椿屋旅館の座敷童子.三
「そんな事を言うんじゃないよ。あの子はあの子なりに頑張っている」
暗い部屋の中で、誰かが何か喋っている。
私は寝床に転がって目をつむっている。寝ているのだか起きているのだか解らない。夢の中の出来事の様でもあり、そうでない様でもある。
「けれどね、こうなってしまうのも仕方がないものなんだ。どうしてもと言うなら、おれだって止める事は出来ない――そうじゃない。人間のする事は、あくまで人間のものなんだ。おれたちみたいなものは、それに少し手出し出来るだけだ――お前の気持ちだって解る。けれどね、そういう風に未練ばっかり持つもんじゃない」
喋っているのは紗枝らしい。しかし相手が誰なんだか解らない。貧乏神ではないらしい。
「悪霊になっちまったら本末転倒だ。怒りで執着しちゃいけないよ――およしったら。お前は聞き分けのいい子だっただろう」
子供でもあやす様な口ぶりである。
「本当にそういう気があるなら、おれから神様に頼んでやる。だから短気を起こしちゃいけない。落ち着いて、よく考えるんだ――駄目だ。いいから今日のところは引いておけ。怒るんじゃない。怒りの執着じゃ神様も聞いてくれやしない――いい子だ。今日はお休みよ。な、また子守唄でも歌ってやろうか。ふふ、そう、いい子だ。ねんねんころりよ、おころりよ」
ぽつぽつと、呟く様な声で子守唄が聞こえて来た。
○
それから数日は特に何事もないまま時間が過ぎた。
六月に入って芒種も過ぎ、入梅が近づいて来たせいか空にはいつも雲がかかり、雨の降る日が増えた様に思われた。
六月の終わりに夏越の大祓があるから、それに向けて町内が活気づいて来ている。
神楽組も剣舞組もお囃子組も、毎日毎晩どこかしらで練習をしているらしく、いつも太鼓の音や笛の音、掛け声などが聞こえていた。尤もそれは綾科ではいつもの事なのだけれど、その調子がいつもより景気よく聞こえるだけである。
紗枝は相変わらずの様子で貧乏神相手にはしゃぎ回り、時には一緒に散歩に出て、いろんな場所に行って神だの物の怪だのと顔を合わせたりした。椿屋にいた頃にはあまり出歩く事はなかったらしく、どこに行くにも楽しそうである。
その椿屋の方は芳しい情報が入って来ない。紀代子さんもあれからくぼたに顔を出さない。
一度だけ一人で椿屋を覗きに行ったけれど、何となく暗い雰囲気が漂っていて、お客もあまり入っていない様に見えた。
そんなある朝、寝ている私の上に紗枝が飛び乗って来た。驚いて目を覚まさずにはいられない。抗議の視線を送ったが、紗枝は意に介した様子はない。楽しそうな口ぶりで言った。
「おい、綾科神社に行こう」
「なんだ藪から棒に」
「行きたいんだ。連れて行っておくれよ」
「一人で勝手に行ってくればいいだろう」
「そうつれない事を言うな。椿屋を出てしまったし、お前はおれを敬わないし、前みたいに力が出ないんだ。一人で出歩いちゃ姿が薄くなってしまう。お前が行くならついて行けるから」
いつの間にか紗枝まで私にくっつく怪異になっているらしい。
面倒だけれど、断れないから、不承不承に起き出して、ひとまず煙草をくわえて火を点けた。
普段は朝から起きるという事がないから、何となく頭の中に霞がかかった様で、しかし煙を肺に満たしている間に、少しずつ覚醒して来た。紗枝がじれったそうに部屋の中を行ったり来たりしている。
「まだか」
「まだだ」
「早くしろ」
そういう風に言うから、今までにないくらいに急いだのだけれど、煙草を吸うのと、服を着直すのと、顔を洗うのとで三時間が経過した。いよいよ退屈し出した紗枝に絡まれた貧乏神が丸くなっている。
貧乏神は神社に向かうと聞くと、家に居残ると言い張った。巫女が沢山いるのもそうだし、どうやら神社は居心地が悪いらしい。
ともかくそれでようやく外に出た。昼が近づいているがまだ午前中である。
昨日降った雨はすっかり上がって、清々しい青空が頭上に広がっている。結局昼近くまで待たされた腹いせなのか、紗枝は私の背中に上って歩こうとしない。
