椿屋旅館の座敷童子.二
座敷童子というものがいつ頃から世の中に姿を現し始めたのか、詳しい事は知らないけれど、綾科やその周辺では珍しい存在ではない。椿屋の座敷童子は勿論、古道具屋の九十九堂の座敷童子も有名だし、お菓子の老舗文福堂にもいる。
貧乏神が大抵の場合老人や薄幸の美女である事が多いのと対照的に、座敷童子は勿論子供である。子供はやはり福の象徴なのだろう。
座敷童子も性格が色々だけれども、基本的には無邪気で明るく、それでいて人見知りの気があって、いたずら好きである。またその気質も様々で、九十九堂の座敷童子は平気な顔をして人前に姿を現すが、椿屋や文福堂の座敷童子はあまり表に出て来ない。
その上、死んだ祖母や祖父が座敷童子になって家に残るという話も聞く。九十九堂の座敷童子はおおよそ百年以上前に死んだご先祖さまらしい。
じいさんばあさんが幼児退行して家に居残る、と書くとひどい話に聞こえるけれど、それで家が繁盛するのだから悪い話でもないらしい。
ともかく、椿屋には座敷童子がいる。
孫娘が経営改革だか何だか知らないが、色々の事をやってみて、仮にそれが的外れだったとしても、座敷童子がいる限りは客足が途絶える事はないだろう。というよりも、座敷童子がいるならば的外れな事をやる様にはならない、という方が正しいかも知れない。
そうは思うけれど、何となく気になったので、散歩のついでに椿屋に行ってみた。
佇まいはそのままで、あまり変わった様には見えないけれど、何となく雰囲気が明るくない様な気がする。初七日の法要が済んで営業を再開したと噂で聞いたけれど、まだ葬式の雰囲気を引きずっている様な気がした。
旅館の周囲は漆喰塗りの塀が延びている。きちんと手入れされて綺麗である。
その向こうに青々した松の大きいのが茂っていて、それが日差しを受けて光っている。
裏の方に回ると屈んで通れるくらいの木戸があって、そこから旅館の裏手に入れる様になっている。その少し先まで行くと裏門があって、業者が搬入などに使っているらしい。
搬入口の所までぶらぶら歩いて行くと、長らくここで奉公している清蔵爺さんがいた。私が近づくと清蔵はおやという顔で私を見た。
「これはこれは何樫先生」
「先生と呼ぶのはよしたまえ」
「はあ」
「景気は如何です」
「紀代子お嬢さんが帰って来てくだすったのはいいんですが」
と清蔵は浮かぬ顔をした。
「あまり上手く行っているご様子ではないね」
「や、まだ分かりません。紀代子お嬢さんはお若いですし」
と清蔵は雇い主への親切をきめている。しかしそんな事を言っては、却って上手く行っていないらしい事が窺えてしまって、何だか気の毒になった。
「お孫さんに変わって何か変化があったの」
「はあ、概ねは変わっておりません。より宣伝に力を入れようとかで、ホームページだとかを随分整えておられます。行政ともしきりに話し合っておられる様で」
「別に間違っている事ではないね。写真が撮れないから大変だろうけど」
「はい私共もそういった部分に異論はないのですが、ただ、一度も欠かさず続けていた座敷童子への膳のお供えをやめてしまわれて」
「おや」
「私共もそれはいけない、きっと悪い事になりますから、他の事は変えてもそれだけはお続けくださいと言ったのですが」
「駄目だったのだね」
「は。お嬢さんは妙に頑固で、そんなものがいる筈がない、そんな迷信に捉われていては却って毒だからいけないと、座敷童子の小部屋もどうこうすると言い出されて」
「じゃあ取り潰すの」
「いえ、そうなると建物自体を建て替えねばいけませんから、何とか残す事になっております。ただ今までの様に空けておくのではなく物置に使うそうで」
「座敷童子が起居するには不便そうだな」
「そうなのです。それが不満で豊貴は厨房を辞して、改めるまで帰らんと強情を張るし」
おやおやと思った。
西田豊貴君は椿屋旅館の板長である。五十の坂を越した熟練の料理人で、彼の料理は椿屋の評判を上げるのに一役買っていた。
「紀代子さんは何と言ってるの」
「新しい料理人を入れると申しております。どうも意固地になっておられるようで」
「しかし変だね。東京生まれの東京育ちだろうと、ここらでしばらく暮らして物を食っていれば、座敷童子くらい見える様になるだろうけれど」
「私共もそう思って説得したのですが、いやはや」
清蔵は悲し気に嘆息した。中から呼ぶ声がして、清蔵は私に会釈して行ってしまった。
