裏世界探訪記.三
満点の星の如く、地上で賑やかに瞬く町の灯の向こうに、暗く大きな山の影がかぶさっている。町は山から裾野に向かって扇状に広がっている。
楼門を無暗に大きくした様な入り口から中に入ると、朱色の提灯の火でそこいらが酔っ払った様に赤く染まっていた。
道の両側に木造の高い建物が連なっていて、その間にいくつも提灯をぶら下げてある。提灯一つ一つに贈何々と書いてある。大体が神様や妖怪の名前である。これらの提灯はそんな連中が寄贈したものらしい。
建物からは種々様々な看板が無暗に張り出している。何だかよく解らないものも多い。
全体的に俗っぽく、妙に汚らしいけれど、そんな建物に並んで、急にご神木の様な注連縄が巻かれた大木が屹立していたりするから驚く。
そこかしこから湯気や煙が立ち上っていて、それが提灯の光に赤く浮かび上がって何だか物凄かった。ムッと押して来る暑気で、肌がじっとりと汗ばむ様である。
往来を行き交う連中は形様々で、ほとんどが神様か妖怪である。
尤も日本の神様と妖怪は境界が曖昧なところがあって、神様でも祀られなければ祟りを起こすし、妖怪でも祀られれば神としてご利益をもたらす者もある。
だから神様だからといって無暗に気を許すものではないし、妖怪だからといって頭ごなしに邪険に扱うものでもない。私は神様も妖怪も嫌いだからどちらも信用していない。
人間だという事は向こうには解るらしく、すれ違ったり追い越されたりする度にじろじろと無遠慮な視線を送って来る連中が多い。真田君は何となく緊張気味に黙っているけれど、おぼろはウインクを飛ばしたりブイサインを作ったりとまったく物怖じしていない。肝が太いのか阿呆なのかよく解らない。
表通りは真っ直ぐの道だが、裏へと伸びる横道がいくつもあって、その向こうにも提灯が下がっていたり、電灯がちかちかとまたたいていたりする。真っ暗な路地の向こうからは、何かがこちらを窺っている気配がした。
真田君は時折腕に巻いた念珠に目をやりながら、難しい顔をして歩いている。当てがある様でもあり、また当てもなくさまよっている様でもあり、何だかじれったい。
「貴君、我々はどこかへ向かっているのか」
「や、明確な目的があるわけじゃないんですけど……一応野地さんの残して行った荷物から野地さんの気配をこの念珠に移しまして」
「それを辿っているわけか」
「そうなんですが、これだけ周りに大きな妖力の塊ばかりだと、どうもはっきりしないもんですから」
何とも頼りない。しかし他にどうしようもない。私にどうこう出来る話でもないから、諦めて真田君の後について行ったら、裏路地を曲がった所で色街に出て、蛙みたいな顔の女に捕まった。真田君は腕を掴まれて四苦八苦している。
「あーら、お兄さん良い男ネェ、遊んで行って頂戴な、サービスするわよ」
「い、急いでますから」
「遠慮しないで、ほらお姉さんが可愛がってあ、げ、る」
真田君は引きつった笑みを浮かべて必死に断っているが埒が明かない。そのうち店から別の女も出て来て、三人がかりで真田君を捕まえにかかった。私は突っ立ってそれを眺めている。おぼろはけらけらと笑っている。
「ほ、ホントに忙しいんですってば! 勘弁してください!」
真田君はやっとの事で女たちを振り払って私どもの所に逃げて来た。そうして恨めしそうな目で私とおぼろとを見た。
「見てるだけなんてひどいじゃないですか」
「僕が出たってどうにもならない」
「慶ちゃん先輩モテモテじゃないですか。よっ、色男!」
「うるせえ」
真田君は肩を怒らせて大股で歩き出した。
私の隣に並んだおぼろが、そっと耳打ちする様に言った。
「裏側が危ないって、こういう意味なんですか?」
「これも危険の一つではあるが、それだけではない」
裏路地はくねくねと折れ曲がっていて、階段はあるし、不意に座敷みたいな所に踏み込んでしまったりする。
畳の上で鬼が麻雀を囲んでいる脇を通り抜け、茶室の入り口みたいな狭い戸をくぐり、蛍光灯の明滅する地下道の様な所を通った。段々と真田君の顔に不安が広がって、とうとう小さなお社の前で足を止めて私を見た。
