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剣の舞の少女.三


 翌朝は奇妙な事に朝から目が覚めてしまった。まだ外は薄暗く、夜明け前の気配である。

 目が覚めたからといってする事はない。しかし又寝をする気にもならなかったから、寝床に座ったまま煙草をふかし、そうして思い立ったまま部屋の外に出た。

 貧乏神どもは寝ているからそのままに放っている。こういう連中が夜に寝るのはおかしいと思うけれど、実際に寝ているのだから仕方がない。


 空模様は悪かった。

 夜のうちにも雨が降っていたらしく、そこらは濡れて、水の溜まっている所もある。その水たまりにも鉛色の雲が映り込んで、あまり美しい様相ではない。早起きをしただけの甲斐があるとも思えない。


 あくびをしながらぶらぶらと歩いて行くと、段々にそこいらが白んで来た。しかし日が差して来たという風ではないから、変に白けている様で、何だか明るくなるのが気持ち悪い様に思われた。

 すっかり明るくなって、あちこちの軒先で仕事の準備をしている表通りを横切って、当てもないままふらふらとうろついていると、あちこちにある大小の神社や祠が目につく。

 綾科にはこういったものが沢山ある。神職の勤める様なお社は少ないけれど、鳥居があって、ご神木だの拝殿だのがある。

 これら無人の社の多くは普段は近隣の人々が自主的に管理しているが、縁日の時には巫女を始めとした神職たちがお勤めをしている事もある。


 神社は神の家だから、どの社にも神が住んでいる。

 私なぞはどうしてか神みたいな物騒なものに絡まれがちだから警戒していたけれど、いつもは貧乏神が一緒で、他の神が近づいて来ないのに慣れていたから、少し油断したらしい。


「おい、おい何樫」


 馴れ馴れしく呼ばれて誰かと思ったら、道端の祠の傍らに着物を着た男が立っている。ぼさぼさの黒髪は奇妙に緑がかって、まるで宿り木の葉の様である。あるいは樹上の鳥の巣の様にも見える。顔には年季の入った木彫りの面をつけていた。

 これはこの辺りの土着神の一柱であるオデエさんである。オデエさんの祠はちょうど在善寺の裏手にあるから、いつの間にかこんな所まで来ていたのかと思った。


 オデエさんは私の腕を捕まえて言った。


「丁度いい所に来た。お前、少しおれの頼みを聞いてくれるか」

「嫌です」

「拒否権はない」


 貧乏神がいない時にこういう不運が起こる。本来貧乏神が私に運んで来るべき不運が、貧乏神不在の時に限ってやって来るのには合点がいかないけれど、そんな事を言ったところで仕様がない。

 神様というのは我儘なもので、へそを曲げると後が面倒だから、不承不承ながらオデエさんの話を聞く事にした。


 祠の前に私とオデエさんと阿呆の様に並んで腰かけた。そこらに引っ掛けられた願掛けの絵馬だの鈴だのが風に揺れて音を立てた。


「おれは剣舞の面の神だ」

「存じております」

「仏や明王より格は劣るが、それでも綾科剣舞をずっと見守って来た。その自負はある」

「はあ」

「それが、山神なんぞがおれの可愛がっている明日香に難癖つけやがって、気に食わん」


 オデエさんが明日香を贔屓にしていると聞いて、おやおやと思った。そうして、明日香に乗り移って踊ったのは山神だという事も解った。

 山神は一般的には古典に出て来る大山津見神を指すけれど、綾科では山に住まう多くの神を一緒くたにそう呼称する。野良神に近いものがあるが、その性質も種々様々で、荒神(あらがみ)の類も混じっているのだろう。


「てっきり僕は朝霧さんが乗り移ったのだと思った」

「朝霧姫みたいな大人しい奴がそんな事はしない。あすこは山手にあるから、有象無象の山神どももよく降りて来るのだ。詳しくは解らんが、乗り移ったのは修験の神の一柱らしい」


 それは確かに荒っぽそうな神様である。


「ともかく、おれは明日香の味方をしてやらにゃいかん。踊っている最中に伊吹の事が頭によぎったからって怒られる筋合いなぞありゃせん。修験みたいな堅苦しい連中はそういう事にいちいちうるさいからまったく面倒だ」

