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前編 ある洋食店

「はい、ではまた。お疲れ様でした」


 安堂(あんどう)理真(りま)がパソコンのモニターに向かって頭を下げた。同時に、モニターの中にいた担当編集者の女性も同じように会釈を返す。直後、女性の姿は消えた。頭を起こした理真は、


「打ち合わせ、終わり」


 と息を吐き、椅子の背もたれに背中を押しつけた。

 打ち合わせの相手が編集者だということから察せられるとおり、この安堂理真なる女性は作家を生業としている。作家が居住する新潟と編集者の住む東京とを結んだ、理真にとって人生初の「リモート打ち合わせ」は無事終了したようだ。

 その様子を理真の後ろで見守っていた(本を読みながらチラ見で見物していた)私、江嶋(えじま)由宇(ゆう)は、立ち上がって理真の後ろに立ち、画面を見やる。相手が通信を切ったため、現在モニターには、こちらのカメラで捉えている理真の上半身しか映っていない。彼女の背後にあるはずの部屋の様子、さらには私の姿は、だがモニターに映し出されてはいない。理真は「仮想背景」を設定しているためだ。私が理真の後ろに来て画面を確認したのは、彼女が設定している背景がどうにも気になっていたからだ。それは、楕円型をした地球の上に翼を広げた鳥(恐らく鷲)が立っているというもので、その地球と鷲は銀色のレリーフ状に処理され、下地は真っ赤に彩色されている。


「この背景、なに?」


 私が訊くと、


「知らない。(そう)が勝手に設定したみたい。面倒くさい、というか変更のしかたを知らないから、そのままにしてるんだけど」


 理真は(私も)こういったパソコン関係には疎いため、リモート打ち合わせを行うための設備設定はすべて、実家から理真の弟の宗を呼びつけてやってもらったのだ。であれば、この異様に迫力のある背景も彼が設定したに違いない(後の調査で、それは、特撮ドラマ『仮面ライダー』に登場した悪の秘密結社ショッカーの紋章だということが判明した。打ち合わせ相手の編集者からは、理真はショッカーの構成員のように見えていたということだ。無用の威圧感を与えてしまわなかったか、心配になる)。

 打ち合わせの合間にされていた世間話によれば、相手の編集者もパソコン関係にはあまり明るくないため、リモート環境を構築するのに苦労をしたということだった(ちなみに、今回の打ち合わせには、編集部側にも作家側にも、いわゆる「守秘義務」に抵触するような内容は含まれておらず、編集者側にも私という作家の友人が同室にいることは了承済みだった。理真と編集者の名誉のために、いちおう追記しておく)。

 東京の会社などには、出社などしなくとも自宅で仕事が出来ることに気付き、オフィスを解約してリモート業務を基本とするような会社もあるそうだが、社員のほうは、本来なら出社して自宅にいないはずの時間の光熱費が余計に発生するわけで、そのあたりの補償関係はどうなるのだろうかと、貧乏性の私などは心配してしまう。


「さてと」理真はパソコンをシャットダウンして、「由宇、お昼食べに行こう」


 椅子から立ち上がった。


「もうそんな時間だね」私は、掛け時計で現在時刻が午後十二時十五分だということを確認して、「どこに行く?」

「久しぶりに、〈キッチンファイブ〉に行かない?」

「いいね」


 私は本を閉じた。

『キッチンファイブ』とは、新潟市の繁華街である古町(ふるまち)の一角に店を構える洋食店だ。一年ほど前に二人で古町をぶらぶらしている途中に理真が発見し入ってみたところ、その味に魅了され、以後、何度か足を運ぶことがあった。それでいても、私たちがキッチンファイブで最後に食事をしたのは、もう半年近く前のことだ。

 身支度を調えて、理真の愛車スバルR1に乗り込み、私たちはいざ、キッチンファイブを目指した。

 新潟駅前通りから信濃川に架かる萬代橋(ばんだいばし)を渡って、古町方面に向かう。この萬代橋は国の重要文化財に指定されているが、実際、私も含めた新潟市民にそんな感覚は希薄だろう。なぜなら、この萬代橋は生活道路(橋梁)として日常的に使用されまくっており、「重要文化財」というには、あまりに市民の生活に密着しすぎているせいだ。それでも、萬代橋を――車でも徒歩でも――渡るときには、ある種の高揚感を憶えるのは事実だ。これは、萬代橋の上流に架かる八千代(やちよ)(ばし)昭和(しょうわ)大橋(おおはし)、あるいは下流に架かる比較的新しい柳都(りゅうと)大橋(おおはし)など、信濃川に架かる他の橋を渡る際には味わえない感覚だろうと思う。私たちは自然と、歴史の重みを感じながら萬代橋を渡っているのかもしれない。

