椿屋旅館の座敷童子.四
「キヨちゃん、悪いけど話しかけないでくれる」
「えっ、どうして」
「だってキヨちゃん、誰もいないのに誰かいるって言ったりするし」
「そうよ。気味が悪いわ」
「違うよ、本当にいるんだよ」
「まだ言ってるよ」
「みんなの気を引きたくてでたらめ言ってるんでしょ」
「嘘つき」
「違うってば!」
「違うなら違うで気持ち悪いよ」
「ともかく、もう一緒に遊びたくないの」
「ママもキヨちゃんと遊ぶのはやめなさいって言ってたし」
「大体、お化けだの妖怪だのって、バカバカしいよ」
「子供っぽくて嫌だよね」
「もう近づかないでね」
「ばいばい」
○
青梅が実る様になって来て、陽気がもう夏に近づいて来た。同時に入梅も近いらしく、空はなお一層曇りが増え、じめじめとあまり快くない感じでもある。
エアコンは勿論、扇風機もない部屋だから、窓はいつも開け放している。だから湿気が入り放題で、万年床もいつも湿っている様な具合で、寝ていても気分があまりよくない。
こんな風になって来ると貧乏神の方は妙に元気づいて、と言ってもいつもの様に部屋の隅で膝を抱えているだけなのだが、その様子が無暗に楽し気で、それが却って私にとっては面白くない。
ともかく、だからといって何かするわけでもないし、何かが変わるわけではない。湿っぽくて、寝転がると気持ちが悪い万年床の上に立ったり座ったりして、時折散歩に出る。
紗枝の方は相変わらず座敷童子らしく無邪気に振舞っているが、少々勢いが落ち着いた様にも思われた。何だかそわそわしている様にも見える。
その日も雨が降っていて、部屋に私と貧乏神と紗枝とでしゃがんでいた。
さっきまで貧乏神に絡んでいた紗枝が、くたびれた様な顔をしてはあと言った。
「元気がないね」
と私が言った。紗枝は顔を上げた。
「そんな事はないぞ」
「そうか知ら」
「元気がない様に見えるか」
「来た時に比べて、いささか勢いがなくなった様に思う」
「そうか」
紗枝はそう言ってごろんと畳に転がり、そのままころころと転がって行って、壁際に座り込む貧乏神にぶつかった。そのままもそもそと体を動かして、貧乏神に引っ付く。貧乏神は嫌そうな顔をしているけれど、抵抗する方が面倒なのかそのままになっている。
やがて雨が落ち着いたので、外に出た。
貧乏神はついて来たが、紗枝は行かないと言う。やっぱり元気がない様に思ったけれど、何かしてやろうとも思わないから、そのまま出かけた。貧乏神は嬉しそうである。
空は相変わらずどんよりとしているが、ところどころ明るくなって、青空が覗いている場所もある。
道路わきに溜まった水が白く光っている。
蒸し暑くて、空気がじっとりと重く、それが体にまとわりつく様で、あまり心地よい気候ではない。
ぶらぶらと歩いていくと、七尾豆腐店の前に出た。水がぼちゃぼちゃ落ちる音が聞こえる。
店の中を覗き込んだが、誰もいない。変だな、と思ったら隣の団八酒店から笑い声がした。あちらにいるらしい。
ここの店主は七つの尾を持つ化け狐で、かつては人心惑わす妖狐としてその悪名は洛中に轟き渡ったと豪語しているが、妄言であろうと思う。
いずれにせよ、悪狐として人間に悪さをしていたらしいが、ある時究極の油揚げを作るという使命感に駆られ、それ以来豆腐屋稼業を営んでいるらしい。
実際油揚げはうまいと評判である。現在も試行錯誤は継続中らしく、納得のいく油揚げができると、試食という名の酒盛りに通行人や知り合いを引っ張り込む。どうやら団八でその酒盛りの最中らしい。
それで団八の方に顔を出すと、豆腐屋と団八の店主と真田君が卓を囲んでいた。一升瓶を持ち上げた豆腐屋が私の方を見た。