「伊吹というのは囃子連の江里口君の事ですか」

「そうだ。明日香は伊吹に恋している。若人の色恋沙汰は良い事じゃないか。おれはずっと応援しているのだが、伊吹は明日香の思いに気づいていないし、明日香の方は照れてしまってちっとも向かって行こうとせん。じれったくて仕様がない」


 江里口伊吹は囃子連に所属する高校生である。たしか明日香と同級生で、大人しい性格ながら小さい頃からずっとお囃子をやっていて、今では小学生たちの指導を任されるくらいになっている。剣舞も踊れるそうだが、神前舞に参加するほど踊り込んでいるわけではないらしい。

 その伊吹に明日香が惚れているというのは、確かに自然な事の様に思われた。そういえば、朝霧神社での舞でも、お囃子に伊吹の姿があった様な気がする。


「オデエさんはどうしてそんな事を知っているのです」

「おれは縁結びの神でもある。在善寺の一角に小さいながらも縁結びの祠として祀られているんだから、解るだろう。明日香がこっそり願掛けをしに来た事もあるのだ」


 縁結びの神が人間に協力を迫るのは可笑しな話だと思った。


「それで、僕にどうしろというのです」

「何とかしろ」

「また無茶を言う。僕は色恋沙汰なんか何も解りませんよ」

「別にくっつけろと言うのではない。伊吹に明日香の思いを気づかせるか、あるいは明日香に思いを告げさせる様決心させるのだ。伊吹に恋する女は他にもいる。思いを告げられぬまま失恋するなぞ、明日香があんまり気の毒だ」

「そんな事、余計なお世話ではありませんか」

「つべこべ言うな。相変わらずお前は信心が足りん」

「そんなら立花君に頼めばいい。僕よりもよっぽど上手く立ち回ってくれますよ」

「宗次は駄目だ。あいつに借りを作ると後が面倒だ」

「はあ」

「あんまりあからさまにやるんじゃないぞ。それとなく話を誘導して二人を近づけるんだ」

「そんな面倒な事、ご自分でおやりなさい」

「おれが出て行ったらそれだけで不自然だろうが」

「僕がそんな話をするのも不自然だと思うけれど」

「そこは上手くやれ。どうせお前みたいな変人が何を言おうが、向こうはいつもの事だと思うだけだ」


 私の事をどんな人間だと思っているのだろうか、と思った。


 ともかく非常に嫌で、断りたかったけれど、向こうが是非にと言うものを、あんまり突っ張らかって断ると、後で自分の方が嫌な気分になるから、結局断り切れずに引き受けてしまった。

 引き受けてしまえば、それはそれで肝が据わるけれど、後に待っている面倒事を考えると憂鬱である。そもそも何の考えも持っていない。腕組みして歩きながら、途途千々に肝胆を砕いたけれど、分別はなかった。


 ともかくぶらぶらと帰って来ると、店の前に蓮司君がいて、朝市の帰りなのだろう、魚の入っているらしい大きなクーラーボックスを運び込んでいた。


「あれ、何樫さん、お早いですね」

「珍しく早く目が覚めてしまったのだ。それでひどい目に遭った」

「どうしたんですか」


 私がオデエさんとの一部始終を語って聞かせると、蓮司君は気の毒がるというよりはむしろ可笑しそうに笑った。


「神様ってのは、相変わらず我儘ですねえ」

「笑い事ではないぞ貴君。引き受けてしまったけれど、何の方策も立っていない」

「立っていたら驚きですよ。何樫さんが恋のキューピッドなんて、数奇な話もあったもんですね。あ、ちょっと魚だけ片付けちゃいますんで、中にどうぞ」


 それで準備中のくぼたの中に入り込んだ。

 梓さんが客席の掃除をしている。私を見て驚いた様な顔をした。


「あれれ、何樫さんが早起きだ。お早うございます」

「お早う梓さん。早起きは三文の徳と言うけれど、それは嘘ですね」

「何かあったんですか?」

「恋のキューピッドをやらされる事になったんだってさ」


 私の代わりに蓮司君が答えた。顛末を聞いた梓さんはたちまち好奇心に目を輝かした。


「明日香ちゃん、伊吹君が好きだったんだ。わー、素敵。お似合いだわぁ」


 そうらしい。私にはそういった人心の機微は解らないけれど、お似合いならばそれで構わない。


「でも伊吹君、イケメンだから競争率高そうね」

「伊吹は性格もいいからね。慕う子は多いんじゃないかな?」


 蓮司君も言った。別に明日香にもオデエさんにも義理はないけれど、これは早いところ何とかした方がいい様な気がして来た。というよりも、さっさと問題事を片付けてしまいたいという気持ちが強いという方が正確である。

