迎え火、送り火.三
健太郎君と志鶴とが出て行って、片づけを終えた豆腐屋が出て来た。
「景気よく降りやがるな。まあ、涼しくなりそうだ」
「雨も久々の様な気がするね」
「だなあ。あんた帰らねえのか」
「雨が治まったら帰るよ」
「いつ治まるかわかんねえぞ、こりゃ」
私は煙草を咥えて火をつけた。紫煙が軒先から雨の降る往来まで漂って行った。
酒屋の方も電気が消えて、もう通りの店はどこも静かである。しかし居酒屋や小料理屋の類はまだ賑わっているらしく、雨音の間を縫って時折歌声の様なものが聞こえて来た。濡れた石畳に淡い提灯の明かりが照り返している。
団八の親父が缶麦酒を片手にやって来た。
「ふぅー、家ん中よりも外が涼しいわい。雨見酒も乙なもんだ」
「俺にも寄越せや」
「ほらよ」
私にもくれたので頂戴する。豆腐屋の軒下の長椅子に並んで腰かけた。
「にしても志鶴ちゃん、いーい女になったよなぁ」
「あのガキも大人になるもんだな。団八、おめぇはあいつの出てる映画は見たのか?」
「いや、見てないね。元々映画はあまり見ない」
「何樫さんは」
「見ない」
「だろうな。俺も見てねえ」
三人揃ってろくでもない親父どもである。
雨粒の中を傘もささずに歩いて行く影がいくつもある。死者らしい。
私は煙草をもみ消した。
「町が騒がしくなるね」
「盆だからなあ。今日あたり、もう宴会と洒落込んでる家もありそうだぜ。堀の家なんか、豆腐をえらいいっぱい買って行きやがった」
綾科の盆は実際に死者や祖霊が家に帰って来るから、親戚縁者に亡者も交えての大宴会になる事が多い。軒先の精霊棚にも色んなのが集まって来るから、お盆の頃の綾科は騒々しい。
豆腐屋が麦酒を飲んで、ふと思い出した様に口を開いた。
「にしても、志鶴の奴は健太郎に惚れてんのか?」
「あー、やっぱそう思ったかよ。昨日も今日も来るんだもんなぁ」
団八の親父もそう言って頭を掻いた。
「まあ、昔っから志鶴ちゃんは健太郎と仲が良かったからなあ……しかし今やアカデミー受賞の女優様だぜ? うちの息子と釣り合うもんかね」
「おいらの知ったこっちゃないがよ。健太郎の方はそういうそぶりがねえなぁ」
「元が朴念仁だからな、あいつは。誰に似たのやら」
「おめえじゃねえ事は確かだな」
「そこは親父に似たって言えや」
「似てねぇだろ。あんな働きモン、おめぇの息子ってのが嘘だろう」
「やかましい。しかし働き方が少し猛烈なんだよなあ……何か忘れたい事でもある様な」
「このままじゃ店が潰れると思ったんじゃねえのか」
「……」
「否定しろ!」
雨脚が弱まって来たので、軒下を出た。
他人の色恋沙汰に興味はないけれど、そういうものが間近で展開されているのは物騒である。何かの拍子にオデエさんみたいなのが出張って来ては目も当てられない。
人を好きになるというのは面倒である。
私は生来そういう感情を抱いた事がないから解らないけれど、あんまり一人の人間にこだわるのは何だか不健康であると思う。
とはいえ、大抵の人が知っている様な事を、自分が知らないというのを自慢らしく考えるのは愚の至りである。解らなければ解らないなりに放っておけばいいだけの話で、わざわざ自分の方から足を向ける必要はない。
歩いているうちにまた雨脚が強まって来たので、手近な屋根の下に入った。
帰ろうと思っていたのではなく、何となく足の向くままにぶらついていたから、この辺りがどこだか判然しない。
細い路地で、向かいに石垣から突き出す様に木が枝を広げている。その木の根元に石造りの小さな祠があった。小さな屋根の中に御神体らしい人形があって、その前に賽銭だの蝋燭だのが雑然と並べられている。
煙草を咥えていると、木の陰で暗くなっていた所から細長い男がぬうっと出て来た。翁面をつけている。神様である。名前は知らない。しかしこの神様の祠だと解ったから、大体自分がどの辺りにいるかがはっきりした。
