迎え火、送り火.一
日の暮れた豆腐屋の軒先で、幾人かが七輪を囲っている。
「さ、もう一杯」
「有難う」
「いやあ、今夜も暑いな。風があっても涼風って感じがしない」
「風鈴の音が涼を届けるでもなし、か」
「風神さんももう少し気を利かしてくれりゃいいのに」
「神頼みしかしない人間に神はそっぽを向くぜ」
「夕涼みなら神社まで上がった方がいいでしょうよ。舗装された道路が熱を溜めるんだ」
「ましてここで炭火が赤赤しているのだし」
「こうも暑いんじゃ飴なんか売れやしないだろう」
「そうでもない。ふふふ」
今日の顔ぶれは七尾豆腐店の化け狐、団八酒店の親父と息子の健太郎君、飴売りに私である。
例の如く、豆腐屋が究極の油揚げを作ったとか何とかで、通りがかりの顔見知りを試食という態の酒盛りに引っ張り込むのである。
七輪には油揚げが乗っかっている。薄揚げではなく、少し分厚い。新潟の栃尾揚げみたいな具合である。究極かどうかは知らないけれど、表面がかりかりするくらいに炙って、醬油を垂らして食うとうまい。私共は焼いた油揚げや、薄揚げの刻んだのを煮た奴だのをつまみ、コップ酒を傾けた。
「米の汁を飲んで、大豆の加工品を食う。日本の酒卓って感じがするな」
と健太郎君が言った。団八酒店の跡取り息子で、角ばった顔立ちをしている。路地裏の喫茶ガラクタ亭の店長曰く、若い頃のクリフ・リチャードに生き写しだという。外国人顔と言うのだろう。彫が深くて、目が大きくて、やや強面の感もあるけれど、さっぱりした気風の好人物で、昨年から会社勤めをよして実家を継ぐ事に決めたという孝行者でもある。親父とはちっとも似ていない。
「貴君、酒屋は面白いかね」
と私が言った。健太郎君は笑いながら一升瓶を手に取った。
「面白くなって来ました。最近は酒蔵にも出入りする事が増えましてね、新酒の開発の企画を立てたりして、おかげで旅館やホテルへの配達も量が増して」
「出来た息子じゃねえか。鳶が鷹を生むってやつだな」
と豆腐屋が言った。団八の親父はにやにやしている。
日の暮れた綾科の町は、他の町に比べて明かりの数が少ない。勿論まったくないわけではないが、闇にうごめく連中に配慮してなのか、街灯の数を減らしているらしい。犯罪抑止よりもそちらを優先する辺りが綾科である。
しかし、暑い夏の晩の事ではあるし、まだまだ宵の口だから、そこいらの家の二階の窓なんかは開け放して風を入れている。だからそこから漏れる明かりが方々に伸びて、それが町のあちこちに奇妙な影を伸ばしている様に思われた。
「飴売りってのは誰を相手に商売してんだ」
と豆腐屋が言った。
「誰でも相手にするさ」
「子どもが多いんだろう」
「どうかな。ふふふ」
「見る分には綺麗でいいけどな」
飴売りはいつも屋台を引いている。昔の唐人飴売りの趣向なのだろうけれど、担いで歩くのではなく荷車を引いている辺り横着をしているらしい。
荷車の前後に突っ立った二本の竿に渡した棒に、色とりどりの飴がぶら下がっている。荷車の中にはガラスの蓋のついた箱や瓶が並んでいて、そこにも大小様々な飴が入っていた。
「意外に観光客が買うんじゃないですか」
「人間ばかりがお相手でもない」
「おや」
「まあ、神様は甘いものが好きかも知れんなあ」
飴売りはシャツとズボンの上から長半纏を羽織り、年季の入った大きな麦わら帽子をかぶっている。腰まである大きな三つ編みを垂らして、顔にはいつもにやにや笑いを貼り付けているが、男にも女にも見えるから、何だか気味が悪い。妖怪ではないかと思う。しかし妖怪だろうと何だろうと、別に関係のない話である。
往来はまだ人が通って、私共の酒盛りを眺めて行く。
