迎え火、送り火.ニ
夏場は夜明け前が一番涼しい。百姓稼業に精を出す者はこの時間に起き出して、暑くなる前にあれこれと作業を行う。しかし夜半過ぎまで寝苦しかったのが涼しくなる時間でもあるから、布団から起き上りたくなくなる時間でもある。
これから寝るという綿貫さんの所を辞して、ぶらぶらと歩いた。明け方というのは私の時計にはない時間なのだが、時折こうやって気まぐれに出くわす。
大参道まで出て、そのまま海の方に下った。
海に沿う様にして四車線の国道と鉄道が走っており、それらを渡ると、突き当りには大鳥居があって、その向こうには砂浜が広がり、沖には岩でできた小島がある。そこにも小さな鳥居が建てられていて、龍神さんや海神さんをお祀りしている。
沖の鳥居は東にあるから、砂浜から見ると、丁度沖の鳥居に後光が差す様に日が上って来る様に見える。
十五日にはここで打ち上げ花火をするから、今からあれこれと段取りをしているらしい気配である。道具を置いておくための天幕がいくつも張られて、トラックが何台も停まっていた。
大鳥居を前に白み出した空を眺め、向かって左、つまり北側に向かって歩いた。
国道を北側に少し行くと、海側に漁港市場がある。毎朝新鮮な魚や野菜がひしめき合い、綾科の料理屋や旅館などが買い出しにやって来る。特に朝は賑やかで、漁から帰って来た漁船から、艶やかな魚がどんどん降ろされる様は圧巻である。
威勢のいい声で競りが行われている。競り場の前に商店が並び、競り落としたばかりの魚をトロ箱で並べている。競りに参加できるのは許可を取った仲買人だけだが、その仲買人からは一般人でも直接買い付けができるらしい。私はやった事がないから知らない。
潮のにおいと魚のにおいが漂っている。暑くなる前に帰ろうと思った。
それでまたぶらぶらと歩いて帰って来る頃には、もう太陽の光が辺りを照らし始めていた。くぼたの店先を梓さんが箒で掃いていた。
「あれれ、何樫さん。おはようございます」
「お早う」
「早起きですねえ」
「というよりも朝帰りだな」
「あら、夜遊びでもしたんですかぁ? ふふっ」
昨夜目が覚めて散歩に出、綿貫さんに捕まっていたと教えると、梓さんは面白そうに笑った。
「神様も管を巻きたい時があるんですねえ」
「何も僕を相手にしないでもいいと思うのだけれどね」
「何樫さんだからこそじゃないですか?」
「なぜ」
「なぜって」
その時、幌付きの軽トラがやって来て店の前で止まった。降りて来たのは稲荷山農協の職員の藤川アキラ君である。
「よー、梓。おはようさん」
「あらー、アキラさん、今日配達なの?」
「そうなのよ。敏弘の奴風邪引いちまってさ。それで俺が急遽駆り出されたってわけ。お、何樫さんもいるとは珍しいね」
「僕もそう思う。何だか貴君と会うのも久しぶりだね」
「違いない。やれやれ、配達だからゆっくりできないのが惜しいぜ」
と言いながら、アキラ君は荷台から野菜の入った箱を降ろした。
稲荷山農協は全農から独立している地域農協である。若手が中心に立ち上げてもう十年以上になるらしく、地元の農業のほぼすべてを無農薬、有機、自然栽培に切り替えて、全国のレストランや食品店、消費者と契約して発送、配送している。
栽培法にこだわった新規就農者は多いのだが、その多くは野菜作りこそできても、商売が苦手という者が多い。作ったはいいが販路を開拓できず、また発送や会計、営業などを農作業と並行して行わねばならず、負担が蓄積して結局続かないという事が多いらしい。
稲荷山農協は、そういった部分をすべて請け負い、発送と営業、ブランド開発などを行って、農家には農作業に集中してもらえる環境を整えているらしい。栽培法にこだわっているがゆえに付加価値を付ける事も出来るので、作れば作った分だけ売れるし、余れば加工品などに回す為に買い取ってくれる。勿論、ある程度の品質と、栽培法の基準はあるが、それさえ満たせばきちんと農業で食える環境が構築されているそうである。
