裏世界探訪記.四
建物の中は広く、いくつも廊下が伸びているが、客間の並んでいる表側と、従業員たちが起居している裏側とが、ざっくりと区分けされている。表は絢爛たる装飾が施されているけれど、裏側は質素で静かである。しかしその裏手の奥の方に大きめの離れがあって、そちらに宿の主人の白猫がいる。
テンコの案内で建物の中を歩き回り、廊下を行って階段を下って、がやがやしている方へ向かった。
廊下の両側が障子で仕切られていて、その向こうでおかしな形の影がいくつもぐねぐね動いている。三味線と小唄が聞こえる。酒器の触れ合うらしい音がする。宴会場らしい。
おぼろが両側を見ながら言った。
「この中に野地さんが紛れ込んでいたりしないでしょうか」
「人間がいたらすぐに解ります!」
とテンコが言った。それはそうかも知れない。
しかし念の為とおぼろが障子を少し開けて中を覗き込んだので、私も見てみた。どうやら狸の御一行様らしく、上座に巨大な古狸が座っていて、その前で子狸どもが飛んだり跳ねたりして色々のものに化けていた。どうやら私が放浪していた時、廃神社で出くわした子狸らしい。
「客とはいえ、狐が狸に奉仕するのは面白いね」
「そうなんです。なんか威張ってて困っちゃいますよ」
「立派な宴会場ですねえ。でも野地さんはいないみたいですね」
人間に化けた狸と、毛むくじゃらの狸ばかりである。野地の姿はない。
それで今度は反対側の障子を小さく開けてみた。こちらは狸ではないが、何だかよく解らない連中が詰まっている。妖怪だか神々だか、それは一見しても判然としない。どちらにしても碌なのはいなそうである。
見つかって引っ張り込まれると面倒だから、早々に障子を閉めて退散した。おぼろとテンコは何だかきゃっきゃとはしゃいでいる。何が面白いのかさっぱり解らない。
迷路の様な宿の中を行ったり来たりした。
無暗に広く、畳廊下があったり、隠し小部屋の様な所があったり、風情があるのか何なのか解らないが、おぼろは随分楽しそうで、テンコはそれで威張っていた。
小一時間ほど歩き回って、ようやく風呂に行く形勢である。
温泉があるのは一階である。受付のあるエントランスから、川を跨いで渡り廊下が伸びており、その先に風呂場があった。
脱衣所から風呂場までは石段を下りて行く様になっている。つまり脱衣所から風呂場が見下ろせる様になっているのだが、その石段に腰かけて体中から湯気を立ち上らしているのがいて、しかも並んで長話に興じているらしいので、入る気が失せて、服に手もかけずに脱衣所を出た。
待合所に一人で座っていると、真田君がいないせいで、物騒な連中の矛先が私に向いて来る。
適当にあしらっていたけれど、とうとう神様らしいのが一杯機嫌で私の横に腰を下ろした。
妖怪も神様も見た目で判断するのは早計だけれども、何となく感じる雰囲気というものがあって、それで神様か妖怪か、ざっくりと判断できる。
「人間が一人でこんな所にいるとは、珍しいじゃないか」
「はあ」
「あまり物怖じしている様子じゃないね。ここは怖くないか」
「怖くはありません」
「豪胆だが、見た目は豪傑という風じゃないな。一杯付き合わんか」
待合所は簡易の食事処になっているらしく、女中に頼めば何か持って来てくれるらしい。私が何か言う前に、神様は女中を呼び止めてお銚子と肴の載ったお膳を運ばした。
それでそのお膳を前に差し向いになって一献した。
目の前の神様はひょろひょろと痩せた中年の男である。宿の浴衣の上に半纏を着て、ロイド眼鏡をかけている。髪の毛は真っ白なのが伸び放題になって、顔までかかっていた。
「名は何という」
「何樫といいます」
「そうか。わしはハジロだ」
「あんたは何の神様なんです」
「養蚕を営んでいた富家の庭先に祀られていた神なんだが、ここ最近は扱いがぞんざいでな、祠は草に埋もれるし、お供えはないし、何だか痩せてしまったわい。節々は痛むし、湯治にでも来なけりゃやってられん」
とこけた頬を手の平で撫ぜた。