「何樫、蝋燭を灯してくれ」
「灯してもすぐ消えるでしょう」
「いいから早くしろ」
自分の煙草に火を点けてから、はいはいと請け合って蝋燭に火を点けてやった。
翁面の神様は結構結構と言ってまた暗がりに引っ込んだ。何だかよく解らない。尤も神様のする事なぞ解らない方が普通である。
雨はぼたぼたと落ちて来る。まだ止みそうな形勢ではない。
漫然と煙草をふかしながら、口から吐いた煙に雨の間を縫わしていると、そぼ降る雨の中を誰かが歩いて来た。傘はさしていない。どうやら死者らしい。しかし足取りがおぼつかなく、何となくおろおろしている様に見えた。
突っ立ったまま見ていると、私に気づいたらしく、「あのう」と言って近づいて来た。女である。まだ若い。
「ここは、どこでしょうか」
「綾科だよ」
「あやしな……」
女はうろたえた様に視線を泳がし、小さく顔をしかめて頭を手をやった。
「あんた、どうしてこんな所に来たんです」
「いえ、わからないです……」
「帰る家があるのではないか」
女はもじもじと両手の指を絡ました。
「誰かに……会わなくちゃいけない気がするんですが」
「それは誰かね」
「わかりません……」
死者のうちにはこういう風に要領を得ないのもいる。
雨脚が弱まったので軒下を出た。そろそろ帰ろうと思う。地面を流れる水に足を突っ込まない様に気を付けて歩いていると、後ろからさっきの女がついて来ていた。
「なんです」
「いえ……行き場がなくて……」
そうらしい。
幽霊が見える事が幽霊に知られると取り憑かれるなどと言われるけれど、そのうちには悪意ばかりではなく、こういう風に幽霊の方も心細いから、見える人間について行って安心しようという思惑があるのもいるらしい。
こんな事ならば返事をしなければよかったと思ったけれど、今更どうしようもない。幽霊をくっつけたまま、小雨の中をぶらぶら歩いてくぼたの前まで戻って来た。
暖簾は仕舞われていたが、中は明かりが点いていた。
健太郎君と志鶴とがいるのだろう。何と言っているかはわからないが話し声がする。久闊を叙しているのであろう。
私の様な風来坊が幽霊を連れて闖入するのも憚られたので、店には入らずに階段を上がって部屋に戻った。
貧乏神たちは相変わらずだらけていたが、目は覚ましている様だった。
私が部屋に入ると頭だけ起こして見た。
「なんだ、幽霊付きか」
「好きでくっつけたのじゃないけれど」
雨が降ったせいか、部屋の中も多少涼しい。湿気だけは如何ともしがたいけれども、窓も戸も開けっ放しにしておいたから、籠った熱気は既になく、雨音の隙間で微かに鳴る風鈴が涼しげである。
万年床に腰を降ろして煙草を咥えた。
誰も座れとも何とも言ってくれないので、幽霊は所在なさげにもじもじしていたけれど、そのうち諦めたように部屋の隅の方にちょこんと座って膝を抱えた。
改めて見るに、古い死者ではない。服はスーツで、薄化粧をしている。染めているのか、やや茶色みがかった髪の毛はセミロングで、それをうなじで束ねていた。会社勤めをしていたのであろう風体である。右の目元にほくろがある。
はて、どこかで見たような気がすると思って、幽霊の顔をしけじけと眺めていると、向こうもそれに気づいて、何となく居心地悪そうに見返して来た。
「なんですか……」
「いや、どこかでお会いしたかと思ってね」
「わからないです……」
記憶がないからそれはそうだろう。私の方にも会った記憶はないけれど、つい最近見たような気がしないでもない。どうしてそういう気がするのか合点がいかない。
「貴君たちは、彼女に見覚えはないかね」
と貧乏神に言うと、どちらも首を横に振った。
「我々の記憶は曖昧なものだね」
「そうでもあるまい」