勿論、全国発送だけでなく、こうやって綾科の飲食店に直接卸売りもしている。くぼたは地元の八百屋も使うが、基本的にはいつもここで野菜を仕入れているらしい。
アキラ君はその農協の立ち上げメンバーの一人である。
「今日も朝取れだからうまいぞ。こっちは冷蔵、こっちは常温ね」
「わあ、お茄子ぴかぴか! 蓮さん喜ぶわぁ」
「おう、二郎さんトコの茄子だよ。焼いてもいいし、いっぺん揚げてから出汁で炊いてもうまいぜ。まあ、蓮司ならよく解ってるだろうよ」
「アキラさん、たまには食べに来てくださいよお。蓮さんも寂しがってますし」
「あはは、悪いな。近々時間作って来るからよ。ほい、納品書。そいじゃな。何樫さん、また」
「気を付けて」
それでアキラ君は慌ただしく去って行った。梓さんは野菜の箱を店に運び入れている。
私は部屋に戻った。部屋では貧乏神どもが壁にもたれかかっていた。目は覚ましている様だが、起きているとも言い難い。
爺の方が私を見た。
「朝早くから何処へ行っていた」
「朝というよりも、夜半過ぎに目が覚めて散歩に出たのだ」
それでまた同じ説明を繰り返した。
「綿貫さんか。お元気そうで何よりだ」
「貴君はご存知か」
「あのお方はこの辺の稲荷神の中でも特に気さくな方だからな」
「そうか」
そうらしい。稲荷神というのは豊穣神や農耕神という性質上、割合に人に親しみを持つ者が多い様に思われるが、綿貫さんなぞは特に人に近しいものを感ずるのは確かである。
神々にも格がある。格の高い神々は偉そうにふんぞり返ってあまり人前に出て来ないけれど、綾科のあちこちにいる小さな祠の神々などは、格が低い分だけ人々への親しみの度合いも高い。どちらがいいのかは私にはよく解らないが、どっちだっていいと思った。
今日もいいお天気である。あまりいいお天気過ぎても困ってしまうのだが、天道のする事に一々文句を言っても始まらない。
次第に増して来る暑気に顔をしかめながら、窓際に腰を下ろして外を眺めていると、向こうの空に大きな雲がかかって来るのが見えた。このまま流れて来れば日差しが遮られるだろう。気温は変わらないにしても、直射日光がないだけで幾分かましになる。
果たして小一時間ほど後に雲が太陽を隠し、そこいらに注ぐ日差しを遮った。いくらか風も出て来たらしく、少しは過ごしやすい。
女の貧乏神がやって来て私の袖を引っ張った。散歩に行きたいらしい。このまま部屋で便便としていても埒は明かないので、立ち上がって、貧乏神どもを連れて外に出た。
雲がかかったおかげで日差しは和らいだが、取り巻く空気は相変わらず暑い。湿気があるせいでじめじめしている様にも思われる。
当てもなく歩き回る。
盆が近く、夏休みでもあるせいで、町は人通りが多い。帰省客に加え観光客も多い。こういう中をうろつくのは骨が折れるから、大参道には行かず、人の少ない裏路地を辿って彷徨い歩いた。
裏手には旧家が多く、あちこちの家々の軒先に、精霊棚が据えられている。これらは家に戻って来る祖霊ではなく、帰る家のない野良の霊どもを供養する為の代物である。施餓鬼の意味合いもあるのだろう。
暑いから、昼間のうちは何も供えられていない。日が落ちる頃に料理や野菜、果物などを供えておくのである。そうして夜の間、様々な霊たちがここいらを行き交い、棚の供物を有難く頂戴するという事らしい。
綾科の人々は信心が深いから、こういう事も面倒くさがらずにやる。私は面倒だからやらない。
ぬるい風が吹いている。あまり肌に心地よくない。風神は何をやっているのだろうと思った。
爺の貧乏神が精霊棚を見て顎髭を撫でた。
「相も変わらず、ここいらの連中はこういった事を丁寧にするのう」
「神だの何だのが身近なんだから仕方がない」