「するとおしらさんとかオコナイさんとか、養蚕神か何かですか」
「まあ似た様なものではある」
そう言われると、確かに髪の毛が絹糸の様に見えなくもない。
「綾科にお住まいではないのですか」
「違うな。綾科では今でも屋敷神を手厚くするというから羨ましい」
「しかしあんたがそんな有様では、その家も傾いていそうですな」
「それがそうでもない。いや、伝来の養蚕は途絶えてしまったが、実業家として上手くやってはいる様だ。今の時代は神頼みというのは流行らんらしいネ」
「それはお気の毒に。まあ一杯」
「有難う。しかしあんまり敬われないのも腹が立つ。わしの手助けで家を大きくしたというに、その恩を忘れおって、祟り神にでもなってやろうか。晩に寝床で横になっていると、体中をお蚕さんがぞろぞろ……」
「面白そうですね」
そんな風にハジロさんの愚痴を聞きつつ献酬をしていると、体中からほこほこと湯気を立ち上らせながら、おぼろとテンコとがやって来て不思議そうな顔をした。
「何樫さん、随分早風呂なんですね。髪も濡れてないし」
「面倒になったから入っていない」
「なーんだ。そちらはどなた様ですか?」
「名家の屋敷神のハジロさんだ。貴君、粗略に扱っちゃいけないぜ」
「おお、それは何とも。八鹿おぼろと申します、どうぞよろしく」
ハジロさんは面白そうな顔をしておぼろを見た。
「お前さんも人間か。まだ若いのに随分落ち着いているね、ここは怖くないかい」
「怖くないですよ、天才女子高生退魔師なので」
「そいつは景気がいい。そっちの子は伏見の狐か」
「はい、あたしテンコです。よろしくお願いします、神様」
「こっちにおいで。何か食べさしてあげよう」
うるさいのが座に交じって急に賑やかになった。
ハジロさんは景気が悪いなりに羽振りがよく、おぼろとテンコを両側にはべらしてお酌なんかしてもらって、何だか嬉しそうである。神様というのは敬われると機嫌がよくなるものらしい。
「それで、お前たちはこちらへ何しに」
とハジロさんが言った。おぼろが空のお銚子を振りながら答えた。
「人捜しなんですよ。こっちに迷い込んじゃった人がおりまして」
「おいおい、もう食われちまっているのじゃないか」
「一昔前ならともかく、昨今はそこまで物騒じゃありませんよぉ」
とテンコが言った。
「まあ、あまり裏路地に入り込んだりしなけりゃ大丈夫だろうが、こちらで人間の一人歩きはちと危ないな」
「ハジロ様、こちらで他の人間を見ていませんか?」
「わしはここの宿からほとんど出てないからなあ。しかしテンコちゃんや、お前は千里眼くらい使えるんじゃないかね、伏見の狐なんだから」
「ええ、これからおぼろちゃんと捜索に行く予定なのです。温泉に入って気力も充実、テンコの実力をお見せします!」
とテンコは手首につけた念珠を見せた。これはさっきまで真田君がつけていたものである。確か野地の気配を移した代物だとかいう。テンコはこれを利用して千里眼で野地の居場所を見当付けようとしているらしい。
もう夜も遅いけれど、おぼろもテンコも元気である。私も別に寝なくても平気だから、野地を捜しに行こうという事になった。
ハジロさんにお礼を言って立ち上がると、呼び止められた。
「お守りをあげよう」
そう言って、自分の髪の毛を一本、ぷつんと引き抜いた。絹糸をよった様な太く艶やかな代物である。それをおぼろの右手首に結んだ。
「もう丑三つも近い。これで少しは変なのに絡まれずに済むだろうよ」
「ありがとうございます!」
おぼろは手首を見てにんまりと笑った。テンコが尾っぽをぱたぱたと動かした。
「神様とご縁、いいですねえ。あれ? ハジロ様、何樫さんには差し上げないのですか?」
「お前には要らないだろう。それとも欲しいかね」
「まっぴらです」
それで宿の外に出た。提灯の火は相変わらずだが、やや辺りは静かになった様に思われた。それでもまだ歩き回っている連中はいる。だが先ほどと違って、姿かたちがはっきりしない。
テンコが念珠をつけた腕を掲げる様にして、むつかしい顔をして唸っている。そうしてやにわにかっと目を見開いて、向こうを指さした。
