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迎え火、送り火.五


 私は怪訝な顔で幽霊を見た。茶色みがかったセミロングの髪をうなじで束ね、右の目元にほくろがある。


「あんたは和音(かずね)さんだったか」

「えっ、あっ……」


 和音さんはうろたえた。


「……そうです。和音。ああ、そうだ。それがわたしの名前……」

「健太郎君に会いに行ったのではないのか」

「そう思いました」

「では、なぜここにいるのだ」

「家がわからなかったんです」

「それでも僕の所に来るのはおかしいじゃないか」

「でも来られたんです」


 どうにも要領を得ない。私が眉をひそめていると、志鶴が口を開いた。


「和音さんはしばらく何樫さんに憑いていたんでしょう? 一度憑くと、霊的な対処をされない限り離れても飛んで来られるものですよ」

「そうかね」


 そうらしい。つまり和音さんも私にくっつく怪異になっている状態という事である。実に面倒くさい。


「それで、どうして来たの。健太郎君の所に連れて行けとでも言うのかね」

「あ……そうですね」


 それは想定していなかったらしい。

 どうやら一人でうろついているうちにまた不安になって戻って来たそうである。健太郎君に会いたいのは確かなのだが、その会いたい気持ちが焦燥感に変わって、それが不安をかき立て、結局一人で彷徨っていられなくなってしまったらしい。幽霊も難儀なものだと思った。

 では再び団八酒店に行くかと思っていると、眉をひそめた志鶴が口を開いた。


「あの……会って、どうするんですか?」

「……ともかく、会わないといけないんです」

「伝えたい事があるんですか?」

「伝えたい……う……」


 幽霊は頭を抑えた。


「……伝えたい……ううん、違う……ごめんなさいって……言いたい」

「謝りたいんですか……? 健ちゃんに?」

「喧嘩したまま……会わなかった、から……」


 和音さんの頬を涙が伝った。


「意地なんか、張らなきゃよかった……」


 そのままぺたんと座り込んですんすんと鼻をすすっている。志鶴と貧乏神もそれに引っ張られて涙ぐんでいる。気の毒だけれど、何だか陰気で嫌だなと思う。


「健太郎君も同じ事を言っていたよ」

「同じ……?」

「あんたに謝れなかったから後悔しているそうだ」

「そっか……ああ……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 和音さんは膝を抱えて丸くなってしまった。泣いているらしい。


「泣いていないで、健太郎君の所に行こうではないか」


 と言ったけれど、和音さんは小さく首を横に振ったきり動かない。これでは健太郎君の所になぞ行けそうもない。


「会いたくないのか知ら」

「そう単純じゃないですよ……だって、もう元には戻れないんですから、後悔もするだろうし、罪悪感も凄いだろうし……」


 と涙ぐんだ志鶴が言った。

 推察するに、後悔の念から来る罪悪感が感情を覆いつくして、動こうにも動けないという状態なのかも知れない。感情が先に立つ幽霊は余計にその傾向が強いのであろう。

 しかし罪悪感でまだよかったかも知れない。被害感情の方が強ければ、恨みつらみで悪霊になってしまう。その点、和音さんは真面目な人なのかも知れない。


「喧嘩別れして……そのまま亡くなられてしまったんですね……」

「健太郎君からも聞いたが、事故だったそうだ。互いに意地を張って連絡も取り合わなかったらしいよ」

「ああ……」


 志鶴は両手で顔を覆った。すっかり和音さんに共感しているらしい。貧乏神も俯いてぐすぐす言っている。これではちっとも埒が明かない。

 私が半ば呆れてこの状況を眺めていると、和音さんが頭を抱えて呻いた。


「うう……」

「頭が痛いのかね」

「はい……ずっと、ぼんやりしてしまって……考えるのが上手く、できない……会いたいのに、会うのが、怖くなって……」


 私は志鶴を見た。


「どうしてだろうね」

「……健ちゃんを傷つけちゃうんじゃないかって思うんじゃないでしょうか」

「なぜ。互いに謝りたいんだから、会えば済む話じゃないか」

「ぐすっ……死んだ人は、生きている人ほど明瞭に思考ができませんから……それに事故で亡くなったなら、体が傷ついたんでしょうから、その痛みが感覚として残っているのかも知れないです。そうなると余計に思考が阻害されます……傷つけそうで怖い、と思い込んでしまえば、恐怖が先に立って理論立てて考えられなんかしないですよ……」

