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病棟

作者: 二九二

 どうしようもないくそったれだった。箪笥と壁の隙間からは目玉が覗いているし、影からは常に誰かが監視している。そんなことは誰もが知っている真実だ。だが誰もそれを口に出そうともしない。見えている物を見なかったことにしたがる。それは自分が異端だと思われたくないからだ。だれもが普通のふりをして今日も街を歩いている。


 今日も影どもは人民を監視していた。そうして隙あらばおれたちを操ろうとしているのだ。空恐ろしい。

 影に支配されないようにするには常に自分を保っていなければならない。両の手を握りしめてもう一つの頭で物事を考えながら、頭の四五度上から俯瞰するように見下ろせば影の支配から逃れられる。


 それはとても難しい。


 だが順序さえ間違えなければ完璧に外を歩くことができる。忌々しい影共はまた人間を狙っている。おれはそれを見過ごせない。だから前を歩く若人に親切にももう一つの頭を出すことを忠告する。もちろんいつだっておれたちを監視している奴らにばれないよう耳元でこっそりとだ。 

 だが目の前の奴はおれの言葉にうっとおしそうに手を振りながら去っていく。奴らは傲慢で業突く張りのトントンチキだ。自分本位な言葉しか口走ることができない能無し野郎。


 だからほら、奴は影に呑まれていく。頭からぺろりと食べられて、真っ黒く覆われてさっきまでペラペラと騒いでいたのがウソみたいに消沈して渦の中に飲み込まれていった。

 影になった人間は、それはそれは悲惨だ。頭皮を突き破って出てきたアンテナに体中に根を張られ、リモコンで影共の自由に動かされるのだ。


 だというのに誰もがその脅威に目をつぶる。隣に影があることが当然だと思い込んでいる。

 だからおれは毎日たった一人で、抵抗者として活動している。

 それは爆弾作りだ。棒は人差し指の長さがいい。それ以上長くても短くてもダメだ。それをドアとドアの隙間に挟む。すると爆弾の完成だ。一つのドアが狂うとすべてが動かなくなる。それが影の活動を阻害するのだ。



 それは孤独な戦いだった。大事なのは取り付けるとき誰にも見つからないようにすること。さっきすれ違った奴だってきっとおれを監視している。今出て行った奴も、おれが最後の抵抗者だと気付いて、抵抗するなんて愚かなことだと陰口をたたく。もう影共に屈してしまっているのだ。奴らはどこにでもいて、人々を思うように動かしている。だがおれはそんなものには屈しない。

 そして一ミリだって外してはならないそれを今日も何とか無事に取り付け終わり、額に浮いた玉のような汗をぬぐいとる。


「それではだめだな」


 隣の個室から忍び笑いが聞こえた。それは目玉だった。隣の個室からするすると伝ってきた目玉が、おれをあざ笑うかのようにぐねぐねと動く。咄嗟に掴もうとしたが素早く動いて天井まで這って行き、消えた。

 おれはカーっときて隣の個室を何度も殴った。


「なんだあんた。なんなんだ。おれのやっていることのなにがダメだ。なにがおかしい」


 音に耐えかねたのか隣からゆっくりと男が出てくる。出てきたのは三つの目の男だ。すーと通った鼻の上に切れ長の目が二つ。そうして頭の中央にちょこんともう一つがついているのだ。半開きで今にもよだれが垂れそうな目が何もみていないような顔して無遠慮に眺めまわしている。


「なぜなら」


 男の目が眠たそうに開かれる。


「トイレには人が集まる。だから異変を察知されやすい。なにかあるとすぐに奴らは騒ぎ立てるんだ。そんなことをしていればいずれ白日の下にさらされてしまうぞ」


 いわれてみれば確かにそうだ。今まで誰にもばれなかったことはひとえに運がよかっただけかもしれない。


「だからと言っておれは何もせず見ているわけにはいかない。誰かがやらなくてはならないんだ。ならたとえどうなろうとやるべきだ」


 そう言いながらもおれはこの男が、おれと同じく奴らに抵抗する者だということに気付いた。だが油断はできない。こいつはおれを油断させて近づいて、後で影に売るつもりかもしれないからだ。影共のシンパはどこにでも現れる。


