後編 時は流れる
〈とらとりあ〉にも駐車場はないため、また近くのコインパーキングに車を停めて、私たちは徒歩で店を目指した。
お昼時を過ぎたためか、店の前に客の姿はない。店内を覗くと、机に向かって帳簿をつけているらしい亜麗砂の姿を確認できた。私たちの気配に気付いたのか、亜麗砂は「いらっしゃいませ」と言いながら立ち上がったが、そこにいたのが客ではないと知ると、
「あー、理真ちゃんに由宇ちゃん、久しぶりー」
こちらに笑顔で両手の平を向け、ひらひらと振ってみせた。頭に巻いた手ぬぐいに長い髪を押し込み、デザイン性皆無実用一辺倒の動きやすい服を着て、お店のエプロンをかけたいつもの姿。こんな所帯的な格好をしていても、溢れ出る美人さは隠せないんだよなぁ。
この時間帯、ほとんどお客は来ないからと、私たちは店内に招じ入れられ、簡素な丸椅子に腰を下ろした。
「あれさん、お店のほうは、どう? やっぱりこの騒動で影響出てる?」
理真が訊くと、
「そうねー、確かに客足は騒動前に比べて鈍ったけど、うちは店内に飲食スペースのない完全テイクオフ制のお弁当屋だから、ピンチっていうほどにはなってないかな」
〈テイクオフ〉じゃなくて〈テイクアウト〉な。客を飛ばすな。面倒くさいので――私も理真も――いちいち訂正はしないでおく。
「それに、うちはお昼には車を出して移動販売もしてるし。でもでも」と亜麗砂は続けて、「普通の食堂は大変みたいね。色々噂も入ってくるのよ。そろそろ店を畳むだとか、そういう」
お、そういう噂話が舞い込んでいるのであれば、話は早い。
「じゃあさ、あれさん」と理真が、「キッチンファイブってお店、知ってる?」
「――知ってる!」亜麗砂は即座に反応した。「洋食屋さんでしょ。どのメニューもおいしいけど、ソースがすごいの! あれ、何を材料にしてどうやって作ってるんだろう? いつか盗もうと思って、何度も通ってるんだけど、全然あの味は再現出来なくて……。で、理真ちゃん、そのキッチンファイブが、どうかしたの?」
理真は店でのことを話して聞かせた。
「……そうなんだ。閉めちゃうんだ、キッチンファイブ。惜しいなー」
亜麗砂は心底残念そうな顔をした。
「あれさん、あのお店って、ご主人ひとりでやってるの?」
「今はそうみたいね。前は奥さんも一緒だったんだけど、病気で体をこわして、もう厨房に立てる体調じゃなくなったみたい。じゃあ、やっぱり息子さんは跡を継がないんだね。私、あの子は鍛えればものになると思うんだけどなぁ」
「あれさん、キッチンファイブの息子さんのこと、知ってるの?」
「先週くらいに食べに行ったときにね、厨房に息子さんが入ってるのを見たことがあるの」
「そうなんだ」
「うん、あのお店ってカウンター席から厨房が見えるんだけど――あ、知ってるよね? でね、その日、ご主人は体調が思わしくなかったみたいで、後ろで椅子に座って指示を出すだけで、ほとんどの調理実務は息子さんがやってたの。で、そこで見た息子さんの包丁さばきとかを見てね、結構いいもの持ってんなって思って。もちろん、まだまだご主人には全然及ばないけどね」
「息子さんは、じゃあ、ご主人の指導ありとはいえ、お客に料理を出せるくらいの腕はあるんだ」
「小さい頃からお店を手伝ってて、東京に行ったあとも飲食関係の店に勤めてたみたいよ」
「下地はあるってことなんだね。ねえ、あれさん、さっき、息子さんが店を継がないことに対して、『やっぱり』って言ってたよね。何か事情を知ってるの?」
「うーん、色々あるんだと思う。まず、お父さんと折り合いが良くないみたいだし、本人も東京で仕事をしたいっていう願望が強いらしいし。まあ、今のこの状況だから、東京には戻るに戻れない状態だけど。でも、まあ、何度も言うけどこの状況じゃあ、たとえ息子さんが跡を継ぐって言ってくれても、お客が来ない以上はどうにもならないよね……」