豆腐屋も酒屋も、開いているけれど営業をしている風ではなくなって、だからお客が来るという風でもない。尤も、軒先に居座られている豆腐屋はともかく、開け放した戸の向こうに白熱灯が光っている団八酒店には、ちょいちょいとお客が顔を出している。その度に健太郎君が立ち上がって応対していた。親父の方はすっかり腰を据えて立ち上がる気配もない。
空き瓶に量り売りを買いに来るのは地元民である。瓶詰めを買って行くのは観光客で、大体それで区別がつく。
この時間に来るのは、晩酌の酒が足りなくなったとかで買いに来る様な輩が多い。そんな連中は大体が顔見知りで、だから私共が酒盛りをしていても怪訝な顔一つせず、むしろ油揚げをひと切れふた切れつまんで行ったりする。
時折出入りする客を見ながら、油揚げを噛み砕いて酒を飲んでいると、からからと車輪の音がして、自転車に乗ったのが来た。小豆色の作務衣の上下を着て、眼鏡をかけている。椿屋旅館の若女将の紀代子さんである。
「皆さん、おそろいで」
と言った。酔っ払いどもはコップを掲げて返事をした。
「何だ、ロクデナシどものたまり場じゃないか」
と威勢のいい声がした。見えなかったけれど、自転車の後ろに座敷童子の紗枝が乗っかっていたらしい。ひょいと飛び降りてやって来て、私の膝に飛び乗った。鬱陶しいのが来たなと思った。
「商売人どもが、まだ仕事が出来る時間に酒盛りとはいいご身分だな」
「僕は商売なぞしていないけれど」
「お前には言っちゃいないよ」
「わしの所はですね、息子がしっかりしていますんで」
と団八の親父が言った。紗枝はふんと鼻を鳴らす。
「仕方のない奴だ」
「お説教でもしに来たのか、腐れ座敷童子め。とっととけえれ」
と豆腐屋がにやにやしながらしっしと手を振った。
「なんだとう、この駄狐めが。おれにもあぶらげ寄越せ」
「こっちが焼けてますよ、お紗枝さん」
と団八の親父がこんがり焼けた油揚げを差し出した。紗枝はそれをつまんでうまそうに食っている。
「貴君、何かご用事があって来たのではないか」
「うんにゃ、紀代子が酒屋に買い物だって言うからくっ付いて来ただけだ」
「お前もロクデナシじゃねえか」と豆腐屋が言った。
「おれは福を呼んでるからいいんだよ。あっ、それべっこう飴じゃないか」
「二十円だよ」
「紀代子! おおい紀代子!」
酒屋の方から紀代子さんが顔を出した。
「なんですか大叔母様」
「二十円くれ! 飴を買いたい!」
「もう、買い食いはほどほどにしてくださいって言ってるのに」
と言いながらも、紀代子さんは紗枝に二十円くれてやった。何だかすっかり仲良くなっている。紗枝はそれでべっこう飴を買って嬉しそうである。
「若女将も、随分人が変わったもんだね」と団八の親父が言った。
「座敷童子を追い出すくらいの堅物だったんだろ? 飴なんか買ってやって、丸くなったもんじゃねえか」
と豆腐屋がコップに酒を継ぎ足した。
先代女将のおたけさんが亡くなった椿屋は、孫娘である紀代子さんが東京から来て後を継いだのだが、色々な曲折があって旅館に居付いていた座敷童子の紗枝を追い出してしまった。
それが私の所に転がり込んで来たのは迷惑だったけれど、また色々な曲折があって何とか丸く収まっている。
紗枝は帰ったし、死んだおたけさんまで座敷童子になって旅館に出戻ったから、椿屋は座敷童子が二人いる状態である。前以上に繁盛しているらしいが、繁盛している分、覚える事が多い紀代子さんなどは大変だろうと思う。
紗枝は私の膝に座ってべっこう飴をくるくると弄んだ。
「貧乏神はどうした」
「寝ている」
「なんだ詰まらない。今度遊びに行くかな」
「来なくてよろしい」
「そう言われると俄然行く気が起きるというもんだ」
面倒な妖怪だと思った。
紀代子さんは団八の店内で健太郎君と何か話している。健太郎君が酒瓶をいくつか持ち出して来て、あれこれと説明したり、時には猪口で軽く試飲してみたりしている。