 しかし気ばかり急いても、具体的な行動に落とし込む所まで考えが至っていない。

 どうしようかと久保田夫妻に言うと、ひとまず伊吹と話をしてみたらどうだと言われた。彼の胸中に明日香への脈があるやなしやという事を探り出せば、今後の方策も立てやすかろうという事である。


 道理だと思ったので、その方向で行く事にした。

 今日は平日であるから、明日香も伊吹も高校生らしく学舎の教室に詰まっているだろう。そんな所に私の様な風来坊がのこのこやって行っても追い返されるに決まっているから、放課後を待たねばならない。

 伊吹は学校が終わればお囃子の稽古に行くだろうから、時間を待って囃子連に行こうと思った。


 部屋に帰ると、貧乏神どもは起き出していて、壁に寄り掛かる様にしてだらだらしていた。


「貴君たちはもっとしゃんとしたらどうだ」

「貧乏神に何を言うか。大体、お主にそんな事を言われたくない」

「そうか」


 言われてみれば確かにそんな気もする。

 万年床に腰を下ろして、漫然と煙草をふかしているうちに昼を過ぎて、日が傾き出したから、腰を上げた。


「どこへ行く」

「囃子連の詰め所だ」

「人が多そうだな」

「多いだろうな」

「そういう場所は居心地がよくない。わしは行かぬ」

「貴君はどうする」


 女の貧乏神はもじもじしていたが、やがて立ち上がって私について来た。この貧乏神は部屋で膨れているよりも外に出たがる傾向がある。或いは私の部屋にいるのが嫌なのかも知れない。しかしそんな事はどうでもよい。


 外は小雨でも舞いそうな天気である。しかし空に雲の濃い所と薄い所があって、それが風に流れて見る見る様相を変えていくのが何だか面白い。


 囃子連は綾科市内の各地区にあって、特に綾科中心部は細かく分かれている。

 秋の綾科神社の例大祭の時には、各町内の山車があちこちを動き回って、まるで競い合う様にお囃子の応酬を繰り広げ、三日三晩は賑やかになる。

 伊吹が所属しているのは上町の囃子連だった筈である。だから上町へ歩いて行った。

 あちこちの小さな神社の鳥居の下に茅の輪が飾られている。綾科神社の茅の輪が一番大きいけれど、どの神社のものも丁寧に造られているらしい。


 詰め所に近づくほどに、太鼓の音が大きくなった。しかしちゃんと叩いているというよりは、稽古の前の手慰みに遊んでいる様な調子である。


 それで詰め所に入ると、小学生くらいの小さな連中がたちまち私どもを見つけて集まって来た。


「貧乏神だ! 貧乏神が来た!」

「何しに来たんだ!」


 と言いながら私や貧乏神をバチでつっついた。貧乏神はあわあわと体をくねらしている。

 私まで貧乏神であるかの様な言い方をするから閉口していると、指導役である大人が大慌てでやって来た。


「こら、貧乏神さんに乱暴するんじゃない! 貧乏になりたいのか!」


 子供らはきゃあきゃあとはしゃぐ様に悲鳴を上げて散らばった。


「どうも失礼しました。何樫さん、何か御用事で?」

「江里口君がいるかと思って来たのだけれど、まだいないかね」

「伊吹ですか。今日は用事があるとかで稽古も休むそうです」


 それならば家まで押しかけるほどの話でもない。私自身やる気のある頼まれ事でもないから、そうですかと引き下がって帰って来た。

 独酌を傾けていた爺が変な顔をして私を見た。


「早いではないか」

「はあ」

「何をして来たのだ」

「何もして来ていない」

「ではどうして出かけた」

「思惑が外れたのさ」

「どんな思惑」

「話をしようと思った者が囃子連の詰め所にいると思ったのだが、来ていなかった」

「それで帰って来たのか」

「そうだ」

「家まで行ってみればよかろうに」

「そこまでの気概はない」

「そんな事だからお主は駄目なのだ」


 貧乏神に喝を入れられる様な話になって、変だなと首を傾げたけれど、爺の方も酒の勢いで管を巻いているだけの様だから、そのままに放って、私も湯飲み茶碗に酒を注いで飲み始めた。