私は腕組みして考えてみた。
旅館の成功は座敷童子のせいだけではないだろうし、そういったものに全幅の信頼を置かずに、自らの力で何とかしようと考えるのは立派な心がけかも知れない。
それにしたってやる事が性急である。座敷童子の方が途方に暮れてしまうのも気の毒な様に思う。そうしてそれが原因で出て行く者がいるのは本末転倒だという気がする。
しかし私がどうこう口を出す話でもないから、とりあえず色々と考えながらアパートまで戻って来た。
私は大抵昼頃まで寝ていて、散歩に出るのも午後の事が多いから、帰る頃にはもう日が傾いていて、「くぼた」の暖簾を出している梓さんに出くわした。
「あら、何樫さん、お帰りなさい」
「もうそんな時間かね」
「そうですよ。今日はご予約が多いから忙しくなりそうです」
景気がいいようで結構である。これも私が貧乏神を引き受けているからだろう、と自惚れるつもりもないけれど、向こうはそう思っている節がある。鼻息荒く否定する話でもないからいつも黙っている。
誘われて店に入ると、カウンターの向こうで蓮司君が何か仕込みをしていた。
「貴君、今日はお忙しいそうだね」
「ああ何樫さん。そうですね。でも人数が大方解っている分、却って楽ですよ」
蓮司君はそう言ってからから笑った。
ひとまずカウンター隅のいつもの席に漫然と腰を下ろしていると、麦酒を飲ましてくれて、しばらく雑談に興じた。
「椿屋の豊貴君がやめたらしいぜ」
「それじゃ本当なんですね」
「知っているの」
「今朝は治に会いまして」
「市場でかね」
「はい。いつも一緒の豊貴さんがいないから、変だなと思って二言三言話したんですが、どうにも気が滅入っているみたいで。ただ豊貴さんが出て行っちゃって、突然自分が仕切りを任されて困ってるとだけ」
橋元治君は椿屋旅館の板前である。徳山という老舗の割烹で修業を積んで、椿屋に移った。蓮司君も同じく徳山で修業を積んでいたから、治君は蓮司君の後輩に当たる。
「豊貴さんが出て行くなんてよっぽどですけど、何樫さん何か聞いてますか」
「新しい女将と方針がぶつかったらしい。座敷童子に頼るのが嫌いらしいよ」
「難しいですね。豊貴さんは座敷童子がお好きだったからなあ」
「そうだっけ」
「まだ椿屋で見習いだった頃、座敷童子に元気づけてもらった事があるそうです。座敷童子に供える膳も、どんなに忙しくても丁寧に作っていたそうですよ」
「ははあ、そりゃ怒る筈だ」
「何がです」
「膳のお供えをやめたり、小部屋を物置にしたりしたそうだ」
「それは随分ですね。あまり褒められた事じゃないなあ」
と蓮司君は顔をしかめている。綾科の人間は、そういうものを敬わない事を大なり小なり不快に感ずるものらしい。私は元々そういった信心が欠けているから何とも思わない。
やがて予約をしていたらしい連中がぽつぽつと到着したが、席が埋まるほどでもない。
私はカウンターの隅に座ったまま、ぼんやりしていた。蓮司君も梓さんも忙しくなって、私みたいな風来坊を構っている暇はないらしい。
人や皿がくるくると行き交うのは、見ていて面白い。退屈な顔を頬杖で支えながら、店の中を見ていた。
地元の連中の顔もいくらかは見えるが、予約をしていたのは観光客で、中年が多い。がやがやと騒がしく、しきりに人が出入りして、盛況という言葉が実によく合う様相を呈して来た。
いい加減で邪魔になりそうだったから、焼き味噌を貰って二階に上がった。
上がって扉の前に立つと、部屋の中でどたばた、何だか騒がしい。
おやと思って中に入ると、狭い部屋の中で貧乏神が着物を着た小さな子供に追っかけられていた。
私が驚いて玄関で立ったままでいると、焼き味噌のにおいで気付いたのか貧乏神が助けを求めるように駆けて来て、私にすがりついた。その背中に子供が飛びつく。重くて鬱陶しい。
玄関でどたどたするのも嫌だったから、貧乏神と子供とを引っ張って部屋の中に入った。
貧乏神は元々ばさばさの髪の毛を余計に振り乱して、もうくたびれて観念したという様相で壁に寄り掛かった。そこに子供がべったりくっついて楽し気に笑っている。
とりあえず貧乏神に焼き味噌を渡してやると、ちまちまと舐め始めた。それを子供がじっと見ているから、何だか落ち着かないらしい。しきりに助けを求めるように私の方をちらちらと見るけれど知った事ではない。
私は万年床の上に腰を下ろしてあぐらをかいた。