「何をしているのだろう」
と私が言うと紗枝が答えた。
「椿屋の常連で酒好きのがいるんだ。毎年盆の頃に来るんだが、毎回違う味わいの酒を楽しみにしていてな、明日から来るからそれを選んでいるんだろうよ」
「いつもはおたけさんが来てたな。若女将の勉強ってわけだな」
と団八の親父が言った。豆腐屋が油揚げをひっくり返した。
「後に任せる奴らもいれば、こいつみたいにいつまでも残っているのもいるってわけか」
「おれはいるだけだ。あれこれ口出ししたりしないさ」
紗枝がべっこう飴を回しながら言った。
私共が駄弁を弄しながら杯を酌み交わしていると、やがて紀代子さんが紙袋に入った酒瓶を持って出て来た。
「大叔母様、帰りましょうか」
「おう、何を見繕ったんだ?」
「『黒点虎』と『白鷺』を選んでみました」
「なるほど。おい団八、それはうまいのか?」
「うまいですよ。芳醇なのと端麗なのと、性格の違うのを選んだんですナ」
「はーん」
「貴君はお酒の事は解らんのだろう」
と私が言った。紗枝はべっこう飴を咥えた。
「この姿の時に死んだんだもの、酒に縁なんかないよ」
「そんなら何を買ったか聞いたって解らないじゃないか」
「余計な事を言うなよ。大叔母の威厳ってやつさ」
そうはいっても紗枝から威厳なぞ感じた事はない。
その時、石畳の道を、キャリーバッグを引っ張りながら誰かがやって来た。
女である。鍔広の白い帽子をかぶり、群青色のワンピースの上から薄手の白いカーディガンを羽織っている。夜なのにサングラスなんかかけていて、しかも薄暗いから顔がよく解らない。
女は私共の方に真っ直ぐやって来た。
「わー、豆腐屋さんやってた。ラッキー」
「あん? ありゃ、志鶴か?」
「おお、志鶴ちゃん! 久しぶりだねえ!」
「豆腐屋さん、団八さん、お久しぶりー。あ、何樫さんも! 飴売りさんまでいるー。皆さんお元気ですかー?」
帯刀志鶴は、ひらひらと手を振りながらやって来た。サングラスを外してにこにこ笑っている。
紀代子さんが「ひえっ」と素っ頓狂な声を上げた。
「た、た、帯刀志鶴、さん? ほ、本物……?」
「おや、ご存じなのかね」
私が言うと、紀代子さんは驚いた様に目をしばたたかせた。
「当り前じゃないですか、今一番有名な女優さんですよ! ドラマに映画に引っ張りだこで……おととし公開された『夏のゆりかご』っていう主演映画が大ヒットして、アカデミーの主演女優賞も受賞したんですから! それからもヒット作の常連ですよ!? ジャンル選ばずに高い演技力で評判で……『花丸商店街奮闘記』とか『静寂に暮れる』とか『三角』とか……ひとつくらい知らないんですか? 本当に!?」
知らないのが信じられないといった口ぶりである。しかしこの場にはそれを知っている連中よりも知らない連中の方が多い。
豆腐屋がげらげら笑う。
「あのちびっ子が立派になったもんじゃねえか。何だお前、サングラスなんかかけやがって、お忍びかコラ」
「そうそう、最近忙し過ぎて、ちょっと夏休み。ここならパパラッチされる心配もないし……へへへ、やっぱり落ち着くなー、綾科は」
志鶴はそう言いながら、私共の座に加わった。
帯刀志鶴は元巫女である。綾科の出身ではないが、たまたま参拝に来た時に神様の姿が見えた為、学校を辞めて巫女になったそうである。
綾科神社の巫女になる条件は、おがみさまとめがみさまという双子の神様が見える事だが、その姿は大人になるにつれ次第に見えなくなる。そうしてすっかり見えなくなるとお役御免となるのである。
巫女をやめた後の少女たちは、巫女以外の業務で神社に残る者もいるけれど、多くは別の仕事に就く。