と爺が言った。
「なぜ」
「見ていないものを忘れるわけにはいかん」
それはそうかも知れない。誰か似た様な人を類推しているのかも知れないが、そう考えてみても思い当たる人がいない。気のせいと言えば気のせいなのだろうけれど、現実にそれが引っかかって釈然としないから、冗談で片づけるにもすっきりしない。
ともあれ思い出せないし、する事もないし、幽霊と何か話す気にもならないから、万年床に横になって、雨音を聞いているうちに眠ってしまった。
そうして翌朝はまたいいお天気である。雨のおかげで涼しかったせいか、昨晩は変な時間に起きたりもしなかった。
朝のうちはまだ涼気が残っていて爽やかだが、次第に日が高くなるにつれ蒸して来るようになるだろう。
寝転がったまま部屋の中を見ると、貧乏神どもはいるけれど、幽霊の姿がない。どこかへ行ったのと聞くと、押入れに入っていると言った。日の光は好きではないらしい。
何もする事がないので、相変わらず寝転がったまま漫然と煙草をふかしていると、正午が近づくにつれて屋根が焼けて来て、どんどん部屋の中が熱くなり出した。布団と接している背中の方が汗ばんで来て、額や首の辺りにも汗が浮かぶ。もう寝てなぞいられない。
上体を起こして、同じ様にぐったりしている貧乏神どもの方を見た。
「僕は外に出ようと思う」
「それがよかろう」
貧乏神どもものろのろと立ち上がった。
幽霊はどうするかと思って押入れに声をかけたが返事がない。いずれにしても幽霊が昼日中から出歩いては幽霊の沽券にかかわるだろうと思い直し、貧乏神と一緒に部屋を出た。
あちこちからお囃子の音が聞こえている。剣舞や里神楽の類であろう。練習であったり、あるいは祓いの為であったり、霊的世界と距離の近くなる盆の時期には、これらの芸能が活発になる。
まだ正午の鐘は鳴っていないが、朝からぎらぎらと日が照っているせいで、昨晩の雨で濡れた地面がもう乾いている。しかし湿気は残っているから、何となく体に空気が引っかかる様にも思われる。風があるだけまだいいけれど、ともかく早くどこか腰を降ろせる所に行こうと思った。
街中はコンクリートが蓄熱するし、照り返しがきついので、日陰にいても大してその恩恵を感じる事ができない。だからといって冷房のかかっている所に行くのは嫌だから、自然、土と植物の豊富な所に足が向く。
「お主、綾科神社に行こうとしておるのか」
「よく考えていなかったけれど、そうかな」
女の貧乏神がギョッとした顔をしておろおろしている。そういえば貧乏神は神社の居心地が悪いらしかった。
「貴君は平気なの」
「わしらは場所が場所ならば祀られる神だ。神社の居心地が悪い筈がない」
「では彼女は神ではないのか」
「貧乏神も色々だからな。人間でも敷居の高い場所に行けば居心地が悪い者もいるだろう」
「貧乏人が高級料亭に尻込みする様なものかね」
「まあ似た様なものだ」
確かに、綾科神社はそこいらの神々が無暗にたむろしている場所でもあるから、そういった場に慣れていなければ居心地は悪そうである。加えて女の貧乏神は巫女どもから絡まれる事が多いので、そういった意味でも行くのに気が進まないのであろう。
貧乏神の事なぞ別にどうだって構わないのだけれど、一応どうするか聞いてやった。
貧乏神はもじもじしていたけれど、暑い部屋に一人しゃがんでいるよりは巫女どもに絡まれた方が勝手だと思ったらしく、やがて決心した様に頷いた。死地に赴く様な顔をしてまで行く場所ではないが、ともかく方針は決まったので、貧乏神たちを連れたまま大参道をぶらぶらと上がって行った。
参道も人が多い様に思われた。ご利益を求めてわざわざこんな長いだらだらの坂道を上って行く。