 真田君の持って来てくれた一升瓶は、貧乏神たちとちびりちびりと貧乏臭く舐めていたけれど、いよいよ少なくって、見ているだけで心もとなくなる。


 貧相な心持で、貧乏神と向き合って酒を飲んでいると、開け放した窓から急に白いものが入り込んで来た。

 見ると大きな白狐である。これはお稲荷さんの神使の狐で、いつもお稲荷さんに抱き付かれたり揉まれたり枕にされたり、碌な目に遭っていない様に思う。

 神使が何の用であろうと思っていると、白狐はのそのそとやって来て、私の肩を鼻先でちょんとつついた。


「何の御用かね」

「ぬしさまが、あぶらげ、もってこい、いうとった」


 と白狐が言った。舌っ足らずな子供の様な声であった。

 そういえば、この前座敷童子の紗枝を連れて奥社に行った時、祇園さんとお稲荷さんと酒を飲んだけれど、今度は七尾の油揚げを持って来いと言われた様な気がする。

 嫌であったし、そもそも綾科神社に用事などないから、帰った後はすっかり忘れていたけれど、よもや催促に来るとは思わなかった。


 爺が面白そうな顔をしている。


「稲荷神に催促を受けるとは、お主妙な縁を持っておるな」

「嬉しくもない。迷惑なだけだ」


 面倒だから座ったままでいると、白狐は私の膝に乗る様にしてもそもそと丸くなり、そのまま動かなくなった。ふかふかしているが私の膝からはみ出すくらい大きいから大変重い。

 それでもこういった実力行使に素直に迎合するのは癪に障るから、ともかくそのままでいると酒がなくなって、つまりする事がなくなった。


 私は黙っている。

 白狐は丸くなっている。

 貧乏神たちは面白そうな顔をしてこちらを見ている。

 そのうち、うずうずしていた様子の女の貧乏神が、そっとこちらににじり寄って来て、そうして手の平で白狐の尻尾をふかふかと触っている。触られると時折尻尾がぴんと跳ねる様に動いて、貧乏神の顔を撫でる。そうすると貧乏神はにへらと表情を緩める。

 オデエさんだのお稲荷さんだの、面倒なのが次から次へやって来るから困ったものである。これだから神様というのは碌なものではない。


 いい加減で膝が痺れて感覚がなくなって来たから、止むを得ないと立ち上がった。

 白狐はころりと転がっておぶおぶと手足を動かしている。その腹を女の貧乏神がにまにま笑いながら撫でている。


「どこへ行く」と爺が言った。

「豆腐屋だ」


 私はふらふらしながら部屋を出て、豆腐屋へ向かった。

 もう夕暮れが近く、そこいらは薄暗くなっている。往来まで出ると、夕餉の買い物や仕事帰りの連中が行ったり来たりしている。そんな中に、影法師みたいに、輪郭はあるのに、顔や服装がはっきりしない様なのが交じっている。


 豆腐屋まで行くと、お客が出たり入ったりしていた。このご時世に、未だ水桶に豆腐を入れて買って帰るのである。厚揚げや油揚げの類を持っている者もある。

 その間を縫うように店に入って、「あぶらげをくれ」と大きな声を出した。

 豆腐屋が目を丸くした。


「なんでい、珍しい。金はあんのか」

「ないよ」

「それで売れるわけねえだろ」

「そうか」

「しかし何樫さんが買い物なんざ、どういう風の吹き回しだい」

「お稲荷さんが油揚げを持って来いと言うのだが、くれないなら仕方がない」

「げっ、マジか。しょうがねえな」


 豆腐屋はその辺に並んでいた油揚げを十枚ほど袋に詰め込んでくれた。神使が狐であるくらいのお稲荷さんだから、狐の妖怪である豆腐屋はその意向に沿わぬわけにはいかないのだろう。

