以外が沢山いるらしいのが解った。
人ごみを迂回して、神楽殿の裏に回る様に進んで行った。仕切りの様に幕が張られ、関係者ばかりが出たり入ったりしている。
三人で中に入ると、立花君が退屈そうにパイプ椅子に腰かけて湯飲み茶碗をもてあそんでいた。立花君は私どもを見ると「やあ」と言った。
「これはこれは。蓮司君も梓ちゃんもご無沙汰ですね」
「お久しぶりです宗次さん。これ、皆さんに差し入れです」
と蓮司君たちは持って来た包みを手渡した。
「こいつは有難い。中身はなんだい」
「水無月です。作って来ました」
「おお、いいねえ。暑くて参ってたところだよ。おーい、誰かお茶持って来て」
久保田夫妻は剣舞関係者やお囃子関係者に挨拶して回っている。彼らも昔は踊ったり演奏していたりしていたそうだから、見知りも多いのであろう。
私が突っ立っていると、立花君がそっと耳打ちした。
「ご苦労様でしたね。オデエさんも喜んでいましたよ」
「僕はちっとも嬉しかない。第一、オデエさんは縁結びの神を自称していたけれど、僕への指示や思惑は全部的外れだったよ。あんな碌でもない神を祀るのはよした方がいいのではないか」
「いえいえ、あれでもオデエさんはちゃんとしていらっしゃるんですよ。現に縁結び祈願が成就した方も大勢いますからね。今回は色々と変な要素が重なっただけです。神様同士の思惑が絡み合うと、一筋縄じゃ行かないものですよ」
「そうか」
そうらしい。しかし何だかよく解らない。
「天狗はどうなったのだね」
「風神さんとお不動さんに叱ってもらいました。まあ、低級位の神様だった様ですし、修験の神様ならお不動さんの御威光は効果てきめんです。怒られて静かになったみたいですね」
「そんならよかった。ねえ貴君、またあんな頼みをされたら僕なぞは困ってしまうからね」
「僕の方はオデエさんに恩を売る事が出来てよかったですよ」
と立花君は愉快そうに笑った。したたかな男だと思う。
その時、奥の方から衣装を身に着けた連中が数名出て来るのが見えた。次は剣舞の出番らしい。
見ていると、明日香の姿があった。また別の方からお囃子の連中が太鼓などを持って現れる。ぼつぼつ今やっている神楽が終わるから、舞台を取り換えるのであろう。お囃子組には伊吹の姿があった。
私が眺めていると、伊吹の方が私に気づいて足早にやって来た。表情が嫌に明るい。
「何樫さん」
「ご苦労様。何だか晴れ晴れとしているね」
「ええ、おかげさまで……」
とちょっと嬉しそうに笑った。何がおかげさまなのか解らないが、そうなのだろう。立花君がにやにやしている。
神楽が終わったらしく、表の方から拍手の音が聞こえて来た。伊吹はふと気づいた様に踊り手の方を見やった。
「明日香、ちょっと」
そう言って、明日香の方に行って、少し乱れていたらしい後ろの帯を締め直してやっている。
明日香は恥ずかしそうに肩越しに振り返りながら微笑み、それから私を見てちょっと照れ臭そうに会釈した。
「行こうか」
お囃子組が先に楽器を持って出て行く。太鼓が鳴る。
明日香は面をつけた。
白い面だった。
『剣の舞の少女』編終わりです。
むすえすの書籍化作業が始まってしまったので、次回更新は未定です。
年内に更新出来たらいいですが、あまりご期待なさらず。
他にも色々な小説がある筈ですので、そちらをお楽しみください。