「おう、何樫さんじゃねえか、丁度よかった。今最高の油揚げができたところでよ、そいつをおいらがちょいちょいと甘辛く煮てみたわけよ。食ってみてくれや」
「そうか」
「散歩ですか、何樫さん」
と真田君が言った。
「そうだよ。貴君はお休みかね」
「昼休みス。どっかで飯食おうと歩いてたら捕まっちまって」
見ると真田君は折詰の助六鮨を食いながら麦茶を飲んでいる。いやしくも社会人であるから、勤務中に酒を飲むわけにもいかないのであろう。
「まあお入りよ、何樫さん。まずは駆けつけ一杯……うっ、貧乏神」
団八の親父はやや委縮した。綾科で商売をしている者は、家に座敷童子でもいない限り貧乏神は怖いらしい。
「僕がいるから大丈夫だよ」
「そうかな。うん、そうだな。まあ、どちらも一杯」
と受け取ったコップに団八の親父がなみなみ注いでくれた。有難く頂戴する。大変うまい。貧乏神もうまそうに舐めている。
油揚げを煮たのをつまんだ。要するに稲荷鮨の皮みたいなもので、噛む度に煮汁がじゅうじゅう溢れて来て、これもうまいが、今までとの違いがわからない。究極とはなんであろう、と食べながら考えた。
団八酒店は角打ちのできる酒屋で、酒の量り売り、一杯売りだけでなく缶詰や乾物も売っている。飲む客はそれを買ってつまみ、時には隣の豆腐屋から、冷や奴だの油揚げの煮たやつだのを肴で運んで来る事もある。
私がお金を持っている時によく来るお得意先なのだが、ここのところはご無沙汰であった。
「貴君、配達だの何だのはいいのか」
と私がいきなり言った。団八の親父は自分の額をぺちんと叩いて笑った。
「何樫さんが仕事を心配してくれるとは、有難いね。いやね、息子が熱心でね。最近は配達や仕入れはあいつに任せてるのよ」
「健太郎か。いると思ったんだけどなあ」
と真田君が言った。年が近い友人らしい。
「最近は特に張り切ってんだよ。おかげで俺はこうやって昼酒が飲めるってわけさ」
「怠け者がさらに怠け者になっちゃ世話ないやね」
と豆腐屋が言った。団八はきゅうとコップをあおって、酒瓶の栓を抜いた。
「おめーがあぶらげ持って酒盛りしに来るからだろうが」
「嬉々として酒瓶持って出て来るくせに、おいらのせいにするんじゃねえや」
と豆腐屋もコップの酒を飲み干した。私もコップを傾けた。
大の男が三人もそろって昼日中から酒を食らっている。世も末だと思う。
私は普段は昼酒を飲まないので、それは夜飲む酒がまずくなるからであり、お行儀が悪いと思わないでもないが、夜に酒が飲める保証があるわけではないし、暑気払いの景気づけという事で、今日は特例という事にしておこうと思う。
「夏越が近いな。もう暑くなるわ。今日も蒸すし」と団八が言った。
「本当になァ。ついこの前正月だったような気がするんだがな」
豆腐屋が言うと、真田君が頷いた。
「光陰矢の如しってやつだね。忙しいと、季節のあれこれを感じる余裕が」
「ないのか。退魔師はそんなに忙しいかよ」
「忙しいよ、そりゃ。連中はあんたのお仲間なんだから、ちょっと大人しくする様に言ってくれよ、豆腐屋さん」
「おいらの知った事じゃねえよ。大体、悪さするのは人間の成れの果てばっかりじゃねえか」
「そうでもねえよ、この前は蛇神だった」
「人間の真似をしてるだけさ。蛇の質が悪いんじゃねえ」
「本当かよ。あんたも人間の真似をして悪行三昧だったのか?」
「当り前よ。だから人間に化けてるんじゃねえか」
豆腐屋の方が優勢らしい。真田君は片付かない顔をして稲荷鮨を頬張った。
団八の親父がからからと笑う。
「まだまだ若えな、慶介よ」
「うるさいな。ったく」
「そういや椿屋のおたけババアが死んでもうひと月か。四十九日も近いんじゃねえのか」