「成る程」


 もしかしたら最初からそうだから、自分の事だの目的だの、健太郎君の居場所だのが全部曖昧になっているのかも知れないと思った。

 どうにも話が進まなくて困るなと思っていると、志鶴が立ち上がった。


「……神様のお力を借りましょう」

「どうやって」

「わたしがやります。何樫さん、すみませんが、必要なものを揃えて来てくださいませんか」


 それでメモ用紙に何かさらさらと書いて私に手渡し、散らばった服を畳んだり、布団を片付けたりし始めた。

 まだ付き合わされるのにうんざりした心持ではあるが、乗りかかった船なので止むを得ない。止むを得なければ即ち仕方がない。

 貧乏神を連れてフロントまで下りた。


「お帰りですか」


 と受付の番頭が言った。


「いや、お使いだ。頼んでもいいかね」


 と言ってメモを渡した。番頭はそれをしけじけと見て、怪訝そうに顔を上げた。


「神事か何かをされるのですか」

「志鶴君がね。幽霊絡みだよ、貴君」

「ああ、お盆ですからね。帯刀様がおられるなら、大丈夫でしょう」


 元とはいえ、綾科神社の巫女の信用度は段違いである。

 番頭は快く買い物を請け負ってくれて、出かけて行った。自分で行かずに済んだから大変便利がいい。フロントの隅の方に灰皿が置いてあったので、そちらに行って煙草を吸った。貧乏神はじれったそうにその辺をうろついている。


 やがて番頭が帰って来たので、諸々の品を受け取って部屋に戻った。

 部屋は片付けられていた。志鶴は白襦袢を着直して、髪の毛も整えていた。ついさっきまでの憔悴した様子は微塵もなく、背筋もぴんとして、何だか顔つきまで変わった様に見える。


「あ、お帰りなさい」

「これでいいかね」


 と志鶴に買ったものを手渡す。志鶴は頷いた。


「結構です」


 小皿に塩を盛り、酒の小瓶と水の入った茶碗とを置いてから、志鶴は束ねた榊の枝を手に持って、その先端を酒に浸し、部屋の四隅にぴっぴっと振りまいた。蝋燭に火を灯し、それから部屋の電気を消す。