「こういう家にわしらは入れぬ。いいのか悪いのか解らんな」
「入らなくていい所に入る道理はないだろう」
「それはそうだ。そう考えると、綾科にわしらの居場所は少ない」
「他所に行きゃいいじゃないか」
「しかしここいらは居心地はいいのだ」
「貧乏神の本分は果たせないが、神としては居心地がいいと、そういうわけかね」
「左様。まったく難儀なものよ」
と爺は肩をすくめた。しかし女の貧乏神の方はそんな事はちっとも考えていないらしく、ぼけっとした顔で突っ立っている。
ぶらぶらと歩いて行くと、大きな銀杏の木があって、その下にお社があった。これは調理器具の神様として祀られている土着の神、ホウロクさんのお社である。境内の一角に、奉納されたものらしい古い鍋や釜などが置かれている。
歩き疲れたのもあるし、暑いし、少し休ましてもらおうと思う。境内に入って、置いてある長椅子に腰を下ろした。
頭上の銀杏の葉がさらさらと音をさしてこすれ合い、それだけで気分が涼しくなる気がした。
「ホウロクさんはお留守か」
と爺が社を見ながら言った。
「その様だが、まあよかろう。盆の支度であちこちの台所が忙しいから、様子を見に回っているのじゃないかね」
「この暑い中ご苦労なものだ」
女の貧乏神は境内の中を歩き回っている。あの貧乏神は歩くのが好きらしく、こうやって私共が腰を下ろしていても、一人だけ近くをうろつき回っている事が多い。
私と爺とが長椅子に阿房の様に並んで腰かけていると、前の道を自転車が走って来て止まった。誰かが降りて来て、私共を見ておやという顔をする。団八酒店の健太郎君であった。
「何樫さん。貧乏神さんたちも」
「健太郎君ではないか。こんな所でどうしたのかね」
「配達の帰りなんです。通りがかったものですから」
ちょっとすみません、と言って頭に巻いたタオルを取り、お社に向かって手を合わせて黙祷する。綾科の人たちは、通りがかりにお社などがあると足を止めて参拝して行く。子どもの頃からここで育っている健太郎君もその例に漏れない。
「何樫さんたちはここで何を?」
「散歩の休憩だよ」
「ははあ」
健太郎君は、近くの旅館に頼まれた酒を持って行った帰りだという。
「酒屋の方も客が多いのじゃないか」
「ええ。観光の方も地元の方も、朝から沢山いらっしゃいます」
「親父の方がひいひい言っているのではないか」
「そうですね。まあ、たまには働いてもらわんと」
と言って健太郎君はにやにやと笑った。
「すっかり酒屋が板についたね」
「子どもの頃から手伝いはしていましたからね」
「外での仕事は性に合わなかったの」
「そういうわけではないですけれどね。営業の仕事で外回りに出るんですけど、神社とか祠なんかがあるとつい足を止めて参拝してしまうんですよ。それで変人扱いされまして」
「まあ、綾科出身の因果というものだね」
「そうですねえ。けれど、小さなお社を参拝した時なんか、そこの神様がとても喜んでくれましてねえ。そういうのを見ると、やっぱり自分は綾科で暮らすのが合ってるな、と」
綾科出身の人間は、外に出て行っても神様や妖怪みたいなのの姿が見える事も多い。椿屋の若女将の紀代子さんなどは、そうやって見えるせいで子どもの頃にいじめに遭ったというから、いい事ばかりとは言えない。私なぞは迷惑ばかり被っている。尤も私は綾科出身というわけではないのだが。
「仕事自体が合わなかったわけではないのだね」
「そうですね……嫌いではなかったです」
「好きでもなかったのかな」
「まあ……」
と健太郎君は何となく曖昧な顔で額の汗を拭って、タオルを額に巻き直した。
「そういえば、今日も豆腐屋さんが酒盛りするらしいですよ。朝から最高の豆腐ができたって騒いでましたから」
「そうかね」