綾科神社で巫女たちに施される教育や作法はそこいらの学校よりもよほど高度なもので、望めば専門的な勉強もさせてもらえるそうで、巫女をやめる頃には、大学卒業と同程度かそれ以上の技能と知識を持つというが、私にはよく解らない。
それらを活かして、元巫女たちはあちこちで力を発揮している。
志鶴は端麗な容姿と物覚えの良さ、所作の美しさと演技の上手さで女優になったらしかった。私はテレビを見ないから、そういう事はちっとも知らない。
東京生まれ東京育ちの紀代子さんは勿論知っているらしく、何だか興奮した様子でうろたえていた。帰ろうともせずにぷつぷつと何か呟いている。
「どど、どうしよう……お忍びなら、サインとか失礼かな……」
「あ、いいですよー。でもここにいた事は内緒でお願いしますね」
志鶴は耳ざとく聞きつけて、いたずら気に笑った。
紀代子さんはわたわたしながら右往左往して、それから酒屋に駆け込んだ。中にいる健太郎君に「色紙はありませんか」などと言っている。
酒屋にそんなものはないだろうと思っていたら持って出て来たので驚いた。
「貴君の酒屋には色紙が常備されているの」
「へっへっへ、綾科はカメラが使えんでしょ? パパラッチを気にせずに来れるってんで、お忍びで来る有名人が結構いるんだわ。需要があるもんだから、常備しててよ、ついでに折角なんで店に花を添えてもらう様にしてるんだな」
そう考えると、確かにそうかも知れない。そういえば団八の店内には何だかよく解らないサインが沢山飾られていた事を思い出した。
慣れた手つきでさらさらとサインをした志鶴は、紗枝を膝に乗っけてむにむにと頬をつねっている。
「座敷童子ちゃんは可愛いなあ。でもお外に出てて大丈夫?」
「おれはちょっと特別なんだ」
紗枝は可愛がられるのは好きらしく、頬をつねられても嫌そうではない。
「何樫さん、貧ちゃんは一緒じゃないんですか?」
「暑いからといって部屋でぐったりしている」
「夜なら外の方が涼しいのに」
次第に日中の暑気が払われて、街中を流れる堀の水から風が吹き上がって来る様に思われた。
縁に植えられた柳の葉がさらさらと擦れている。どこかの窓辺に下げられているらしい風鈴が、微かな音を立てて鳴っている。酔っ払いらしいのが大声で話しているのが聞こえる。いつもの夏の夜である。
サインをもらい、握手までしてもらった紀代子さんは恍惚とした表情で紗枝を連れて帰って行った。一緒に写真が撮れないのに悔しがってはいたが、それでも嬉しそうである。
志鶴がくすくす笑っている。
「いやあ、綾科でああいう反応をされるのは新鮮でいいですなあ」
「貴君はここじゃどこで起居しているの」
「今来たばっかりですけど、今回は清瀧さんに予約してますよ。前来た時は神社の宿舎にお邪魔したけど、いつまでもOGが居座っててもウザイかなーって思って」
「今を時めく女優様なら、巫女どもも喜ぶだろうよ」
と豆腐屋が言った。
「まー、みんな面白がってくれますけどねー。でも先輩面するのも得意じゃないもんで」
「泊まらないにしても顔くらい出してあげればいいじゃないか」
「そりゃ勿論ですよぉ。双子様にもご挨拶しないと。もう見えないんですけどね」
志鶴はそう言ってコップ酒をすすった。
酒屋から健太郎君が出て来た。
「親父、もう九時回ったから今日は閉めるけどいい?」
「おうもうそんな時間か。頼む」
「健ちゃん、いたんだ。綾科に帰ってたんだね」
と志鶴が笑うと、健太郎君は目を丸くした。
「誰が来てんのかと思ったらお前か。久しぶりだなあ」
「何年振りかなあ。えへへ、ここで懐かしい顔に会うと何だか嬉しいよ」
「会うのは久しぶりだけど……映画は見たぜ、おととし出た奴。面白かった」
「え、ホント? うひゃー、なんか照れるなあ」
と志鶴は照れた様に笑い、頬に両手を当てた。健太郎君は可笑し気に口端を緩めた。