亜麗砂は表情に憂いを見せ、あごに人差し指をあてた。
「跡継ぎと、客か……」
それからすぐ、店にお客が来たのを契機に、私と理真は〈とらとりあ〉を辞することにした。
私と理真は車に戻るでなく、徒歩で古町の散策を始めた。何とかキッチンファイブを存続させる手立てがないものか、歩いて考えようということだ。
私は歩きながら周囲の景色を見る。かつては新潟一の繁華街と呼ばれた古町も、地方都市の御多分に漏れず近年――いや、それよりずっと前から衰退が目に見えて進んでいる。かつては新潟を代表する老舗玩具店の本店舗があり、文化の発信地でもあった有名な書店もあった古町商店街。数年前には大和デパートが撤退し、そして今度は三越が消えた(本店舗こそなくなったが、老舗玩具店は名前と店舗形態を変えて、今でも県内各地で営業を続けてはいるが)。今も、ここ新潟に限らず、日本の、特に地方において多くの店舗が閉店に追い込まれている。その理由を、「時代の流れに店がついて行けなかった」と切り捨てることは簡単だろう。それは真実かもしれないが、私は釈然としないものを感じる。閉店した書店も、百貨店も、ごく当たり前に、誠実に商売を続けていただけだ。普通に生きているだけではもう、時代という潮流についていくことは不可能だということなのだろうか。普通に生きることが許されない世界。だとしたら、時代という流れはあまりに無慈悲すぎる。
「あっ」
そう呟いて理真が立ち止まったため、私も足を止めた。「どうした?」と訊くと、「あれ、あの人」理真は数軒先を指さした。そこには……。
「あ、息子さん」
ついさっき見かけたばかりの、キッチンファイブの息子さんが立っていた。何をしているのかと思ってさらに見てみると、そこは撤退した三越跡の正面玄関前で、息子さんはその前に立ち尽くし、じっと玄関を凝視している。もう決して開かれることのない玄関扉を。
「話、してみよう」
「えっ? ちょっと――」
私が戸惑っている間に、理真は速歩で息子さんに近づいていく。
「こんにちは」
「――えっ?」
理真に声をかけられて、息子さんは振り向いた。
「失礼ですけど、キッチンファイブの息子さんですよね」
「えっ? ああ――は、はい」
「私、さきほどお店で昼食いただいたんですよ」
「ああ、あのときのきゃ――お客様」
「客」と言いそうになって、あわてて言い直したな。実家の店に来てくれた客に対して、そういう意識があるのであれば、跡継ぎ拒否を翻意させられる可能性もゼロではないのかもしれない。考えている間に、私も理真に追いつき、二人で名前を名乗った。名乗ったところで、特に何の反応も返ってこなかったことを見るに、彼は理真が作家だということを知らない――つまり、作家、安堂理真の名前自体を知ってはいないと言うことだ。まあ、いつものことだけどね。
「あ、俺、五島和裕です」
息子さん――和裕も名乗って小さく頭を下げた。若干頬に赤みが差しているように見える。店では「客」としか認識していなかったが、こうして街中で顔を合わせてみると、理真が美人だということを否が応でも意識させられるのかもしれない。
「ランチ、すっごく美味しかったです」
「あ、それは、どうも」
和裕は、またちょこんと頭を下げる。
「お父さんにも伝えて下さいね」
「は、はあ……」
父のことが話題に出ると、和裕の声のトーンが心なし落ちた気がした。
「それで、五島さん――」
「か、和裕でいいですよ。『五島さん』って呼ばれかた、『お父さん』とよく間違えられて、親父のほうが返事しちゃうから、昔から名前で呼ばれるのに慣れてるんで」
「そうなんだ。じゃあ、和裕さんって呼ばせてもらいますね」
「どうぞ」
「でも、私のことは名前で呼んじゃダメですよ」