 店にいた観光客らしい二人連れが、私の方を見て不思議そうな顔で「お稲荷さん?」「神職の方か知ら」と囁き交わしていた。


 それで家に帰ったら、白狐がいなくなっている。どうしたのだと貧乏神に尋ねると、神社に帰ったと言う。

 あれに持たして帰そうと思っていたのに当てが外れた。

 油揚げさえなければお稲荷さんなんぞ放って部屋で膨れていたのだが、油揚げが手元にあるから、自分で食う気にもならず、そもそもお稲荷さんにくれてやるつもりで豆腐屋からもらったのだから、別の者が食うわけにはいかない。

 止んぬる哉と再び出かけた。貧乏神どもがにやにやしている。


 神社の石段を登り切る頃には、もう日が暮れかけていた。

 もう参拝の時間が終わろうとしているらしく、参拝客らしいのがぞろぞろと下りて行くのとすれ違い、やれやれと思いながら鳥居の下の茅の輪をくぐった。

 境内はすっかり裏手の山の影がかぶさって暗くなっており、巫女たちがあちこちで片づけをしていた。私を見ても、なんだ何樫かという顔をしてまた仕事に戻ってしまう。巫女どもは私を何だと思っているのだか、よく解らない。


 ともかくさっさと油揚げをやってしまおうと足を速めたが、稲荷社に辿り着く前に、どこからともなくお稲荷さんがふわりと現れた。


「やっと来たね。催促がなけりゃ来ないなんて、本当に不心得者だわよ」

「はあ」

「それで、油揚げは」

「ここにありますけれど」


 と私が袋を差し出すと、お稲荷さんは早速中身を確かめて嬉しそうに笑った。


「これこれ。早速煮てもらおっと」

「お稲荷さん、あの白狐は職務に怠慢ですね」

「私の神使かね」

「そうです。部屋で待っていれば油揚げを持たしたのに、勝手に帰るものだから僕は要らぬ苦労をした。第一、神使ならば人間に化けるくらいお手の物でしょう。僕を介さないで豆腐屋に直接買いに行かせればいいではありませんか」

「人間から供えられるから意味があるんだよ。神使を遣わしちゃ大事になるだろ」

「僕の所には遣わしたじゃないですか」

「お前の所に神使が何匹行こうが大事になりようがないさ」


 それはそうかも知れない。

 お稲荷さんは油揚げを抱きかかえながら、私をじろじろ見た。


「何です」

「お前、何か悩んでいるね。困ったときの神頼みと言うだろう、ミーに話してみい」

「はあ」


 お稲荷さんなんぞに話したところでどうにもならないと思うけれど、一応神だから、何かしらの助けになるかも知れないと思い、事の顛末を話して聞かせた。

 お稲荷さんは話が進むほどに破顔し、最後には腹を抱えて笑い転げた。


「ひーっひっひっひ、オデエの奴、お前に恋の仲介役をさせようなんて、いいセンスしてるわ。痛快だね」

「何が痛快です。僕にはいい迷惑だ」

「お前が困っているのを見るのは本当に楽しいからね。私にとっては愉快だよ」


 ひどい神もあったものだと思う。

 気づくと、綾科神社にたむろしている有象無象の神やら何やらが集まっていて、それが皆私の話を聞いていたらしく、どいつもこいつも笑っている。そうして互いに勝手な意見を述べ立てているけれど、誰も彼も銘々に喋り散らすばかりだから、何を言っているのだかさっぱり解らない。