豆腐屋はいつも最高の豆腐だの油揚げだのを作ったと騒いでいるから信用はおけないけれど、豆腐はうまいそうだから、嘘ではないのだろう。豆腐屋といい団八の親父といい、飽きもせずによくやると思うけれど、お酒は飲めばおいしいのだから、それも止むを得ないと思い直した。
「貴君はお忙しいのだね」
「ええ、今日はあちこち回る予定でして……」
と健太郎君は手帳を出してぱらぱらとめくった。注文の確認か何かだろう。その拍子にひらひらと紙片が落ちて、私の足元に飛んで来た。
おやおやと思って拾い上げると、何やら女性の写真であった。横にいるのは装いは違うけれど健太郎君だろう。記念撮影なのか、どちらもにっこり笑ってカメラを見ている。
「落ちたよ」
「あ、すみません……」
手渡すと、健太郎君は慌てて写真を手帳に挟み込んだ。
それで健太郎君は自転車に乗って行ってしまった。
夜に出かけるかどうかは夜に決めるとして、散歩を続けようと思う。
いい具合に休んで汗も引いた。しかし歩き出すと地面から上って来る妙な蒸し暑さで、体中が蒸される様な心持である。
裏路地を当てもなく辿って行って、精霊棚をあちこちに見た。神楽囃が聞こえている。巫女神楽ではなく里神楽だろう。切れ切れに止むから、練習をしているらしい。
昼を回るともうすっかり暑くなった。
太陽は出たり出なかったりして、日が差せば暑いし、日が差さなくても暑い。空気そのものが熱を帯びて来た様に思われる。
歩き回るのも億劫になって来たからもう帰ろうではないかと言うと、貧乏神たちも賛成したので、帰った。
しかし帰った所で部屋も暑いので同じ事である。瓦屋根が日差しに焼かれて、それが室内の温度を上げている様に思われる。開け放した窓と入り口を風が抜けて行くからまだいいけれど、座っているだけで汗がにじむ。
こんな所で便便としている法もないものだが、だからといって何処かへ行くという当てもないし、そんな事を考えること自体が面倒くさいから、座ったまま漫然と煙草をふかしていると、開けたままの入り口から「こんにちはー」と言って知った顔が出て来た。
「毎度おなじみ、八鹿おぼろでございます!」
「なんだ貴君か」
「テンコもおりますです」
とおぼろの後ろから伏見の狐のテンコがひょっこり顔を出した。狐の耳が頭の上でぴこぴこ揺れているのは相変わらずだが、服はシャツにスカートである。
二人は靴を脱いで上がって来て、畳の上に座った。
「毎日暑いですねえ」
「そうだね」
「貧乏神さんたちも元気がなさそうじゃないですか」
壁にもたれて詰まらなそうにしている貧乏神たちは、返事をせずにちょっと手を上げただけだった。
「貴君たちはどうして来たの」
「テンコちゃんと昔話をしていたら、何樫さんの事に話題が行きまして。それじゃあ行ってみようと」
「昔話って、そんなに昔の事じゃないじゃないか」
「若者にとって半月は十分昔なのです」
「そうかね」
「何樫さん、貧乏神と一緒にいて不都合はないのですか」
とテンコが言った。
「不都合はない」
「へぇー」
「貴君、狐塚さんはお元気なのかね」
「はあ、一応。でも狐塚さんたらひどいんです。相変わらずわたしがいてもいなくても同じなんて言って。わたしがいないで困ったって助けてあげないんだから」
「貴君がいないで、狐塚さんはどう困る」
「それは解りませんけど」
「しかし、そんな耳を頭にくっつけたまま歩き回っていては、色々差支えやしないか」
「あのですね、これは見える人にしか見えないので」
と言ってテンコは狐耳を触った。よく解らないがそうなのだろう。
おぼろが身を乗り出した。
「それはそうと何樫さん、帯刀志鶴さんが帰って来ているのを知っていますか」
「知っているよ」
「わたし噂で知りまして。明日香っちとかマッチがミーハーなもんですからね」
「貴君だってそうだろう」
「それはいいんですけど」
「なぜ」
「女優さんって凄いですよねえ。わたしも銀幕に出てみたいです」