「駄目です。俺じゃ見つけられそうにありません」
「慶ちゃん先輩、今まで通ったトコ、宴会場なんて一つもありませんでしたよ?」
「うるせー、解ってるよ……」
真田君はがっかりした様子で、お社の前に置かれていた長椅子に腰を下ろした。
お社は何の神様だか知らないが、朱塗りの小さな鳥居があって、そのすぐ向こうに私の背丈くらいもない小さな祠があった。蝋燭が沢山灯っていて、その小さな火がゆらゆらと揺れていた。
真田君は腕につけた念珠を見て嘆息した。
「少しは役に立つと思ってたのに」
「他には何か持って来ていないの」
「あるにはありますけど、こいつが一番役に立つと思ったんですよ。一応野地さんの気配を辿る手掛かりになりますから」
「こんな体たらくじゃいつまで経っても見つからないぜ」
「面目次第もないです……」
「まあ野地なんぞ見つからなくたって構わない。もう帰ろうではないか」
「帰ったらまずいでしょう」
「なぜ」
「なぜって……」
「すぐ帰るのは勿体ないですよ何樫さん。まだお店の一つにも入ってないのに!」
とおぼろが抗議する様に腕をぶんぶんと振った。そういえば野地は宴会場に紛れ込んでいるという情報がある。外ばかり歩いていても仕方がないだろう。
「貴君、お金は持っているの」
「一応組合から予算は降りてます。こっちの領収書が切れるかは謎ですけど」
「まあ一杯ひっかけに行こうじゃないか。帰らないにしたって、こんな所で便便としている法はないぜ」
それで三人でまた道を辿って行った。
途中からアーケードみたいな所に入った。狭い通路の両側にカウンター席の料理屋が並んでいて、大小の背中が丸くなって酒を飲んでいる。通路にもテーブルが置かれて、そこにも数人が囲んで湯気の立つ何かをつついている。
あちこちから色んなにおいが漂って来て節操がない。木造りの階段がそこここにあって、その上には畳敷きの座席もある。さらに道を見下ろす桟敷の様な席もあって、湯気でけぶってよく解らないけれど、誰かがこちらを見下ろしながら酒を飲んでいるらしかった。
見上げてみると、どうやらアーケードの屋根だと思っていたのは縦横に行き交っている桟敷や渡り廊下で、それがずっと上まで続いているらしい。
道の両側の建物は無暗に高く、そこにも座敷がいくつもあって、欄干から通りが見下ろせる様である。しかし建物が高くても、かぶさっている渡り廊下や桟敷が低い所にあったりして、場所によってはちょっと屈んで通らねばならない。何だか穴蔵を通って行く様な心持である。
ここいら全体が一つの飲み屋の様な具合になっている。
しかし普通の買い物客らしいのも、大きな紙袋なんかを抱えてテーブルの間をせかせかと通り過ぎて行く。実際、道端に茣蓙を広げて野菜なんか売っているのがいる。足の生えた鍋釜薬缶の一団がげらげら笑いながらその足元を走り抜けて行ったりする。
蜘蛛みたいに腕が六本ある女の子が、その手全部にお盆や麦酒瓶を持って行ったり来たりしている。席を頼むと、その辺の空いている所を見つけて座ってくれと言われた。
それで、酔っ払った妖怪や神様をあしらいながら、適当な座敷に滑り込んで腰を落ち着けた。階段を上がった小さな座敷席である。下の通りが見下ろせて、そうやって見ると、同じ様な小さな上がり座敷が方々に据えられていた。どこも大勢詰まっていて無暗に賑やかである。
カラオケでもあるのか、安っぽく、薄っぺらい伴奏の上で、ガチョウが絞殺される様な声で歌っているのがどこからか聞こえる。一番近い座敷では、土偶みたいな連中が卓を囲んで麦酒を飲んでいた。
真田君はくたびれた様に肩を落としている。おぼろは元気である。
「賑やかだし、何か素敵ですねえ!」
「そうか」
「この中に野地さんがいらっしゃらないでしょうかねえ」
「そんなら楽でいいけれど」
「らっしゃあせー、こちらお通しになりまーす。お飲み物をお伺いしまーす」
と蜘蛛の女の子が注文を取りに来た。
「僕は麦酒が飲みたい」
「わたしも同じものを!」
と手を上げたおぼろを、真田君が小突いた。
「駄目だよ馬鹿、俺の監督責任になるだろうが。オレンジジュースとソーダ水」
「飲まないのかね」