「画面の中と全然違うのな、お前」
「そりゃ演技するのが女優だもん」
そんな風にしばらくの雑談の後、私は一人ぶらぶらと帰って来た。健太郎君と志鶴は歳が同じらしく、志鶴が巫女、健太郎君が高校生だった頃から、神社の催しの手伝いがどうのこうので仲が良くなったらしい。そういう思い出話をしていたから、今知った。
綾科には明るい街灯が少ない代わりに、淡い光を放つ提灯があちこちにぶら下げられている。流石に火事が怖いと見えて中身は蝋燭ではなく電気の光である。それでも、薄ぼんやりとした提灯の光は、人間以外の連中には優しい様である。
十時はまだ宵の口である。大通りの居酒屋はまだまだ明かりが煌々と灯っているだろう。そちらの方からはまだ賑やかな騒ぎ声が聞こえて来る。しかし本道から外れたこの辺りは静かなもので、自分の足音も妙に大きく響く様に思われた。
くぼたの前まで戻って来ると、くぼたもまたお客が入っているらしかった。
入り口近くから声がするからなんだろうと思っていると、引き戸ががらりと開いて、六、七人ばかりの観光客らしいのががやがやと出て行った。
その後に梓さんが見送りに出て来て私に目を止め、おやという顔をした。
「何樫さん、お出かけだったんですか」
「散歩に出たら、豆腐屋と団八の酒盛りに引っ張り込まれていたのだ」
「それはそれは。うちは今最後のお客様がお帰りになったところですよ。少し寄って行かれたら? 貧乏神さんたちに味噌でも焼きますから」
ではお言葉に甘える事にして、くぼたのカウンター席に陣取った。
久保田夫妻はてきぱきと片づけをしながらも、私にお銚子を出してくれた。
団八で沢山飲んで来たけれど、お酒はいくらでも飲みたいし、うまいから、しばらく手酌で傾けていると、退魔師の真田慶介君がふらふらとやって来た。
「もう店じまい?」
「あら、慶介君。大丈夫よ。お疲れみたいね」
「盆が近いからさ、あちこち出張る事も多くて、さっき帰って来た。麦酒頂戴」
真田君は私の横の席に腰を下ろした。
「どうも何樫さん。今日も暑かったですね」
「そうだね」
「ほい麦酒。腹減ってる?」
と蓮司君が言うと、真田君は壁の品書きを見た。
「軽くは食ったから満腹じゃねえけど……がっつり晩飯って感じじゃねえな。冷や奴と……あと小エビのかき揚げ」
麦酒をぐいと飲んだ真田君は大きく息をついた。
「はあ、生き返った」
「なんだか馴染みの面子って感じだなあ」
と蓮司君が笑った。私も真田君もあまり客という感じがしない。私なぞは金を払わないから余計にそうだろう。
網戸になった入り口から宵風が吹き込んで来る。外の音が微かに遠くから聞こえて来るらしかった。お銚子の最後の一杯を御猪口に注いだ。
「さっき志鶴君に会ったぜ」
と私がいきなり言うと、梓さんが「わあ」と言った。
「志鶴ちゃん、帰って来てたんですか? あの子、凄く売れっ子の女優さんになったんですよね」
「あー、そういうやそうだったなあ。テレビとかあんま見ないから知らなかったけど……確かお客さんが話してたので知ったんだよね」
と蓮司君も言うと、梓さんは頷いた。
「そうそう。わたし本屋に走って、そういう雑誌をわざわざ買ったんですよ。あの子の主演映画の特集か何かがあって、インタビューなんかもあって、凄いなあって。映画も面白くて、わたし三回くらい見返しちゃいました」
「帯刀志鶴か。健太郎と仲良かった印象が強いな」
と真田君が言った。
「だから団八で会ったのだ。お忍びで休暇だそうだよ」
「ははあ、綾科はカメラとか使えないですからね」
「えー、うちにも来て欲しいー」
と梓さんがもどかしそうに足踏みした。蓮司君が苦笑する。
「梓、ミーハー過ぎだよ」