 それから和音さんの前に立った。

 急に雰囲気が幽玄なものになり、そこいらがしんとして、息をしたり唾を飲んだりするのさえ憚られる様である。


「掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神……」


 祝詞が始まった。祓詞である。志鶴の声はよく通る。普段背中を丸めてばかりいる貧乏神も、何だか緊張した面持ちで背筋をぴんと伸ばしていた。


 最初は俯いていた和音さんだったが、段々と顔を上げて、やがては落ち着いた顔つきになっていた。

 神事は粛々と進んだ。最後に志鶴がさっと榊を一振りして一礼し、ふうと息をついた。張り詰めた雰囲気が和らいだ。


「気分はどうですか、和音さん」

「……いいです」


 と和音さんは言った。何となく口ぶりもはっきりした様に思われる。

 和音さんは志鶴を見上げた。ずっと不安そうだった顔つきからすっかり険が取れたという風である。


「ありがとうございます。何だか、頭がはっきりしました」

「……健ちゃんとしっかり話してあげてください」

「はい。……志鶴さん」

「なんですか?」


 和音さんはまっすぐに志鶴の方を見ながら、言った。


「あなたも、健太郎の事が好きなんですね」


 志鶴はドキッとした様に和音さんを見返した。


「……その資格があるのは和音さんですよ」

「でも、わたしはもう」

「傷心の健ちゃんに付け入る様な事はしたくありません」

「そう、ですか……」

「……さ、早く行ってあげてください。きっと健ちゃんも待ってますよ。行けますよね?」

「はい……今は、何処に行けばいいかわかります。健太郎が、目印を……」


 和音さんが立ち上がったと思うや、すうと姿が消えた。

 志鶴は力が抜けた様にへなへなとへたり込んだ。貧乏神が駆け寄って背中をさすってやっている。


「あ、はは……これで、よかったん、ですよね……?」

「僕には解らないね」

「……わたしにも解らないです」


 志鶴は嘆息しながら肩を落とした。


「ああ……わたしは弱いなあ……」

「どうして」

「口ではああ言っておいて……和音さんが幽霊だった事を嬉しがってる心があるんです。こんな事……最低だ……うぅ……」


 そう言ってもそもそと膝を抱いて顔をうずめた。貧乏神はおろおろしながらずっと志鶴の背中をさすったり肩を撫でたりしている。

 いつまでこうしているのかなと思っていると、やがて志鶴がのろのろと顔を上げた。


「ありがとうね、貧ちゃん……でも、ちょっと一人になりたいな……」


 貧乏神はおずおずと頷くと、ようやく腰を上げた。

 それで部屋を出た。フロントまで下りると、帳簿に目を落としていた番頭が顔を上げた。


「おや、お帰りですか」

「お邪魔したね」

「いえ……神事は滞りなく?」

「済んだよ」

「そうですか」


 番頭は安心した様に言って、私共に頭を下げて送り出した。


 もう夜が更けていた。相変わらず死者で往来は賑やかである。煙草を咥えてぷかぷかとふかしながら歩く。後ろからは貧乏神がしょんぼりした様子でついて来る。

 何となく気になったから、団八まで行ってみた。店はもう閉まっていた。そもそも開けていなかったのかも知れない。

 しかし店の前に迎え火を焚いた様な跡があった。成る程、和音さんが消える前に呟いた目印とはこれであったかと納得した。

 閉められたカーテン越しに、店の奥の方に薄明かりが灯っているのが解った。健太郎君は奥にいて、おそらく和音さんと話しているのだろう。そこに入り込む義理も意味もないので、そのまま踵を返した。