綾科神社は大参道を上がって行った先にある。
大参道は真っ直ぐだが、だらだらの坂道で、さらに大鳥居をくぐると石段が待ち受けている。そこを上ると目出度く神社に到着となる。
一応迂回して車で登れる道が整備されているから、そちらを利用する観光客も多いが、きちんと参道を通ってお参りしないとご利益がないとも言われる。私は毎回参道を通ってしか行かないけれど、ご利益があった試しはない。
紗枝を連れて大鳥居をくぐり、そうして石段を登った。
石段の両側は鬱蒼たる木々が生い茂っているが、いつも手入れされているのか、汚らしい印象はなく、むしろ新緑の茂る清々しさがかぶさって来る気がした。
石段を上がった先にまた鳥居がある。そこをくぐると境内である。玉砂利が敷き詰められて、向かって正面に拝殿があり、右手側に社務所がある。社務所の裏手には、巫女や巫女見習いたちが起居する寮の様な建物が見えた。
左側は大きく開けていて、その先に木造の神楽殿がある。ここで行われる神楽舞を見ようと、いつも多くの人が訪れるらしい。
今日も人が行き交っていて、拝殿でお参りをしたり、社務所でお守りや絵馬や破魔矢を買ったり、おみくじを引いて一喜一憂したりしている。
「着いたが、どうする」
「奥社に行きたい」
社務所と拝殿の間に道が伸びていて、そこから先は鎮守の森がある。山に入って行く風だから苔むした石段があって、そこここに様々な神様の分社が祀られていた。
赤鳥居の稲荷社があり、風車の奉納された風神社があり、池の傍らには水神社、つまり龍神様のお社がある。
八幡さんや祇園さん、住吉さんなどの祠もある。
庚申塔もあれば道祖神もある。
祀る神に節操がなく、神社の境内なのにお地蔵さんが立っていたりもする。
他、何の神様だか解らないけれど、大小様々な石の祠がそこいら中にあって、それが皆苔むしているのが賑やかである。
参道の脇に獣道みたいなものが伸びていて、その先にも何だか色々の祠が苔にまみれて鎮座しているらしい。
単なる石ころに見えて実はご神体であったりする様なものもあって、これだけ神様で込み合っていると、随分やかましいだろうと思う。
実際、随分こちらに視線が向けられているらしい気配がするが、目を合わせると面倒だから知らん顔をしている。
鎮守の森をずっと奥まで登って行くと、また石段があって、その上に奥社がある。
奥社と至る石段の入り口には石造りの鳥居があるが、人の腰くらいの高さに注連縄が張られていて、一般の参拝客は立ち入り禁止となっている。神域という事らしい。
脇に申し訳程度におみくじやお守りを扱う小屋があって、そこに巫女が座っている。実際は誰かが入らないように見張っているのだろう。見習いという様な幼い巫女ではなく、十八、九くらいの鋭い目つきをした巫女である。
私が近づくと、巫女はおやという顔をした。
「あれ、何樫さん」
「ご無沙汰です。奥社に用事があるのだけれど、いいかね」
「ええ。お祓いの方が来てますけど、そう大変じゃないですから。それにしても」
巫女は怪訝な顔をして私におぶさっている紗枝を見た。
「今日は貧乏神じゃなくて座敷童子を連れてるんですね」
「来たがったものだから、連れて来た。貧乏神はここに来たがらないのだ」
「そうでしょうね。ああ、石段は滑りやすいから気を付けてください」
「有難う」
ともかく、それで注連縄をくぐった。湿った石段に滑らない様、注意しながら登って行く。
石段の両側にも大小の祠や石塔があって、そこからも何かがこちらを見ている様な気がする。
段々背中の紗枝が重くなって来た。足を踏ん張るのが面倒くさくなった。
「おい貴君」
「なんだ」
「重いから降りたまえ。貴君を背負っていると滑って転びそうだ」
「転ばれるとおれも大変だ。降りよう」
それで紗枝を下ろして、二人で並んで石段を上り、やがて上にたどり着いた。