「ああ、そうだろうな。しかしあの若女将、大変そうだなあ……この前見たが、妙にくたびれちまっててよ、まだひと月だってのに、あれじゃ先行きが不安だぜ」
「営業再開が早過ぎたんじゃねえのか。四十九日も済んでねえのに」
「昨今ひと月以上も喪に服してられるわけないだろ。初七日後から客は取ってたぞ」
「けど客足が悪いんだろう。座敷童子も板長も出て行ったらしいじゃねえか」
「そういや何樫さん、あすこの座敷童子があんたんとこにいるんだって?」
豆腐屋がそんな事を言ったので、おやおやと思った。
「いるけれど、誰から聞いたの」
「誰からって、噂になってるぜ。大っぴらに言う奴はいねえけど」
考えてみれば、一緒に街中を散歩したりしているのだから、綾科ではたちまち噂になるだろうと思う。
「貧乏神と座敷童子が一緒にいるんじゃ賑やかだろう。生活はちょっと上向きになったんかい」
「別に何も変わっていない。しかし椿屋が傾き出したのはそのせいもあるだろうかね」
「多分なあ。しかし座敷童子が逃げ出すなんて、若女将は何をやらかしたんだ」
「お供えをやめたり、座敷を物置にしたりしたそうだ」
三人とも目を丸くした。信じられないという顔をしている。団八の親父が禿げ頭をぺちんと叩いた。
「豊貴の言ってた事は本当かよ。これじゃあ椿屋も長くねえな」
「ホントにおたけババアの孫なのか? 東京ってのは恐ろしい人間を作りやがるな。おいらみたいなのが余計に過ごしづらくなるぜ」
「けど変だな。あすこの孫娘は、まだ小学生くらいの頃にはこっちに遊びに来たりしてた筈だぞ。親父と一緒にうちに来たりもしたからな」
と団八が言った。豆腐屋が首を傾げる。
「それじゃあおいらも会った事があんのか」
「あたりめーだろ、忘れたのか」
「おいらの頭は油揚げの事以外は残らねんだ」
酔っ払いたちが喧々となって来たので、貧乏神を連れて家に帰る事にした。雲がかぶさって、辺りが少し暗くなった様に思われた。
それで部屋に入ったが、誰かが来ていた。見ると椿屋旅館の清蔵爺さんである。
さらに見覚えのない小さな女の子が、紗枝の隣にちょこんと腰を下ろしていた。どうやら座敷童子らしい。見た目の年齢は紗枝と同じくらいである。紅葉の模様の赤い着物を着て、前髪は切り揃えて、長い髪の毛を団子にして頭の後ろでまとめている。
貧乏神がぎょっとした様に身をこわばらせ、そそくさと部屋の隅に逃げて行った。
「おう、帰ったか」と紗枝が言った。
「お邪魔しております、何樫先生」と清蔵が言った。
「先生と呼ぶのはやめたまえ」
「はあ」
「随分賑やかではないか。そちらはどなただ」
と私が言った。
紗枝の隣に座った座敷童子が目をぱちくりさせた。着物の袖口をつまんで、自分の姿をまじまじと見た。
「この姿では解らんかね。あたしだよ、何樫さん」
何だか知り合いみたいな口ぶりである。
ちっとも解らないので私が首を傾げていると、紗枝がにやにやしながら言った。
「たけだよ」
「おや」
なんと、椿屋旅館の前女将のおたけ婆さんその人らしい。そう思ってみると、面影がある様に思えなくもない。
死んだご先祖が若返って家に戻って来る、という事例もあるとはいうが、よもやほんのひと月ばかり前は婆さんだったのが幼い娘になって来るのに出くわすとは思わなかった。
「まさか紗枝様と大女将にまたお会いする事が出来るとは、清蔵は幸せ者でございます」
と清蔵爺さんが涙声で言った。紗枝もおたけさんも「大げさだな」と笑っている。
私は片付かない顔をしたまま万年床に腰を下ろした。
「おたけさん、座敷童子なんかになってどういうおつもり」