 何処かのお社の宴会に紛れ込もうかとも思ったが、貧乏神がすっかり消沈して陰気だから、こんなのを連れ回しては酒がうまくない。一度家に戻る事にしようと思った。

 久保田家の宴会も終わったらしく、店の前はもう誰もいなかった。しかし片付けでもしているのか、店の中にはまだ明かりが灯っている。

 ひとまず部屋まで戻ると、爺が窓辺に座っていた。涼風がそよいでいる。

 女の貧乏神はのそのそと部屋の隅に行き、壁の方を向いてごろんと横になった。


「また出かけていたのか」

「僕が行きたかったわけでもないけれど」

「ではどうして出かけた」

「彼女が行きたがったのさ」

「何処へ」

「女優の所だよ」

「昼間の話の続きか」

「そうだ」

「何をしに行ったのだ」

「彼女を慰めにさ」

「慰められたのか」

「そうしたら幽霊が来た」

「それでどうなった」

「女優が幽霊を浄化して、幽霊は酒屋に行った」

「どうして女優が浄化の術を心得ておるのだ」

「女優は元々巫女だからだ」

「またややこしくなって来た」

「そんな事はない」

「しかし巫女の女優はなぜ恋敵の幽霊を助けてやるのだ」

「僕にもよく解らないが、真面目な性格なのじゃないか」

「そうか」


 爺は要領を得ない顔をしているが、私の方もよく呑み込めていない。

 壁の方を向いていた女の貧乏神がごろりとこちらに寝返って、ジトっとした視線をこちらに向けていた。



  ○



 翌日は昼近くなってから目が覚めたが、連日出かけ過ぎていて、何となく動くのが億劫だったから、そのまま暑い部屋の中で汗を掻きながらごろ寝をして過ごした。

 相変わらず暑いが、入道雲がかかっていて、それを取り巻く雲が時折日差しを遮るから、その度にホッとする。

 出かけるのが面倒なまま、日が傾き出すまで煙草をふかしてぼんやりしていると、開け放したままの入り口から誰かが顔を出した。


「何樫さん」

「なんだ、志鶴君ではないか」


 帽子にサングラスをかけた志鶴はえへへと笑った。


「よかった、出かけてなくて……入ってもいいですか?」

「汚いけれど、いいよ」


 志鶴はいそいそと入って来て座った。爺を見てはてと首を傾げる。


「あれ……そちらの方は……」

「貧乏神だよ」

「ああ、そうなのですね。こんにちは、帯刀志鶴と申します」

「うむ。おぬしは何者かね」


 と爺は傲然と言った。


「昔綾科神社で巫女をしておりました。今は女優をしています」

「なんだ、おぬしの事であったか」

「ご存じでしたか」

「色々と話したものでね」

「そうですか」


 お恥ずかしい、と志鶴は苦笑した。

 私は新しい煙草を咥えた。


「それで、何か御用かね」

「今日帰るんで、ご挨拶に来ました」


 おやおやと思った。


「盆の明けまでいると聞いていたけれど」

「そのつもりでしたけど……なんか、つらくなっちゃって。予定を変えて帰る事にしました。神社とか、友達に挨拶しに回って、こんな時間になっちゃいましたけど」

「そうかね」


 志鶴の横に座る貧乏神が気遣うような顔をして彼女を見ている。

 志鶴は頭を掻いた。


「気楽な夏休みのつもりだったんですけど……」

「とんだ事になったね」

「あはは……でも、却ってよかったかも知れないです。健ちゃんも、和音さんも……少しは心残りが解消されたなら、いいな」

「健太郎君には会っていないの」

「会えないですよ……それに、フった女に付きまとわれても健ちゃんも迷惑でしょうし」

「そういうものかね」


 女の貧乏神がむうと口を尖らしている。納得いっていないらしい顔である。


「帰ったらもう仕事なの」

「そうですね。帰って、片付けて、また現場入りです」


 今回は我儘言って休ませてもらったから、しばらく忙しくなりそうですよ、と志鶴は笑った。


「電車か、飛行機か」

「空港まで電車で、それから飛行機です。夜の予約で」


 だからそろそろ駅に行かないと、と言う。


「あんなものに乗るのは怖くないかね」

「怖くないですよ、もう大人ですもん」

「僕は怖いけれどね」

「あはは、何樫さんは子どもっぽいところがありますねぇ」


 取り留めもない話をしていると、不意にまた入口に人影が差した。


「何樫さん。あれっ」


 見れば健太郎君である。志鶴が仰天した様に立ち上がり、それからおろおろして、また座った。


「けけけ、健ちゃん……」

「志鶴……よかった。いたんだな」

「えっ、なに……?」

「清瀧に行ったら、もうチェックアウトしたって聞いたから……」健太郎君は部屋に入って来て、膝を突いて志鶴に頭を下げた。「ありがとう、志鶴。おかげで和音に会えた。謝れたよ。話もできた」


 志鶴はおろおろしながら健太郎の肩に手をやった。


「そ、そっか……へへ、よかった。少しは役に立てたね」

「和音も感謝してる……今夜、送るんだ」

「そう、なんだね……」

「……一緒に、送り火を焚いてくれないか? 俺がこんな事を頼むのは図々しいかも知れないが」

「そ、そんな事ない、けど……いいの? わたしなんかが……」

「和音もそうして欲しいらしいんだ。お前が、とても良くしてくれたって」

「……わかった」


 健太郎君が私の方を見た。


「何樫さんも、是非」

「なぜ」

「和音がしばらくここで世話になったんでしょう? ご迷惑をかけたから、一言お礼を言いたいって和音が言っていて」

「別にいいけれど、まあ行きましょう」

「わしはよい。今回の件には関わっておらぬ。行っても部外者だ」

「そうかね」


 それで立ち上がり、爺の貧乏神を残して外に出た。

 日が傾いて空が真っ赤に焼けている。向こうに居座る入道雲が夕日に照らされて、くっきりとした陰影があるせいでやたらに立体的に見えた。もう天頂の方は暗くなっていて、少しずつ藍色が下へと染まって来る様に思われる。

 今夜の花火の見物客らしいのが大勢いて、そこいらには露店も張られて実に賑やかである。

 送り火は団八酒店の裏手で焚くらしかった。今日は往来に人が沢山いるからだろう。裏の方はシャッター付きの駐車スペースになっていて、空き瓶や箱などが積んであった。


「火はどうするの」

「在善寺からいただいて来ます。すみませんが、ご一緒いただけますか」


 健太郎君は提灯を持ち出して来た。送り火や迎え火の火は、寺や神社からもらって来る事が多い。そうする事で死者への目印としてより効果があると考えられるのであろう。

 志鶴がおずおずと声をかけた。


「……健ちゃん」

「ん」

「和音さんは、もうお上がりになるの?」

「ああ、そうらしい。俺への未練のせいでずっと彷徨って苦しんでいたみたいだから、やっと楽になれるんだろう」

「そっか……」


 志鶴は俯いた。健太郎君はふっと笑った。


「そんな顔するなよ。ずっと互いに後悔を抱えてた方がつらかったんだから」

「うん……」


 在善寺も賑わっていた。参拝客が大勢いて、蝋燭や線香を供えて手を合わせている。本堂では何か法要が行われているのか、大声で読経をする声が聞こえていた。

 貧乏神は境内に入りたがらなかったので、私と貧乏神は外で待ち、健太郎君と志鶴がもらい火をして来た。そこいらはもう薄暗くなり出していて、酒屋への道々、提灯の明かりが少しずつ目立って来るのがよく解った。