子供は六、七歳くらいに見える。金魚の柄の着物を着て、肩くらいの髪の毛をうなじで束ね、前髪を分けるようにして髪飾りを付けていた。顔立ちではっきりと男女の区別ができる年齢でもないが、装いからして女の子だろう。
見た事のある子供だなと思ってしけじけと眺めるに、どうやら椿屋旅館の座敷童子らしい事が分かった。
「おい貴君」
と私がいきなり言った。座敷童子と貧乏神が同時にこちらを見た。
「貴君は椿屋の座敷童子だろう」
座敷童子がくりくりした目をぱちくりさせた。
「おれを知っているのか」
「何度かお見かけしたよ。長年起居したねぐらを飛び出してどういうおつもり」
「あすこはおれを敬わなくなったから、居心地が悪くなった。たけも死んだ事だし、もういてやる義理もないと思ってね」
「ははあ」
中々饒舌な座敷童子である。九十九堂の座敷童子も老獪な喋り方をするが、年代的にも近いものがあるのかも知れない。
「しかし、それであすこが潰れちまったらどうする」
「知ったこっちゃない、と言いたいところだけど寂しいね。おれも百年近くいたわけだし、もちろん愛着もある。けど家人に疎まれちゃいられるものもいられないや」
「そんなに嫌われてるの」
「たけの孫娘がおれを信じないのさ。何を吹き込まれたか知らんが非科学的だ、迷信だってね。まあ、綾科以外じゃそんな連中が増えてるって聞いたけど、悲しいもんだ。おれは椿屋が好きだよ。父さんが始めて、弟が頑張って大きくした宿だからね」
「なんだ、貴君はご親族か」
「そう、たけはおれの姪っ子だよ。おれは八つを数える前に死んだけどね、以来座敷童子になってあすこにいた。最初は驚かれたけど、なに、綾科じゃ珍しい話じゃない。ささやかだけど、きちんと毎日お膳を備えてくれて、そりゃ嬉しかった。早くに死んだのに、後に残った連中を見守ってやれるんだからね」
「そんなら出て来なくたってよかったじゃないか。貴君がいなけりゃあすこも右肩下がりだぜ」
「そりゃ守ってやりたいと思うけど、向こうがそれを望んでないんじゃ仕様がない。しかし不思議だ。あの孫娘は幼い頃親に連れられて来た時にはおれが見えていたと思ったんだが、忘れっちまったのかね」
「人間の記憶は曖昧なものだからな」
「うん、そうかも知れん。おれも生きてる時の事はほとんど忘れちまった」
座敷童子は少し寂しそうに壁に寄り掛かった。解放された貧乏神はホッとしたような顔をしている。私は足を組み直した。
「それで、どうするの」
「どうするって」
「今後はどこに行くのか」
「当てなんかないよ。ま、いずれはこの世からおさらばするだろうが、しばらくはのんびりしたい。折角外に出たわけだし」
「椿屋の顛末も気になるし」
「うん。でも怖い。おれの目の前であすこが潰れちまったらと思うと」
「そんならさっさと成仏したらどうだ」
「見届けたいという思いもあるんだよ、解らない奴め」
座敷童子は頬を膨らますと、ひょいと立ち上がって私を蹴り付けた。
「やめなさい」
「少しはおれを敬え。おれが来たからにはお前の貧乏も少しはましになるぞ」
「別にそんな事はどうでもいい」
「強がっても駄目だ」
「強がっちゃいない。僕はご飯を食べないし、ここだって家賃は要らない。貧乏神を引き受けているお礼だそうだ。欲しいものがあるじゃなし、強いて言えば酒と煙草だが、それだって誰かがくれる。貴君がいなくたって何にも困りゃしない。騒がしい分だけ迷惑だ」
「なんだと」
座敷童子はちょっとうろたえたような顔をして、貧乏神の方を見た。貧乏神はにやにやしながら頷いた。座敷童子は口をぱくぱくさせて、がっくりと膝を突いた。
「綾科の住人で座敷童子が来た事を喜ばない奴がいるとは」
「それはそうと、どうして僕の所に来た」
「そりゃ貧乏神がいたからさ。おれたちはこいつらが大好きなんだ。健気で幸薄くて、構ってやりたくなる。中々会わないから嬉しいんだ」
座敷童子はそう言って貧乏神に抱き付いた。貧乏神はひゅっと変な悲鳴を上げた。座敷童子はうふふふと笑った。
「取って食いやしないよ。ほれほれ、よいではないかー」
そう言って座敷童子は貧乏神をくすぐったり抱きしめたり、やりたい放題にやっている。着物が乱れて、何となく下品だという感じがしないでもない。貧乏神は息も絶え絶えという様相である。座敷童子の発する陽の気にじりじりと焦がされているのかも知れない。