「幽霊になってからも、心配だからずっと旅館の様子を見ていたんだよ。紗枝叔母ちゃんも出て行ってしまうし、このままじゃいけないと思って。それで叔母ちゃんに頼んで、おがみさまとめがみさまに会わせてもらったんだよ」
「なんだ、貴君がこの前神社に行きたがったのはそういう事情があったのか」
「ははは、そういう事だ。ちょっと驚いたろう」
と紗枝はあっけらかんとしている。私に言いたがらなかったのは、驚かしてやろうという座敷童子的な魂胆があったのかと思う。大層な理由でもあったのかと思っていた節もあったから、何だか肩透かしを食らった様な気分である。
「いや、しかしきちんと座敷童子になれて安心した。おれみたいな子供の時に死んだのならともかく、年を取ってから死んだのでは、心がけ次第ではダメな事もあるんだ。おれは心配だったぞ、たけ」
だからここ最近はそわそわして元気がなかったのか、と合点した。
「しかしおたけさん、どうして僕の所に来たんです。椿屋が心配だから座敷童子なんぞになったんでしょう。椿屋に行けばいいじゃありませんか」
「それが困った事でして。儂が今日お邪魔いたしましたのも、何樫先生にその事をご相談したかったからで」
と清蔵の方が答えた。
「何が困ったの」
「貧乏神が入っちゃったんだってさ。おれがいない間に、困ったもんだ」
と紗枝が言った。座敷童子が不在になって経営が思わしくない所、貧乏神が目をつけて入り込んで来たらしい。
「おれたちのいる家に貧乏神が入れない様に、貧乏神の根城にはおれたちは入れないからな。今の椿屋は貧乏神の根城だから、たけも帰れなくなってね」
「まったく紀代子め、貧乏神に魅入られるとは情けない」
とおたけさんは言いながら、ちらちらと壁際に張り付いている貧乏神を見た。何だかうずうずしている様に見える。
「どうしたんです」
「いや、あれだけ怖かった貧乏神が、妙に可愛く見えて。不思議だねえ、叔母ちゃん」
「貧乏神はいいもんだぞ、たけ。後で遊ぼうな」
紗枝はそう言ってにやにや笑った。貧乏神は青ざめたまま壁際で固まっている。
清蔵がじれったそうに手を揉み合した。
「何樫先生、何とかお力添えをお願いできませぬか」
「お力添えって」
「貧乏神を祓っていただきたいのです」
「そんなもの退魔師にお頼みなさい」
「退魔師組合にも言ったのです。しかし貧乏神は祓える類のものではないと言われて、どうしてもと言うなら何樫先生に相談せよと」
退魔師組合には後で文句を言いに行かねばなるまい。
「あたしからも頼むよ何樫さん。これじゃあ座敷童子になった甲斐がないよ」
そんな事を言われても私の知った事ではないのだが、あんまり突っ張らかって意地を張ってもこちらの気分も悪くなるし、このままおたけさんまでうちに居付かれては困る。止んぬる哉と思いながら立ち上がった。
二人がかりで貧乏神に襲い掛かる座敷童子どもを置いて、清蔵と一緒に部屋を出た。
分厚い雲がかぶさって、一雨来そうな形勢である。だから足早に通りを辿って椿屋まで行った。
行って見ると、成程妙に暗く、寒々しい雰囲気が漂っていた。
「毎年、この時期は満室御礼なのですが」
と清蔵が寂しそうに言った。
いつもならば夏越前の神楽や剣舞の公開稽古を目当てに、あちこちから宿泊客がやって来るそうである。それが今は一件か二件の予約しか入っていないらしい。貧乏神の喜びそうな条件が整っている。
中に入ると、綺麗に整えられて、掃除も行き届いているのに、どことなく陰気な雰囲気が漂っている。
玄関口で内装をまじまじと眺めていると、女中頭の楢崎さんが出て来て「あらあら」と言いながら三つ指をついた。
「何樫さん、ご足労いただきまして」