「あっちです、行きましょう」
三人連れ立って歩き出した。前を歩くテンコの横におぼろが並んだ。
「どんな光景が見えましたかテンコちゃん」
「お茶屋です。綺麗なお姉さま方が沢山いて、男の人を取り巻いていました。男の人は鼻の下を伸ばしていました」
助平な男である。ますます野地なんか見つけたくなくなったけれど、今更やめようとも言われないから、黙ってテンコについて行った。
町の賑わいは相変わらずだが、私共がここに到着した時とは少し質が違う様に思われた。
真田君が言っていた様に、今は奇妙な気配や視線がこちらを窺っているのがありありと解る。おぼろもそれが解っているらしく、いつの間にか私の隣に来て、私の腕をぎゅうと握ってやや緊張していた。
「何だか、雰囲気が変わりましたね。ぎらぎらしたものを感じます」
「夜が遅くなると、性質の悪いのも這い出して来るからね」
「わたし天才ですけど、不思議とどきどきします。前にどこかの山村の旧家に出かけた時、似た様なものを感じました」
「怖いのかね」
「……ちょっとだけ」
「あたしがいます。大丈夫です」
とテンコが振り向いて威張った。
おぼろはちょっと悔しそうに口をへの字に曲げて、肩に下げた鞄をごそごそと漁り、名刺入れみたいなものを取り出して、手の平で包むようにした。
「なんだそれは」
「護符入れです。これ持ってると落ち着きます」
妙な落ち着き方もあったものである。
テンコはずんずん進んで行く。ねこやの橋を渡って、再び街中に入り込んだ。往来はまだざわざわしていて、そこいらは相変わらず提灯や電灯で照らされているのに、奇妙に薄暗く、行き交う連中の姿がどうにもはっきりしない。
「異界に迷い込む話はよく聞くんですけど」
とおぼろが言った。
「誰から」
「誰って事もないです。でも、そういう人は大抵、同じ様な景色なのに人が誰もいないとか、自分の家に違う人が住んでいるとか、現実と少しずれた様な感じにあるのが多いみたいで」
「世界というのは幾つも重なっているからな。ここはまだ性質のいい方で、もっと得体の知れない世界もある」
「何樫さんは、そういう世界にも行った事があるんですか?」
「あるよ」
「どんな感じでした」
「覚えていない」
「おじさんに会ったりしませんか」
「どんな」
「どんなかは知りませんけど」
「会った事がある様な気がしないでもないが、そのおじさんがどうしたの」
「そういう世界に迷い込んだ時に、そのおじさんが元の世界に帰してくれるそうです」
「そんな親切な人がいるとは知らなかった」
「何樫さんは自力で何とかなっちゃいそうだから、関係ないのかも知れないですねえ」
なんだかよく解らないが、そうなのだろう。
くねくねした路地を辿って行くと、急に明るい入り口が現れた。縄暖簾の向こう側が煌々と明るく照らされている。中は賑やかな宴席が設けられているらしく、三味線の音やざわめきが聞こえていた。
「ここか」
「そうだと思います」
見上げると大きな建物である。五階建てくらいの高さはあって、縁側の手すりの向こうに一面の硝子戸が見えた。その中が宴会場になっているらしい。
暖簾をくぐると、急に辺りが陽気になった。
入ってすぐは土間である。少し先に広く上がり框を取って、板張りの廊下が延びている。天井からいくつもガラス玉がぶら下がっていて、どうやったのだかその中に真っ赤な金魚が泳いでいる。照明の光が丸い金魚鉢を通して、あちこちに奇妙に動く水模様を作り出していた。
犬の頭に人間の体をした女中たちが、お膳やお銚子を持って忙しそうに行ったり来たりしている。そのうち一匹がやって来て三つ指をついた。
「今晩は、ようこそいらっしゃいました」
と言ってからひくひくと鼻を動かし、怪訝な顔で私共を見た。
「おや、人間では?」
「そうなのです。こちらに他に人間のお客様はいらっしゃいますか」
とテンコが引き取って答えた。犬女中はふんと鼻を鳴らした。