ここにも古びた鳥居が建っていて、その向こうにこれまた古びた拝殿が見える。その周囲は木々に囲まれているが、その足元などに大小様々な祠や塚が並んでいた。土着の神々や山の神などのものらしい。
現在は今の境内に拝殿があるけれど、そもそもこの神社は元々こちらの奥社が本殿であるらしい。下の境内の明るく開けた印象とは対照的に、こちらには頭上に大木の枝が幾重にもかぶさって、晴れた日中だというのに薄暗く、何となく身震いするような雰囲気が漂っている。
奥社は小さく古い建物だが、その傍らに新しく作られた建物がある。本格的なお祓い、祈願などはここで行われる事が多く、今日もそういった客が来ているらしい。
入口辺りで竹箒を動かしていた巫女が私を見た。どうもこの前町にハンバーガーを食いに来ていた子の一人らしい。
「あ、何樫さん」
「こんにちは。貴君はここでお勤めかね」
「そうなんです。雨が降ったから落ち葉が多くて、片づけなきゃいけなくて。最近は曇りが増えたし、もう梅雨が来るんですかねえ」
「お祓いの方はまだやってるの」
「もうじき終わります。中でお茶でも如何ですか。あ、可愛い座敷童子」
巫女は手を伸ばして、紗枝の頬をつついた。紗枝は嬉しそうにもそもそと身じろぎした。
「今日は貧ちゃんはいないんですか?」
「貧乏神はここに来たがらない」
「ああ、そっか。今日は何しに?」
「この子が来たがったから来たのだ。こっちに聞いてくれたまえ」
紗枝は両手を組み合してもじもじと指を絡ませた。
「神様に会いたくて、来たのです」
「あら、そうなんですね。それじゃあこっちに。あ、何樫さん、ちょっと中で待っててください」
そうして巫女と紗枝は行ってしまった。
私は建物の中に入った。正面に廊下が伸びている。その先は祈祷所である。
そちらに用はないので、向かって右にある待合所みたいな所に入った。入って左の奥の方に畳敷きの上がり座敷があり、手前は石畳の土間で、そこに木のテーブルと椅子が置いてある。
座敷の方には大きな神棚があって、その前に奉納品なのか、米袋や酒瓶、野菜やお菓子など雑多なものが積まれている。
座敷の端の方に碁盤を挟んで向かい合ったのが見えた。
一人は伸び放題の髪を無造作に束ねた髭面の大男で、もう一人は黄金色の長髪をなびかせた女性である。その色は収穫期の稲穂の色を彷彿とさせた。
どちらも着物を着て、大男の方は傍らに煙管盆を置いて紫煙をくゆらせている。奉納品らしい酒瓶の栓を抜いて、湯飲み茶碗で飲んでいた。
男の方は烏賊の干した奴をかじったりしている。唐辛子の小瓶とマヨネーズも添えてあった。
女性の方は饅頭を頬張っていた。それで酒を飲んでいるから、見ているだけで胸焼けがする様な気がした。
大男の方は祇園さんで、金髪の方はお稲荷さんで、どちらも神様である。奉納品に手を付けて平気な顔をしているのはそういう事情である。
私に気づいたらしく、両者がおやという顔でこちらを見た。祇園さんがからからと笑う。
「珍しいのが来たな。おい何樫、無沙汰をしているじゃないか」
「生憎と普段は何も用事がないのです」
「用事がなくたって来るのがお前でしょう」とお稲荷さんが言った。
「はあ」
「まあ来い。一献しようじゃないか」
それで誘われたから座敷に上がり込んで、神々と同席する。神に振舞われた酒だからお神酒になるのだろうけれど、味わいの変わるところはない。うまい。
祇園さんの傍らには抜身の剣が置かれていて物騒である。
一方、お稲荷さんの傍らには見事な毛の艶の大きな白狐が寝そべっている。寝ているらしい。これは神使の狐である。大変ふかふかしている。お稲荷さんは碁を打ったり酒を飲んだりする合間に、片手で狐の手触りを楽しんでいるらしい。
私は碁盤を覗き込んだ。白と黒とが入り混じっている。終盤戦に突入しつつあるらしい。
「どちらが勝っているんです」
「私だよ」とお稲荷さんが言った。
「生意気言うな稲荷の。わしの優勢だ」
「長考の割に悪手を打つ癖に何を言いますか」