「ぶっ」
和裕が吹き出した。向こうから振ってくれたネタではあるが、掴みはオーケー、というところだろうか。
「で、和裕さん」と理真が、「何をされていたんですか?」
「あ、ちょっと……」
答えを曖昧にしたまま、和裕の視線は玄関に向き直った。その視線を理真も追って、
「三越、閉店しちゃったんですよね」
「そう、なんですってね……。俺、東京にいたから、そのこと全然知らなくて。意識して新潟に関係するニュースは見ないようにしていたから余計に。俺がこっちに帰ってきたの、四月の頭だったんですよ。で、久しぶりに三越でも覗いてこようかと思って行ってみたら、もう閉店していて……。でも、たまにこうして足を運んじゃうんです」
「思い出があるお店なんですか?」
「思い出っていうんじゃないですけど……。まだ俺が小さいとき、両親に付き合ってよく来ていて、ここって玩具店とかなかったじゃないですか、だから、両親が買い物している間、探検じゃないですけど店内を廻ったりしていて……。で、買い物が終わる時分に、うまいこと親父かおふくろのどっちかが、俺のことを見つけてくれるんですよ。こんなに広い店内なのに、凄いなって思ってたんですけど、高校生くらいになって改めて入ってみると、以外と狭いんですよね。子供の頃のスケール感とは随分と違うなって。で、帰る間際に最上階のレストランで夕食を食ってくんです。俺は……お父さんの作ったオムライスのほうがおいしい、なんて生意気なこと言ったりして。当時の料理長の人、すんません」
和裕は冗談めかして玄関に向かい頭を下げた。一般的には、そういうものを「思い出」というのだ。頭を上げた和裕は、顔をそのまま上に向けた。頭上には歩道アーケードの天井が見えるだけだが、もしかしたら彼は、こみ上げて来たものを落とすまいとして、そうしたのかもしれない。
「今日、ちょっと蒸しますね」和裕は、袖で汗を拭う振りをしてから玄関方向に向き直ると、「ライオン、なくなっちゃったんですね……」
玄関の両隣にある、台座の撤去跡に視線を落とした。
「三越」といえば「ライオン像」を思い浮かべる人は多いのではないだろうか。ここ、新潟三越も御多分に漏れず正面玄関前に一対二頭のライオン像が設置されていたが、店舗閉店とともに撤去されたのだ。
「俺、子供の頃、あのライオン像に跨るのが夢だったんですけど、台座が結構高くて、小さかった俺にはまだ無理でした。でも、いざ身長が伸びてくると、今度はそんなことするのが恥ずかしくなってしまって」
和裕の話を聞いて理真と私は笑った。いや、実際大人でも跨ったことがあるという人はいるらしいが。和裕は寂しげな表情をして、
「最後に、もう一度だけライオン像を見たかったですよ……」
しみじみと口にした、が、ちょっと待て、では、彼は知らないということなのだろうか。ニュースも見ないと言っていたし。それを聞くと、理真は、
「ありますよ、ライオン像」
「……えっ?」和裕は目を丸くして、「どこに?」
理真は、ゆっくりと大通りの向かい側に建つ高層ビル、NEXT21を指さした。
「三越のライオン像は、四月末にあそこに移転されたんですよ」
「……」
和裕は、理真、私とともに、高さ125メートルを誇る高層ビルの根本、一階部分に視線を向けていた。
信号を渡ってNEXT21に辿り着くと、
「本当だ……こんなところに……」
和裕は大通りを隔てた向こうに「引っ越し」をした二体のライオン像を凝視した。NEXT21は交差点側の大きな正面玄関の他に、道路に面した小さな玄関口もある。ライオン像が移転されたのは、その小さなほうの玄関前のため、あまり目立つ場所ではなく、それと知らなければ普通に通り過ぎてしまう可能性も高い。二体のライオンを交互に見つめて、和裕は、