大鳥居を潜った先には石段があった。だらだらの坂道より尚億劫で辟易するけれど、両側から青々した木々がかぶさっていて日の光を遮ってくれるので、大変助かった。しかし境内迄上がると再び燦燦と日光が降り注いだ。
神社の境内も人が行き交っている。
綾科神社には大参道の他に車で上がって来られる道もあって、そちらから来た人たちも合流しているから、ざわざわして、静謐の感はちっともない。
尤も、今夜は境内で迎え火が焚かれ、巫女神楽が奉納されるから、その準備などもあるから、普段よりも騒がしいのは確かである。
迎え火を神社で焚くのはおかしいけれど、元々綾科は歴史的に神仏習合の風が強いので、仏教行事と神道行事の垣根はかなり曖昧なところがある。
いずれにせよ寺社というのは静かで、だから神聖な場所であるという印象があるけれど、観光地の神社仏閣は大抵騒がしい。聖地の観光地化が嘆かわしいなぞという言説もよく聞く。
しかしながら神々とて裏の世界では妖嬌陸離たる色彩に囲まれて騒がしくしているのだから、騒がしかろうと静かだろうと、どっちだって本質に変わりなぞありはしないと思った。
とはいえ、こんな人いきれのするくらいに賑やかでは、無論人の発する熱気で避暑なぞ思いもよらない。
神々の方が体温のない分人間よりましだと思い、社務所と拝殿の間の、鎮守の森の方に向かう道に入り込んだ。
境内は開けていて日当たりがよかったが、鎮守の森は鬱蒼と頭上からかぶさる木々によって、昼間でも薄暗い。昨夜の雨で濡れた地面がまだ湿っている様にさえ感ずる。どことなく涼しくてホッとする心持である。
ここも人は行き交っていたけれど、境内ほどではない。
大抵の観光客は賽銭やおみくじや縁起物にばかり興味があって、本来の信仰対象である山などには大して興味を抱かないらしい。況や綾科では写真も動画も撮れないからなおさらである。
しかし私にはその方が都合がいいから安心した。観光客みんなが粛々と山にまで入って来て、写真を撮るでもなく祈りばかり捧げていたのでは、鎮守の森も人が多くなって、私のような風来坊が避暑の為に来るなどというのが憚られる事態になる。
奥社へと続く山道の入り口まで行くと、例の如くお守りやおみくじを扱う小屋に年長の巫女がいて、私共を見ておやという顔をした。
「何樫さん、お珍しい。貧乏神様までご一緒で」
「なに、涼みに来ただけだよ」
「そうですか」
煙草を取り出しかけたが、ここいらは禁煙だったと思い直してよした。それくらいの分別は私にだってある。
「また奥社に御用事があるのかと」
「僕は神社に用事があった事はないね」
「前は座敷童子をお連れだったじゃないですか」
「あれは座敷童子の用事だったのだ」
「何だ、座敷童子の用事とは」
爺が口を出した。
「貴君らが椿屋旅館に居座っていたのと地続きの話さ」
「あれは悲しい事件であった。まったく、あの旅館は強い。わしらが出てから座敷童子が増えたというじゃないか」
「その話でここまで来たのだ」
おたけさんを座敷童子として呼び戻すのに紗枝が七重の膝を八重に折り、というのはまったく針小棒大な話だが、ともかくそういう事情でここの神様に頼みに来た。
あの時は紗枝が私にくっつく怪異になっていたせいで、私までこの先の石段をえっちらおっちら上り、お稲荷さんと祇園さんの酒盛りに紛れ込んだ。巫女が私に片付けを押し付けていたが、酒盛りが終わる前に私が帰ったから、それからどうなったのかは知らない。
「まったく、お主は悉くわしらの邪魔をしてくれるな」
「別にやりたくてやっているわけではない」
「しかし現にそうなっているではないか。おかげでわしは他所にも行けん」
「なっていようがいまいが、僕の方でそんな気がないんだから、あれこれ言われたって困る。それに僕は一度として貴君を引き留めた事なぞないではないか」
「それはそうだが、難儀だ」