 団八酒店に戻る頃には、もうそこいらは暗くなっていた。人がいるのは解るが、顔はよく見えないといったくらいである。このくらいの時刻から、人間以外のものの姿がはっきりし出す。

 健太郎君が提灯を吊るした。


「和音、いるか?」

「うん」


 提灯に照らされる様に、和音さんの姿が現れた。前までの陰気な顔ではなく、死者の割に朗らかな調子でにっこりと笑って、私共に深々と頭を下げた。


「志鶴さん、何樫さん、貧乏神さん、本当にお世話になりました」

「和音さん……」

「おかげで健太郎に会えました。死んでしまってから……ずっと彷徨っていて、不安で、でもどうしていいかわからなくて……ようやく辿り着けた。馬鹿ですね、わたしも、健太郎も。どっちも意地ばっかり張って、互いに後悔して……」

「いや、俺が悪かったよ」

「こら、今更言いっこなし。わたしだって、わたしが悪かったって思ってる。だから、お互い様。それでいいの」


 和音さんに言われて、健太郎君は頭を掻いた。


「でも、俺は……」

「もう、よしてよ。昨日散々話したじゃない」


 和音さんは呆れた様に言って、いたずら気に健太郎君を小突いた。努めて明るく振舞っているらしいが、言葉の調子はどこか寂しげである。志鶴が何とも言えない表情で二人を見つめている。


「あんたは、また来年帰って来るの」


 と私がいきなり言った。和音さんは寂し気に微笑んで、首を横に振った。


「わたしみたいな霊は、もう……」

「本当にもう未練はないの」

「……ないわけじゃないと思うんですけど、不思議とすっきりした心持なんです。それに、このまま幽霊でいちゃいけないって、何となくわかるんですよ。行かなくちゃ、って」


 貧乏神がおずおずと和音さんに近づいた。和音さんは微笑んで貧乏神の手を取った。貧乏神の方がめそめそしていて、どちらが慰められているのか解ったものではない。

 健太郎君が顔を伏せて肩を震わしている。しゃくり上げる様な声がする。


「……健太郎。あなたは自分の人生を生きなきゃ駄目だよ。わたしを忘れてなんて言わないけど、わたしにこだわらないで。あなたを愛してくれる人は他にもいるんだよ」

「ッ……勝手な、事ばっか……」

「ふふ……ごめん……志鶴さん」

「はい」


 一歩下がって静かに見守っていた志鶴が和音さんを見返した。


「あなたも、わたしに遠慮なんかしないでください。人生は、きっと、生きている人のもので、死者が邪魔するべきじゃないと思うから……」

「……ありがとう。でも、生きている人間って、面倒なものですよ。いつでも素直でいられるわけじゃない」


 和音さんはくすりと笑った。


「そうですね、本当に……でも死んでみてわかります。素直に生きるべきなんだって。健太郎を、よろしくお願いします」


 志鶴はそれには答えずに、静かに頭を下げた。

 すっかり日が落ちて、そこいらが暗くなった。和音さんが空を見た。


「……そろそろ、行かなくちゃ」

「火を焚くかね」


 と私が言った。健太郎君は鼻をすすりながら、焙烙に苧殻を載せたのを置いた。提灯の中の蝋燭を取って、苧殻に火を移す。乾いた苧殻はたちまち火を立てて、煙がぽうと立ち上った。

 和音さんの姿が薄くなった。


「さよなら、健太郎。一緒にいてくれて、ありがとう」

「和音……!」


 健太郎君が駆け寄って和音さんを抱きしめた。

 和音さんの閉じられた目の端から涙がひとすじ流れたと思ったら、もう姿が消えていた。健太郎君は自分の体を抱く様な恰好をしていたが、そのまま膝を突いて、声を上げて泣き出した。