「椿屋が静かなのは気味が悪いね」
と私が言った。楢崎さんは困った様に笑った。
「まったく、ここで働かしていただいて四十年。こんなのは初めてでございますよ」
「何樫先生、こちらです」
と清蔵に案内されて、旅館の中を奥まで行ってみた。建物は古いが、手入れも掃除も行き届いている。紗枝が出て行ったとはいえ、従業員たちは仕事の手を抜いてはいないのだろう。客が来ないのは誠にお気の毒である。
西洋風のエントランスと違って、奥は和式の建物である。木の廊下の両側に座敷の宴会場が並び、硝子戸を透かして中庭が見える。中庭に池があって、そこから突き出ている岩の上に亀が一匹呆然と鎮座していた。水面がぽつぽつと波立っている。雨が降り始めたらしい。
一番奥の座敷が何だかがやがやと騒がしかった。
「宴会の客がいるの」
「お客様ではございません。みんな貧乏神なのです」
「そんなに沢山いるのかね」
「初めは気配だけだったのが、気づいたら大勢おりまして」
と清蔵は怯えた様子で腰をかがめて後ろに下がった。後ろから来ていた楢崎さんも黙っている。
私が怪訝な顔をしていると、廊下の向こうから誰かがやって来た。
「清蔵さん、お客様ですか?」
見ると、若女将の紀代子さんがやって来るところだった。いつもの眼鏡にパリッとしたスーツを着ている。清蔵が恐縮した様に頭を下げた。
「紀代子お嬢さん、こちらは何樫先生です。貧乏神を何とかしていただきに」
紀代子さんは胡散臭げに私を見た。くぼたで会った事には気づいていないらしい。
「この座敷の不法侵入者の事ですか? 清蔵さん、何度も言っていますけれど、そんなものは存在しないんです」
「いえ、そんな事はございません。お嬢さん、考え直してくださいませ。紗枝様も大女将もお近くにいらっしゃいます。今からでも立て直すのは遅くありません」
「そんな世迷い事を言っている暇があったら、もっと宣伝や営業に力を入れるべきです」
「お嬢さん」
「ちょっとよろしいですか」
私が割り込んだ。紀代子さんは怪訝そうに私をじろじろ見た。
「あなた、霊媒師の方? ここの支配人の井上紀代子と申します」
「これはご丁寧に。僕は何樫といいます」
「何樫さん、申し訳ないですけれど、うちはそういったインチキはお断りしているんです。うちの者がどんな条件でお呼びしたか知りませんけど、お引き取り下さい」
「そうですか。では帰ります」
と私が帰りかけると、清蔵と楢崎さんが大慌てで止めに入った。
「何樫先生、お帰りになられては困ります」
「お嬢さん、貧――ここの不法侵入者たちをどうするおつもりなんです」
楢崎さんが言うと、紀代子さんはぐっと唇を噛んだ。
「それは……然るべき所に通報して」
「警察はとっくに呼んだじゃないですか。何を言われたのか忘れたのですか」
紀代子さんは言葉に詰まった様に押し黙り、俯いた。
「何と言われたのです」と私が言った。
「……これは貧乏神だから、退魔師か神社に相談なさいと」
紀代子さんは両手で顔を覆った。
「こんな……これじゃあ、わたし、何を信じたらいいの」
「お嬢さん……」
清蔵と楢崎さんが紀代子さんを慰めている。廊下の向こうの方で、若い女中たちが心配そうな顔をして様子を窺っている。
前にくぼたで見かけた時にも思ったが、紀代子さんは怪異の類に関しては一貫して存在を認めようとしない。病的と形容できるくらいに徹底している。
それなのに、この座敷にひしめいているらしい貧乏神の姿は見えている様である。貧乏神が見えるのだから座敷童子だって見えるだろう。それなのにそれを認めようとしない。不自然で、何だかおかしい。
「紀代子さん、お尋ねしますが、もしかしてあんたは妖怪の類にひどい目に遭わされた事がおありなのですか」