貧乏神という連中は、座敷童子が苦手らしい。不運を呼び込むという性質と、福を呼び込むという性質が折り合わないのもあるし、性格的にも陰気だから、無邪気な座敷童子には恐怖を感ずるという。
しかし逆に座敷童子は大抵の場合貧乏神が大好きで、見つけると、今みたいに遊ぼう遊ぼうと追っかけて回るらしい。
どちらも家に憑く神の一種だが、両者が同時に現れる事はまずない。
座敷童子のいる家には貧乏神は近づかないし、貧乏神が根城にしている家に座敷童子は入れないという。だからこういう風に両者が揃う光景は珍しいらしい。
考えてみるに、ここの貧乏神は家にではなく、私個人に引っ付いているから、そういう領域的なものの影響がないのかも知れない、というところまで考えてはみたが、私にはどうでもよい事だと思った。
ひとしきり貧乏神をいじり倒して満足したらしい座敷童子が、今度は私の方に来た。私はもう愛想をつかして万年床に寝転がっていたのだが、そこに飛び乗られたから骨がきしんだ。
「やめなさい」
「そう邪険にしないでおくれよ、しばらく世話になるのだし」
「なんだいそれは」
「そのままの意味だ。ここは貧乏神がいるのにおれが入れるし、おれが来ても貧乏神が出て行く気配がない。気に入った」
「別にいいけれど、僕は何にもお世話しないよ。膳なんか持っていないし」
「お前にそんな事を期待するべきではないと解ったから大丈夫だ。初めから期待しなければ失望する事もない」
「そいつは真理だね」
それなら別にそれでも構わない。貧乏神と二人暮らしで陰気だった部屋が少し賑やかになりそうである。
それがいいのかどうかは私には解らない。
○
翌日は朝から騒々しくて、いつもの様に昼まで寝ているわけにはいかなかった。
それでも抵抗の念を喚起し、眠れないながらも万年床に横たわって目を閉じていたが、座敷童子に踏んづけられて、諦めて起き出した。
座敷童子は何処からか櫛だの紅だの白粉だのを持ち出して来て、しきりに貧乏神を綺麗にしようと頑張っている。貧乏神の方はほだされてなるものかいうつもりなのか、ともかく必死になって逃げ回り、ついには亀の様に丸くなって部屋の隅に固まるという技を身に付けた。その周りを座敷童子がうろちょろして、あれこれと騒いでいる。
「観念しろ。いつまでもそうやっていられると思っているのか」
座敷童子が言うと、貧乏神は小さく身じろぎした。あくまで抵抗する心づもりらしい。座敷童子はふんと鼻を鳴らして、それから貧乏神の背中にまたがった。
「よし、いいだろう。そんならコンクラーヴェだ」
教皇選挙でも行う心づもりなのだろうか。
私は万年床に頬杖を突いて寝転がって眺めていたが、飽きたので、散歩にでも行こうかと立ち上がった。
「どこに行くのだ」
「散歩だよ」
「おれも行こうかな」
「来なくていい」
「そうか。お前がそう言うなら行く事に決めた」
座敷童子はひょいと立ち上がって私の横に立った。嫌だけれど仕方がない。ふと見ると、貧乏神が顔だけこちらに向けている。
「貴君も来るかね」
貧乏神は恐々立ち上がって、ぽてぽてと後ろをついて来た。座敷童子が早速行って手をつないだ。貧乏神はびくびくしているけれど、散歩に行く楽しみの方が勝っているらしく、大人しくついて来た。
雨は降っていないけれど、しかしからりと晴れているわけでもなく、薄雲が空を覆って、その雲が段々と分厚くなっているらしい。何となくじめじめしている。それでいてもう陽気が夏に近いから、曇っているのに汗を掻く心持である。
「一雨来そうだなあ」
と座敷童子が呟いた。
西の方から色の濃い雲が流れて来ていて、吹く風も何となく湿っぽいにおいがする。蛙があちこちでがあがあ鳴いている。確かに降りそうな気配になって来た。
どこかで風鈴が鳴っている。
当てもなくぶらぶらと歩き続けているうちに、はらはらと細かな雨が降り始めた。傘みたいな高級なものは持っていないから、雨宿りをしようと思って辺りを見回した。丁度良く九十九堂があったから、軒先に入り込んで、アイスの広告が刷り込んであるベンチに腰を下ろした。
隣に座敷童子が座り、その向こうに貧乏神が座った。
軒先から見る往来が次第にけぶって来て、行き交う人たちが傘を差して、蛙が一層やかましく鳴いている。貧乏神を見てぎょっとして足を速めるか否かで地元民かどうか分かる。