「さっきまでいたけどね、何やら神様方に連れられて河岸を変えなすったよ」
「ええ、あの、どこへ行ったのか解りませんか」
「そんな事知るわけない。こっちは忙しいんだよ、他を当たっておくれ。今夜は変なお客の多い日だよまったく」
と追い返された。おぼろがむうと口を尖らしている。
「あすこのお店は人間が好きじゃないみたいですね」
「それかあの女中が人間嫌いなのかも知れない。犬は人と近しい分、ひどい目に遭っている事も多いからね」
「しかし野地さんはどうしたんでしょう。神様に連れてかれたって言ってましたけど」
「どうだか知らないが、まあテンコ君に頑張ってもらおうではないか」
テンコは再び念珠を掲げてむむむと唸っている。
「うーん、気配が……あっ、いた。こっちです」
そう言って歩き出した。
「今度はどこにいるの」
「何か往来を進んでいますよ。周りを神様に取り巻かれているみたいです」
「どんな神様」
「色々です。渡来神様もいらっしゃるみたいです。異形の方も」
何をどうしてそんな神々と同道する羽目になったのか解らないけれど、まあいい。しかしそれで野地を発見しても、その神々に絡まれると思うと今から憂鬱である。
広い道を通って、それから細い道に入った。
両側から建物が迫っていて、見上げた空が狭く息苦しそうである。
壁面に何だかよく解らないパイプみたいなものが幾本も走っていて、継ぎ目から湯気を吹いているのもあった。硫黄のにおいがするから、温泉でも引いているのだろう。
それでともかく歩いていたら、千切れて落ちたらしい提灯が、私共を追い越す様に足元を転がって行った。おやおやと思っていると、その提灯が突然宙に舞い上がり、消えていた火が中でぼっと灯った。そうして口を開く様に中ほどからぱっくりと開いた。
「人間ども、今晩は」
といきなり言った。おぼろが「おお」と言った。
「お化け提灯ですね! どうもこんばんは!」
すると提灯はしなびる様に縮んだと思ったら、ぽんと音を立てて消えてしまった。そうして誰もいなくなった暗がりから「ちっとも驚かない。詰まらないな」と声がした。
こういう有象無象に構っているときりがないから、さらに歩を進める。
所々に立つガス灯の様な電柱が、ちかちかと明滅して宵の町に彩りを添えている。しかし目がちらちらしていけない。
テンコは迷いのない足取りで進んで行くけれど、ちっとも野地の姿が見えないから、段々とじれったくなって来た。
「貴君、まだ追い付かないのか」
「もうちょっとだと思うんですけど」
「今はどうしているのだ」
テンコはまた念珠を掲げて目をつむった。
「橋です。橋が見えます」
「どこの橋」
「それは解りませんけど」
「それじゃあいけないじゃないか」
「いえ、場所は解りませんけど方角は解りますから」
何となく頼りなくなって来た様である。おぼろはにやにやしている。
細い路地を抜けて、また広い道に出た。両側に絢爛たる店が軒を連ね、大きな提灯が幾つもぶら下がってぎらぎらと光っている。
しかし行き交う連中は影法師みたいに姿がはっきりしない。地面に映る影がそのまま立ち上がって道を歩いている様な気がする。
そんな風に姿がはっきりしないのに、その影法師がこちらを見ているらしいのははっきりと解るので、鬱陶しい。しかし睨み返して目が合ったりすると面倒になるから、難しい顔をしたまま、ずんずんと歩いて行った。
「すごく見られてますね」
とおぼろが言った。さっきから俯きがちに自分の足元を見ている。
「目を合わせると引っ付いて来るから見ちゃ駄目だぜ」
「はい。なんかそんな感じがします。来たばっかの時の方々とは違いますね」
流石にその辺の勘は鋭いらしい。
段々とだらだらの坂になって、歩いている足が少し疲れて来た。通りにあるのは飲み屋と食い物屋ばかりである。時折土産物を並べた様な店もある。しかし売られているのは何だか得体の知れないものばかりである。看板も「肝」だとか「蛙」だとか、何となく気味が悪い。
見上げると、両側の建物に挟まれて月が光っているのが見えた。建物の壁に走るパイプから立ち上る湯気がそれにかかってぼやけている。なんだか窮屈そうである。