とテンコが言った。おぼろがうんうんと頷く。
「天才女子高生霊媒師。映画になりませんかね」
「おぼろちゃんが女優になるんですか?」
「いえ、下手に表舞台に出るよりも、ミステリアスさを保っていた方が魅力的なのですよ、テンコちゃん。だから、わたしを誰かに演じていただくのがいいですね。有名な方に。そうして、あの役のモデルになったのは誰なんだ! えっ、あの天才霊媒師の八鹿おぼろ!? 本人も可愛いじゃないか! なんてね。うふふふ」
「へえー」
勝手な事を話し合っている。私は煙草をもみ消した。
「まあいいけれど」
「何がです」
「何でもさ」
「はあ」
テンコが息をついて足を前に投げ出した。
「それにしても暑いですねえ」
「裏の方は涼しいかね」
「暑い事は暑いですが、あちらはお日様が表ほど強くないもので」
「いいですねえ、避暑にでも行きたいです」
とおぼろが言うと、テンコは額の汗を拭って言った。
「避暑と言えるほどの違いはないですよ、おぼろちゃん。蒸し暑さは裏の方が上かも知れないですし」
「なーんだ」
と言いながら、おぼろは腕時計を見た。
「あ、そろそろマッチと待ち合わせの時間だ」
「遊びにでも行くのかね」
「いいえ、ちょっとしたお仕事です。慶ちゃん先輩は別件で不在ですし、マッチに手伝ってもらおうと」
「真知子君は退魔師じゃないだろう」
「そうですけど、色々手伝ってもらえる事は多いんですよ、雑用とか」
そういえば、前にも真知子はあれこれと手伝わされているとか言っていた気がする。組合を通さずにおぼろに直接持ち込まれて来る霊的面倒事もあるらしく、そういったものは真知子が付き合わされる事が多い様である。
おぼろに加えてテンコまでいる様では、真知子も大変だろうと思ったが、私がどうこう言う話ではないから何も言わなかった。
要するに時間を潰しに来ただけの二人はそそくさと去って行った。
「なんだあの二人組は」
と爺が言った。
「おぼろ君には前にも会っただろう」
「その時は伏見の狐なぞ連れていなかったと思うが」
「最近知り合ってつるんでいるそうだ。一緒に霊的問題事に対処しているらしい」
「若い者は元気があるのう」
暑いなりに部屋でぼんやりしていると、日が傾いて重かった空気がもっと重くなって来た。重さに耐えかねて座っているのも億劫である。
貧乏神どもはとうに抵抗を諦めて、畳の上にだらしなく伸びている。動きそうにない。
何となく息が詰まる様な気がしたから外に出た。外の方がまだ涼しい。
午後になって建物自体がすっかり蓄熱したのだろう。焼けた屋根が室内にまで熱気を降ろすから、外の方が頭上からかぶさって来る熱気がない分、まだましな様に思われる。
それでも暑いものは暑いから、日陰を辿る様にしてぶらぶらと歩いて行った。
団八まで行くと、観光客らしいのが出たり入ったりして、盛況らしい。団八の親父が額に汗してあれこれ酒瓶やら何やらを持ち出している。健太郎君は量り売りの酒を詰めている。
隣の豆腐屋では油揚げの揚がる音がしている。
私は豆腐屋の前の長椅子に腰を下ろして、往来を行き交う人たちを漫然と眺めていた。
傾いた日が光をもったりさせて、何となくぼやぼやとしている。石畳を照り返す光の具合が何となくじれったい。
水桶とひしゃくを抱えて出て来た豆腐屋が私を見て変な顔をした。
「なんでい、何してんだ」
「座って休んでいるよ」
「なんだ、そうか。ちょうどいいや、今朝最高の豆腐が出来てよ、こいつをあぶらげにしてやったらさぞうまいだろうと思うんだよ。試食に付き合ってくれや」
健太郎君の言ったとおりである。
「別にいいけれど、貴君はまだ忙しそうじゃないか」
「なに、もう少しよ」
そう言って豆腐屋は往来に水を打って、また店の中に戻って行った。
私は座っているだけで時間が潰せる。本も何も必要ない。ただ座ってぼんやりしているだけで勝手に時間が過ぎる。