巫女が面白そうな顔をしている。ここのお守り売り場は、売り場というよりは奥社に無断で立ち入る者がいないかを監視する場所としての意味合いが強い。奥まった所にあって、妙に近づきがたい雰囲気もあるせいで客足もほとんどないから、案外退屈なのかも知れない。だから私や貧乏神みたいなのが足を止めて駄弁を弄しても、向こうの方で嫌な顔をしないからいい具合である。
蝉の声が降り注いでいる。蝉時雨とはよく言ったものである。
背の高い木々が屹立しているから、蝉がそこかしこにいるらしく、音が八方遠近から近くなったり遠くなったりする。今は日中だからアブラゼミの声が多いけれど、日暮れや明け方はまだヒグラシが鳴くという。
「まだ鳴くものかね」
「鳴きますよ。ツクツクボウシと一緒に鳴く年もあります」
蝉にも寝坊するのがいるらしい。
私と爺と巫女とで雑談に興じ、女の貧乏神は会話に交ざれないから、その辺を歩き回っていた。しかし面白くなくもなさそうである。神社の作務が忙しくて若い巫女たちに絡まれたりしない分気楽なのであろう。そこいらの祠の前にしゃがみこんで、小さな神と何か話したりしている。
「そういえば志鶴君が帰って来ているけれど」
「ええ、昨日いらして。舞の動きなんかを見てくださいました」
昨晩一杯機嫌で団八に来る前はそんな事をしていたわけである。
「彼女は上手いのかね」
「お上手ですよ。今でも舞の基礎練習は欠かさないそうですし、簡単な祓いなんかをされる時もあるそうです」
綾科神社の神楽巫女は綾科の霊媒師や退魔師の中では頂点に立つ存在である。修行によって得た力は巫女を辞して世俗に戻ってもなくなる事はないそうで、綾科にいる時ほどではないにせよ、その辺の低級霊などは相手にならぬらしい。
この巫女は志鶴に憧れているのか、いつもは大人びた鋭い目つきをどことなく幼げに輝かして、妙に口数が多くなった。
「芸能界は華やかですが、見えない部分は結構ドロドロしているらしいです」
「そうかも知れない」
「売れる売れないの世界だから、どうしても気分がとげとげしたり攻撃的になったりして。そういった感情に付け入る怪異が多いとおっしゃってました」
「まあ、悪霊なんてのはそんなものだろうね」
「でも志鶴先輩の行かれる現場は、先輩がさっさと祓ってしまう分、そういう険悪な雰囲気になりづらいらしくて」
「そうかね」
綾科神社の巫女は、その存在自体に強烈な祓いの力がある。巫女を辞めたという時点でその力は弱まるが、それでもそこいらの退魔師よりはよほど強力である。志鶴なぞは祓いの技法も心得ているだろうから、そういった低級の、人の心の弱さに付け入る霊などは相手にならないだろう。
爺の方を見て、言った。
「貴君も祓われてみちゃどうだ」
「何を言うか、貧乏神は退魔師の祓う性質のものではない。わしらに憑かれるにはそれなりに理由があるものだ。それを正さん限りはいくら祓おうとも無駄だ」
「神様ですからね。祓うのではなく、むしろ日々の暮らしを見つめ直して、襟を正してお引き取りいただく、と言う方が適当じゃありませんか」
と巫女が言った。爺は我が意を得たりという顔をしている。
別にこの話題に興味はないけれど、他に話す事もないので続ける。
「しかしそんな風に暮らしていても貧乏なままの人間もいるがね」
「打算があるからだろう。神頼みしかしない人間に神はそっぽを向く。とはいえ、神が人間を見捨てる事はないが、人間が神を見捨てるのは容易だ。神がそっぽを向くのではなく、人間が神ではなく、神の与える利のみを見るからいけんのだ」
「盛り上がって来なすったな。その点、貴君ら貧乏神は頼んでもいないのに来るから、神にしてはおせっかいな方というわけかね」
「わしらや疫病神ほど勤勉な神もおらぬわい」
物騒な話である。巫女は面白そうにくすくす笑っている。