 萬代橋を渡りきり、古町大通りを進み、西堀(にしぼり)交差点に差し掛かったところで、私は思わず左手に目をやった。そこにあるのは、かつて三越(みつこし)百貨店だった建物だ。新潟三越が閉店したのが三月末だから、もう二ヶ月近くが経過したことになる。テナントに入っていたブランド店の広告などで飾られていたショーウインドウも、今は何も提示されていない。西堀交差点の信号が赤になれば、もう少し三越跡を眺めていられるなと思ったが、こんなときに限って信号は私たちに緑色のいい顔を見せ、理真の駆るR1は速度を緩めることなく交差点を通過した。

 先日の五月十五日をもって、政府から出されていた緊急事態宣言が一定の地域で解除され、その中にはここ新潟県も含まれていた。宣言が出されている最中は、ほとんど家(アパートの部屋)でじっとしていた私たちだったが、いざそれが解除となると、まず行ったのは外食の食べ歩きだった。そのターゲットとして今回理真が選んだ〈キッチンファイブ〉の看板が、フロントガラスの向こうに見えてきた。ともすれば見落としてしまいそうな小さな看板で、店構えも、それに合わせてというのではないだろうが、こぢんまりとしたものだ。専用駐車場はないため近くのコインパーキングに車を入れて降車する――おっと、マスクを忘れるところだった。緊急事態宣言が解除されたとはいえ、まだまだマスクは手放せない日々が続くだろう。


「いらっしゃいませ」


 店主の親父さんの――マスク越しのくぐもった声に迎えられ、私と理真は出入り口をまたいだ。店内に私たちの他に客の姿はない。時計を見ると、まだ午後一時にはなっていない。営業中の飲食店に客がひとりもいなくていい時間帯ではないだろう。現在のこの状況ゆえ、これまで訪れた飲食店でも客の姿はまばらなことがほとんどだったが、それでもお昼時に私たちの他に客がひとりもいないという経験はなかった。

 カウンター席に座った私たちの前に、おしぼりとともにメニューが差し出された。一番上に書かれた「本日のランチ」が、今日はいったい何セット出たのだろう。私と理真は二人ともそのランチを注文した。

 この店はカウンターの中がすぐ厨房となっているため、調理過程のほぼ一部始終を見ることが出来るのだが、中ではマスク姿の親父さんひとりだけが、鍋を火にかけ、野菜を刻み、切った肉に衣をつけと忙しく動いていた。他に厨房で働く人はいないのだろうか。この状態では、もし私たちの他に客が入ってきたら大変なのではないかと心配する。と、そこに店のドアが開く音が聞こえた。が、親父さんは私たちのときのように、いらっしゃいませ、と声をかける素振りも見せず、調理をしている手元から目を離さない。出入り口を見ると、入店してきたのは若い男性だった。成人しているように見えるが、まだ表情に幼さを残している。四捨五入すれば二十歳という年齢だろう。その顔には幼さとともに、どこか鬱屈したような険も差していた。男性はカウンター席にも、二つしかないテーブル席に腰を下ろすでもなく、そのまま店内を通り抜けて通用口に姿を消してしまった。客ではないということは、ここの従業員だろうか。それにしてはおかしい。飲食店の書き入れ時である昼の時間帯が終わってから新しい店員が仕事に入るとは思えない。他に従業員がいるのであれば交代要員という可能性も考えられるが、現在厨房に入っているのは店主ひとりだけだ。まさか、あの若者が店主と交代するのだとも思えない。事実、店主の包丁さばき、調理の手さばきは見ていて実に鮮やかだ。この手腕の代替(だいたい)がそう容易に務まるかは素人目にも大いに疑問なところだ。

 そんなことを考えているうちに、「おまちどおさま」と、料理を載せた盆が二枚、私たちの前に順番に出された。本日のランチメニューは、千切りキャベツに載ったとんかつ、皿に盛られたカレールゥ、ごはん、タマゴスープ、という取り合わせだった。トンカツのソースが別に用意されているのは、客の好みによってカツカレーとしても食べられるようにという配慮だろう。ごはんも茶碗でなく皿によそおわれている。私と理真は「いただきます」をするなりランチに襲いかかった。


「うん、おいしい」


 サクリ、という小気味いい音とともにトンカツを囓った理真が、咀嚼を終えてから唸った。それに異論を挟むつもりは私も毛頭ない。衣サクサク肉トロトロなトンカツ、何時間舌の上に置いていても味の底には到達出来ないと思われるコクと深みを持つカレールゥ、ふわふわのとろみが絶妙のタマゴスープ、シュレッダーにかけたのか? と錯覚させるほど細かく均一に刻み込まれたキャベツの千切り、どれを取っても弱点が見つからない。トンカツにかけるソース、これも絶品だ。