いくつかの路地を曲がって行くと、やがて古びた鳥居が現れて、その向こうに太鼓橋があるのが見えた。
鳥居の傍に黒い服を着た変なのが幾人も呆然と立っていて、それがみんな同じ方向を向いている。
「あれは何だろう」
「はあ」
「みんな同じ方を見ているね」
「あれは死神です」
「死神がどうしてあんなにいるのだろう」
「さあ……」
とテンコは上の空で返事をした。おぼろが身震いして、私の袖を引っ張った。
「三途の川じゃありませんか」
「そんな事はないだろう」
しかし三途の川でなくとも、橋というのは一種の境界線で、そこを超すと何か変な事になる様な気がしないでもない。おぼろは小さな声で九字を切って、何となく不安そうな顔をしている。
「貴君がそんな風に怖がっているのは珍しい」
「天才にも限界はあるのです」
そうらしい。しかし何だかよく解らない。
死神の集まっている橋を眺めつつ、テンコに声をかけた。
「野地はここを渡ったのか知ら」
「そうだと思うのです。けど、それだと手遅れかも知れません」
「それなら帰ろうではないか」
「ええっ、ここまで来たのに。折角だからわたしたちも行きましょうよ」
「だって渡ったら手遅れなんだろう」
「そう決まったわけじゃないですよ。まだ間に合うかも」
「千里眼で見ればいいじゃないか」
「それが、橋が境界になってるみたいで、千里眼で見るにも渡らないといけないんです」
「貴君、どうしよう」
とおぼろに言うと、おぼろはむんと胸を張った。
「ここで引いたら天才の名が廃ります。行きましょう」
止んぬる哉と思いながら、橋へと向かった。
鳥居に近づくと、死神の姿がよく見える。皆黒づくめで、夏なのにフロックコートを着て山高帽子みたいなものをかぶっている。最近の死神は洋装を基本にしている様である。顔色は悪い。血色のいい死神はいないらしい。
そういえば、学生時代に夭折した友人は、死ぬ幾日か前に、やけに黒い服を着た連中を見ると話していた事を思い出した。死神に付きまとわれたから死んだのか、死ぬ運命だったから死神が付きまとっていたのか、その辺は解らない。
野地が死神に誘われてここまで来たのだとすれば、とうにあの世に行っている様な気もする。しかし、だから放っておくという理屈は通用しないらしい。
鳥居をくぐると、何だか気配が違った様に思われた。ぼやぼやと暑いのに、変に冷たいものが肌を撫でて行く様な気がする。
橋を踏んで行くと、ぎしぎしと頼りない音がした。
遠くからは解らなかったが、こうしてみると随分古い。欄干の塗装も、かつては朱塗りだったらしいのが、今はすっかり剥げ落ちて、木の色がそのままになって褪せている。
川の水は墨汁でも溶かした様に真っ黒である。尤も、夜だから黒く見えるだけの話かも知れない。
水面をぼんやりと眺めていると、青白い火の玉みたいなものが、すっと横切って消えた。どこかで風鈴が鳴っているらしかった。
橋を渡り終えると、町の様子がすっかり変わっていた。
まるで廃墟の様な灰色の家々が静かに立ち並び、しかしいくつかの家には明かりが灯っている。締め切られた障子の向こうに影が映っているけれど、何だか随分前からそのままになって、障子紙に影が張り付いてしまったのではないかと思われる様だった。
「こちらは旧市街なのか知ら」
と私が言った。
「どうなんでしょう。こっちはあまり来た事がないですから……」
「あれっ」
不意におぼろが変な声を出したので、どうしたのと言うと、「道が消えちゃいました」と言った。
振り向いたら、鳥居と太鼓橋とがなくなっていて、同じ様な建物の並ぶ陰気な道が延びているばかりである。
「どうも本当にあの橋は境界だったらしいね」
「こんな風にまったく違う所に移動しちゃう事もあるんですね」
「あるさ。表でも一日で行ける筈のない場所に移動していたなんていう話はあるんだから」
「ともかく、これで先に進むしかなくなったわけですね」
「そうだね」