「そういうのじゃなくて、久しぶりだから色々お話したいじゃない。もう三年前? 役者の方に入ったっていう頃に来てくれて以来かしら?」
「ああ、そうだったかなあ。梓はお囃子関係で元々顔合わせてたんでしょ?」
「うん、すごく明るくてかわいい子だったなあ、って」
彼らは大体年代が同じくらいらしく、思い出話が始まると私は蚊帳の外になった。
尤も、私はそういう事は気にしないから、お銚子のお代わりをもらって、他人の話を聞きながら一人でちびちびと傾けている。
そのうちに味噌の焼けるいいにおいが漂って来たから、焼き味噌をもらって二階に上がった。
部屋に入ると、貧乏神たちが窓辺で膝を抱えていた。夜風が涼しいらしく、日中のだらしない様子は幾分かましになった様相である。
爺の方が私を見た。
「味噌を焼いておる様だな」
「鼻がきくね」
「ここから出られれば引き寄せられるところだ」
「だから持って来た」
「なんと、わしらのだったか。これは有難い」
貧乏神どもは嬉しそうに焼き味噌をちまちまと舐めた。私は煙草に火を点けてへらへらの座布団に腰を下ろす。
アスファルトやコンクリートが蓄熱して、まだ何となく蒸し暑いけれど、窓から風が吹き込んで来る分だけまだいい。どこかで風鈴が鳴っている。
「風鈴は風情があっていいのう」
「はあ」
「お主はそう思わないか」
「思う」
「そうだろう」
「しかし、世の中には風鈴の音も騒音だと感じる者もあるそうだ」
「なんだそれは。そんな事では世の中で生きて行けないではないか」
「僕にもよくわからないけれど」
「風情を解さずに生きているのは面白くなかろう」
「別に面白く生きていなくてはいけないという事もない」
「詰まらないよりはいいではないか」
「詰まらなく生きるのが面白い者もいるかも知れない」
「それは結局詰まらないのか面白いのか」
「どっちだっていいじゃないか」
「なぜ」
「面白いとか詰まらないとか、そういうのは余計な事であって、何でもないに越した事はないんだから」
貧乏神は黙って味噌を舐めている。相手にならぬつもりらしい。
もう七月も終わり、八月に入って少し経ち、じきお盆である。綾科のお盆は実際に死者が帰って来るものだから、特に夜なぞは物騒でいけない。鈍感な連中はいいけれど、敏感な者は霊たちがひそひそ囁き交わす声で落ち着かなくなる。
死者にしても家に帰って来た祖霊ならばまだいいけれど、無縁仏や無供養の精霊などもやって来るから、油断すると変なのをくっつける羽目になる。だから綾科の家々は、自分たちの祖霊だけでなく、そういった野良の霊たちも供養する為に、軒先に精霊棚を作って供え物を置く。
綾科は他の多くの地域と同じく、新暦八月の十五日がお盆である。
盆の入り、すなわち八月十三日頃からあちこちの家々の軒先で迎え火が焚かれ、十五日には海辺で花火が打ち上がる。そうして盆の出、八月十六日から二十四日の間には送り火が焚かれる。出の日がまちまちなのは、霊によって長尻をしたりしなかったりするからである。
死者たち、すなわちご先祖様たちは火に迎えられ、そうして煙に乗って帰って行くらしい。この辺りに火葬文化との関連性を見出そうとする研究者もいるらしいが、そんな事は私の知った事ではない。
当然、綾科の各寺社でも催しが行われる。
在善寺は勿論、綾科神社でも神楽舞や剣舞が行われ、檀家や氏子が行ったり来たりして、祖霊を迎え、もてなす。
本来仏教においては、人間は死ねば輪廻に帰って転生するので、幽霊は存在しない。だからそもそも祖霊が戻って来るというのはおかしいらしいけれど、綾科では実際に帰って来るのだから仕方があるまい。
そもそも盆は盂蘭盆会から発展した日本独自の行事である。仏教行事である事はあるのだが、古来の自然崇拝と祖霊信仰に仏教や道教が混じったものだから、正確な意味での仏教行事ではない。だから純然たる仏教の理屈で考えるとつじつまが合わなくなる。