「何か……記憶より背が低く感じますね。俺が大人になったからなのかな。三越の店内を狭く感じたみたいに……」
理真は唇を噛みしめて後ろを向き、私もそうせざるを得なかった。三越前にあった時と比べて、現在のライオンの台座は実際低くなっているため、和裕がそう感じるのは当然というわけなのだ。だが、私も理真も、そのことは教えないでおく。
「和裕さん」笑いそうになるのを堪えきった理真は、「ライオン、こうして無事残ってます」
「は、はい」
「三越自体はなくなってしまったけれど、もうこれ以上、この古町から何かがなくなって欲しくないって、私、思います」
「お、俺も――」
和裕は何かに気付いたように、はっとした表情になった。
「和裕さんは、なくさないでいてくれますか?」
「……は、はいっ!」
理真に見つめられて、和裕ははっきりと答えた。二体のライオン像を背に抱いて。
六月末が過ぎたが、未だ〈キッチンファイブ〉は閉店されていない。あの張り紙が提示されること自体、ついになかったそうだ。
あの日、私たちと別れた和裕は、実家洋食店に駆け込み、父親に店を継ぎたいと思っていること、そのための稽古をつけて欲しいことを申し出たという。
一方、私たちのほうも動いていた。〈とらとりあ〉に戻った私と理真は、移動販売のノウハウをキッチンファイブに提供してくれないかと亜麗砂に願い出た。実店舗に客足が遠のくことで売上げが見込めないのであれば、こちらから売りに出るしかない。時代の流れに乗っていくしかない。亜麗砂はこれを快諾し、その日のうちにキッチンファイブを訪れた。この提案にキッチンファイブのご主人はいたく恐縮し、顧問料を払う、貰わないの悶着が亜麗砂との間で交わされたそうだが、最終的に、移動販売のメソッドを教え、場所も斡旋する代わりに、キッチンファイブ秘伝ソースのレシピを提供してもらうということで決着を付けたという。電話口で語る亜麗砂のほくほく顔が目に浮かぶようだった。
私と理真は、それ以来、これまでよりもずっとペースを上げて、〈キッチンファイブ〉をはじめ街の飲食店に通い続けている。今日も新しく開拓したお店でランチをいただいて、腹ごなしも兼ねて二人で古町の散策に歩いているところだ。
時の流れは時代を変容させていく。恒常的な経年だけはなく、突発的に襲う厄災などによっても、世界は簡単に、急激に、その有り様を変えていく。時の流れに乗れないものは、どんどん過去へと置き去りにされていく。それは真実に違いないが、私たち人間は決して無慈悲ではないはずだ。
なんとなく歩きながら三越跡に来た。大通りの向こうでは、今日も変わらず二体のライオンが交差点の一角に鎮座ましている。彼らは時代の流れから拾い上げられたのだ。必要としてくれる人たちの手によって。去り行くものすべてが無用のものではない。愛されながらも、色々な事情で消えざるを得ないものだってある。
私たちに何が出来るのだろうか。その答えを探りながら、私はこれからもこの街で生きていこうと思う。
「あっ、あれ」
理真が大通りを指さした。見ると、側面に〈キッチンファイブ〉のロゴを入れたハッチバックカーが交差点に差し掛かるところだった。運転席に座るのは息子の和裕だ。昼食時は移動販売で市内を巡り、帰ってきたら父親から稽古をつけてもらい、夕方になればお客も入ってくるため、父親の助手を務めて厨房に立つ。彼はそんな毎日を続けているそうだ。
ハンドルを握る和裕の表情には、帰省したての、東京に未練を残していた頃のような鬱屈したものはもう見られない。息子が店を継ぐ決心をしてくれたという朗報は、病床にいる母親の容体にも良い影響を与えてくれるに違いない。
和裕のほうでは私たちには気づかなかったらしい。まっすぐに前だけを見つめて彼は車を駆り、西堀交差点を走り抜けていった。二体のライオンが、その背中を見守っているような気がした。