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迎え火、送り火.四


 しばらく幽霊を眺めていたが、やっぱり何にも言わない。どうにも埒が明かない。

 別段幽霊がどうだろうと私の関知するところではないのだが、このまま貧乏神の様にここに居座られても困るので、何かしら方策を立てねばなるまい。狭い部屋にろくでもないのばかりが詰まっていたのではどうしようもない。

 起き上がって、ここにいても仕方がないんだから、外に出てみようではないかと言った。

 幽霊はしばらくは顔を上げなかったが、やがて口元だけ膝にうずめて、上目遣いで私の方を見た。


「何か、わかるんでしょうか」

「それは僕には解らないけれど、ここで膝を抱えているよりいいんじゃないか」


 それでその気になったらしく、のろのろと立ち上がった。


「貴君らはどうする」


 と貧乏神に言うと、爺の方は眠いから行かぬと言い、女の方は張り切った顔でふんふんと頷いた。来るらしい。

 それで外に出た。もう真っ暗で、淡い街灯の明かりがうるんだように地面を照らしている。

 盆の夜だから、開いている店も多くはなさそうである。そこいらの家々の門や玄関の前には迎え火を焚いた跡があって、家の中はざわざわしている。人通りは多くないのだが、無暗に霊が多いから、気配ばっかりが周囲から押して来る気がした。

 大参道を鳥居の前まで行ってまた引き返し、あみだくじでも辿るように裏路地をくねくねと辿った。


「思い出す事はないかね」

「何だかわかりません」

「そうかね」


 それでぶらぶらと歩いて行くと、足の付いた鍋釜薬缶の類が、がらがら音をさせながら道を横切って行った。幽霊がびっくりした顔をしている。


「あれは……」

「大方付喪神だろう。ご存じないかね」

「いえ……」


 どうもこの幽霊は綾科の者ではなさそうである。だがそれではどうしてここに来たのかよく解らない。

 仮に彼女が綾科とは縁も所縁もない人だったとすれば、綾科をうろついてみても得られるものはない様に思われる。しかしながら部屋に戻ったところで何もする事がないので、ともかく適当に道を辿って行った。

 あちこちのお社や祠の前には盆飾りやお供え物が並んでいて、死者や霊や物の怪や神なんかがたむろしている。お供え物を巡って野良猫とやり合っている神様もいたりして、人はいないのに妙に賑やかである。

 今夜は出歩いている観光客も少ない。大部分が綾科神社の神楽や、在善寺の剣舞を見に行っているのであろう。たまに物好きなのが路地裏を歩いているのに出くわしたりするが、そういう連中は大抵写真を撮りたがっていて、いざ撮っても全部真っ白か真っ黒になってしまうので、途中で嫌になってしまう様である。


 上町綿貫稲荷のお社も煌々と明るく、ぶら下げられた提灯の明かりが境内を照らしていた。

 その下に茣蓙を敷いて、人外の連中ががやがやと酒を酌み交わしていた。

 上座には綿貫さんがいて、来客の連中に大盤振る舞いの御大尽といった顔をして偉そうに座っていた。


 私は境内にずんずん入って行って綿貫さんの横に突っ立った。綿貫さんは目をぱちくりさせて私を見上げた。


「なんだ何樫か」

「お盛んですな」

「そうさ。賽銭もいっぱい、お供え物もいっぱいだ。皆に振舞わねば罰が当たるというものだよ。お前も飲むかい」

「いただきましょう」


 それで宴会に紛れ込んだ。

 沢山の湯飲み茶碗と一升瓶、四合瓶、カップ酒に缶麦酒、紙パックの焼酎など、供えられたらしいものが並び、焼き鳥の缶詰とか炒り大豆とか、するめみたいな肴も沢山ある。

 貧乏神も幽霊も困惑していたが、周囲の人外どもに次々と酒を勧められて、舐める様に飲んでいるうちに頬が染まって、少し陽気になって来た。貧乏神などはへらへらと笑っており、幽霊もうまそうに舐めている。