「一人では無理だな。何もできない。だから志を同じくする同志が必要なんだ。我々はそんな人間を集めている。君も来るといい。君にはその資格があるからな」


 男はそれだけ言うとさっさと歩きだした。ついてこいと言うことだ。

 その言葉には魅力があった。この男は大衆に語りかけるのが得意な男なのだろう。朗としてどこまでも響く声を持っている。おれは戸の隙間に無理やり埋め込まれた棒切れを引き抜いてポケットに突っ込んだ。これはもう必要ない。


 おれはこの男に付いていくことにした。




 いくつものドアを通った。男は先頭だって歩いたが、ドアを開ける前に半歩体を引き何かを確認するようにしてから一度その場に飛び上がる。そうしてから通るのだ。それは脅えているようにも見えたが、同時に力強い怒りのようなものも感じた。おれは不思議に思って聞く。


「どうしてそのまままっすぐ進まないんだ?」

「君は知らないだろうけどね、ドアの上にはギロチンがかけられているんだ」


 男は自らに語りかけるように言った。

 彼は自らをセンセーと呼び、またおれにもそう呼ぶように乞うた。


「奴らはセンセーを馬鹿にしているんだ。こんなものにも気づかない無能だと馬鹿にしていんだ。でもセンセーは馬鹿ではないからもちろん罠に気付いている。でも奴らを油断させるためにわざとかかったふりをしなければならない。奴らは馬鹿だからセンセーが気づいていることに気づいていないんだ」


 眠そうだった三つ目の目が大きく開き、風でも切りそうな速さでブンブンとあたりを忙しなく動き回る。それはおれの顔の前に止まると忙しそうに何度も瞬く。


「なるほど」


 おれは手を振って目を追い払う。


「おれはそのことに気付いていなかった。教えてもらわなければおれが間抜けな犠牲者になっていたかもしれない。あんたはすごいよ。えーと、センセー」


 おれは振り向いたセンセーに向かってにっこりと笑って見せた。彼は呆気にとられたようにすべての目を二、三度瞬かせると、風船がしぼむようにするすると戻っていく。


「もちろんだよ。ならいいんだ。もうすぐだ、いこうか」





「ここなのか?」


 そこにはたくさんの人がいた。というよりも人しかいなかった。誰もがお互いを見ていると思ったら、次の瞬間には誰への興味も示さなくなる。あるところに興味を持ってぐるぐると回ったりする者もいれば、歩いて行ったきり二度と戻ってこない者もいる。そんな場所だ。


「世の中にはたくさんの人がいる。そのうちの一部は我々の活動に興味を持つだろう。でもお互いに何のつながりもないから、奴らも気付かないんだ。だから奴らを出し抜くには最適なんだ」


 言い得て妙だ。ここではおれは有象無象の一人になって、誰一人だって感心を払うことはないだろう。


「ああ、センセー」


 振り返ると金ぴかの王冠をかぶった陽気そうな男がセンセーにゆったりと手を振っていた。


「おや、オーサマ。どうしましたか」


 センセーも親し気に答える。だが彼の三つ目の目は抜け目なくオーサマを観察していた。そのほつれた袖を、煤けた色を、取れかけたボタンを。一通り見終わると目は元の場所に戻る。二人は話しながらどんどん向こうへ歩いていった。

 センセーに放置されてしまったおれは仕方なく隣にいた男に、ちょっとはにかんで手を伸ばす。


「よろしく」


 だがその男はおれの手を取ることもなく、おれを一瞥して下を向いた。


「俺はシャチョーだぞ。とても偉い。どうしてそんな俺がお前みたいな奴とあいさつを交わさなければならない」


 にべもない。おれは宙に浮いてしまった手を引っ込める。


「だがおれたちは同志じゃないか。奴らに抵抗する仲間になるんだろう」

「ふん。どうせ奴らも俺の財産が目当てなのだろう。渡すものか。一片たりとも渡してなるものか」


 シャチョーはもうおれに関心すらないのか絶えず動かしている指先ばかりを見ている。

 同じ志を持った同志とはいえそういう人もいるのだろう。おれはシャチョーと仲良くなることはあきらめて別の場所に行こうとした。しかし彼の手の動きが気になる。


「それにしても、さっきからあんたは何をやってるんだ?」

「何を、だって?」


 シャチョーは信じられないとでも言いたげに小さく唸る。


「奴らがいつどうやって俺を狙うかなんて、さっぱり分からないんだ。だから俺は小指(ざいさん)を隠さないといけない。小指を隠すにはいつだって手を動かしていないと。そうしなければすぐに追い落とされるんだ、俺なんか」