少し風が出て来たらしく、蝉時雨に混じって木々のざわめく音が聞こえ出した。
木々の間を縫って涼風が吹いて来たので、ありがたく享受していると、風を背に受けながらふらふらした足取りで誰かが来るのが見えた。帽子を目深にかぶって、サングラスをかけている。
「あっ、何樫さん……」
「なんだ、志鶴君ではないか」
サングラスを外した志鶴はえへへと笑った。巫女が売り場から顔を出した。
「あれ、志鶴先輩。今日もいらしたんですか」
「うん、来ちゃった」
と言いながら志鶴は俯いた。何だか元気がない。昨晩機嫌よく健太郎君と飲みに行った割りに、妙に気落ちしている様子である。様子が変なのを見て、巫女が心配そうな顔で売り場から出て来た。
「大丈夫ですか、先輩。具合でもお悪いんですか?」
「……摩耶ちゃん……」
志鶴は巫女にぎゅうと抱き着いた。
巫女は目を白黒させつつも、志鶴の背中に手を回してさすってやっている。志鶴は深くため息をついた。
「あぁ……双子様に会いたいなあ……」
「先輩……」
巫女は困った様に志鶴の背中をさすっている。志鶴にはもう双子の神様は見えないのである。
「貴君はどうしてそんなに憔悴しているの」
「色々ありまして…………うー……」
と志鶴は巫女にぐりぐりと頬ずりした。そこいらを歩く人たちが怪訝な顔をこちらに向けている。「あれって帯刀志鶴じゃない?」などという声が聞こえる。
巫女が眉をひそめながら口を開いた。
「先輩、目立ちますよ」
「……奥社、行っていい?」
「ええ、どうぞ……何樫さん、先輩をお願いしてもいいですか」
「僕が行っても仕方がないだろう」
「上まで送るだけでいいので。先輩転びそうですし」
わたしはここを離れられませんので、と言った。
確かに志鶴の足取りは何となくおぼつかない。具合が悪いのか心持の問題なのかは知らないが、ともかく少し危なっかしい。奥社までの石段は昨夜の雨で濡れたままだろう。
やんぬる哉と思いながら、志鶴と一緒に石鳥居に張られた注連縄を潜った。ふらつく志鶴が転ばない様に並んで上がる。貧乏神どもは後ろからついて来た。
「すみません、何樫さん……」
「貴君がそう落ち込んでいるのは珍しいね」
「わたしだって気分の浮き沈みくらいありますよぉ」
「昨晩何かあったんじゃないか」
「まあ……あったかも知れないです」
「解らないね」
「わたしの問題なんです。健ちゃんが悪いわけじゃなくて」
「やっぱり健太郎君絡みの話なのかね」
言ってから気づいたのか、志鶴は肩を落とした。
「お恥ずかしい……というか、やっぱりって」
「そりゃ、昨日の夜別れるまでは上機嫌だったんだから、そう考えるのが妥当なだけだ。それに貴君が健太郎君に惚れているのじゃないかと、昨日豆腐屋だの団八だのが話していたし」
「な、なんですと……うぐぅ、でも確かに、わかりやす過ぎたか……おじさんたち察しがよ過ぎですよ……」
私は気づかなかったけれど、それは別に言わなくてもよい。
爺が怪訝な顔をして口を開いた。
「なんだ、想い人に惚気話でも聞かされたか」
「フられたんです! 酔いに任せて言っちゃったわたしの馬鹿! うがー!」
志鶴は肩を怒らせながら、さっきまでとは打って変わって乱暴な足取りでずんずん上って行く。転ばないかなと思ったけれど、考えてみれば志鶴もここで巫女をやっていたのだから、奥社までの石段だって慣れたものだろうと思い直した。爺がやれやれと頭を振っており、女の貧乏神はおろおろしていた。
果たして無事に上までたどり着いた。奥社周辺は下よりも尚ひんやりとしていた。
建物までの道は石が敷かれているが、他の所は苔が覆っていて、そこいらに立つ木は太く背が高い。日当たりは良好ではないが、避暑の意味合いでは大変適当である。志鶴を送って戻ろうと思っていたけれど、ここでしばらく涼んでいてもいい。