「一応仕事中なんで……というよりも、あまり食欲がないんです」
生真面目な男である。尤も、片付かない気持ちで飲むお酒はおいしくないだろう。
お通しは枝豆の塩茹でである。それをぽそぽそと食べながら、飲み物が運ばれて来るのを待った。別に食べなくたっていいのだけれど、もう麦酒を飲む気になっていて、それで回りがみんな献酬しているのを見ると、口寂しさを感じるせいで普段食べないものを食べる。
おぼろが欄干に手をついて、あちこちをじろじろと見回していた。そんなに珍しいかと尋ねると、野地さんを捜しているのだと言う。
「しかし貴君は野地の外見を知らないじゃないか」
「そうですけど」
「それで見て解るの」
「だってここは人間だと色々と絡まれるんでしょ? 困惑している感じの人がいたら、野地さんかも知れないですよ」
そうかも知れない。意外に理論立てて考えているのに驚いたけれど、おぼろは一応退魔師組合では期待されているらしいから、ただの阿呆ではないのだろう。しかし何となく釈然としない。これでは真田君も先輩としての矜持が保てないだろう。
その真田君はさっきから俯いたまま、半袖から覗いた両腕を抱く様にしてさすっている。辺りは暑気が漂っているのに、何だか寒そうである。
「貴君、寒いのかね」
「寒いというか、鳥肌が立つ様な感じがするんです。ここに入ってからずっと、何だか変な視線にずっとさらされている感じで落ち着かなくて」
「そりゃ周りの人外どもはずっとこちらを窺っているからな」
「いや、そういうのとは違うんです。表でもヤバい現場なんかに行った時に感じる嫌なゾクゾク感があるんですけど、それに近いというか何というか……ともかく調子が上がらないんですよ。だから裏側は苦手なんです」
飲み物が運ばれて来た。ひとまず乾杯して喉を潤した。大変うまい。表でも裏でも、暑い時に飲む麦酒の味わいに変わるところはない。
真田君はソーダ水を一口飲んで、ふうと息をついた。
「何樫さんは、そういうものを感じませんか」
「そういうものってどういうもの」
「何か奇妙な不安感というか、落ち着かなさというか」
「ないね」
「そこなんですよ。だから組合の退魔師よりも何樫さんの方が頼れるんです」
「他の退魔師連中も不安になるの」
「なります。前に俺の師匠筋と一緒に来た時も、ずっと青い顔をしてましたし、よほどの事がなければ、裏に乗り込む様な仕事は受けないです」
「今回も受けなけりゃよかったのに」
「何樫さんがいると思って、つい……」
「しかしおぼろ君は動じていない様だが」
おぼろは欄干にもたれる様にして、オレンジジュースを片手に、辺りの風景を飽きる事なく眺めている。もう野地を捜すというよりも、眼前でくるくると動き回っている妖怪や神々が面白いといった様子である。
真田君は嘆息した。
「認めたくないですけど、やっぱりこいつは天才肌ですね。まあ、かみさまが見えるけど巫女にならなかった様な奴だから、解らなくもないですが」
綾科神社の巫女たちは、まず祭神である双子の神様が見える事が大前提になる。おぼろは見えるらしいけれど、巫女になるつもりはない様である。
巫女たちは誰もが除霊、浄霊の才能がある。おがみさまとめがみさまの双子が見えるという事は、そういった世界に縁が深いという事らしく、つまり退魔師としても優秀になるという事なのだろう。おぼろはその傾向があるらしい。
胡瓜の海苔和えだの、もずく酢だの、蒸し鶏だの、海老饅頭だのをつまみながら、夕飯も兼ねた晩酌をした。尤も私は食う方は得意ではないから、麦酒を幾本もいただいた。他人の金だから使うのに遠慮がない。
真田君も腹が満ちて来ると、少し顔色がよくなった様に見えた。
「ここからの方策をどうしようか」
「何樫さん、こっちで何か人捜しの伝手はありませんか」
「探偵みたいな者と知己を持った事はない」
「現地で協力してくれる人でいいんですけど」
私は少し考えた。知り合いがいないではない。こちらから何か頼むのは面倒くさいけれど、ここまで来てしまった因果と考える他はあるまい。
「まあ、後で聞いてみよう」
「助かります」