 もらい泣きというのか、貧乏神も志鶴も涙ぐんでいる。私は送り火が燃え尽きるのを見届けて、水をかけた。


「無事上がれただろうかね」

「ええ……」


 すんすんと鼻をすすりながら、志鶴が言った。

 健太郎君の泣き声を聞きつけたのか、豆腐屋が怪訝そうな顔をして表からやって来た。


「なんでい、何があった」

「今健太郎君の恋人が上がったのだ」

「はあ? ……ああ、そうかよ」


 豆腐屋は頭を掻きながら店の方に引っ込んだ。

 ようやく泣き止んだ健太郎君が立ち上がった。鼻をすすり、手の甲で乱暴に目や鼻をこする。


「……何樫さん、ありがとうございました」

「ご苦労様」

「健ちゃん……」


 健太郎君は志鶴を見た。


「志鶴、ありがとう」

「ううん」

「……すまん。俺は、和音が好きだ。和音はああ言ってたけど、すぐにお前と付き合うなんて事、できない」

「当たり前でしょ。もし健ちゃんがそんな人なら、そもそもわたしだって好きになってない」

「……ごめんな。俺は、本当に勝手だよ」

「それも含めて健ちゃんだよ」


 そう言って、志鶴は健太郎君をジッと見つめた。


「……これからも、友達でいてくれる?」

「……ああ、お前が許してくれるなら」


 と言って、健太郎君はおずおずと手を差し出した。

 志鶴は遠慮がちに笑って、そっと健太郎君の手を握った。


「……ありがと。もう行くね」

「送って行こうか」

「いい。何樫さんに送ってもらう」

「そうか……わかった」


 おやおやと思った。

 志鶴はニッとわらって手を放し、置いてあったキャリーバッグを持った。


「行きましょ、何樫さん」

「はあ」

「元気でね、健ちゃん!」

「ああ、お前もな。また、遊びに来いよな」

「うん。来る。ばいばい」


 それで志鶴はずんずんと歩き出した。私もその後に続く。

 大勢の人の間を縫う様にしながら、往来を下って国道の方へ向かう。

 どん、と音がした。見ると海の方で花火が打ち上がっている。人が多くて、皆花火の方を見ているから、誰も志鶴に気づかない。

 やがて国道に沿って伸びる鉄道に当たり、それに沿って歩いて行って、綾科駅に着いた。駅前には的屋の屋台が並んで、人が行ったり来たりしながら花火を見上げている。家族連れや友人グループの様なのから、手をつないだアベックなど、色んな連中がいると思う。

 切符を買って、志鶴はうんと伸びをした。


「はー……よーっし、帰るぞ! 何樫さん、ありがとうございました」

「いいよ」


 貧乏神が志鶴の横に並んで、背中をぽんぽんと叩いた。


「ありがと、貧ちゃん。へへ、貧ちゃんって、優しいんだね。巫女だった時はずっと怖がられてたから、新鮮な気分」


 貧乏神はちょっと頬を染めた。志鶴はくすくすと笑って、貧乏神をよしよしと撫でた。


「……人間って、難しいですね、何樫さん」

「そうかね」

「自分の事を見てみても、そう思いますよ」

「難しいなりに生きていればいいんじゃないか」

「ですね。わたしたちはまだ生きて行かなきゃいけないわけですし……頑張ろっと」


 志鶴はちらと打ち上がる花火を横目で見てから、荷物を持ち直した。


「じゃあ、行きます」

「気を付けて」


 志鶴が改札の向こうに消えて、私は煙草を咥えた。

 それで駅を出てぶらぶらと歩いて行った。

 暗くなったそこいらでは、花火の見物客に交じって死者たちが歩き回っている。どれも未練を抱えているのであろうか。何にしても私には関係のない事だけれど。


 まっすぐ家に帰るのも味気ないので、海の方に出た。

 次々と花火が打ち上がって、その度にそこいらを明るく照らした。貧乏神は呆然としてそれを見上げている。気抜けしたという表情である。

 しかし花火もずっとするわけではない。しばらく見ていると打ち終わり、ざわざわしながら、人々が三々五々散らばって行く。電車で帰る者も多いだろうけれど、そのまま町に散らばる者もいるだろうから、今夜は賑やかであろう。


 私は人のいない辺りに突っ立って煙草をふかした。

 海風が涼しく、波音が聞こえて来る。

 月が昇っていて、水面に散らした様に光を投げていた。


『迎え火、送り火』編終わりです。

矢野顕子と忌野清志郎の「ひとつだけ」という歌を聞きながら書きました。

また忘れた頃に更新されると思います。その時はよろしく。

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この小説を読むとなんだか気分が良くなる
こういうしっとりしたのも良いねえ
本当に素敵な読後感 清志郎のブルースハープソロが聞こえてくるようです
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