前回紗枝を連れて来た時はお祓いか何かをやっていたが、今日は何もないらしく、建物の中もしんとしている。しかし人がいないわけではないだろう。
志鶴は建物に顔を突っ込んで「ごめんください」と案内を乞うている。
奥から足音がして、巫女が一人現れた。
「あれっ、志鶴さん。どうしたんですか」
「千尋ちゃん……双子様に会いたくて……」
「えっ、でも……」
巫女はうろたえた様に口ごもった。志鶴は悲し気に笑った。
「うん、見えないよ。でも同じ所にいれればそれでよくて……」
「そうですか……わかりました、どうぞ」
でも三時ごろからお祓いがありますので、と言いづらそうに言っている。志鶴はいいよありがとうと言って建物の中に入って行った。
志鶴を見送った巫女は私共を見つけて首を傾げた。
「何樫さんは何をされてるんですか? 貧乏神様もご一緒で」
「涼を取っているのだ」
「はあ。そこでいいんですか? 中に入られます?」
「何か神様が酒でも飲んじゃいないだろうね」
「今日はおられませんね。お盆ですから、神々様もお忙しいのでは?」
そうらしい。外でもいいけれど、腰を降ろせるならばそれでもいいので、お邪魔する事にした。
建物の中もひんやりとしていた。冷房がかかっているわけではないが、建物自体に日が当たらないのと、窓や戸を全部開け放しているからだろう。
待合所に入って、椅子に腰を降ろして、団扇が置いてあったので借りて扇いだ。
待合所に入って左手には上がりの座敷があって、そちらには大きな神棚があり、奉納品が沢山積まれている。一升瓶や菓子折りはともかく、米袋なぞをこんな所まで持って上がるのは大変だろうと思う。
爺の方は泰然と腰を降ろして柿団扇を動かしているが、女の貧乏神は落ち着かないのか、何となくそわそわした様子で立ったり座ったりしている。
「貴君らは神なのだから、あの奉納品を頂戴しちゃどうだ」
「そういうわけにはいかん」
「祇園さんやお稲荷さんはそうしていたけれど」
「わしらは貧乏足り得る者から何かを失敬する事はあるが、崇敬の念によって捧げられたものを勝手に失敬はできん」
「貴君ら自身に捧げられたものも駄目なのかね」
「いいや、それはいただく。しかしあの奉納品はわしらに向けてではない。祇園さんやお稲荷さんはそもそも崇敬の念によって祀られている神々だから、ああいった品々に手を付けても構わぬが、我々が何かを頂戴するのは基本的にお仕置きの意味合いが強い。だからいけないのだ」
「そうかね」
神様にも色々事情があるものだと思った。
しばらく涼んでいたが、煙草が吸いたくなって来たので立ち上がった。祇園さんは煙管をぷかぷかやっていたが、神がそうだからといって人間もそうしていいという理屈は立たない。
「どうするのだ」
「煙草の吸える所に行くよ」
それでまた石段を下った。
下のお守り売り場の巫女が私共を見ておやおやという顔をした。
「遅かったですね。志鶴先輩はどうされました」
「奥社にいるよ。僕らは涼んで、戻って来た」
「そうですか……あの、先輩はどうしてあんなに落ち込んでらしたんですか?」
「後で当人に聞くのがいいだろう」
「はあ……」
巫女は片付かない顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
私は貧乏神を連れて元の道を辿り、神社を出て、適当な日陰の下に落ちついて、ようやく煙草に火を点けた。
上から戻って来るとそこいらが余計に暑い気もしたが、冷房と違って外気温は緩やかに変化するから、それほど体が驚いた感じもない。しかしコンクリート照り返しだけは如何ともしがたい。
志鶴が健太郎君を好きなのだろうというのは、昨夜の団八酒店で豆腐屋なんかと話したが、どうも実際そうだったらしいというのが察せられた。そうしてどうやら昨夜、くぼたで飲んでいる最中か、その後かは知らないが、ともかく酔いに任せて愛の告白をして、断られたという事であろう。