それで会計を済まして店を出た。表の通貨は裏でも使える。表のお賽銭他諸々は日本円なのだから当然である。
私は裏側には何度か来た事があって、神々だの妖怪だのに何度も絡まれている。そういう色々の出来事の中で得た知己もあるから、今回はそこを頼る事にしようと思う。
こちら側の連中に借りを作ると後が面倒ではあるけれど、こうでもしないと話が終わりそうにないから止むを得ない。
道を覚えているわけではないけれど、表の逆だと考えれば、ある程度見通しはつく。何となく往来を辿って行った。
どこに行っても変な連中が溢れている。まったくうんざりする。そこいらも無暗に極彩色で目がちかちかする心持である。壁から巨大な招き猫が突き出していたり、達磨がいくつも折り重なって道をふさいでいたり、そこに妖怪が腰かけてこちらをじろじろ見ていたりする。
大抵の場合、私は裏には一人で来る事が多く、そういう時は人外どもも私に絡んで来るけれど、今回は真田君がよく標的になっている。私とおぼろとの前で、真田君は婀娜な恰好の女妖怪に誘われ、強面の鬼らしいのに威嚇され、大きな数珠を首にかけた怪しげな坊主に執拗に何かを勧められていた。
ヤモリみたいな変なものが液体に漬けられている瓶を押し付けられている真田君を見ながら、おぼろが私に言った。
「なんか慶ちゃん先輩人気者ですね。どうしてわたしたちは相手にされないんでしょ?」
「良くも悪くも真田君が普通の人間だからだろう」
「つまり?」
「裏側が苦手で恐怖心を抱いているという事は、神々や妖怪みたいなのは付け入り易い状態だからね。僕や貴君はここを怖いと思っていないだろう」
「面白いですよね」
「僕は面白いとは思わないけれど」
「ともかく、慶ちゃん先輩の恐怖心に皆さんは引き寄せられているわけですね」
「そういう事になるね」
「やれやれ、先輩なのに情けない人ですこと」
やっと逃げ出して来た真田君が、おぼろの頭を小突いた。
「一言多いんだよ、見てるだけの癖して偉そうに」
「じゃあ次は助けてあげます。代わりにこれ外してください」
とおぼろは腰に結わえ付けられた紐をくいくいと引っ張ったが、真田君は「駄目だ」と言った。おぼろは不満げに口を尖らした。
「何でですか。いつまでも先輩の緊縛趣味に付き合うのは楽しくありません」
「人聞きの悪い事を言うな。それにお前実際どこか行きそうになったじゃねえか」
歩いている間にも、おぼろは何に気を取られたのかふらふらと別の方に行きかけたのが何回かあって、その度に真田君が紐を引っ張って事なきを得たのであった。
おぼろは口論しても無駄だと思ったのか、不承不承気味に口をつぐんだ。真田君はやれやれと嘆息して私を見た。
「何樫さん、まだ着きませんか」
「もう少しだよ」
しばらく行くと太鼓橋がかかっている所に出て、その向こうに大きな建物が現れた。立派な佇まいの木造で、入口部分は唐破風の屋根を持ち、その向こうに四、五階建ての館が鎮座している。屋根は入母屋造や寄棟造、裳階などが組み合わされていた。その向こう側にまだいくつも建物が連なっているらしい。
入口の両脇には大きな提灯がぶら下げられていて、そこに「ねこや」と書かれていた。
おぼろが興奮気味に腕をぶんぶんと振った。
「うわーうわー、すごい! 何樫さん、ここはなんですか!」
「僕の知り合いのいる温泉宿なのだが」
「おお、旅館にお知り合いが! そっかー、こっちも綾科だから温泉は豊富なんですね」
「やっと休める……」
と真田君がげっそりした表情で言った。
千客万来らしく、館の中は無暗に賑やかで、宴会をしているらしい音や喧騒が橋のこちらまで聞こえて来る。橋を渡る時に下を見ると、明かりを照り返してぎらぎらと光る川が、闇の中を滔々と流れていた。
橋を渡ると朱塗りの鳥居をくぐる様になっている。鳥居には太くて大きな注連縄がかかっている。橋の上は色々な連中が行き交って賑やかである。
がやがやした中を通り抜けて、中に入り込むと土間になっている。
左手に上がり座敷があって、そちらは待合室になっているのか、お客らしい変な連中が立ったり座ったりしている。右手側に受付があって、揃いの着物を着た女の子たちがお客の応対をしていた。