ふと、傘を差している女の人が足早に通り過ぎて行った。バッグを持って、パンプスみたいな靴を履いている。その人はふと足を止めて、私共の方を一瞬だけちらりと見た。あれは椿屋の新しい女将ではないか知らと思ううちに、女の人は角を曲がって見えなくなった。
「焦ってるな」と座敷童子が呟いた。
「何が」
「今通っただろう、紀代子さ。たけの孫だよ。豊貴がやめたから、新しい料理人を探しているんだ。尤も、座敷童子のいない椿屋に行く様な料理人は綾科にいないだろうな。最後は他所から呼ぶのかも知れんが、さて、上手く行くかどうか」
それはお気の毒であるが、私の知った事ではない。
ぼんやりとしたままでいると、「おや」と声がした。見ると九十九堂の若主人、九十九泰光君が店から顔を出していた。
「何樫さんじゃないですか」
「こんにちは。ちょいと雨宿りさせてもらってるよ」
「ええ、どうぞ。折角だから中でお茶でもどうですか」
お招きいただいたから、店の中に入り込んだ。
中は土間で、そこに様々な古道具が置かれてしんと黙っている。表の硝子戸を締めると、雨音が遠い世界の事の様に響いた。扇風機の回るぶんという音が不思議に大きく聞こえた。
「貧乏神さんはともかく、そちらの座敷童子さんはどなたです」
「椿屋の座敷童子だよ」
「ええ」
泰光君は驚いた顔をして座敷童子を見た。
「それは、ちょっとまずいんじゃないですか」
「こいつが勝手に出て来たんだから僕の知った事ではない」
「薄情な奴だよ、こいつは」
と座敷童子が言った。貧乏神はもじもじしている。
奥の方は上がり間になっていて、硝子戸の向こうが座敷である。その前にテーブルが置いてあって、そこでお茶が来るのを待った。座敷童子は店の中をうろうろして、面白そうな顔をしている。
「いいな。相変わらず面白いものが沢山ある」
「変に触って壊しちゃ駄目だぜ」
「失敬な。おれがそんなガキに見えるか」
中々面白い冗談である。
そんな事をしていると、座敷から誰かが現れた。大体七、八歳くらいで、おかっぱ頭に花飾りを付けて、菫色の着物を着ている。彼女は九十九堂の座敷童子のお市である。
「お客人か。なんだ何樫か。おお、貧乏神ではないか」
お市は私を見ると露骨にがっかりした顔をしたが、貧乏神を見るや嬉しそうな顔をして跳びついた。貧乏神は目を白黒させている。お市はにまにま笑いながら、貧乏神のぼさぼさした髪の毛を梳くように撫でた。
「愛い奴じゃ。ふふ。幸せなのは嫌いかい?」
「お市婆、やめなよ。嫌がってるよ」
泰光君がお茶とお菓子をお盆に載せて来た。しかしお市は聞く耳を持たない。やはり座敷童子というのは貧乏神が大好きなものらしい。
椿屋の座敷童子が椅子に腰かけて「こんにちは」と言った。
「市ちゃん、ご無沙汰だね」
「んん、ありゃ紗枝ちゃんかい。珍しいのう」
座敷童子二人、久闊を叙べ合っている。知り合いらしい。泰光君がポットからお茶を注いだ。
「お市婆、椿屋さんの座敷童子さんを知ってるの」
「当たり前じゃろ。小僧も会った事があるわ、忘れたんかい」
「え、いや、ごめんなさい。忘れた」
「ほら、人間の記憶は曖昧なものだろう」と私が言った。
「うん」と紗枝が頷いた。
「まったく駄目な小僧じゃ。紗枝ちゃん、こいつは泰光じゃ。今の九十九堂の主じゃ。ほれ、まだちっこかった頃に会った事があるじゃろ」
「ははあ、雄二の孫か。若いのにこんな所に収まって退屈じゃないかい」
と紗枝が言った。泰光君は苦笑した。
「一応拝み屋まがいの事もしてるんで、退屈でもないですよ。古い道具には因縁があったりもしますし、きちんとやれば面白いです」
「立派な孫じゃないか。うちの姪の孫とは大違いだな」
「椿屋の新しい女将か。たけの事は残念だったのう。良い子だったんじゃが」
「もう婆だったから仕方がないよ。せめて昇平が帰って来りゃよかったんだが、あの馬鹿め東京にかぶれやがって、おれを見たらそそくさと逃げやがった」
「紗枝ちゃんが昇平をいじめたからじゃろ」
「うじうじする性質だから喝を入れてやってただけだよ。子供の頃から根性がないんだ、あいつは。その点に関しては紀代子の方が上だ」
随分辛辣な事を言っている。
昇平というのはおたけ婆さんの息子で、今椿屋に帰って来ている紀代子さんの父親だろう。昇平さんは椿屋で幼少を過ごしているだろうから、紗枝の事も知っているに違いない。しかし、だから椿屋に変な思い出があって、帰って来たくないのではないかと思う。紗枝は口うるさい大叔母みたいなものなのだろう。