「あっ、野地さんはこの先にいるみたいですよ」
とテンコが念珠を掲げて言った。おぼろは深呼吸している。
「野地はどうしているの」
「歩いてます。あっ、今どこかの家に入りました」
「同行者がいるのか」
「いるみたいですけど、姿がぼやけて見えません」
やはり死神に誘われているのではないだろうか。
ともかく、私共が連れ立って歩いて行くと、不意に家の物陰から、何だか黒い影がぬっとあらわれて通せん坊をした。おやおやと思っているうちに、同じ様な影が幾つもやって来て私共を取り巻いた。何だか剣呑である。
「何ですかあなた方は。通してください」
とテンコが怒った様に言ったが、相手は聞く耳を持たない。何かぼそぼそと言っているけれど、何と言っているのか解らない。変だなと思って耳を澄ますと、「返せ、返せ」と恨みがましそうな声で呟いているらしかった。
おぼろが困った様に私を見た。
「怨霊の類ですよ、この方たち」
「何を返せと言っているのだろう」
「何でしょう。テンコちゃん、解ります?」
「そんな事知りません。ねえ、あなたたちいい加減にしてくださいよ、わたしは伏見のお稲荷様の眷属ですよ! そんな風な狼藉は、あっ、ちょっと、何するんですか、うぎゃ」
影法師どもは、腕らしいのを伸ばして、テンコを捕まえた。そうしてぎゅうぎゅうと絞め付けている。テンコはじたばたと暴れているが、影法師はいくつもいるから埒が明かない。
気づくと、影法師は私共に手を伸ばしていた。
こちらを絞め殺すつもりなのかなと思っていると、急にぱっとまぶしい光が迸り、影法師どもが苦し気に身をよじらして後ろに下がった。見るとおぼろが手に持った護符を掲げていた。何か術を使ったらしかった。
「逃げましょう!」
おぼろはそう言うと、解放されてけほけほ言っているテンコの手を引いて、たったっと走り出した。私もその後をついて行った。
光が治まったら、影法師どもはこちらを追っかけて来た。
周囲の家からも同じような影法師が這い出して来て、それがみんなこちらに向かって来るらしい。
私共はひとまず道を辿って逃げた。不案内な所だからどこへ逃げようという当てはないけれど、立ち止まって絞め殺されてはいけないだろう。
しかしそのうちテンコがひいひい言いながら足を緩めて、とうとう立ち止まった。
「ちょっ、もう、らめぇ……すこっ、しっ、きゅうけえ……」
テンコは荒い息をしながら、道端にへたり込んだ。
「休んでいては追い付かれるのではないか」
「これ以上は走れません……」
「そうか」
「ずっと全力疾走は流石に疲れますねー」
おぼろもテンコほどではないが息が上がっている。
「貴君はまだ元気そうだね」
「退魔師は体が資本ですから! 何樫さんこそケロッとしてるじゃないですか」
「いや、くたびれた」
私は周囲を見回した。ここいらは一本道で、片側に家が並び、片側に石垣が積んであって、その上は鬱蒼とした茂みがあった。石垣の下にお地蔵さんが並んでいるけれど、どの地蔵も首がなかった。家々の中からは、ずっと何かがこちらを窺っているらしい。
テンコを放っておくわけにもいかないから、立ち止まったままでいると、やがて後ろから影法師どもが追い付いて来た。
さらに、視線を感じていた家の障子が開いて、中から変なものが出て来た。青白い顔をした男だが、頭がさかさまにねじれて手足が変な方向に曲がっていて、それが地べたを這う様にしている。苦しそうな体勢なのに、顔にはニタニタした笑いを貼り付けていて、目が無暗に充血していて気持ちが悪い。
おぼろが「うげっ」と言った。
「ひええ、これ表じゃ一回ウン万円の仕事の相手ですよぉ」
「これも怨念か知ら」
「はい。それも結構強い呪いの力がありそう……テンコちゃん、走れますか?」
「はひぃ……」
「駄目そう」
「退治しちまったらどう」
「うーん、こちらはフィールド的に人間不利ですから何とも……しかしそこで諦めては天才の名折れ! やるだけやってみます! なうまくさんまんだ、ばざらだん、せんだん、まかろしゃだ、そわたや、うんたらた、かんまん……」