受付に行って「狐塚さんはいるかね」と突然言った。受付の女の子は目を白黒させた。
「狐塚さんのお知り合いですか」
「何樫が来たと言ってくれれば解る」
それで呼びに行ってもらって、待合の上がり座敷に腰をかけた。揃いの着物を着た従業員たちが、お茶を給仕して回っている。おぼろが面白そうな顔をしてそこらを見回しながら、言った。
「みんな人の姿ですけど化けてるみたいですねえ。ここは化け猫のお宿なのですか?」
「いや、従業員は狐が多い」
「はてな」
「従業員は狐が多いが主人は化け猫だ」
「ああ、だから『ねこや』なんですね」
と真田君が言った。
ここの主人は大きな白い猫又である。それが着物を着て碁を打つ。
昔ここに迷い込んだ時に、何の因果か碁の相手をする羽目になった。祇園さんほどではないが長考する猫で、一局に大変時間がかかった事を記憶している。
お茶をすすりながら待っていると、少しして縦縞のスーツを着た面長の優男が現れた。彼がこの宿の番頭を務めている狐塚さんである。
「やあやあ、何樫さんが来て下さるとは珍しい。それもご友人も一緒とは有り難いですな。今日はどうしたんです」
と狐塚さんはにこにこと切れ長の目じりを下げながら、私の手を取った。男の癖に指がほっそりと長くて、ひんやりしている。
「少し頼みたい事があって伺ったのだけれど、いいか知ら」
「勿論。貸し一つという事でよろしいでしょうか?」
「嫌だけれど止むを得ないね」
狐塚さんはにんまりと笑うと、ぽんぽんと手を叩いた。女中が一人、ささっとやって来た。
「僕はまだ手が空かないので、後程お部屋に伺います。要件はその時に。小藪にご案内さしあげなさい」
「あの」
と青い顔をした真田君が言った。
「トイレは、どっちに」
「ああ、あちらです」
真田君は口元を押さえる様にして、急ぎ足に厠に向かって行った。狐塚さんが顎に手を当てて首を傾げた。
「お連れ様はご気分が優れないご様子で」
「その様だね。少し休ましてやらねばなるまい」
私共が案内さられたのは、宿の二階の奥の方の小さな部屋であった。八畳くらいの座敷に卓袱台が据えてある。客間というよりは、従業員の部屋という趣であるが、掃除は行き届いており、小ざっぱりとしていた。
座布団に腰を下ろした真田君は、ようやく人心地ついたという顔をして大きく息をついた。厠で吐いて来たのか、少し落ち着いた様な顔をしている。
「くたびれた……」
「大丈夫かね」
「少し吐いて来たんで楽になりました」
「そいつはご愁傷様」
「何樫さん、ありがとうございます。助かりました」
別に私が何かしたわけではないが、まあいい。
「今夜はここにお泊りですか? わたし、宿を探検して来てもいいでしょうか!」
とおぼろがわくわくした顔で真田君の肩をゆすった。真田君は面倒くさそうにおぼろの頬をぐにっとつかんだ。
「これ以上面倒を増やすな、大人しくしてろ」
「うぎゅう」
この部屋の周囲は、裏手の方にある事もあって静かである。しかし遠くから宴の騒ぎが何となく聞こえて来て、だから却って余計に静けさを感じる気がした。
私は煙草をくわえて火を点けた。真田君は壁に背をつけてぐったりしている。何となく顔色が悪い。
おぼろは退屈そうに卓袱台に顎をつけて、私や真田君をじろじろと見ていたが、やがて口を開いた。
「慶ちゃん先輩」
「なんだよ」
「こうしているうちに、野地さんはどうにかなってしまうのではないですか」
「……そうなんだよなあ」
真田君はうんざりした様に肩を落とした。
「表なら色々やりようがあるんだが、こっちじゃ勝手が違い過ぎて荷が重い……」
「いつものやり方ではいけないかね」
と私が言うと、真田君は頷いた。
「あっちは俺らの世界ですから、生者のルールがあります。祟りや霊障を起こす様な輩はそのルールをやぶっているわけですよ。そこをきちんと守る様に諭すなり怒るなりして大人しくしてもらうか、幽世にお帰りいただく、あるいは上に昇ってもらうわけです。そこを色々工夫するのが退魔師の腕につながるんですが」
「ははあ」