「貴君、何か思い出したかね」


 と私がいきなり言った。ちびちびと湯飲みに口を付けていた幽霊は、驚いた様に私を見た。


「いえ。どうしてですか?」

「気分が変わると頭の中も変わるかも知れないからね」

「なんだい、お前は記憶がないの?」


 と綿貫さんが言った。幽霊は頷いた。


「ふぅん。なんで何樫にくっついてるんだい」

「成り行きで……」

「妙な成り行きもあったもんだね。どっから来たの。実家に帰るのじゃないのかい」

「綿貫さん、彼女は記憶がないのです」

「ああ、そうだった。そりゃ難儀だ」


 すっかり酔っ払っていて話の後先をすぐ忘れる。神の癖に情けない限りである。

 物の怪や野良神の類は入れ代わり立ち代わり座に混じって来る。酒を飲み出すと私などは長尻をするから、立ち上がるタイミングを失って、しかしそんな事は考えずに杯を傾けていたら、志鶴が現れた。片手に缶麦酒の500ミリ缶を持っている。


「綿貫さまー! あっ、何樫さんまで!」

「おー、志鶴じゃないか。久しぶりだなぁ」


 綿貫さんは機嫌よさそうにからからと笑っている。

 志鶴は一杯機嫌どころか泥酔寸前といった様相である。健太郎君に振られた腹いせのヤケ酒なのか、かなり飲んでいる様子なのにちっとも楽しそうではない。据わった目のまま缶麦酒を煽り、空になったらしい缶を握りつぶした。


「わたしも交ぜてくださいなっ!」

「いいともいいとも。おい、そこを空けてくれ。綾科神社の巫女のお出ましだぞ」

「元ですがっ! お邪魔いたします!」


 野良神や物の怪たちが大慌てで場所を空け、酔っ払っている癖に優雅な身のこなしで志鶴は一座に交じった。綾科神社の巫女は礼儀作法や立ち振る舞いを徹底的に教え込まれるそうで、巫女を辞めたとはいえ、志鶴の体にはその所作が染みついているのであろう。こんな気分が荒れた状態では低級霊や悪霊に引っ付かれそうなものだが、それがないのは元巫女の面目躍如と言えるかも知れない。


「貧ちゃんっ! 飲もうね! 今日はいっぱい飲もうねっ!」


 とはいえ、酔座に交じってしまえば作法もへったくれもあったものではない。一升瓶を片手に、隣に座る貧乏神の肩に腕を回した。

 早々と絡まれ出した貧乏神はうろたえていたが、こちらも酒が入っているからか、素面で巫女に絡まれる時ほど怯えていない。志鶴に勧められるままにどんどん杯を干して、次第にふにゃふにゃになって茣蓙の上に伸びてしまった。幸せそうな顔をしてふみゅふみゅ言っている。


「あーん、貧ちゃーん」

「貴君は早過ぎないかね」

「しっぽり飲む気分じゃないんですよーう」

「ヤケ酒はうまくないだろう」

「でも飲まずにはいられないんですよう。何樫さんも飲んでください」

「有難う。しかし貴君、どうしてそんなに荒れているの。昼間に双子様に会ったのではないか」

「会いました、と言えるのかなあ? 見えないんですもん。いらっしゃる事は解りますし、こっちが一方的に喋ってばっかりでしたけど、聞いていただけたとも思うんですけど……そりゃホッとしましたよ。落ち着きましたし。その時は」

「そうか、お前はもう双子が見えないのか。うーむ、時の流れは残酷だねぇ」


 と言いながら綿貫さんは缶麦酒を飲んでいる。


「それで発散しきれずに荒れてるの」

「神社から戻る時まではよかったんですけど、お宿の部屋に一人でいると、どんどん感情が溢れちゃって、いてもたってもいられなくて……誰かに会いたかったんですけど、皆お盆でいないですし……ともかく綿貫様や何樫さんがいてくれてよかったです」