夏至を過ぎてひと月以上が経ち、日は短くなって行く一方の筈なのだが、暑気が一向に抜けて行かないので、夜になっても暑い。それでもせんべい布団に寝転がって暑い暑いと思っているうちに眠ってしまう。
眠ってしまっても、夜中にふとした事で目が覚める。寝直そうと思っても変に目が冴えて眠れない。輾転反側するうちに寝ている方が億劫になって起き出す。
貧乏神は床に転がってぐうぐう言っている。昼の間にぐったりしていた癖に、夜にもぐったりしている。尤も、怠けるのには体力が必要だから、あんまり暑いと怠ける気力もなくなるのであろう。
窓際に行って煙草をくわえた。煙を吐きながら眺めると、町はもう静かになっている。虫の声に混じって、時折草履を擦る様な物音が聞こえて来る。夜の散歩をしている者がいるのか、それとも神様や妖怪がうろついているのか、それは解らない。
次第に夜気が濃くなるにつれ、日中の暑気が薄らいでいくのが解る。空から湿り気が降りているらしく、頬を撫でる風が肌に引っかかる様に思われる。
火の用心の拍子木が幾度か通り過ぎた。
壁時計を見るに夜中の一時半である。寝ようにも眠くはないし、退屈だから、散歩にでも出ようと思い出した。
月は細く、明かりは心もとない。
通りに出ると薄ぼんやりとした提灯の明かりが、足元を淡く照らし出した。
歩いている者はいない。どの店も暖簾を仕舞い、眠りについているらしい。しかし二階の部屋には煌々と明かりが灯っている所もある。裏手の方の酒場では明け方までやっている所もあるけれど、私はそういう所にはあまり行かない。
足の向くままにぶらぶらと歩いていたら、ぺたぺたと草履を引きずる様にしている影とすれ違った。気の早い亡霊が迷い出て来てしまったらしい。盆になると、ああいうのが増えているからうるさくていけない。
表通りはそれほどではないが、裏道に入ると色々な神様の祠がある。大小様々なそれらが、家々の並びに混じっているからややこしい。しかしながら、夜が更けると、そういった祠やお堂の前に有象無象の神々が集まっていたりする。
その晩も上町綿貫稲荷の社の前に、四、五柱の神々が、地面に敷いた茣蓙の上で車座になって背中を丸めていた。他に通りがかりに引っ張り込まれたと思しき気の毒な幽霊が数人、小さくなっている。
綿貫稲荷の社の前は小さな境内があって、赤い稲荷鳥居と奉納旗で彩られている。だからこうやって人外がたまり場にするのにいいらしい。
上座の、つまり社の前に座っていた綿貫稲荷さんが私を見つけて腰を上げた。
「何樫じゃないか。お前も来い来い」
と手招きする。嫌だったけれど断れないから、渋々座に混じった。花札をやっているらしかった。
ここのお稲荷さんは綿貫稲荷さんといって、綾科神社にいるお稲荷さんとは別人、もとい別神である。綾科神社のお稲荷さんは伏見稲荷の分霊だが、綿貫稲荷さんはこの社のみを守る神様だと思っておけばよい。お稲荷さんは全国各地にあるから、こういうご当地お稲荷さんはとても多い。
綿貫稲荷さんは狐の様な稲穂の様な鮮やかな黄色い髪の毛を肩辺りで不揃いに切って、白の水干に青の袴を着ている。顔立ち声色は男とも女ともつかぬ。
座に入っているのはその辺にいる野良神ばかりである。犬みたいなのもいるし、変に耳の大きいのもいる。神というよりも妖怪に近い様にも見受けられたが、その辺りの境界は曖昧である。しかしどれも着流しみたいなのを着て、花札をじろりとにらんでいる。
「何をしているんです」
「見りゃ解るだろう、花札だよ」
「それは見りゃ解ります。銭なんぞ場に出して、賭け花札なんぞ僕は御免ですよ」
「お前に賭けられるものがあるわけないだろう。賑やかしだよ、寄って行け」