影が長くなって、夕方という風になって来た。
少し風が出て来たらしく、通りに沿う様に涼風が抜けて、汗に濡れた肌に心地よい。もう西の空が赤く焼けて、浮いている雲が墨筆で描いた様に輪郭をくっきりさせて来た。
豆腐屋が出て来て、私の前に七輪を置いた。
「火を見ててくれや」
中で赤々と炭が燃えている。豆腐屋は軒先の暖簾を取って店の中に引っ込んだ。まだ日はあるけれど、もう店じまいする心づもりらしい。あるいは昼間に十分に稼いだからだろうか。どちらにしても私の知った事ではない。
隣の団八酒店にはまだ人が出入りしている。観光客がお土産を買って行くらしい。
私が七輪の炭を睨んでいると、団八の親父がふうふう言いながらやって来た。首にかけたタオルで額の汗を拭き拭き、片手には缶麦酒の六本入りをぶら下げている。顔が赤いのは暑さのせいか酒精のせいか、ともかく既に一杯機嫌といった様相である。
「やあ、やあ、何樫さん」
「お疲れの様だね」
「そうよ、息子が厳しいもんでね。まったく、やる気があり過ぎるのも考えもんですナ」
そう言って私の隣に腰を下ろし、缶麦酒を差し出した。有難く頂戴する。プルタブがぷしゅと音をさすと、それだけで涼しい様な気分になる。
一息で三分の二を飲んでしまって、息をついた。腹の底で炭酸が弾けているのが解る。
「うまい」
「はあー、生き返った。夏はこうでなけりゃやってられんわ」
「貴君はいつも昼間から飲んでるの」
「そうしょっちゅうじゃないがね。しかし昼酒はうまいからね」
「僕は昼酒を飲むと夜飲む酒がまずくなるから好まない」
「わしは昼に飲んでも夜においしく飲めるよ」
「そんな筈はない、味わいが変わる」
「酔っ払っちまえば同じ事さね」
「酒屋がそんな事を言っちゃ、困るな」
「まあまあ、もう一本どうだい」
と二本目の麦酒をくれた。今しがた冷蔵庫から出して来たという風だが、缶の肌はもう水滴でびっしょり濡れている。
ぴしぴしと炭が音をさして、細かな火花がちらほらと舞い上がった。
暑い夏の日に炭火を見ていると、余計に暑くなる様な気がしないでもないが、暑くても何となく心地よい様になって来る。麦酒のせいだろう。
暖簾を降ろした豆腐屋がやって来て、七輪に網を置き、油揚げを並べた。
「はー、今日も暑かったな。俺にも麦酒くれ」
「二百八十三円」
「金を取るんじゃねえや」
「冗談さね」
豆腐屋は麦酒を片手に、油揚げをしきりにひっくり返している。焦げやすいので注意しているらしい。
綾科は着物の貸し出しをしているから、着物姿の者も多い。綺麗な着物を着ているのは観光客で、質素で動きやすそうなのを着ているのは地元民である。団扇や扇子をばたばたさしているのも多い。
見上げてみると天頂の方は暮れて藍色に変わりつつある。その境は紫色に染まり、地平に近づく辺りはまだ赤い。山の向こうで大きな火でも燃えているかの様である。
そんな風だけれどもそこいらはもう薄暗く、空がきらきらと明るいのと対照的で、ちぐはぐな気分になって来た。
焼けた油揚げをかじった。うまいけれども、豆腐屋の言う究極は未だに解らない。
暖簾がしまわれているけれど、地元民は桶を持って豆腐を買いに来る。豆腐屋はその度に面倒そうに立ち上がって応対した。店じまいというポーズを取っても、観光客はともかく、勝手知ったる地元民には関係ないらしい。
「貴君、お忙しいね」
「店じまいだっつーのによ。あ、こっちが焼けてるぜ」
「それは俺がもらう」
と団八の親父が皿を差し出した。
祭りでもないのに、夏の宵は不思議な賑やかさに満ちている。
往来の軒先や、下げられた提灯には明かりが灯り出したけれど、暗いんだか明るいんだか判然しない様相で、行き交う人々の顔が何となくはっきりしない。盆が近い事もあって、人間でないのもいくらかは混じっている様である。