「要するにはみ出して来た連中を相手にすればいいんですけど、こっちじゃ俺たちの方がはみ出し者ですからね。いつものやり方じゃ通用しません。こっちにはこっちのルールがあるんで……って何樫さん相手じゃ釈迦に説法ですね」
つまり退魔師は現世における人外ども相手の警察の様なものらしい。しかしその身分は裏側では大した効果を発揮しない様である。
「そんなら、やっぱりこんな仕事を受けなきゃよかったじゃないか」
「何樫さんと縁のある方でなければ多分断ってましたよ」
「僕のせいにされたって困る。それに、別段僕じゃなくたって立花君や神社の巫女あたりなら上手く立ち回りそうなものだが」
「実は何樫さんが不在の時、宗次さんにも相談したんです。けれど先日から比叡山に出張されているそうで」
そんな事を聞いて、さては私を巻き込む様に背中を押したのは立花君かと思い当たった。そう私が言うと、真田君は肯定する様な苦笑いを浮かべて言った。
「宗次さん曰く、やっぱり神隠しに逢った人とつながりのある人の方が、見つけやすいらしいですよ。何樫さんは野地さんの知り合いですし」
「不運な事にね」
「それに」
「なんだね」
「綾科で何樫さん以上に裏側で安全な人間はいないそうです」
不意に部屋の戸が開いて、従業員らしいのを一人伴った狐塚さんが入って来た。
「どうもお待たせ致しました。おや、お茶も運んでない。まったく、少し目を離すとすぐに横着をするんだから。テンコ、お茶を運ぶ様、そう言って来なさい」
狐塚さんは後ろについて来ていた従業員らしい狐耳の女の子にそう言って行かせると、私どもと一緒に卓袱台を囲んだ。「失礼を致しました。行き届いたサァヴィスをする様に指導しているのですが、元が野良ばかりでは」と言い訳をしている。
「何樫さんはご存知ですが、改めて自己紹介しましょう。僕は狐塚と申します。この宿のマネージャーを務めております。どうぞお見知りおきを」
「ご丁寧に痛み入ります、真田慶介です。綾科の退魔師組合に所属しています。こっちは後輩の八鹿で」
と名刺なんか交換している。狐塚さんはにんまりと笑った。
「いやはや、表の退魔師の方にお越しいただけるとは箔が付きますな。そちらのお嬢さんも若く可愛らしいのに裏側に来られるとは大したものです」
「あら狐塚さんたら、本当の事を言われると照れますよ。もっと言ってください」
「おいコラ。すみません、礼儀のない奴で……」
「いえいえ、これくらい図太い方がこちらでは上手くやれますよ、真田さん」
と狐塚さんはにやにやしながら、やや身を乗り出した。
「それで、どの様なご用件でしょう?」
「人を捜しているのだ。こちらに迷い込んだ人間がいてね、不本意ながら僕の知り合いだから、僕まで捜しに来る羽目になった。しかし埒が明かないから、あんたに手伝ってもらいたいと思って、来た」
「ははあ、成る程。確かに人間の皆さんだけで、こちらで一人の人間を捜し出すのは容易ではありますまい」
その時、さっき出て行った狐耳の女の子が、お茶の載ったお盆を持って入って来た。
「お茶でございまーす」
「ああ、ちょうどいい所に。テンコ、自己紹介なさい」
「え、あっ、はい! あたし、テンコっていいます。よろしくお願いします」
と頭を下げた拍子にお盆まで傾いて、畳の上に湯飲みが全部ひっくり返り、壮大なる景観を展開した。狐塚さんが呆れた様に額に手をやった。
「何をやっているんですお前は」
「はあ、すみません」
テンコは慌てて腰からぶら下げていた手ぬぐいで畳を拭っている。着ている服からして従業員らしいが、他の者と比べると容姿が随分幼い様に見えるし、耳も尻尾も狐のものが見えたままである。私が怪訝な顔をしていると、狐塚さんが口を開いた。
「いえね、未熟者ですがこれでも伏見の狐の眷属なのです。野良狐と違って将来性はあると思います」
「そうか」
「これに手伝わせましょう」
「大丈夫なのかね」
と私が言った。真田君も不安そうな顔をしている。狐塚さんは同意する様な苦笑いをうかべながらも、擁護する様な口ぶりで言った。
「術は一通り教えてあります。変化術は下手ですが、他はそれなりに扱えますから、人を捜す手伝いにはなるでしょう」