 しかしその調子から、明日香の味方をする者と、山神の意見に与する者と二種類がいるらしい事がうかがえた。


「神事の最中に色恋を持ち込むなぞ不埒だ」

「馬鹿、男女の睦言は世の理ぞ。色恋を不埒だなどと言うは理に背くも同じだ」

「それはそうだが、時と場所をわきまえねばならぬだろう。精進が足りぬのだ」

「口に出すでも舞を鈍らすでもなし、単に頭に浮かんだだけで云々するのは横暴だ」

「何を言うか、神前ではその様な思いを除かねばならぬのは当然だろう」

「その様な原理主義的な考えが、綾科以外での信仰の衰退を生んだとなぜ解らん」


 話が右往左往してうるさいから閉口していると、神々様は勝手気ままに騒ぎながら、じき夕餉だと散らばって行ってしまった。

 お稲荷さんも油揚げを煮てもらおうと言っていなくなった。

 困った時の神頼みだのと言っておいて、何の為に面倒な話を打ち明けたのだかさっぱり解らない。


 うんざりしたから帰ろうと思って踵を返しかけると、奥社に続く小道の方から、鞄を背負った伊吹が歩いて来るのが見えた。おやおやと思いながら、いい折だから声をかけた。


「江里口君」

「あれ、何樫さん」


 伊吹は目をしばたたかせて私を見た。淡い茶色の癖っ毛と、垂れがちな目つきは柔らかく女性的であるが、顔つきは優しいし背は高いし、確かに美男子である。


「こんな所で会うなんて、珍しいですね」

「そうかも知れない。貴君、奥社に用事でもあったのかね」

「ええ、ちょっと……」


 と伊吹は口をもごもごさせて視線を逸らした。

 私は煙草を取り出しかけたが、境内は禁煙だったと思い出してまた仕舞った。


「先日の朝霧社での事かね」


 私が言うと、伊吹は驚いた様に顔を上げた。


「ど、どうして」

「僕の方もその事で色々と迷惑しているのだ」

「何樫さんが? あ、もしかしてここに来たのはそれで」

「それは関係がないけれど」

「そ、そうですか」

「貴君はどうしてここに来たの」


 伊吹はやや逡巡した様な顔をしたが、やがて観念したらしく口を開いた。


 曰く、朝霧社での舞の後、夢枕に恐ろしい顔をした神が立ち、おのれが神前舞の娘をたぶらかすから、ああいう醜態を晒す事になった、反省して綾科神社の奥社にでも参れと言う。

 何の事だか解らないけれど、神様の言う事では逆らうわけにもいかない。

 それで放課後、お囃子の稽古も休んで、学校から直接奥社に参拝していたと言う。外の小さな祠の前で二時間近く座ったままだったそうで、色んな神々に絡まれて、それだけでくたびれてしまったらしい。


 あんまり阿呆臭いから私が呆れていると、伊吹は嘆息した。


「僕が何かやってしまったんでしょうか……お囃子をしくじったわけではないと思うんですが……」

「心当たりはないのだね」

「はい。たぶらかしたと言われても、何が何だか……」

「そうかね」

「何樫さんは、朝霧社の舞でどんな迷惑を被っているんですか?」

「貴君と同じで神絡みだ。まったく、神々というのは碌なものではない」


 私が言うと、向こうの茂みから木の枝がばらばらと飛んで来たり、頭上の杉の木がごうごうと揺れたり、変な獣の様な声がしたりした。

 有象無象の神々様が怒っているのかも知れないが、そんなこけおどしに尻込みしても仕様がないから、見ないふりをした。しかし伊吹は委縮した様にたじろいでいる。


「あの、ここでそういう事を言うのはまずいんじゃ……」

「そんなら場所でも変えよう。僕も貴君に話があるのだ」


 それで二人して神社を出た。

 もうすっかり暗くなっている。石段の辺りは暗かったが、大参道まで降りると急に辺りが陽気になって、人がぞろぞろと行き交う様になった。

 歩きながら、私が言った。


「江里口君、僕は常々思うのだけれど、人が人を好きになるというのは物騒なものですね」

「何ですか急に」

「古来、多くの国の大王が美人を争って破滅した。どうにも愛だの恋だのといった代物は人に面倒を運んで来る性質のものであるらしい」

「そういうものでしょうか」

「そうだろうと思うんだ。だけれど、多くの連中は愛だの恋だのを人間の至上の命題の様に扱っている。これは一種の倒錯ではないか」

「倒錯ですか。どういう風に?」

「元来、そもそも人間も一個の動物であって、すなわち繁栄が主目的であるのだと思う。愛や恋といった代物も、そういったものから派生したものであると想像できる。しかし、その主目的である繁栄に至る前に、愛の為に死ぬだとか、恋のせいで体を壊すとか、あるいは自暴自棄になって人生を棒に振ったりする。これを倒錯と言わずして何であろうか」