 なるほど片方の小指を隠そうとするともう片方を隠すことができない。だから絶えず指を動かさねばならなくなる。おれも真似してみたが、シャチョーと違って取られて困る財産などない。おれはすぐに飽きて手を下した。


「ああ、シャチョーさん、すみません。ちょっと聞きたいことがあるんですが、いいですか?」


 向こうでオーサマと話していたセンセーがシャチョーを呼ぶ。

シャチョーは弾かれたように動かしていた手を下した。


「もちろんだとも俺は必要だ。必要とされているんだ。この俺がすぐに解決してみせようじゃないか!」


 そう叫んで彼はうれしそうにセンセーのところまで飛んで行った。

 おれは手持無沙汰になった。ここには様々な同志がいる。誰か仲良くなれる人がいるかもしれない。




「私はプロだ!」


 そんな叫び声におれはふりむいた。そこに居たのは確かにプロと言うべき人だった。いくつもに伸びた細い手にはトンカチや本、バイオリンや筆、パレットなどを握っている。そして頭にはコック帽に、着古したような灰色のチョッキと黒い袴。


 プロ、か。


 こんな誰もが本当の事も叫べない世の中で、そんな風に宣言することは並大抵のことではない。おれはこの人に対して尊敬の念が湧いてくるのを感じた。それから何だか荘厳な気持ちになって、勤めて丁寧に問いかけた。


「貴方は一体何のプロなんですか?」


 学のないおれにはこの人が何のプロなのか分からない。


「この私がプロと言ったらプロなのだ! それ以外でもそれ以下でもない!」

「ええ、おれもそうだと思います。でもおれには貴方が一体何のプロだか分からないのです」

「分からない、だと……?」


 その人は突然顔を真っ赤にして怒り出した。いくつもの手も怒りを露わにするように何方向にも伸びて行く。余りに伸びすぎたので手はこんがらがって筆でバイオリンをかき鳴らし、トンカチでパレットをこすり始める。ますますこの人が何のプロだが分からなくなった。


「私はプロだ! プロだと言ったらプロだ!」


 うねうねと伸びた手には様々な道具が握られている。しかしそのほとんどは伸びるだけで行き場をなくし、うろうろと漂っていた。おれはなんと声をかけていいか分からず、半歩後ずさった。



 その時、一段高い所に上がったセンセーがマイクを持って朗として話しだした。


「諸君。長らく待たせてしまってすまない。ようやく頼もしい仲間がそろった。決行すべき時が来た!」


 センセーの言葉に追従するように周囲から唸り声が上がる。しかしセンセーは次から次へと小難しい単語を使い、流れるように話すのでおれは話の半分も理解できない。


「やつらの数はとても多い。どこに潜んでいるのか分からない。だからたとえ離れた場所だったとしても油断はできない。奴らは抜け目なく姿を隠し徘徊しているんだ。我々は奴らを見つけ出さなくてはならない。そのために我々は集会を開かなくてはならない!」

「待ってくれ」


 あまりにもめまぐるしく話が移り変わっていくものだから、センセーの力強い演説におれは待ったを掛けなければいけなかった。


「おれはまだあんたたちが何をしようとしているのか分からない。何も聞かされていない。まずはそこから教えてくれないか」

「いいや言った。言ったが君が聞いてないだけだ。なぜならセンセーが間違うはずがないからだ。そんなことも分からないのかい」


 おれの主張をぴしゃりと切り捨て、センセーは話を続ける。周りもそれが当然だというような空気を醸し出していたので、おれはもう何も話せない。


 まただ。また黒い影が侵略してくる。


 世界はおれを無視して進んでいく。そうだ、奴らにとっておかしいのは圧倒的におれだ。おれなのだ。そのことに気付いておれは愕然とした。だが幸いにもおれはそのことに対して彼らを責めるような愚行を犯すことはしなかった。なぜならおれは誰が悪いのか知っていたからだ。