往来の人々を眺めながら、取り留めもない晩酌を続けているうちにすっかり日が暮れて、もうそこいらは真っ暗である。人通りも少なくなり、吹く風が少し涼しくなった。
健太郎君が、注文されたらしい酒瓶を自転車に積んで出かけて行った。
「貴君の店は迎え火を焚くの」
「明日焚くよ。店じゃ焚かんがね」
と団八が言った。もう盆の入りである。気の早い家はもう軒先や門の前で迎え火を焚いたりしているらしいが、多くの家は明日焚く様である。豆腐屋が新しい油揚げを七輪に載せた。
「騒がしい季節にならぁね」
「そうともさ。うちのばあさまもそろそろ成仏していいと思うんだが」
団八の所のお婆さんが、毎年盆の度に帰って来て小言を言うらしい。
麦酒の六缶入りがまた出て来て、団八が言った。
「豆腐屋よ、俺ァ冷や奴が食いたい」
「うるせえ、あぶらげを食え、あぶらげを」
「もう食った」
「もっと食え」
「冷や奴も食わせろ」
「面倒な奴だな。そんならネギと生姜を刻んで来いや」
団八の親父は立って行った。
次第に闇が濃くなって来た。綾科は街灯の類が他の町程多くないので、暗くなれば暗くなる。提灯の薄ぼんやりした光だけが、往来に潤んだ様な光を投げているばかりである。
何となく尻に根が生えた様になって、腰を上げようという気にならない。麦酒は無暗にうまい。缶入りよりも瓶入りの方がうまいけれど、飲み出してみればそんな分別が付く筈もなく、空き缶がごろごろと足元に並んだ。
団八の親父は客が来る度に店の方に立って行ったが、そのうち健太郎君が帰って来たのですっかりそちらに任せて立たなくなった。ろくでもない親父だと思う。
「そろそろ麦酒という口でもねえな。冷でもいくか」
「辛口がいいな。きりりとしたのをくれや」
「そんなら冷や奴のお代わりだ」
「あぶらげも食え」
「おうい健太郎、宿六を一本取ってくれ。あと湯飲み」
団八の親父が言うと、しばらくして健太郎君が一升瓶と湯飲みを持って出て来た。
「ほどほどにしておけよ」
「わーってるわーってる」
もう人通りはまばらになり、居酒屋や食堂から聞こえる喧騒が風に乗って聞こえて来るばかりになって来た。まだ暑気が下の方に溜まっている様な具合だが、少しばかり涼しくなって来た様な気がしないでもない。
後追い酒を重ねて長尻をしたまま便便としていると、向こうからふらりと誰かがやって来た。
「お、今日もやってますなー」
「ありゃりゃ志鶴ちゃん」
「何してんだ、お前。夜のお散歩か? 不良娘め」
豆腐屋が新しい油揚げを網に載せながら言った。
志鶴はえへへと笑いながら私共の一座に加わった。昨日は旅装だったのが、今日は清瀧の紋の浴衣に丹前を着ている。巫女暮らしが長かったからか、着こなしが実に自然である。化粧は薄く、よく見れば髪の毛がしっとり濡れていて、どうやらひとっ風呂浴びた後らしい。
「お風呂上りに麦酒が飲みたいんですよぉ」
「清瀧に泊まってんだろ? あすこで飲みゃいいじゃねえか」
「一人酒は寂しいじゃないですか。つれない事言わないでくださいよ、豆腐屋さぁん」
志鶴は既に一杯機嫌である。どこかで少しひっかけて来たのだろう。
「まあいいけどよ。おら食え。最高の油揚げだぜ」
「わぁい、いただきまぁす」
団八の親父が店の方に首を突っ込んだ。
「健太郎、麦酒持って来い! 志鶴姫が麦酒を御所望だぞ!」
少しして缶麦酒を持った健太郎君が出て来た。
「今日も来たのか。こんなしょうもない席に交じって楽しいか?」
「楽しいよ? 健ちゃんもおいでよ。一緒に飲もうよ」
「店閉めたらな。もうちょっと待ってろ」
既に九時を回り、通りの多くの商店の暖簾は仕舞われている。
炭から時折立ち上る火の粉を眺めつつ、湯飲みの酒を舐めていると健太郎君も出て来て座に加わった。
「満を持して若旦那の登場だな。まあ飲め飲め」