 そう言って志鶴はぐいと湯飲み茶碗の酒を干し、お代わりを手酌で注いでから、隣にいた幽霊に一升瓶の口を向けた。


「どうぞ!」

「あっ、ど、どうも……」


 何やら呆気にとられた顔で志鶴を見ていた幽霊は、恐縮した様に茶碗を捧げ持った。そこに酒がなみなみと注がれる。


「うわわ」

「おっと、これは失礼」


 酔っているせいで志鶴の手元が怪しくなって来ているらしい。茶碗からこぼれて幽霊の膝を濡らした。


「ごめんなさい。拭くもの拭くもの……」

「いえ……あの、女優の帯刀志鶴さん、ですか?」

「え? あ、はい。あ、もしかしてご存じ?」

「はい。夏のゆりかご、映画館で見ました。とても、よかったです」

「そ、それはそれは……いやぁ、こんな醜態を見せてお恥ずかしい……」


 志鶴は少しばかり酔いがさめた様に苦笑いして頭を掻いた。

 綿貫さんが面白そうな顔をして身を乗り出した。


「なんだ、映画? 志鶴、お前女優をしてるのかい」

「はい。巫女を辞めてから演技の方に行きまして」

「通りで垢抜けたと思ったよ。だがこんな所にいるって事は仕事は退屈なのかい」

「そうでもないですけど……夏休みですよ」

「ふぅん? まあいいさ」

「貴君、何か思い出して来たんじゃないか」


 と私が幽霊に言った。


「え……どうして?」

「志鶴君を映画で見たと言ったじゃないか」

「それは……なんでだろう。どんな映画だったっけ……誰かと、一緒に。あ、う……」


 幽霊は顔をしかめてこめかみに手をやった。


「映画……映画……知ってるんだって……友達なんだって……う……」


 呻く様にぶつぶつ呟いている。まだはっきり思い出さないのか知らと思っていると、急に綿貫さんが「おお」と嬉しそうな声をさして立ち上がった。

 見ると、鳥居をくぐって、菖蒲柄の着物を着た女の子がやって来るところだった。


「やあ、やあ、今年も来たね! 待っていたよ、ささ、こっちにおいでよ」


 女の子は恥ずかしそうに口元を団扇で隠して笑いながら、綿貫さんの隣に腰を降ろした。前に綿貫さんと酒を飲んだ時に話題に出た女の子だろうかと思った。

 女の子ははにかみながら綿貫さんにお酌してやっている。綿貫さんはだらしなく相好を崩してそれを受けている。何だか見ていて馬鹿馬鹿しいと思う。


 志鶴が嘆息した。


「ああ、いいなあ、綿貫様……ううー、健ちゃん……」


 こちらはこちらでまた管を巻きそうな雰囲気である。貧乏神はひっくり返っていたが、いつの間にかのそのそと起き出していて、そこいらに転がっているするめ何かをかじっていた。

 不意に幽霊がふらふらと立ち上がった。呆然とした顔をしている。


「どうしたの」

「健ちゃん……ああ、そうか。健太郎……」


 おやと思ううちに、ふいっと姿が消えてしまった。

 どうして彼女の口から健太郎君の名前が出たのかなと思ったところで、彼女の顔を見たという記憶の後先がつながった。どうも、ホウロクさんのお社で健太郎君の落とした写真に、彼と一緒に写っていた女性だったのではあるまいか。

 貧乏神は首を傾げており、志鶴も怪訝な顔をして、幽霊の消えた所を見ている。


「健ちゃんの知り合いの人……?」

「貴君はあの人に見覚えはないかね」

「ありませんね……」

「そうなると、健太郎君が外で働いていた時のお知り合いかな」


 志鶴は首を傾げた。


「どうしてそう思うんですか?」

「確信があるわけではないが、健太郎君が持ち歩いていた写真に写っていた人だと思うんだ。記憶が曖昧なせいで僕の所にいたのだが、もしかしたら健太郎君に会いに来たんじゃないだろうか」


 私がそう言うと、志鶴は少し呆けていたが、やがて絶望的な顔で肩を落とした。


「そういう事か……ああ、駄目だ。こりゃ。絶対に駄目だ」

「何が」

「健ちゃん、わたしの告白を断る時、今はそういう気分になれないからって言ったんですよ。わたしも酔ってたし、気分で断られるなんてって、もっとちゃんと理由を聞かしてって詰めちゃって……健ちゃん、困った様に笑って、好きな人がいて……忘れられないんだって」

「それがあの幽霊だと思うの」

「だって写真を持ち歩いていたんでしょう? 事によるともう付き合ってたかも知れないですよ。でもお亡くなりになって……ああ、死んだ人は強いよ。ずるいよ……」


 志鶴は肩を落としたまま俯いた。すんすんと鼻をすすっている。酔っ払っているせいで情緒が不安定である。

 周囲の人外どもはちっとも気にせずに騒いでいる。酔いの回った宴席では誰も他人の事に気をかけない。しかし貧乏神は何だか慌てた様に志鶴の脇に行って、よしよしと背中をさすってやっている。


 志鶴は俯いたまま前のめりになって、何だか寝てしまいそうな雰囲気になって来た。

 放っておいてもいいけれど、このまま放って帰っては、翌朝境内に一人で転がっている事になる。野良神や物の怪に人を気遣う分別なぞありはしない。綿貫さんも酔っ払っている上に意中の女の子に会ったせいで間抜けになっていて頼りにならない。