私が言うと、廊下にへたり込んでいた紀代子さんは顔を上げた。
「……いいえ。だってそんなものいませんもの」
「しかしおかしい。あんたは、子供の頃はここに来て座敷童子とも遊んでいたと聞きましたよ。今だって貧乏神が見えているみたいじゃありませんか。それがどうしてそんなに怪異を嫌う様になったんです」
紀代子さんはしばらく俯いていたが、やがて口を開いた。
「わたし、そういうものが見えるせいで、中学生の頃にいじめられた経験があるんです」
何でも、紀代子さんは東京に暮らしていても、町の中や学校にそういった存在を見る事ができていたらしい。子供の事だから、それを素直に口に出す。夏休みなどに綾科に帰ると、そんな事が普通の事だったから、余計に感覚がマヒしていたのだろうと言った。
「そんなのが見えるなんて気持ち悪い、不気味だって言われて……ずっと仲良くしてた友達が素っ気なくなって、誰も近づいて来なくなって」
「お嬢さん……」
清蔵が愕然としている。
「だから、こんなものは全部幻なんだ、嘘なんだって自分に言い聞かせて、高校からは見えても全部無視していたんです。恋人ができて、もしかしたら理解してもらえるかと思って打ち明けたら、やっぱり気味悪がられて別れようって……そんな事ばかりだったから、そういう存在が憎かった。そのせいで友達がみんないなくなったから。実家の座敷童子の話も、いつの間にか嫌悪しか湧かなくなって……」
紀代子さんははらはらと涙をこぼした。
「お婆様の具合が悪いと聞いてお見舞いに帰って来た時……何も見えなかったんです。子供の頃に見えていた筈のいろんなものが。だから、ああ、やっぱり妖怪だのなんだのなんていないんだ、と安心して。だからここをやってみようと思ったんです。でも、暮らしているうちに段々と見える様になって来て、でもそれを認めてしまうと、自分が無理をしてでも信じようとしていた事が崩れてしまいそうで……」
そういったトラウマがあるから、自己防衛本能も相まって、怪異に対して必要以上に否定のまなざしを向けていた、というわけである。
しかし、それでもここに帰って来て旅館を継ごうというのだから、紀代子さんも心のどこかでは、そういったものへの憧れがあったに違いない。そこの折り合いがつかずにいたから、結局する事が中途半端で、しかし座敷童子への攻撃は過激になり、貧乏神を呼び込む羽目になったのだろう。
紀代子さんは涙ぐみながら他にも色々言っていたが、気の毒にみんな忘れてしまった。
清蔵が鼻をすすりながら紀代子さんの肩を叩いた。
「さあお嬢さん、元気を出してください。不肖清蔵、その様な事情があったとは知りませなんだ。しかし綾科にはお嬢さんを邪険にする輩は誰もおりません」
「そうですよ。さ、お嬢さん、何樫さんにお任せして、また紗枝さんをお呼びしましょう。きっと戻って来てくれますから」
紀代子さんは私を見た。指先で涙をぬぐった。
「あの、わたしこういった事をお願いした事がないので……おいくらくらいになるんでしょう? うちも今はあまり余裕が……」
「お金なぞ、そんな物騒なものは要りゃしません」
「え、でも」
「僕だって別に来たくて来たわけではないのです。清蔵さんだのおたけさんだのが頼むから来ただけで。早く帰りたいので、よろしいですか」
「は、はい。え、あの、うちのお婆様が何か?」
「おたけさんは座敷童子になってここに帰りたがっているのですが、貧乏神がいるから帰れないのです。前任の紗枝君までうちにいる。このまま居付かれては迷惑なのです」
紀代子さんは呆気にとられたまま、こくこくと頷いた。
私が襖を開けると中は満席であった。