と豆腐屋が一升瓶を取り上げた。
「おっとと……どうも」
「健ちゃん、かんぱーい」
「ん、乾杯。お前、今日はどうしてたんだ? 後輩巫女たちには会ったのか?」
「ちょこっとだけね。ほら、今お盆で忙しいじゃない。顔見せて、お土産渡して、奥社に参拝させてもらって、それでおしまい。でも楽しかったなぁ。みんな若くて可愛くて」
と志鶴は缶麦酒を両手で持ってにこにこしている。
「めがみさまだのおがみさまだのは、やっぱり見えないの」
と私がいきなり言った。志鶴は麦酒を一口飲んだ。
「ええ、もうちっとも。一応ご挨拶はしたし、確かに気配は感じられましたけど、見えないと何だかすっきりしないですねえ。ワンチャン見えないかなって期待してたんですけど、まあ、無理でした。他の神々様にはお目通りできたんですけどねえ」
「何樫さんは相変わらず見えるんでしょ」
と団八が言った。
「見える」
「巫女にしか見えない筈なのに、変だよな」
「何樫さんは実は巫女だったんじゃねえか」
「そんな物騒な話があったものではない」
「そういや豆腐屋よ、おめえみたいな妖怪には双子様は見えるのか?」
「見えるに決まってんだろ」
「ははあ、そうなると何樫さんは妖怪だったんだな」
「ぬははは、その方がしっくり来るな」
「勝手な事を言われちゃ、困るな」
取り留めもない雑談をしているうちに、ふと風が湿っぽくなって来たなと思っていると、頭上の雲が分厚くなっていたらしい。ぽつぽつと雨粒が降り出した。
「ありゃりゃ、降って来たな」
「なんだ、仕方ねえ。今日はお開きだな」
と豆腐屋が七輪を抱えて店の中に入り込んだ。
強い雨ではないが、突っ立っていると前髪から雫が垂れる程度には降り出した。慌てて宴会の後始末をしている連中を尻目に、私は張り出した軒先の雨の当たらぬ所に立っていた。
まだほんのりと温かったのであろう石畳が濡れて、それが足元に淡い霧を漂わせている様に思われる。降り始めの雨のにおいがそこいらじゅうに漂っている。
志鶴が来て横に並んだ。
「ひゃー、急にですねえ」
「にわか雨だろう。少しは涼しくなるだろうさ」
「ですね。んー、雨のにおいだあ」
志鶴は伸びをしてはあと息をついた。
「何樫さんは変わらないですね」
「どういう風に」
「どうというか、わたしが綾科を出る時と同じなんですもん」
「変わりようがないからさ」
「あはは、そうですね。でも色んな事が変わっちゃうんですよ、普通は」
「何だか含みのある事を仰るね」
「そうですか? でも実際そうですよ。見えてたものが見えなくなったり」
「女優になってみたり」
「そうそう……変わって欲しい事は変わらなかったりするのにな」
「そういえば、くぼたの梓さんが貴君の出た映画を見たと言っていたよ」
「わあ、梓さん? 嬉しいなあ。そうだ、くぼたにも行かなきゃなあ……」
「明日は実家で迎え火を焚くから休むそうだが」
「あ、その時期ですもんね……今日は?」
「今日はやっている」
酒屋から健太郎君が出て来た。傘を持っている。
「なんか、思ったより長く降るらしい。送ってく」
「ホント? ありがと健ちゃん」
「何樫さん、傘貸しますよ」
「有難う。しかし僕は雨が止むまで待とうと思う」
傘をさして雨の中を行くのも風情があるけれど、軒先から垂れる雨粒を眺めている方が面白い。
志鶴が思い出した様に口を開いた。
「そだ、何樫さん、くぼたってまだやってますかね?」
「今日は休みではないと言ったじゃないか」
「そうじゃなくて、時間的に」
「客の入り次第だが、やっているんじゃないか」
「健ちゃん、飲みに行こうよ。雨で中断されてわたしは物足りないのだ」
「あー、今から? まあ、あんまり遅くならないならいいけど」
「やたっ! 決まり、行こ行こ!」
と志鶴は嬉しそうに健太郎君の腕を取った。
健太郎君は呆れた様に笑いながら傘を広げた。