硝子戸を透かして見る外は小雨である。ざあざあ降りではない。しとしとぴっちゃんという風で、傘を差して歩くには中々よさそうな雰囲気である。
私はぼんやりとお茶を飲んだ。
泰光君は帳簿みたいなものを引っ張り出して何かやっている。深緑の着物の上に半纏を羽織って、まったくのどら息子といった出で立ちであるが、仕事をしているのだろうから実情はそうではない。
座敷童子どもは貧乏神を両側から挟んで、頬をつついたり二の腕を撫でたり、髪の毛を梳いてやったりしている。貧乏神は硬直して動かない。
「貧乏神は、いいよな、市ちゃん」
「ほんにええもんじゃの、紗枝ちゃん。幸せにしてやりたくなるわい」
座敷童子どもはそう言ってくすくす笑っている。貧乏神を好きなのは、そういう欲が刺激されるからなのであろうか。
泰光君が顔を上げて、言った。
「何樫さんは、最近は何をしてるんですか」
「何もしていない」
「そうですか」
「そもそも僕が何かをしていた時があったっけ」
「ありますよ。退魔師組合も一目置いてるじゃないですか」
「退魔師組合といえば、真田君が貴君を鍛えるといいとか言っていたよ」
「慶介さんがですか」
「そうだ」
泰光君は真田君、蓮司君たちよりも二、三歳ばかり年下である。しかし同じ綾科育ちだから子供の頃からの友達であるらしい。泰光君は頭を掻いた。
「俺ももう少し技を身に付けたいところですけど、なんだかんだ古道具屋が忙しいんですよね。変な品物はいつもここに持ち込まれて来るから」
「景気はよろしいのだね」
「仕事が途切れないという意味では、そうですね」
「座敷童子のおかげかな」
「そういうわけじゃないですけど」
「なんじゃと泰光、口幅ったい事を言いよってからに」
お市が割り込んで来て、泰光君の脇を引っ掴んだ。泰光君は「ぎょわあ」と変な声を上げた。
「やめてよ、お市婆」
「生意気を言うからじゃ。ばぁばをきちんと敬わんかい」
お市はふふんと鼻を鳴らして、泰光の膝の上にでんと座った。紗枝がにやにやしている。
いい加減でお茶もなくなったから、九十九堂を辞した。
雨は小雨のまま降り続いている。泰光君が傘を貸してくれたから、私と貧乏神と紗枝と、三人でぎゅうぎゅう詰まって歩いた。紗枝が色々言うからやかましい。
「もうちょっと詰めんか」
「貴君は雨に濡れたって関係ないだろう」
「れでぃーは労わるもんだぞ」
「貴君がレディーなもんか。せいぜいがガールだ」
「なんだそりゃ。それよりも貧乏神が濡れちゃ可哀想だ。もっと詰めろ」
「だったら貴君がそっちに行きなさい」
「これ以上は無理だ」
押し合いへし合いしているうちに帰って来た。もう「くぼた」も暖簾が出ている。そういえば少し薄暗くなったような気がしないでもない。
部屋に戻ると、貧乏神が部屋の隅に駆けて行ってへなへなとへたり込んだ。だいぶくたびれたらしい。膝を突いて俯いている姿が陰気で、見ていてくさくさする。
こんなのと一緒に部屋で膨れていては体にカビが生える。紗枝に押しつけて、「くぼた」のカウンターの隅に行こうと入ったばかりの部屋を出た。
雨が降っているせいか、店の中はまだ客がいなかった。梓さんが「いらっしゃいませー」と言ってくれたが、私だったから悪い事をした様な気分になった。
「貧乏神がいつになく陰気だから、逃げていていいかね」
「どうぞどうぞ。今日はそんなにお客さんも来そうにないですし」
蓮司君も梓さんもいつも優しい。それでは、と有難くカウンターの隅の席に居座った。
「今日はイサキの良いのが入ったんですけど」
「あまりお客が来そうな形勢ではないね」
「天気が悪いだけで出足が鈍りますからね。まあ、毎日これじゃ気が滅入りますけど、基本的には繁盛してますから、こんな状況でも余裕はありますよ」
蓮司君はそう言って笑い、お銚子を出してくれた。
雨音が聞こえている。少し雨脚が強まったと見えて、開け放された戸口の向こうで、足元に跳ねる水滴が見えた。夏至に近づいているから、随分日が長くなったものだと思う。
蓮司君は何かの仕込みをしている。テーブルを拭き終えたらしい梓さんがカウンターの向こうに入って、新聞の天気欄を見た。
「八時頃には雨も止むみたい」
「今日は後半戦からだね。ちょっと買い物頼んでいいかな、今のうちに」
「いいよ。どこ?」
「八百翔さん。小松菜が思ったより傷むのが早くて。あるつもりでいたんだけど、使えなさそうだから。あと三つ葉と、カボスも出てたらお願い」