上座に痩せた爺が座っている。額から頭の天辺が禿げ上がって、しかし残った白髪はごわごわして長い。骨ばった体を汚い着物で包み、歯がところどころ抜けている。絵に描いた様な貧乏神である。
他に襤褸をまとった貧相な男女がぞろぞろと立ったり座ったりしている。そんな連中が皆してこちらを見た。
「なんじゃい、お主は。新参の貧乏神かね」
と貧乏神が言った。
「失敬な事を言いなさんな。僕がそんなものに見えるのか」
「そんなものとは何だ。そんなら何の用だ」
「別に用事などない」
「そんならさっさと出て行って欲しいな。折角いい場所を見つけたんだから」
「ここは貧乏にするにも張り合いがあるのかね」
「当然だ。座敷童子がいた分、今までの揺り戻しができるぞ。実に貧乏にして遣り甲斐がある。そこで眷属連中を呼び集めたわけだ」
座敷にぞろぞろとひしめいているのは、まだ貧乏神になり切れていない連中らしい。椿屋を貧乏にする事で経験を積み、立派な貧乏神になるのだという。
新入社員を研修する様な話で、何だか馬鹿馬鹿しいと思った。
「こんなに大勢、どっから集めて来た」
「んなもん、そこいらじゅうにいるわい。しかしこの町はどの家も屋敷神が強い。相手といえば神と縁遠い一人暮らしの連中ばかりで、どうにも歯ごたえがなかった。久々の大物に、わしらも張り切っておるのだ」
「そいつは痛快だね。しかし実際どうやって貧乏にするのか。仕事の邪魔でもするのか」
「そんな具体的な事をするのではない。わしらはいるだけでその家の運気を低下させ、雰囲気を悪くし、人を近寄りがたくする。住まう者の精神を萎えさせ、やる気を失わせる。働き者もたちまち怠け者にしてくれよう。さすれば屋敷は荒廃し、より貧しくなる事請け合いよ」
「面白そうですね。しかしこの屋敷はまだ綺麗だな」
私が言うと、貧乏神はしょんぼりとした。
「そうなのだ。流石に綾科の老舗、中々気持ちを萎えさせようとせん。他所と違ってわしらが見えている分だけ、向こうも意地を張っている様なのだ」
原因が分からずに気持ちが萎えればやる気も失われるかも知れないが、この様に貧乏神という原因が見えているから、従業員たちも負けてたまるかと頑張っているのだろう。しかし客が来なければ同じ事である。
私は適当に座布団を引き出して腰を下ろした。
「ではひとつ諸君の健闘を祝って乾杯しようではないか」
と私が言うと、座敷の貧乏神見習いどもはざわめいた。上座の貧乏神が驚いた様に身を乗り出す。
「乾杯なぞできるわけがあるか」
「なぜ」
「酒がない」
「お銚子を運ばせりゃいいじゃないか」
「馬鹿な、嫌われ者のわしらに酒なぞ出してくれる筈がない」
「僕が頼んであげましょう」
廊下でこの成り行きを見守っていた連中の所に行って、酒を運ばせる様に言った。
清蔵は面食らった顔をしたが、「何樫先生の言われる事ならば」と台所に早足で向かって言った。走らないのは流石である。
それで座敷に戻って座っていると、やがて顔をひきつらせた女中たちがお銚子を載せたお膳を運んで来た。
貧乏神たちは大はしゃぎである。杯とお銚子が行ったり来たりして、陰気だった座敷が無暗に陽気になった。
しかしそこは貧乏神である。声を上げてどうこうという事はなく、互いに身を屈めてすする様に酒を飲み、陰気な薄笑いを交わしている。騒ぎ方も貧乏くさい。
上座の貧乏神がにたにたと笑いながら、私の隣に来た。
「いや、これは驚いた。有難い話だ。どうだお主もひとつ」
「いただきましょう」
「しかしお主は何者だね」
「僕の事なぞどうでもいい。ほら、貴君も杯が空ではないか」