「馬鹿め、それがわしの手なのだ。そうやってオロチを謀って勝利したのだぞ」
「はいはい、いいから早く次を打ってください。ちっとも進まない」
「急かすな。どうせ時間はいくらでもある」
そうして祇園さんは盤を睨めつけたまま、湯飲みの酒をぐいと一息に干した。私は一升瓶を持ち上げた。
「僕がお酌しましょうか」
「おう、気が利くじゃないか。美人じゃないのは残念だが、人間にお酌させるのはいいもんだな。自分が神だという感じがするわい」
「巫女たちがいるではないですか」
「あいつらはわしに愛想を尽かしておるのだ。神に仕える身の癖に生意気な。しかしここはわしの社ではないから、あまり強い事は言えん」
「肩身が狭いんですか」
「そこまでは行かん。居心地はいいぞ。自分の社よりも良いくらいだ。最近はパワースポットがどうだのご利益がどうだのと、そんな事ばかりに気を取られてわしの事など気にも留めん奴らばかりだ。ここらの氏子連中は損得なしに心底崇めてくれるから有難い話だ。瑞穂国にこんな場所はもう多くは残っていまい。なあ、稲荷の」
「そうですね。他所じゃ現世でこうやって碁を打つなんてできないから」
お稲荷さんはそう言ってまた饅頭をぱくりとかじった。よく解らないがそうらしい。
傍らに寝ている白狐が大きくあくびをして、もぞもぞと丸まった。祇園さんは私のお酌したのをまた一息で飲んでしまった。そうして烏賊をかじった。
「しかし昨今はやりづらくていかんね。出雲に集まった時もそんな愚痴ばっかり聞く」
「時代でしょう。仕方がありませんよ」とお稲荷さんが言った。
「人間の質が変わったのかね。まったく困ったもんだ」
何ともなしに、私は紀代子さんの事を思い出した。
祇園さんはばりばりと頭を掻いて、ちらと私の方を見た。
「それはそうと何樫、お前今日は何しに来た」
「僕は何の用事もありませんけれど、うちに来た座敷童子がここに来たいと言ったのです」
「座敷童子か」
「その子はどうしたの」
「今神様に会いに行っています」
「双子にかい。何の用事か知ら」
「何樫に愛想が尽きて娑婆からおさらばしようと思ったんじゃないか、アハハハ」
と祇園さんが笑った。
「僕の方も座敷童子なぞいなくていいからそれはいいですけれど、ここは座敷童子をどうかする事が出来るんですか」
「まあ、そうだな」
「ともかく何樫、お前は暇なのだね。祇園様は長考が過ぎて退屈だから、こっちで将棋でも付き合っておくれ」
「はあ」
それでお稲荷さんと将棋を指す事になった。
私とお稲荷さんが十手二十手と指す間に、祇園さんはようやく一手を打つ。お稲荷さんはちょっとだけ考えてすぐに次の手を打つ。そうしてまた祇園さんが長考にふける。
「あのね、今度来る時は七尾の油揚げを持って来て欲しいな」
とお稲荷さんが言った。
七尾は参道沿いにある豆腐屋で、店名の通り七つの尾を持つ化け狐が営んでいる。豆腐もそうだが、特に油揚げがうまいと評判で、くぼたでもそこの豆腐や油揚げを料理に使っている。
「ご自分で行かれた方がいいでしょうに」
「神が軽々しく豆腐屋に油揚げ買いに行くわけにいかないでしょう。分霊の身じゃ神社の外に出るのはしんどいし、お供え物として持って来てもらうのが一番いいのだよ」
「巫女にお頼みなさい」
「私の用事だけで町に出すわけにいかないのだ。買い物の時に頼んではいるんだけれど」
「そんならそれでいいではないですか」
「油揚げだけはいくらあっても嬉しいもの。ね、頼むよ」
「しかし僕はお金を持っていない」
「お前の事情なんか知らないね」
「そもそも稲荷神というのは油揚げがお好きなんでしたっけ。鼠の方がお好きなのでは」
稲荷信仰の強い地域では、油揚げを鼠揚げと呼ぶ事がある。稲荷神と狐が同一視され、お供え物として狐の好物である鼠を供えていたのが、殺生を禁ずる仏教の影響だの、供えた鼠が腐って困るだのという事で、豆腐の油揚げで代用する様になったのが始まりらしい。つまり代用品というわけで、それで満足なのであろうか。