健太郎君にちっともその気がなかったのか、酔いに任せていたせいで本気と受け取られなかったのか、それは私の知った事ではない。
考えるでもなくぼんやりと思考を巡らせながら煙草をくゆらせているうちに、段々と日が傾いてそこいらの影が長くなり出した。そろそろ帰ろうと思う。
薄暗くなって来た裏通りを行くと、あちこちの玄関前や門の前で迎え火を焚いているのに出くわした。菩提寺や氏神神社から迎え提灯に貰って来た火を、苧殻に移して焙烙の上で焚くのである。
迎え火に手を合わせている人たちを、後ろからにこにこしながら見つめているのがどの家にもいる。死者である。迎え火を目印にやって来た死者たちは、送り火に送られて帰るまで家にいて、親戚縁者の帰省して来た実家にて過ごす。
「またこの時期が来たのう」
と爺が言った。
この頃の綾科は、ある意味一年で最も賑やかな時でもある。現世と幽世と境界が曖昧になる時期でもあるから、退魔師や拝み屋は賑やかさを享受するどころか、却って神経を尖らせる時期でもあるそうだが、そんな事は私の知った事ではない。
散歩も兼ねて、そこいらをぶらぶらと歩き回り、あちこちの家々に出入りする死者や霊の類を眺めながら帰って来た。
くぼたの暖簾は出ていない。久保田夫妻も今日は同じ市内の実家に帰って迎え火を焚いているらしい。昼の間に厨房でお盆の御馳走をこしらえて、それから出かけて行ったのだろう。
部屋に戻ると、部屋の中は暗かった。
幽霊は押入れの中から出ていて、部屋の隅で膝を抱えていた。私が電気を点けるとビクッとしたように顔を上げた。
「あ、う……お、おかえりなさい……」
「貴君はずっとそうしていたの」
幽霊はこくんと頷いた。相変わらず妙に消沈した様子である。
万年床に腰を降ろして、煙草を咥えた。気づけば最後の一本である。さて、どうしようか知らと思いながらも火を点けて煙を吐いた。
「何か思い出したかね」
と言うと、幽霊は俯いたまま首を横に振った。実に心細そうな顔をしている。自分が誰だかも解らないでいるのは、確かに心細いかも知れない。女の貧乏神がよしよしとその頭を撫でてやっている。
まだ日中の暑気が出て行ってはいないが、今夜は少し風が出て来たおかげで、どことなく涼しい。
窓際に行って、窓にもたれる様にして通りを見下ろしながら煙を吐いた。人影が多いが、半分以上は死者であろう。
久保田家もそうだし、団八の家も今日迎え火を焚くと言っていた。休みにしている店は多そうである。迎え火の後は宴会にする家ばかりだから、今頃はどの家も賑やかにやっているに違いあるまい。
煙草を揉み消して窓際の壁に寄りかかるようにして腰を降ろした。
女の貧乏神が幽霊の傍にぴったり寄り添っている。幽霊の方はまだ所在なさげではあるが、少しばかり表情が緩んで、口端を緩ましていた。
「貴君、何か思い出せそうなの」
と私がいきなり言った。幽霊はびっくりした様に顔を上げた。
「い、いえ……」
「そうか」
「あの、ご迷惑でしょうか……?」
「そりゃ迷惑だけれど、放り出すわけにもいかない」
「す、すみません……でも、本当に何もわからなくて……」
幽霊はぎゅうと目をつむって、そのまま抱いた膝に顔をうずめた。何か思い出そうとしているらしい。貧乏神が心配した様にその背中をさすってやっている。
「誰かに会わなきゃいけない気がしてるんだろう」
「そうなんですが、それが誰だか……うぅ……」
幽霊は顔をうずめたまま小さく震えている。
そのうち何か言うかと思って待っていたが、ちっとも何も言わないので、なんだ詰まらないと思いながら万年床に寝転がって片肘を突いた。
窓から吹き込む風に乗って、お囃子の音らしいのが微かに聞こえた。