「しかし彼女は従業員ではないか。本業に差支えが出ないかね」
「大丈夫です。いてもいなくても同じですから」
「そうか」
「あの、いいんですか? テンコさん、凄い顔してますけど」
と真田君が言った。見ると、テンコが愕然とした表情で狐塚さんを見ている。しかし狐塚さんは容赦のない視線でテンコを見返して「これも修行の一環です」と素っ気なく言った。
ともかくそれで談判は済んで、狐塚さんはテンコを置いて出て行った。置いて行かれたテンコは畳の目を数える様に指でなぞりながら、ぶつぶつ何か呟いている。
「同じ……いてもいなくても……同じ……あたし……」
ひどく沈痛した様子で、何と声をかけたものかはばかられる。
私と真田君が顔を見合わせていると、おぼろがうずうずした様子でテンコににじり寄った。
「あのう」
「はい……」
「その尻尾、本物ですか?」
おぼろはテンコの尻から伸びているふさふさした尻尾を指さした。テンコはややムッとした様子で尻尾を一回ふわりと動かした。
「本物です。純毛百パーセントでございます。偽物である筈がありません」
何となく自慢げである。おぼろは感動した様に目を輝かして、よりテンコの近くにすり寄った。
「僭越ながら手触りを確認してもよろしいでしょうか!」
「えっ、あっ、はい。どうぞ!」
それでおぼろはふかふかした尻尾の手触りを堪能して「おお」とか「ぬはっ」とか言っている。それがあんまり感嘆した様子だから、テンコの方も気を良くしたと見えて、さっきまで顔にかかっていた陰がすっかり払われた様に思われた。
真田君が私に囁いた。
「どうも似た者同士みたいですね」
「その様だね」
狐塚さんは宿泊の手配もしてくれたらしく、このままここで寝て構わないという。後になって借りを返せと言われた時が怖いけれど、今からそんな事を考えても仕方がないから、よす。
ここに来る前に済まして来たから晩のお膳は省略して、布団だけ準備させた。しかしまだ眠るという感じではない。
真田君はいよいよ気分が悪くなったらしく、早々と布団にもぐって横になった。
多少なりとも裏側と縁のある真田君がこれだから、野地が今どうなっているのか解らないけれど、どうなっていようと私の知った事ではない。
紐も解けて清々した様子のおぼろとテンコはすっかり意気投合して、いつの間にか持って来たお茶と饅頭を肴に何やら喧々と話し合ってちっとも静かにならない。今は狐塚さんの悪口を言っている。
「狐塚さんたら、きっとあたしが先日狐塚さんのお気に入りだった茶器を割っちゃった事を根に持っているんですよ。いてもいなくても同じなんて、そんな事ある筈ないです。あの人は見る目がないんです」
「テンコちゃん、重要な役目を担っているのですね、わたしの様に」
「そうなのです。あたしがいなくてはねこやは回らないと言って過言ではないくらいです」
「それはご立派! まあまあおひとつどうぞ」
「ありがとうございます!」
そうはいっても急須からお茶のお代わりを注いでいるだけなのである。
こういう連中が意気投合すると何となく背筋が寒くなる様な気がするけれど、やめろとも言えないから、私は煙草をくゆらして、卓袱台の真上の裸電球に照らされて形を変える煙をぼんやりと眺めていた。尤も、煙を注視していたのではなく、そちらの方を漫然と眺めていただけに過ぎない。だからおぼろとテンコの姿も目に入る。
二人が並ぶと、テンコの方がやや幼い様に見えた。中身は同程度の様に思われるけれど、それは別に構わない。
二人は色々な事を喋っていて、聞き取れるけれど、何を言っているのかさっぱり解らない。やがて二人して出かけようと言って立ち上がった。
「どこへ行くのだね」
「お宿を案内してもらうんです。ついでにお風呂もいただきます」
「ここの温泉は気持ちがいいのですよ。何樫さんも行きますか?」
「行ってもいい」
「じゃあ行きましょう」
私は座ったまま、吸いさしの煙草を漫然とふかして、口から煙を吐いた。テンコがこちらを見ている。
「行くんじゃないですか」
「行くよ」
それで煙草を吸い終えてからやっと立ち上がった。