 やんぬる哉と思いながら志鶴の肩を叩いた。


「貴君、ここで寝ちゃ後に差し支えるぜ」

「うぅん……」


 志鶴は目をしょぼつかしながらふらふらと立ち上がった。最早意識が飛びかけている風だが、それでも綿貫さんの方にぺこりと頭を下げる。


「綿貫様……ごちそうに、なりました……」

「おや、帰るの? 気を付けてな」


 綿貫さんはへらへら笑っている。どうしようもない神である。


 それで私共は座を立った。時計がないから時間は解らないけれど、もう夜半は過ぎたであろう。

 ふらつく志鶴は貧乏神が支えてやり、志鶴が泊っているという清瀧まで歩く。人間はほとんど歩いていないが、死者や霊の類は薄明るい往来を行き交って、陰気な声で何やら囁き合っていた。

 それで清瀧に辿り着き、深夜番の仲居に志鶴を押し付けて、帰った。部屋は外よりも暑かったが、それでも寝転がっているうちに眠ってしまった。


 翌日もいいお天気である。

 目は覚めたものの、散歩に出るのも億劫な気がして、寝床で胡坐に頬肘をついたまま便便としているうちに日が昇って、高くなるにつれてまたどんどん暑くなり出した。

 幽霊の姿はなかった。帰って来てはいないらしい。

 もしかしたら押入れにいるのか知らと思って開けてみたが、いない。どうやらあのままどこかに行ってしまったらしい。健太郎君とのつながりがありそうだなと思った矢先にこれだから、何となく尻切れトンボの様な心持であるが、こうなった以上仕方がない。


 煙草がないから手持無沙汰で、何となく物足りない。部屋の中はまた暑くなり出すし、起き出して来た貧乏神どもに、散歩にでも行こうかと言った。


「わしは妙にくたびれたから行かぬ」


 と爺が壁に寄りかかったまま言った。昨日綾科神社に行ったせいではないかと邪推した。

 しかし女の貧乏神の方はさほど疲れてはいないらしく、いそいそと一緒に出かける素振りをした。綾科神社は関係ないのかも知れない。しかし貧乏神が歳のせいでくたびれるというのは、考えて見ると何だか可笑しい。


 それで外に出た。日差しは強かった。そこいらからの照り返しが目に眩しい。

 さて、どうしようかと思っていると、貧乏神が私を引っ張った。どこか行きたい所でもあるのかも知れない。

 行かなくてもいいが、私もどこか行きたい所があるわけではないので、貧乏神の促すままに歩き出した。

 ぶらぶら歩いて行くと、なぜか団八酒店に辿り着いた。閉まっている。団八の家も盆の集まりをしているのだろう。事によっては菩提寺で法要でもしているかも知れない。

 貧乏神が閉まっている店を見てがっかりした様に肩を落とした。


「貴君はここに来たかったの」


 頷いた。どうやら、幽霊が昨日健太郎君の名前を出したので、健太郎君と幽霊との関係性が気になっているらしい。明日香と伊吹の時もそうだったが、妙に野次馬根性のある貧乏神であると思った。

 閉まっているガラス戸を貧乏神が手の平でぺんぺん叩いた。誰も出て来ない。人はいないらしい。それでも叩いているので、呆れて制した。


「よしなさい」


 そんな事をやっていると、豆腐屋が隣の店から出て来た。


「なんでい、何してんだ」

「散歩だよ」

「貧乏神も一緒かよ。団八は実家だぜ」

「やはりそうかね」


 無駄足だから他所へ行こうではないかと、片付かない顔をしている貧乏神に言ったが、貧乏神はここで頑張るつもりらしく、豆腐屋の前の長椅子に腰を降ろした。豆腐屋が嫌そうな顔をした。