「はあい。じゃあ行って来ますね」
梓さんは財布と籠を持ち、傘を片手に出て行った。
「この時期は食材が傷むのが早いね」
「そうなんですよ。今のうちはまだいいですけど、梅雨に入っちゃうともう。塩も固くなりやすいし、なかなか大変です」
と言いながら、蓮司君は沸いた湯でカツオの一番出汁を引いた。
お客が来そうな気配はない。私が貧乏神を引き受けているとはいえ、こういう日だってある。カウンターの木目を眺めていると、蓮司君が言った。
「そういえば、昨日から今朝にかけて騒がしかったですが、どうかしたんですか」
「僕の部屋か」
「はい」
「座敷童子が来たんだ。それで貧乏神を追い回している。こっちはいい迷惑だ」
「座敷童子ですか。そりゃ随分なものが来ましたね」
「それが貴君、椿屋の座敷童子なんだ。飛び出して来ちまったらしい」
蓮司君は目を丸くした。
「それは、もういよいよまずいですね」
「弱り目に祟り目だな。お気の毒と思うけれど、どうしようもない」
私がそう言って徳利を手に持った時、ぴしゃぴしゃと水を踏む音がして、誰かが入って来た。
「あ、いらっしゃいませ」
蓮司君が溌溂と挨拶した。しかし尻すぼみに元気がなくなった。はてと思い、私もお客の方を見た。おやと思った。若い女性で、見た顔である。
女性はくたびれた足取りでやって来て、カウンター席に腰を下ろした。私の一つ空けた隣である。
「あの、麦酒をいただけますか」
「え、あ、はい」
蓮司君はまごついた様子で麦酒瓶とグラスを出した。その時梓さんが帰って来た。
「ただいま、あ、いらっしゃいませ」
と梓さんはお客の女性を見、それからまごついている蓮司君を見、顔をしかめた。速足で厨房に入って蓮司君を小突いた。怖い顔をして、顎で引っ込んでいろと厨房の奥の方を示した。蓮司君は口をへの字に曲げて、しかし反論せずにすごすごと後ろに引っ込んだ。
梓さんはたちまちいつもの笑顔に戻って、麦酒瓶とグラスを持ってカウンターに置く。それからすぐに湯気立つおしぼりを差し出した。
「失礼しました、不躾な主人で」
「い、いえ、そんな事」
女性はもじもじしながらおしぼりで手をぬぐって、それから麦酒をグラスに注ぎ、一口で半分ばかり飲んだ。
「失礼ですけれど、椿屋旅館の新しい女将さんでしたね?」
と、お通しのひじきの小鉢を置きながら、出し抜けに梓さんが言った。女性は驚いたように梓さんを見て、恐縮したように身を縮こませた。
「あの、井上紀代子と申します。すみません、名乗りもしないで。その、くぼたさんはとても評判のお店だとお聞きしたので、行ってみようかと」
「それはありがとうございます。いえね、お婆さんのお葬式でお見かけして、もしかしたらそうかなと。あ、久保田梓と申します。あっちが主人の蓮司」
梓さんはあくまでもにこやかである。蓮司君はやや困惑した様な感じだが、それでも笑顔で会釈した。それで紀代子さんの方も少し表情が緩んだ様に見えた。
井上紀代子さんは椿屋の新しい若女将である。お化粧をして、眼鏡をかけて、髪の毛を整えて、スーツをしっかりと着こなしている。
まだ二十代半ばだろう。大学を出たばかり、と言われても信じてしまうくらいに見える。
しかし、そのしゃんしゃんした恰好に似合わず、妙に落ち着かなげにもじもじしているのが変な気がした。
前評判を聞く限りでは、何が何でも我を通して、座敷童子すら追い出してしまう様な怖い人だと勝手に思っていたのだけれど、目の前の紀代子さんはとても弱弱しく見えた。蓮司君もそれで対応が変になったのだろう。
「雨の中大変だったでしょう。いかがですか、綾科は」
「ええ、あの、素敵な所だと思います。風情があって」
何となく歯切れの悪い受け答えである。梓さんは微笑んだまま、頷いた。
「変な所もたくさんありますけどね。きっと慣れますよ」
紀代子さんはちょっとだけ笑い、また麦酒を一口飲んだ。そうしてしばらくもじもじしていたが、やがて独り言のようにぽつぽつと話し出した。
「本当に、分からない事ばかりで。わたし、どうしていいのか」
「旅館の事ですか」
「はい。昔、まだ小さい頃に連れられて来た時、とっても素敵だと思って。おばぁ――祖母が亡くなって、後継ぎがいないって話になって、何とかやってみたいと思ったんですけど」
蓮司君も少し前に出て来て聞いている。紀代子さんは嘆息して、両手で持ったグラスに残った泡を見ているらしい。