お稲荷さんは饅頭をかじった。
「元々はそうだったんだけど、稲荷に供えるのは豆腐の油揚げって人間たちが決めたから、なんか好きになっちゃって。それに実際うまいものだよ。甘辛く煮つけられたものなんか、想像するだけでよだれが出ちゃう。私の神使たちも油揚げが好物だね」
そうらしい。神々は人間の上に立つ存在であるが、人間の想念に左右される部分も大きい様で、その影響もあるのだろうと思う。
鼠の天ぷらを持って来いと言われるよりは幾分かましだと思うけれど、どちらにしても面倒くさい。
「まあ、来る事があって、かつ覚えていたら持って来ましょう」
「不心得者め。まあいいさ」
お稲荷さんはまた饅頭を頬張って酒を飲んだ。ひどい食い合わせだと思う。
その時、紗枝を連れて行った巫女が戻って来た。座敷の散らかり様を見て、「あ」と言った。
「もう、祇園様、稲荷様、そんな風に散らかされちゃ困ります」
「んむ。おう、気にするな」
「何樫に片づけさせるから大丈夫だよ」
おやおやと思った。巫女の方も「それなら」と言っている。納得しないでもらいたい。
しかし一緒に行った筈の紗枝の姿が見えない。はてと思った。
「座敷童子はどうしたの」
「おがみさまと何か話してますよ。頼みごとがあるみたいで」
「まだ長くなりそうか知ら」
「分かりませんけど、わたしはお勤めに戻っていいって言われたので。祇園様、稲荷様、ほどほどにしてくださいね。何樫さん、後はお願いします」
そう言って、巫女はまた表の掃除をしに出て行った。もう片付けは私がする事に決まってしまったらしい。嫌だけれど止むを得ない。止むを得なければ即ち仕方がない。
しかし対局はまだ終わらないらしい。神の時間と人間の時間には差があるから、向こうは悠然としている。お稲荷さんとの将棋は向こうの勝ちで終わってしまって、私はする事がない。
紗枝を置いて帰るわけにもいかないから、手酌で飲みながら祇園さんにお酌して碁盤を眺めていたら、一升瓶が空になったので新しいのを開けた。
ようやく長考を終えた祇園さんが黒石をぱちんと打った。間髪入れずにお稲荷さんが白石を打つ。
祇園さんは煙管に煙草を詰めるとまた考え込んだ。いくらでも時間のある存在は、長考をするにも遠慮がない。
お稲荷さんはあくびを一つすると、傍らの白狐を枕にごろりと仰向けに寝転がった。
「何樫、足でも揉んでおくれ」
「嫌です」
「つべこべ言わない。バチを当てるよ」
そう言ってすらりとした足をすいと上げた。神様というのは我儘なものである。
私は渋々手を伸ばして、お稲荷さんの足の裏を親指でぐいぐい押した。柔らかくて、すべすべしていて、ちっとも硬くない。ほぐす意味があるのだかさっぱり解らないが、お稲荷さんは気持ちよさそうに目を閉じてうなっている。
「うあー、いいね。こういうのもいい」
「神様の足がくたびれたりするものですか」
「するさ。私らもくたびれる時はくたびれる。温泉に入りたくなる事だってある。ここは温泉にも行きやすいからいいね。また浸かりに行こうか知ら。裏側にいい温泉宿があるのよ。私の眷属どもがやっているから気軽に入れるし」
「ちょっと静かにしろ、気が散る」
祇園さんが言った。お稲荷さんは口を尖らした。
「だったらさっさと打ってくださいよ。退屈なんです、こっちは」
「たかが一時間や二時間がなんだ。短気な奴め」
そう言って祇園さんは紫煙をくゆらせながら長考をやめない。お稲荷さんは嘆息してごろんと寝返りを打った。枕にされている白狐が小さくうめいた。
「あーあ、風神でも来ないか知ら。祇園様ったら、気が長いんだから」
「時間に限りのない方は時間の使い方が豪快ですな」
私が言うと、お稲荷さんはくっくと笑った。
「まさしく。低級の神はどうだか解らないが、私らくらいの神格になると、まず消滅を恐れる必要もないしね」
「あんまり時間を粗末にしていると、後で困りゃしませんか」