「おめぇが居座ると縁起が悪い。どっか行け」


 貧乏神はむうと口を尖らしながらも、頑として動かぬという姿勢を見せた。


「妖怪もそういうものを気にするかね」

「あたりめーだろ。第一陰気で客が寄り付かねぇじゃねえか」

「酒盛りの時は気にしないではないか」

「ああいう時は商売する気がないからいいんだよ」


 だいぶ適当な事を言っている様な気がする。

 さてどうしようと思っていると、酒屋の裏手の方で車の停まる音がした。

 はてと思っていると、店の中に誰かが入った気配である。貧乏神が立ち上がって、再びガラス戸を手の平でぺんぺん叩いた。少ししてガラス戸が開いた。


「すみません、まだ開けておりませんで……あれっ」

「なんだ、健太郎君ではないか。実家にいたのではないか」


 健太郎君はのっそりと外に出て来た。


「ええ、昨夜は迎え火を焚いて宴会で……いや、午後からは開けようと思いましてね。この頃はどこでも宴会をしますんで、結構酒の需要があるんですよ。親父は別にいいと言ってましたが、そういう時に酒屋が開いてないと困る人もいるかと思って」


 確かにそうである。働き者だなと思っていると、貧乏神が健太郎君を引っ張った。健太郎君は目を白黒させる。


「び、貧乏神さん? 何か……?」


 貧乏神は健太郎君をじいと見つめている。この貧乏神は全然喋らないから、私が代わりに色々尋ねてやらねば話が終わらないだろう。


「貴君、前にホウロクさんの境内で写真を落としたろう」


 私が言うと、健太郎君は怪訝な顔をした。


「ええ、拾ってもらいましたが……それが何か?」

「あの写真に写っていた人は誰なのかね」


 健太郎君はドキッとした様に視線を泳がしたが、やがて目を伏せて嘆息した。


「……恋人です」

「ほほー、おめぇ恋人がいたんかよ。隅に置けねぇなあ、おい。紹介しろよ、水くせぇ」


 傍で立ち聞きしていた豆腐屋が茶々を入れた。

 健太郎君は困った様に頭を掻いた。


「いえ、今はいません」

「はあ? お前、元カノの写真持ち歩いてんのか?」

「……元でもないんです」


 要領を得ない顔をしている豆腐屋に貧乏神が蹴りを入れた。豆腐屋は悲鳴を上げた。


「何すんだ、このやろ! いてて、やめろやめろ!」


 貧乏神は怒った様に豆腐屋をぽこぽこ叩いている。放っておこうと思う。


「貴君、その写真を見せてもらってもいいかね」

「ええと……その、理由を聞かせていただいても?」

「確かめたい事があるのだ。一昨日から僕の部屋に幽霊がいたものでね」


 健太郎君は目を見開いた。慌てた様に懐から手帳を取り出して、挟んであった写真を私に差し出す。

 受け取ってまじまじと見ると、確かに幽霊と同じ顔である。目元のほくろも同じ位置にあった。写真の中の彼女は笑顔だから、生気のない幽霊の表情では解らなかったが、ようやく記憶につながりができた。


「やはりこの人だね」

「本当ですか? 間違いないですか?」

「ないね」

「……和音(かずね)……」


 健太郎君はうろたえた様な、消沈した様な、片付かない表情で俯いた。


「恋人は亡くなったのかね」

「……はい。昨年」


 健太郎君は昨年綾科に帰って来て酒屋を継ぐ事を決めたそうだが、前の仕事を辞める大きなきっかけは恋人の和音さんの死だったそうである。

 同じ職場の同僚であった和音さんと恋仲になり、そろそろ健太郎君の家に紹介がてら帰省をという話になっていたが、ささいな事で喧嘩になり、互いに手ひどい言葉を投げ合ってその日は別れ、そのまま数日連絡さえ取り合わなかった。

 健太郎君の方も彼には珍しく意固地になって、向こうが謝るまでは連絡しないと決めていたそうだが、そうなる前に和音さんは交通事故で亡くなってしまったそうである。


「謝る事さえできなかった後悔ばっかりで、それで……仕事を続けるのもつらくなりましてね。逃げる様に綾科に帰って来ちまったんです」


 と健太郎君は消沈気味に頭を掻いた。ホウロクさんのお社で話しただけが帰郷の理由ではなかったのである。

 貧乏神が目を潤ましている。「茶化した俺が馬鹿じゃねえか」と豆腐屋がぶつぶつ言っている。

 健太郎君は顔を上げた。


「和音はどこに?」

「それが解らないのだ。昨晩急にいなくなってね。貴君の所に来ちゃいないか」

「いえ……」


 和音さんは綾科に一度も来た事がないという。だとすれば健太郎君の実家も団八酒店の事も知らないだろう。綾科の酒屋は団八だけではない。和音さんがずっと健太郎君に取り憑いていたのならばともかく、そうでなければ幽霊であろうと簡単に目的の人物を見つける事なぞできない。