「でも、皆が皆そういうわけではないでしょう」

「しかし大なり小なりそういった傾向があるのではないかね」

「僕にはよく解りませんけど……」

「貴君にはそういった経験はないの」

「ありませんよ、彼女がいた事もないし……」

「そういった事にご興味がないというわけかね」

「そういうわけじゃありませんけど……」


 と伊吹は何となくもじもじした。そうして探る様な目つきで私を見た。


「話って、そういう事ですか?」

「そういうわけではない、ただの雑談だよ」


 話しながら歩いているうちにくぼたに着いた。

 私はお金を持っていないから、腰を落ち着けて話が出来る場所はくぼたくらいしかない。部屋にお招きしてもいいけれど、貧乏神が同席しては伊吹の気分が落ち着かないだろう。


 いらっしゃいと梓さんが出迎えてくれて、伊吹を見てちょっと驚いた様な顔をし、それから私を見てそれとなく微笑んだ。カウンターの向こうで蓮司君も面白そうな顔をしている。

 しかし店にはお客がそれなりに入っていて、忙しそうである。二人連れが腰を掛けられそうな席がない。まして私はお金を持っていないから、お客というには無理がある。そんな輩の為に無理に席を空けてもらうのは悪いだろう。


 貴君、どうしようかと伊吹に言うと、伊吹はしばらく考えていたが、風呂にでも行きますかと言った。

 綾科は温泉地で、あちこちに地元民が利用する小さな温泉場がある。大抵は百円ばかりで入れる所ばかりで、場所によっては金さえ取らない。風呂で長話をして、どうしてまだ上がらないかなどと文句を言われる事もないだろう。


 たちまちその気になって、伊吹と二人で近くの温泉場に行った。

 瓦屋根で、入り口に神様を祀った祠がある。

 この温泉場は既定の料金がない代わりに、お賽銭を上げて拝礼する。私はお金を持っていないから、お邪魔しますと頭だけ下げて中に入った。


 中はそれほど広くはない。脱衣所と浴室の間の仕切りさえなく、正方形の湯船に白濁した湯が満々と揺れている。

 水道は一つしかない。体を洗う時は湯船の周りに腰を下ろし、洗面器で湯船から湯を汲み出して使うのである。

 爺さんが一人、体を洗っている他は誰もいなかった。

 これ幸いと伊吹と二人、服を脱いで湯を浴び、湯船に浸かる。私は普段能動的に風呂に入る事はないけれど、こうやって浸かれば勿論気持ちがいいから、しばらくぼんやりと湯船に注ぐ湯を眺めていた。


「夢枕に立ったというのは山神かね」


 と私が言うと、伊吹君は困った様に頭を掻いた。


「詳しくは解りませんけれど、山伏みたいな恰好をした強面の神様でした」

「そうか」


 オデエさんの言う通りであるらしい。しかし実際に倒れた明日香ではなく、伊吹の方を怒りに行く辺り、神様も女の子には甘いものだなと思った。


「それで、僕に何の話があるんですか」


 と伊吹が言った。


「僕も神様に言われて、その事を調べているのだ」

「神様にですか。どなたです?」

「オデエさんだよ」

「あー……」


 伊吹は困った様に頬を掻いた。

 ここいらの連中は信仰が篤いから、神様絡みだと聞けば納得してくれる。伊吹はお囃子をやっているから、オデエさんは馴染みの神だろう。


「貴君、今日のお参りで許してもらえそうなのかね」

「どうでしょう。一応きちんとお参りしたんですが……」

「しかし、どうして綾科神社の奥社なんて言ったんだろう。朝霧に参れと言ってもよさそうなものだ」

「綾科神社はここいらの神様ならどなたでも出入りできますからね。そっちの方が都合がよかったのかも知れません」


 それはそうかも知れない。

 しかし、伊吹の所に来た神様は山神の一種で、すなわち野良神である。その野良神が、朝霧さんの社で勝手をした事を朝霧さんが怒って、出入りを禁じた可能性がある。それで綾科神社の方に参れと言ったのではないか。尤もこれは私の邪推に過ぎない。