何だかよく解らないけれど、それで一座に加わった。とはいえ、私は見ているだけである。他の神々は少ない銭を握り締めて勝負しているらしく、真剣で、物騒でいけない。境内にかけられた提灯が薄暗く辺りを照らしている。
何度目かの勝負で、最後の札を綿貫さんが場に放った。
「上がりだ。今夜はついているなあ」
と綿貫さんが笑う。野良の神々は渋々小銭を綿貫さんの方に押しやる。
「もう一回するかね」
「賭け金がない」
「儂もじゃ」
それで終わりになった。綿貫さんの賽銭を狙って来たらしい野良神どもは、却って綿貫さんにやられて有り金を巻き上げられてしまったらしい。すすけた背中でとぼとぼ帰って行った。
綿貫さんは社の前にごろりと寝転がって立て肘を突いた。そうして、小銭の詰まった巾着を私に放ってよこした。
「いやあ、愉快愉快。何樫、これで酒でも買って来い」
「この時間に店なぞ開いちゃいません」
「コンビニがあるだろう。いいから行って来い」
昨今の神は風情がなくていけない。
それで小銭をじゃらじゃらいわしながらコンビニに行って四合瓶を二本とあたりめの小袋を買って来た。神がコンビニに酒を買いに行くわけにもいかないであろう。私を呼び止めたのはこういう魂胆かと思った。
綿貫さんは社から古びた湯飲み茶碗を出して来た。着物の裾でぬぐって私にも一つ寄越す。なみなみ注いでやると、口をすぼめてすすった。
「うまい。もうじき盆だな。賑やかになるね」
「はあ」
「賑やかなのはいい事だ。賽銭もいっぱいもらえる」
綾科の盆前後は、親戚縁者が大挙して里帰りして来る。沖縄も祖霊崇拝ゆえに盆が盛り上がるというが、綾科もそうである。そうして誰も彼も無暗に神様を敬うものだから、街中の大小の祠も賽銭がじゃらじゃらと投げ込まれるらしい。
「そういえば、貧乏神は一緒じゃないの」
「寝ています」
「昼間は暑いからねえ。夜の方が気持ちよく眠れるだろうな。私もここのところは昼寝をするのも寝苦しくていけない」
「神様もそういうものに苦しみますか」
「そりゃそうだとも。まあ、伏見の総代様みたいな位階の高いお方になれば、そんなものに煩わされずに済むだろうけれども、私みたいな小さな稲荷社の主ではねえ」
と急にしょんぼりして椀に口をうずめる。
「ご不満なんですか」
「そういうわけじゃないけれどねえ。でもたまに妙に寂しく思う事だってあるよ」
綿貫さんはぐいと椀を干して、私の方に突き出した。お酌してやるとほうとため息をつく。野良猫の一団が、社の前の小路を横切って行った。
「しかし、盆になると賑やかになって寂しさが紛れていい。私なんかは出不精だから、向こうから来てくれるのは楽でいいものだよ」
「そりゃ神様が社を放っていなくなるわけにはいかないでしょう」
「まあ、そうだけれども、遊び歩いているのもいるからねえ。盆の頃はあちこちの精霊棚をつまみ食いして歩くのもいるし。あの子、また来るかなあ。いやね、毎年お盆の時に来る可愛い子がいるのだよ。菖蒲柄の着物を着てさ、髪の毛が艶やかでね。笑うとえくぼが出来て、笑い声も鈴の音みたいでさ。その時に持っている団扇で口元をちょっと隠す仕草が心憎いんだよ」
綿貫さんは酔いが回って来たのか、あたりめをかじりながら滔々と朗らかに喋り出した。まだ四合瓶半分ばかりしか減っていない。神の癖に酒に弱くて情けない限りである。
話をしながら飲んでいれば四合瓶二本なぞすぐなくなる。しかし酒がなくなってからも綿貫さんは酔いに任せて私を放そうとしない。何だか機嫌よく、ある時は泣きそうになりながらあれこれと取り留めもない事をまくし立てる。
私の方も別段用事は何もないから、空の湯飲み茶碗を持ったまま、漫然と聞き流しているうちに空が白んで来た。