「張り切って来て、いろいろやってみたんですけど、みんな裏目に出るみたいで、何がいけないんでしょう。そりゃ、色々と勝手が違う事は解っていますけれど。あの料理人の方が出て行ってしまって、それで、代わりの人を探そうと思って、あちこち出向いたんですけど」
「ああ……」
梓さんは困ったように少し眉をひそめた。蓮司君は口をもごもごさせている。紀代子さんは俯いていて、それに気づいていないらしい。
「でも、みんな座敷童子がどうだって言うんです。そんなの、変じゃないですか」
「いやー」
「どうでしょうね」
二人が曖昧な返事をすると、紀代子さんは顔を上げた。
「お二人も、そういったものを信じてらっしゃるんですか」
「信じているというか」
「実際いるんですよ」
「いるわけないじゃないですか!」
急に大きな声を出すから、私も驚いた。久保田夫妻も目を白黒させている。
紀代子さんは怒った様な顔をしてまくし立てた。
「いないんです、そんなものは。そんなものがいて、それが仕事を上手く行かせているだなんて、それじゃあ人間のする事って何なんですか? 神頼みで、何もかも任せてしまうなんて、それが理性ある人間のする仕事なんですか?」
「井上さん、落ち着いて」
梓さんが言うと、紀代子さんはハッとしたように口をつぐみ、しゅんとした様子でうなだれた。
「ごめんなさい。つい」
「あのう」
蓮司君が遠慮がちに口を開いた。
「そりゃ、確かに僕らはそういったものを敬っていますけれど、完全に神頼みだなんて事はしませんよ。毎朝市場に行って、なるたけいい食材を選んで、手を抜かずに料理をする。お客様には丁寧に接して、また来ていただけるように努力する。それが普通の事です。いくら神様や座敷童子を敬ったって、代わりに市場に行ってくれたり料理をしてくれたりはしません。そんな事を期待して下心を抱けば、たちまち見抜かれて見放されます。僕たちのする事が真面目であるから、ほんの少し力を貸してくれる。そんな存在を大事に思うのは、不自然な事ですか? 僕はそう思います」
紀代子さんは俯いた。
「でも、それじゃあ、わたし」
「何か事情がおありなんですか?」
梓さんが優し気に尋ねた。しかし紀代子さんは俯いたまま、紙幣を二枚カウンターに置いて立ち上がった。
「すみません、お騒がせして。失礼します」
「あ、おつり」
と梓さんが追いかける前に、紀代子さんは拒む様な早足で雨の中に出て行ってしまった。
呆気にとられた様子の蓮司君が、私を見た。
「何だか、噂で聞いていた感じと違いますね」
「物の怪の事に関しては強情だったけれど、真面目そうなお嬢さんだね。話が通じないというわけでもないらしい」
「どうして、あんなに座敷童子を嫌うんでしょうね。単に見えないだけなら放っておけばいいのに、積極的に嫌うなんて何だか変ですよ」
「宗教感の違いではないか」
「でもおたけさんの葬式は仏式だったのだし」
「さもなくは、オカルトじみた事全般が嫌いであるかだね。他所では新興宗教が色々とやらかした事もあって、そういうものを過度に排除する傾向があるから」
「そういうものですかね。でもここでしばらく暮らしている筈ですし、座敷童子が見えていてもおかしくないのでは?」
「ここに暮らしていても鈍感なままの人もいるさ」
「いずれにしても、このままでは椿屋も厳しいですね」
勝手な事を喋る男二人を、梓さんがじろりとにらんだ。
「もう、二人して勝手な事ばっかり。少しは気遣ってあげたらどうなんですか。馴染みのない土地で大変でしょうに。特に蓮さん、お客様にあの態度は何ですか。店主がそんな事じゃ困りますよ」
「あー、うん、ごめんなさい。反省してます」
と蓮司君は頭を掻き掻き恐縮した。梓さんはふんと鼻を鳴らし、それから紀代子さんの出て行った方を見やって、悲し気に呟いた。
「何とかしてあげたいなあ。あんなにくたびれて、かわいそう」
私は口出しせずに見ていただけだったが、どうにも不自然な感じがした。紀代子さんの言い方では、嫌悪感がどうのというだけではない。さながら、そういうものがいてもらっては困るという風な口ぶりであった。
考えてみたけれど、分からない。
お銚子を取り上げて、ふと店の片隅に目をやると、いつの間に来ていたのだか、紗枝がちょこんと座っていて、妙に悲しそうな顔をして、紀代子さんの出て行った入口の方を眺めていた。
雨が地面を叩いてざあざあと音を立てている。