 和音さんも慌てて姿を消さずにいればよかったのだろうけれど、基本的に感情に行動が引っ張られる幽霊にそんな分別がつく筈もない。今頃どの辺りを彷徨っているのか見当もつかない。

 何だか話がややこしくなって来たなと思っていると、健太郎君はふうと息をついた。


「待っていれば……見つけてくれるでしょうか」

「どうだろうね」

「いやぁ、今は幽霊も多いだろうよ。ごちゃごちゃしてて、余計に見つけづらいんじゃねえか?」


 と豆腐屋が言った。盆の時期だから幽霊はじめ人外の有象無象は無暗に多い。人間の目で見れば人間ばかりが目につくが、幽霊から見れば往来はごみごみしているだろう。


「そうですか……いえ、ともかく、何か……慶介さんに相談してみるか……」


 健太郎君は消沈した様子で肩を落としたが、すぐに何か方策を考えようと思ったらしく、私に会釈して、ぶつぶつ言いながら店の中に入ってしまった。この分では今日も団八はお休みであろう。

 豆腐屋が私を見て、言った。


「どうなってんだ、こりゃ」

「記憶を亡くした恋人の幽霊が私の所に来ていたのだが、その幽霊がまたいなくなったという話だ」

「ややこしいな」

「そうだね」


 笑い話にもできやしねえ、と豆腐屋はぼやきながら店の中に戻って行った。この妖怪には盆休みなぞ関係ないらしい。

 ここまで来れば、もう私の出る幕もあるまい。無事に和音さんが健太郎君の所に来れるかどうかは解らないが、もうそれは私の知った事ではない。何となく片付かない顔をしている貧乏神を連れて、再び歩き出した。

 往来の店は開けている所も多かった。おそらく日が落ちる前後に閉めるくらいの心づもりでいるのだろう。昼間だから死者の姿は見えない。観光客や帰省客が行き交っていた。


 いつも通り行く当てなぞないので、その辺を一回りして、家の方に戻ってみると、くぼたの店の前で梓さんが掃除をしていた。おやおやと思った。


「お帰りかね」


 と私が言うと梓さんは顔を上げた。


「ああ、何樫さん。ええ、お昼過ぎに帰って来て」

「今夜は開けるの」

「ええ、開けますよぉ」

「ご実家の用事はないのかね」

「また送り火の時には帰りますけど、同じ市内ですからねぇ」


 蓮司君の実家も、梓さんの実家も綾科である。だから里帰りにも日帰りが可能だから、それほど特別な感がないのであろう。

 涼んで行ったらどうかと言ってくれたので、くぼたに入った。うっすらと冷房がかかっている。私は冷房が好きではないが、くぼたの冷房は強すぎないから有難い。

 厨房で仕込みをしていた蓮司君が顔を上げた。


「やあ、こんにちは何樫さん。貧乏神さんも」

「お邪魔しますよ。貴君らは働き者だね」

「実家で昼間から飲んでても仕方ありませんからね。それに、今日は親類の貸し切りなんです。僕の実家と梓の実家と、うちに集まってご先祖も一緒に皆で飲もうと」

「そうかね」


 人間だけでなく両家の祖霊も交じっては随分狭そうだなと思う。


「全員入れるのかね」

「無理ですね」

「じゃあどうするの」

「店の前に椅子やらを出します。どうせ親類だけですから」


 だからある意味気楽なのだという。こういった緩さも綾科ならではという気がする。

 店の前の掃除を終えたらしい梓さんが入って来て、カウンターやらテーブルやらを拭き始めた。蓮司君が貧乏神にと味噌を焼き始めたので、私の隣に座る貧乏神がごくりと喉を鳴らす。