とお酌してやったら、立て続けに二杯も三杯も飲み干して、青白い頬に血の気が出て来た様に見える。周囲の貧乏神どもも、何を言っているのか分からないけれど、ともかく楽しくやっているらしい。
上座の貧乏神は背中を丸めて「はあ」と言った。
「嘆声をもらして、何を感動しているの」
「こんなにうまい酒は久しぶりだ。わしらに酒を振舞ってくれる様な場所を貧乏にするのが心苦しいわい」
「やめりゃいいじゃないか」
「そうはいかん。わしにも貧乏神としての矜持がある。曲がりなりにも神なのだ。今は昔、成金で増長した輩に天罰を与えた事もある。戦ばかりする狼藉者の家を傾けてやった事もある。このご時世、昔の様に力は出せぬとはいえ、不埒な人間を戒める役目を放り出しては神の沽券にかかわる」
「だいぶ盛り上がって来なすったな。まあもう一杯」
「有難う」
お銚子を途絶えさせない様にと厳命したから、飲んだそばから新しいのが運ばれて来る。
貧乏神たちは多いに飲み、そうして次第に畳の上に伸びて行った。上座の貧乏神もすっかり酔い潰れてうつ伏せに突っ伏してしまった。
座敷の中で起きているのが私だけになった。
私は上座の貧乏神をおんぶすると、座敷を出た。廊下で中を窺っていた清蔵や楢崎さん、紀代子さんがびっくりした様子で私を見た。
「どうされるのです」
「嫌だけれど、ひとまず僕の家に連れて行くよ。おたけさんたちを寄越すから、今のうちにお膳を片付けちゃどうだ」
女中たちが貧乏神を踏まない様に座敷を片付けるのを尻目に、私は椿屋を出て、通りを辿って、家に帰って来た。
部屋に入ると、息も絶え絶えになったうちの貧乏神の上に、紗枝とおたけさんが跨ってきゃっきゃとはしゃいでいた。
「おたけさん」
「んお? おお、何樫さん。あっ、貧乏神」
「なんだ、どっから連れて来た」
紗枝が首を傾げた。
「椿屋に入った貧乏神の親分だよ」
「寝ている様だが」
「ヤマタノオロチだの酒呑童子だのの逸話の倣いさ」
「ははあ」
「これが首魁で後に残っているのは見習いらしいから、今のうちに旅館を取り戻して来たら如何」
おたけさんは猛然と立ち上がって部屋を飛び出して行った。
私が貧乏神を床に転がしていると、うちの貧乏神が這いずって来て、その顔をまじまじと見た。仲間が増えたのが嬉しいらしく、珍しく口端を緩ましている。その背中に紗枝が飛び乗った。貧乏神は「ぎゅう」と言って潰れた。
「よくやった! 褒めてやるぞ!」
「貴君もさっさと行きたまえ」
「おれはいいんだ。せっかく自由になったんだから、しばらくはここで遊びたい」
新しい貧乏神も増えたみたいだしな、と紗枝は豪快に笑った。私が苦々しい顔をしていると、連れて来た貧乏神が薄目を開けた。
「なんじゃい、騒がしい」
「起きたか。元気か」
紗枝がにまにま笑いながらその顔を覗き込む。貧乏神はしばらく怪訝そうに眉をひそめていたが、やにわに仰天して跳ね起きた。
「ざ、ざ、座敷童子!」
「ふふふ、おれの実家を引っ掻き回してくれたな。お前も幸せにしてやろうか!」
貧乏神は紗枝に抱き付かれて「ぐわあっ」と言っている。祖父に甘える孫に見えなくもないが、どちらにせよ鬱陶しい。頼まれても断ればよかったと今になって思い出したが、今更どうこうできる話でもないから、片付かない気持ちで万年床に寝転がった。
後になって聞いたところによると、座敷童子になったおたけさんが戻った椿屋旅館はたちまち態勢を立て直し、老舗の名に恥じぬ盛況ぶりを見せているらしい。
紀代子さんは幼くなったおたけさんにびしびし鍛えられて、毎日ひいひい言っているそうである。
しかしそんな事は私の知った事ではない。
『椿屋旅館の座敷童子』編終了です。
次回は金曜日更新です。どうぞよろしく。