 ふと横を見ると、理真の箸が止まっていた。まだまだ盆の上にはトンカツもカレーも残されているというのに。彼女の視線を追っていくと、カウンター内の厨房に設えられたテーブルの一角に行き当たった。そこにはA3程度の大きさの紙が置かれており、手書きで何やら文面が書かれている。


「ご主人、このお店、閉めちゃうんですか?」


 理真が口にした。その紙の文面を読んだために違いない。そこには、来月――六月末で閉店する、という意味のことが書かれていたのだ。厨房の隅で使い込まれた丸椅子に腰を下ろし、お茶を一服していた店主は、「ああ、見えちゃいましたか」と、ばつの悪そうな顔で紙に目をやった。


「今日、店を閉めると同時に表に貼り出そうと思って、準備していたものなんですがね」

「どうしてですか?」


 理真の疑問に店主は、


「なあに、私ももう歳ですからね」

「そんなふうには全然見えませんよ」


 それを聞くと店主は、はは、と短く笑って、


「体のあちこちガタガタですよ。腰を痛めてもう車の運転も出来なくなって、免許も返上したくらいなんですから」


 と、はにかんだような顔を見せた。


「跡継ぎはいないんですか? 先ほど姿を見せた青年、あの方はご主人の息子さんなのでは?」


 店内を抜けて通用口に消えたあの青年のことか。言われてみれば、顔立ちが店主に似ていなくもなかった。


「ええ、うちのバカ息子ですよ」店主は、またばつの悪そうな顔に戻り、「ですが、ここを継ぐ気はないそうです」

「そうなんですか……。失礼ですが、息子さんは料理人とは別の道に?」

「さあてね」店主は若干表情を曇らせ、「高校卒業と同時に東京に出て行ったんですよ。何かやりたいことがあったわけじゃないようです。とりあえず東京に行けば何かになれるとでも思っていたんでしょうかね」


 ため息をついた。


「では、息子さんは現在は帰省中なのですね」

「ええ、まあ、こっちに戻ってきたのが四月頭で、その直後にあれがあったでしょう。で、東京に戻れなくなったんで、仕方なくずっとこっちにいるってわけですよ」


 主人が口にした「あれ」とは、政府が四月七日から七都道府県を対象に出した緊急事態宣言のことだろう。これにより対象都道府県境をまたぐ移動ができなくなり、そのために息子は、ここ新潟県に帰省したまま東京に戻れなくなってしまったということか。


「戻れなくなったというか」店主は話を続け、「東京の勤め先に連絡したら、お前の荷物を送るから、しばらく田舎でゆっくりしてろ、って言われたらしいです。まあ、(てい)よくクビにされたってことでしょう。住んでいたのも会社の寮みたいなところだったらしいですから、退去に関しての手続きなんかも必要なかったようです」


 店主は薄い笑みを浮かべた。


「では、どの道こちらで職を探すことになるのですから、この機会に、この〈キッチンファイブ〉を継いでもらうというのは?」


 だが、店主は小さく首を横に振って、


「そんな話をしたこともありましたが、あいつは、この騒動が収まったらまた東京へ行くんだって、その一点張りでしたよ」

「……そうですか」


 理真は再び箸を動かし始めた。厨房の中では、店主がもう一度深いため息をついていた。

 二人とも見事にランチを――ひと切れの千切りキャベツも余さず――完食し、私と理真は店を出た。代金支払いの際に「ごちそうさま」と声をかけたとき、店主は「ありがとうございます」と笑顔を見せてくれたが、その笑みには若干の寂しさが差しているように見えた。


「おいしい店なのに、閉店しちゃうなんて惜しいね。まあ、跡継ぎがいないのなら仕方ないか。こんなことなら、もっと頻繁に来ておけばよかったね」


 駐車場に戻る道すがら、私が口にすると、


「由宇、ご主人が店を閉める理由は、たぶん跡継ぎ問題だけじゃないでしょ」

「えっ? 何が?」

「この状況だよ。お昼時だってのに、客は私たち二人しかいなかったじゃん」

「ああ……」


 そういうことか。

 この状況下にあり人々が外出を控えたことで、各種業界――特に実際に客に来てもらわなければならない実店舗を持つ業種は、極端な売上げ低下に悩まされている。その業種には飲食店も当然含まれており、キッチンファイブもその波をもろに受けてしまったということか。


「何とかならないかな?」


 助手席に乗り込みながら私は訊いた。


「うーん」と理真も運転席に座り、「あれさんに相談してみようか。同じ古町に店を構える関係で、色々と情報を知っているかもしれないし」


 今、理真の口から出た「あれさん」とは、本名を能登(のと)亜麗砂(あれさ)といい、古町で小さなお弁当屋を開いている私たちの友人だ。私もそれに同意し、「そうと決まれば」と理真はコインパーキングを出て、一路進行方向を、あれさんのお店〈とらとりあ〉に向けた。

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