 頬杖を突いてそれを眺める私を見て、蓮司君が思い出した様に言った。


「何樫さん、煙草あります?」

「いいや。昨日なくなった」

「丁度よかった、差し上げますよ」


 そう言って煙草を四箱ばかりと酒を一升くれた。実家のお供え物やお中元の余りらしい。

 有難く頂戴して、早速一本咥えて火を点けた。大変うまい。

 煙をくゆらしながら何となく店内を見回すと、壁に見慣れぬ色紙が飾られていた。なんだがくねくねしたサインの下に日付と、くぼたさんへ、帯刀志鶴と書かれている。


「おとつい、志鶴君たちが来ただろう」

「ああ、来ましたよ。志鶴ちゃん、随分ご機嫌でしたね」


 と蓮司君が言った。梓さんがたちまち食いついて目をきらきらさした。


「もう、すっごい美人さんになっちゃって、びっくりしましたよぉ。ほら、サインもらっちゃって、ふふ」

「梓のはしゃぎようは凄かったもんねぇ」


 と蓮司君が苦笑気味に言った。梓さんは照れ臭そうに頭を掻いた。


「だって、昔から知ってるお友達がそういう大舞台に出るなんて、何だか嬉しくなるじゃない。でも中身は全然変わってなくて安心したよね。明るくて、元気で」

「そうだね。有名人になったのに偉ぶった感じは全然なかったなあ……まあ、綾科神社の巫女だったんだから、そういう事で増長したりはしないだろうけどさ」

「女優さんだから、芸能人の恋人がいるのかと思ったらそんな事もなくて……やっぱり健太郎君の事が好きなのか知ら?」

「かもね。一昨日も明らかにそんな態度だったもんなあ。健太郎はそういう感じでもなかったけど」


 貧乏神が何か言いたげにもじもじしている。事の顛末を知っている身としてはむず痒い気分になるのであろう。私はちっともそうならない。


「お盆の明けまではいるって言ってたよね。また来てくれるかなあ」

「お店はお盆の間はどうするの」

「十六の夜だけ休んで、他は開けます。まあ、今夜も休みみたいなもんですが。明日は花火もありますしね。稼げる時には稼いでおかないと」


 と蓮司君は笑った。そういえば、十五日は海辺で花火が打ち上がるのであった。

 しばらく雑談した後、味噌が焼き上がったので、頂戴して部屋に上がった。


「焼味噌のにおいがするな」

「いただきものだよ」

「こりゃ有難い」


 焼味噌を肴に一升瓶の栓を抜いた。部屋はまだ暑いけれどそんな事は関係ない。

 ここ数日は酒に事欠かないので、何とも満ち足りた気分である。

 しかし一升だけではすぐになくなってしまうだろう。

 どんな席でも酒が入れば面白くない事もないが、久保田家の宴会に闖入するのは流石に体裁が悪くて気が引ける。今夜もどこかのお社の宴会に紛れ込んでもいいかも知れない。

 人外とばかり関わっていては自分も物の怪じみて来やしないかと思わないでもないけれど、お盆の時期の他はお社の宴会なぞないのだから、この時期だけの特例と考えればそれでよろしい。


「何処へ行っていた」

「何処という事もないけれど」

「そういえば幽霊はどうしたのだ」

「昨夜いなくなってしまった。色々あったものだから」

「何だ、色々とは」

「色々は色々さ」

「解らんな」

「恋路が交差しているのだ」

「誰の」

「幽霊と酒屋の若旦那と、女優だ」

「どういう取り合わせだ、それは」

「酒屋の若旦那と女優は昔馴染みだが、若旦那と幽霊は恋人なのだ」

「死者と生者の恋なぞ碌なものではない」

「生きている時の話さ」

「そこに女優がどう絡む」

「女優は若旦那が好きなんだ。しかし恋人の幽霊が出て来た」

「恨みでもあるのか」

「それは知らないが、女優は若旦那に振られて、幽霊は消えた」

「女優が若旦那に幽霊で何なのだ。お主の話はまったく解らない」

「なにぶん死者が絡んでいるから物事がややこしくていけない」

「お主の話もややこしい」

「僕の話ではなくて事実がこんがらがっているんだ」


 爺は愛想を尽かした様な顔をして湯飲みの酒をすすった。実際はそこまでこんがらがってもいないかも知れないが、細かく説明するのが面倒だから、よす。女の貧乏神がじれったそうな顔をしている。


 一升瓶が空になる頃には日が暮れかけていた。物足りない気もするが、ないものはないので止むを得ない。爺は酒が回ったせいかまた横になってぐうぐう言っている。

 人外の宴会はもっと日が暮れてからでないと始まらないだろうから、もう少ししたら出かけてみようかと思う。

 しかし女の貧乏神が私を引っ張った。外に出たいらしい。

 面倒くさいので黙っていると、業を煮やしたのか引っ張る力が強くなった。

 私は戦闘的精神が欠如しているので、こういう時に何が何でも相手にしてやろうという気概に乏しい。だから相手がこう猛烈に来ると押し負けて、とはいえ今は引っ張られているのだが、ともかく抵抗が面倒くさくなって流される。