とおぼろは不動明王の真言を唱えながら、肩から下げた鞄から、護符だの独鈷だの出して構えた。何だか相手をすると決めた途端に元気になった様な気がする。
おぼろの体から薄明かりが発して、それが淡い光の玉の様に私共を包み込んだ。近くにいた影法師が、押し戻される様に後ろへと下がる。結界らしい。
しかし青白い顔の怨霊は、ひるむどころか馬鹿にした様にゲタゲタと笑い声を上げた。そうしてじりじりとこちらに這い寄って、結界を押して来る。
こういう場所ではお不動さんの御威光も薄まってしまうらしいが、それでもまったく効果がないわけではないらしく、あちらも急に距離を詰めて来る様な事はなさそうである。
「うう、やっぱりこれくらいが限界ですね」
「しかしこれは退治ではなくて時間稼ぎではないか」
「いえ、本当はお不動さんのお力があれば、大抵の悪霊は何とかなるんですけど、ここじゃ表ほど力が届かないみたいで」
「そうか」
不意にテンコが「うわ」と変な声を出したので見ると、私共の後ろの方から、嫌にずんぐりした胴体に、不自然なくらい細い手足をつけた奇妙な人間が、ひたひたとこちらに歩いて来ている。目は真っ黒で、だらしなく開けたままの口元からはよだれが垂れている。
「もー、だらしがないですよ! もっと見た目に気を使ったらどうですか!」
「挟み撃ちだね。どうしたものか」
周囲にひしめく異形どもは、結界にかじりついてぐいぐいと押していた。おぼろは口を真一文字に結んで、独鈷を持った右手を前に出し、左手で印を組んで胸の前にやっている。何だかだんだんと顔色が悪くなっていく様に思われた。
「も、も、も、もう駄目です」
おぼろがほっと息を吐いた瞬間、結界が薄まった。
青白い顔の男や、細い手足の人間が、結界を突き抜けてこちらに向かって来る様に思われた時、おぼろの手首に巻かれていたハジロさんの髪の毛がむくむくと動き出し、真っ白な糸みたいなものを四方八方に伸ばした。
糸はたちまち周囲の化け者どもに絡みついた。
どの化け物も糸を振り払おうともがいているが、糸は次から次へと伸びて来てちっとも埒が明かないらしい。
この隙に逃げようと思ったけれど、周囲は化け物に取り巻かれて足の踏み場もない。
逡巡したけれど、止むを得ないから決心して、おぼろとテンコの手を握った。そうしてぽんと雲を踏んで飛び上がった。
たちまち私共三人は宙に舞い上がり、眼下に暗い街並みを見るに至った。おぼろもテンコも目を白黒させている。
「雲踏みじゃないですか。もっと早く使ってくださいよお」
「野地はどっちにいるのか知ら」
抗議するおぼろを無視してテンコに問いかけると、テンコはハッとした様に目を閉じて千里眼を使い、そうして変な顔をした。
「野地さん、寝てらっしゃいますね。お宿の一室みたいです」
「どういう事」
「ええと、何だか表に帰ってるみたいです」
なんだ馬鹿馬鹿しいという気になった。
「どこかで表への境界を越えちゃったんですかね」
とおぼろが言った。そうかも知れないが、別にどうでもよい。まったくの無駄足を踏まされたから、何となく気に食わないけれど、ともかくもう野地を追っかける必要がなくなったから、それでそのままテンコに案内さして、雲を踏んだままねこやまで戻った。
もう明け方が近くなっているらしく、真夜中の騒がしさは収まって、宿は中も外もひっそりとしている様に思われた。おぼろが大きく欠伸をした。
私共が中に入ると、狐塚さんがにこにこしながら出迎えた。
「やあ、首尾はいかがでした。テンコは役に立ちましたか」
「立っていない」
私が言うと、テンコがショックを受けた様な顔をして私を見た。狐塚さんは眉間にしわを寄せて顎を撫でた。
「それはどうも、役立たずをお貸しして申し訳ない。では捜し人は見つからなかったのですか」
「いや、勝手に表に帰ったそうだ」
「それはそれは」
「それが解ったのはテンコちゃんの千里眼のおかげですよ、狐塚さん。もしそれがなかったら、まだ野地さんを捜してさまよっていた筈です!」