「お前も似た様なものだろう」
「そんな事はありません」
私の指が足裏のツボを押したらしい。お稲荷さんは「うぎょあ」と言った。
そんな風にだらだらしたやり取りをしていると、やがて紗枝が来た。何となく片付かない顔をしていたが、私と酒を飲んでいる神々を見て面食らった様に口をぱくぱくさせた。
お稲荷さんが体を起こして、おやと言った。
「お前は座敷童子だね。こっちにおいで」
紗枝は招かれるままに座敷に上がって、おずおずとお稲荷さんの隣に座った。ぺこりと頭を下げる。
「お稲荷様、祇園様にお目通りできる光栄に浴しまして」
「いい、いい、そんなに改まるな。座敷童子にそんなものを求めやしない」
お稲荷さんは紗枝を抱き寄せると、膝の上に乗せて自分に寄り掛からせた。そうしてよしよしと頭を撫でている。
「可愛い奴だ。おや、照れてるのかい」
「恐縮でして」
「ふふ、ますます可愛い。饅頭でも食べるかい」
「しかし物言いに年季が入っているな。もう百年はいるのか。今日来たのはぼつぼつ娑婆とおさらばしようって事かい」
祇園さんが言うと、紗枝はもじもじと手を揉み合わした。
「今までいた所から出てきましたので。いずれはそういう事になるのかと」
「おや、お前は何樫の所にいるのじゃないの」
「いえ、こいつの所には仮宿としているだけで」
「なんだ詰まらない。何樫が嫌になって飛び出そうという魂胆だと思ったのに」
祇園さんが失敬な事を言う。紗枝が可笑し気に笑った。
「こいつはそういうものを敬う気持ちがないから、最初から当てにしておりません」
「うん、そうだな。私らみたいなのを畏れもせずに、平気な顔で酒を酌み交わす人間に碌なのはいない」
「しかし残念だなあ。何樫が今より没落したらどうなるのか、わしは興味があったんだが」
また祇園さんが失敬な事を言う。言いながらも碁盤から目を離さないので、意趣返しに、お酌したついでに唐辛子を沢山入れてやったら、また一息で飲み干した後に大いにむせ返っていた。この酒は随分辛口だなあと言った。
お稲荷さんが笑いながら湯飲みを手に取った。
「元は人間だね、お前は。流石に人の魂では長い時間を過ごし続けるのは嫌になって来たかな」
「いえ、そういうわけでも」
「ふうん。まあ、知っている人間が先に死んでいくのは寂しいだろうね」
「それは、はい」
「寂しくなったらいつでもここの稲荷社を訪ねておいで。遊んであげるから」
「ありがとうございます」
「うむ、いい子だ」
お稲荷さんは紗枝への親切をきめている。
「それで、何の頼みごとをして来たの」
私が言うと、紗枝は口ごもった。
「まだ言えない」
「そうか」
それならばどうしたって知りたい事でもないから、別に構わない。
私があっさり引き下がったのを見て、紗枝は怪訝な顔をした。
「いいのか」
「いい」
「もっと問い質されるかと思った」
「問い質して欲しいのかね」
「いや、そんな事はない」
「そんなら別にいいではないか」
「そうだけど」
紗枝は片付かない表情をしている。祇園さんとお稲荷さんがにやにやしている。
ともかく紗枝の用事が済んだから、帰ろうと思う。片づけを押し付けられていたけれど、神々様がまだ引き上げないのでは片付け様がない。だからそのままに放って帰って来た。後になって巫女が困ったのだかどうだか、それは私の知った事ではない。
家に帰ると、貧乏神が部屋の真ん中で大の字になって、のびのびと寝転がっていた。
しかし私が帰って来たのを見るとハッとした様に起き上って、そそくさと部屋の隅に逃げて行った。私が留守の間、貧乏神は意外に色々の事をして楽しんでいるのかも知れない。
万年床に腰を下ろして、煙草をくわえた。何もする事がない。
紗枝は貧乏神に抱き付いて頬ずりしている。貧乏神は嫌そうに壁に張り付いて固まっている。
外は日が傾いていて、相変わらずお囃子の音が聞こえている。
煙を吐き出して、大きくあくびをした。朝早く起こされたせいで、眠い。