 そういうわけで、結局女の貧乏神に引っ張られるままに部屋を出た。

 降りると既に蓮司君と梓さんの両家の親類が集まっていて、店の外まで溢れてがやがやと騒がしくやっていた。貧乏神はそちらには目もくれない。

 さては団八に引っ張って行って事の顛末を見物するつもりだなと思っていると清瀧に着いたので、おやおやと思った。貧乏神は志鶴を案じているのであろうか。


 いきなり貧乏神が入って来たので番頭が仰天したが、続いて私が現れたのでホッとした様な顔をした。


「いやはや驚きました。何か御用ですか、何樫さん」

「帯刀志鶴君はどうしているね」

「帯刀様ですか? お部屋にいらっしゃいますが……」


 貧乏神がぶんぶんと腕を振った。


「僕が来たと言ってくれるかね」

「は」


 番頭は内線を取り上げて電話をかけた。二言三言話して切る。


「お部屋にどうぞとの事ですが」


 私は別に行かなくていいのだが、貧乏神の方は何やら発奮している。色恋沙汰になると妙に張り切る輩である。やんぬる哉と思いながら番頭の案内で部屋まで行った。


「何樫ですが」


 と戸を叩いて言うと、少しして開いた。何だか憔悴した様子の志鶴がにゅっと顔を出した。


「どうもぉ……」

「二日酔いかね」

「それだけじゃないですけど……」


 ふにゃふにゃしている。ずっと寝床にいたかの様に髪の毛も乱れていた。昨日の暴飲と健太郎君絡みの色々ですっかり参っているらしい。貧乏神が気遣う様な手つきでよしよしと志鶴を撫でた。


「うぅー、貧ちゃん……」


 志鶴は親にでも甘える様な風に貧乏神に抱き着いた。貧乏神も嫌がるでもなく背中に手を回してさすってやっている。この臆病者にしては珍しい。

 番頭がそちらと私とを交互に見ている。


「あのう……」

「後はいいよ」


 私が言うと、番頭は一礼して下がった。私共はそのまま志鶴の部屋に入った。

 売れっ子の女優が泊るにしては小ぢんまりした部屋である。畳敷きで、窓の方は縁側があって、テーブルを挟むように籐椅子が置かれている。志鶴自身が荒れている割にあまり散らかってもいない。布団が敷きっぱなしで、脱ぎ捨てられた服がそこいらに散らばっているくらいである。そうして貧乏神と抱き合っているばかりで何にも言わない。

 私は適当な座布団に腰を降ろしてそれを眺めていたが、やがて志鶴はすんすんと鼻をすすりながら顔を上げた。


「すみません……お見苦しくて……」

「いいです。しかし貴君、具合が悪いのかね。それとも参っているだけかね」

「病気ではないです……」


 そんなら別に構わない。煙草を吸おうかと思ったが、部屋のどこにも灰皿がないのでよした。

 志鶴は座椅子の背にもたれて嘆息した。


「ありがと、貧ちゃん、わざわざ来てくれて」


 貧乏神はうんうんと頷きながら志鶴の肩をさすっている。何だかよく解らない。

 私は何にもする事がないので退屈だけれども、そもそも元から何にもする事がないのだから、どこで退屈していようと同じ事だと思った。

 それにしても人を好きになるとかどうとか、そういう事は実に物騒である。そのせいでこんな風に不調を生ずる様では、碌なものではないと思う。


「それで貴君、これからどうするの」


 と私がいきなり言った。志鶴は目を伏せた。


「どうしよう……いえ、休みが終われば帰って、また仕事するだけです」

「では、もうこの話は放っておくのだね」

「どうしようもないじゃないですか」


 と言いながら志鶴はまたぽろぽろ涙をこぼした。貧乏神が非難がましい目で私を見ている。


「しかし健太郎君の方だって、いつまでも死人にこだわってばかりもいられないだろう。冥婚なぞできやしないのだし」

「……何樫さんはわたしを応援してくれてるんですか?」

「違うけれど、何だか不健康だと思っただけだよ」

「そうかも知れないです。でも人を好きになるっていうのは理屈じゃないんです。打算がないから胸がいっぱいになって、苦しいんです……」


 そう言ってまた俯いてしまった。貧乏神がおろおろしている。


「あのう」


 急に別の声がしたので驚いてそちらを見た。

 幽霊が立っていた。


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― 新着の感想 ―
今回は四話構成じゃないのね
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