おぼろがそう言った。テンコはきらきらした目でおぼろを見た。狐塚さんは「ふむ」とおぼろを見、それからテンコを見て、「まあ、いいでしょう」と言った。
「お疲れでしょう。よければお部屋でゆっくりとお休みください」
そうさせてもらう事にする。狐塚さんとテンコと別れて、おぼろと二人で部屋に向かった。
おぼろは何となくぼんやりしていたが、ふと右手首のハジロさんの髪の毛を見た。
「これのおかげで助かりましたねえ。ハジロさんには感謝ですねえ」
「そうだね」
部屋では真田君がうなされながら眠っていた。おぼろが真田君の頬をつついた。
「慶ちゃん先輩、起きなさい。起きないと耳に醤油かけますよ」
「うごっ……ぐうぅ……」
真田君は呻いたけれど、もそもそと寝返りを打っただけだった。おぼろは口を尖らして、真田君の頭をぺしっと叩いた。
「一人だけのんびり寝ちゃって、駄目な先輩ですこと。ああ、わたし疲れちゃいました。んふふ、お布団ふかふか……ではお疲れ様です、何樫さん」
おぼろはそう言って上着と靴下を脱ぐと、布団に潜り込んで丸くなった。それで数秒もしないうちに寝息が聞こえて来た。さっきまで化け物と向かい合っていたのに、随分寝つきが良いものだと思った。
私は布団に腰を下ろしたまま、しばらく腕組みして考え込んでいた。
考えてみても、面白くない。考えなくても面白くないのだが、もう終わってしまった事であるし、文句を言うにしても野地に言うべきだから、却って不愉快のやり場がなくて、困る。
○
「そいつは随分な冒険をされましたねえ」
と蓮司君が言った。今日はくぼたは休日で、だから久保田夫妻の部屋に招かれて晩酌を共にしている。
「そうなんだ。しかし結局全部無駄足だったから、僕は嫌になってしまった。もう退魔師組合の頼みは引き受けない事にしようと思う」
「それでも頼まれれば断れないのが何樫さんですものねー」
と梓さんがくすくす笑いながら、麦酒のお代わりをくれた。
「貧乏神さんもどうぞ」
「うむ」
爺がコップで受けてうまそうに飲んでいる。女の貧乏神も、いつもは青い顔色を酒に染めて、何となく嬉しそうである。
「でもおぼろちゃんも凄いわねえ。神様とご縁を作って帰って来るんだから」
「天才の自称は伊達じゃないって事かな。何樫さん、おぼろちゃんとは最近会いましたか」
「会った。それが貴君、最近はそのテンコが頻繁に来て、一緒に仕事をしているらしいのだ。狐塚さんが修行の為だと認めちまったらしくてね」
「ああ、この前見かけた子はそのテンコちゃんだったんですね、いや買い物の途中で見かけて。話はしなかったんですけど」
「ああいう騒がしいのがつるむと物騒でいけない。貴君、気をつけなけりゃいかんぜ」
「あはは、綾科じゃ今更そんなのは慣れっこですよ。少しくらい賑やかな方が景気がよくていいもんです」
「けど、野地さんが無事でよかったですねえ」と梓さんが言った。
「別に僕はどちらでもよかったけれど」
「またそんな事言っちゃって。知り合いが食われたらいい気分はしないでしょう」
「それはそうだが」
台所でタイマーがぴっ、ぴっと鳴った。梓さんが立ち上がって早足で台所に入って行く。
コップを持ったら、外についた露が指先をびっしょり濡らした。開け放した窓から風が入って来て、風鈴が鳴った。
「ああいう経験が小説に活かされるんでしょうかね。何樫さん、もし野地さんが小説を出したら教えてください」
「くだらないものしか書かんぜ、あの男は」
「いや、読んでみないと解らないですよ」
「そうそう」と梓さんが台所から顔を出した。「それに何樫さんの知り合いがどんな本を書くのか、気になるじゃないですか」
久保田夫妻は人が良いからそういう事を言う。
「まあいいさ。ともかく僕はしばらく存分に怠けるつもりだ」
「いいですね、それは。ささ、もう一杯どうぞ。枝豆が茹りましたし、冷や奴がうまいですよ」
「裏世界探訪記」編終わりです。
またしばらく潜ります。忘れた頃に更新されると思いますので、のんびりお待ちください。