「怒られたのはそれだけなの」

「それだけって」

「娘をたぶらかすだの何だのさ」

「はあ、まあ……」


 何となく煮え切らない顔をしている。


「どうしたの」

「倒れたのは中野なんですけど……僕が中野をたぶらかしたっていう話なんでしょうか」


 そう言ってしまうとそうかも知れない。山神が夢枕に立ってそんな事を怒っては、確かにそう思うだろう。

 オデエさんはそれとなく話を誘導しろだのと無茶を言っていたが、神様の方が先走っているのではどうしようもない。何だか話がややこしくなりそうである。


「神様がそう言うならそうなんだろう」

「覚えがないんですよ……」

「貴君は明日香君とは仲が良いのかね」

「幼馴染みたいな間柄ですけど……最近は避けられ気味というか」


 話がさらにややこしくなりそうな気がして来た。


「嫌われているのかね」

「うーん、素っ気ないというか……」


 伊吹は湯から出て湯船の外で胡坐をかき、目を閉じて上を向いてふうと息をついた。体中からほかほかと湯気が立ち上っている。

 私も湯から上がって湯船の縁に腰かけた。


「何かそうされる理由はあるのか」

「いや、何も……そもそも最近あまり話が出来てないんですよ」

「稽古で会うのではないのか」

「会いますけど、中野は朝霧での白面を任されてからずっと踊りに集中してましたから」

「じゃあ踊りに集中していただけではないのか」

「いや、やっぱりちょっと違っていて……何と言うか……」


 伊吹は嘆息した。私もいい加減で暑くなって来たから、上がって体を拭いて、服を着た。もうこれ以上話したって仕様がないし、第一私の方が面倒になってしまって、帰って横になりたくなった。

 外に出ると小雨が降りそぼっていた。傘なぞ持っていない。


「せっかく風呂に入ったのに、濡れそうですね」

「まあ仕方があるまい」


 途中まで並んで歩きながら、伊吹がぽつりと呟いた。


「……はっきりしないから、駄目なのかな」

「何を」


 私に問いかけられて、伊吹はハッとした様に顔を上げた。


「い、いや、何でもありません。独り言です」

「独り言でも聞こえちまったらそうとは言えないぜ」


 伊吹はしばらく黙ったまま頭を掻いていたが、やがて顔を上げた。


「笑わないでくださいね。多分、中野は僕の事が好きなんじゃないかと思うんです」


 おやおやと思った。


「貴君はそれを解っていて知らないふりをしているの」

「いや、神様に夢枕に立たれて、何となく思い当たりました。それまでは全然」


 そうらしい。さっき全然心当たりがないと言ったのは嘘らしい。まあ、私みたいなのにわざわざ自身の色恋沙汰を話したいなどとは思わないだろうから、それは構わない。尤も、伊吹自身は確かに明日香を惚れさせようと意図して何をやった覚えはないのだろう。


「それで、どうやらそうらしい事が解った今の御心境はいかが」

「……正直、混乱してます。いや、あいつの事はいい友人だと思ってます。女の子としても魅力的だと思いますけど、付き合いが長い分、そういう目で見た事がなかったんです。今もどうしていいのか……いや、そもそも告白さえされてないか。こんな事自惚れみたいで変ですね」


 と伊吹は苦笑いを浮かべた。


 私は呆れて肩を落とした。

 当人同士を放って神様だの何だのが余計な事をしたせいで話がよく解らない方向に行っている。


「別に明日香君が嫌いなわけではないのだろう」

「ええ、それは勿論。でも恋人としてとは思ったことがなくて……考えてみたら、最近素っ気なかったのはそういう事なのかな。あいつ、恥ずかしがり屋ですから、僕の事が好きだとしたら、却って近づいて来ないでしょうから」

「明日香君の事をよく知っているではないか」

「幼馴染みたいなものですからね。何だかんだ、自然に話ができる相手ですよ」

「貴君も明日香君の事を憎からず思っているという事か」

「それは……はい」

「じゃあ悩む必要はないんじゃないの。素直にお付き合いすればいいではないか」

「いや、多分告白されても断りますよ」

「どうして」

「今回はその恋愛感情で神様に怒られたんです。付き合ったりなんかしたら猶更いけないでしょう。中野は剣舞が本当に好きなんです。白面に選ばれた時もすごく嬉しそうで……僕もその後ろで太鼓が叩けるのが嬉しくて……その邪魔をするのは嫌なんですよ」


 と伊吹は寂しそうに笑った。


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― 新着の感想 ―
[一言] まったく神様というやつは。 綾科に住むのは大変そうですね…
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