 それは奴ら(セーフ)だ。奴ら(ソーリ)だ。すべて悪いのは奴ら(セーフ)の所為だった。おれは悪くないし彼らも悪くない。

 おれ一人でできることは限られているが、彼らと手を組めばなんでもうまくいくだろう。それに今まで孤独に戦ってきたおれにとって、彼らといるととても安らぐのだ。

 センセーが鋭く叫ぶ。


「さあ、ともに行こう!」


 その言葉と共におれたちは歩き出した。




 おれたちは通りを練り歩いた。誰しも口の端から泡を飛ばして言葉の限り奴らを罵った。愉快だった。痛快だった。隣に同志がいることの安心感。一人ではないという連帯感。大衆の中でのみ得ることができる安寧。今まで抑圧されていたものがすべて解放されていくようなカタルシスを感じた。いくら奴ら(セーフ)だって、この大人数の抗議運動には動かざるを得ないだろう。

 そんな心地よい気分を切り裂くように、風に乗って忌々しい演説の声が聞こえてきた。それはおれたちの敵である奴ら(ソーリ)の演説だった。


「私たちは正しい世界を作らなくてはなりません。私たちは歯車なのです。一人一人が社会の歯車となって働ける世界を作らなくてはならないのです」


 そんなもの嘘っぱちだ。権力を持った一部の人間の欺瞞だ。上から目線に物事を語る大バカ野郎どものホラ吹きに過ぎない。

 おれは必死で野次を飛ばす。


「不愉快だ。潰れてしまえばいい」


 誰かが言った。おれはそれはてっきり同志の誰かが言ったものと思ったが、すぐにその言葉はおれたちに向けられたものだと気付いた。

 奴ら(ヤジウマ)だった。奴ら(ヤジウマ)はおれたちのことを異物を見る目で見ていた。おれたちを取り囲んでいたのは圧倒的な侮蔑だった。


 そんなことをしても意味がない、馬鹿みたい、どうしてわからないんだろうね。


 気付くとおれは立ちつくしていた。他の同志たちもだ。これ以上は足がすくんで進めない。

 同志の一人が絶叫した。


「奴らは平気で嘘をつく。だからいつだって監視していなければならない。どんなに言葉を重ねても、だれも聞いてはくれないんだ! ああ、そうやって、そうやってどいつもこいつもセンセーを悪者にするんだろう。いいんだ分かってるんだそんなことは……」


 それが呼び水となって他の同志たちも自らの淀に飲み込まれていく。


「奴らが俺の周りにまとわりつくのは俺がシャチョーだからだ。財産が有るからだ。それ以外に俺に価値はない! 誰も俺の中身を見てくれない。どうせ俺は空っぽな人間だ。空っぽなんだ俺なんて……」


 そうだおれはハグルマだった。社会のハグルマだ。いつも大衆の中で流されるだけで何一つだって達成したことのない有象無象の一人だ。いなくなっても誰も気付かないような人間だ。手ごろなものに怒りをぶつけて、それでいていつ社会からはじかれるかびくびくしている。そんなおれが、何かをなそうとするなんて愚かでおこがましいことだったんだ。


 ソーリの朗とした演説は続く。


「あなた方はみんな狂人なのです! この世界は歪んでいます。歪みは正さなければならない。誰しもみんなきれいで美しいと言えるカタチを保たなければならないのです!」


 たしかにおれたちは狂人だ。精密な機械から一個だけピンっとはじかれた哀れなハグルマだ。おれはあまりに小さいから取れても気付かないし、だれもそんな物気にもしない。

 人と違う人間を狂人と言うのなら、おれたちはきっと狂人なのだろう。だが人間で心に闇を抱えていない者なんて存在しない。


 狂人?それが一体なんだ。


 同志が集まれたのはセンセーの求心力のおかげだし、シャチョーは頼まれたことに真摯に取り組む責任感の持ち主だ。

 そんなことも知らずに上から押し付けた常識でおれたちを計ろうとするな。

 おれは立ち上がった。


 一度狂った歯車は二度と戻らないらしい。構うものか。


 ポケットに入っていたのはおれがいつかのために作っていた爆弾だ。おれを社会の歯車から逸脱させてくれる爆弾。きれい、美しい、普通、普通じゃない。そんなカタチにとらわれた人生など、クソくらえだった。

 おれは爆弾を握りしめ、ソーリに向かって思い切り投げつけた。 






 病棟の中は今日も平和だった。そこは囚人から総理大臣まですべて狂人が担っている場所だった。病棟の外に住む住人には何の変哲もないその日。しいて突出した出来事を上げるならば何十人といる自称総理大臣が、また一人誕生したくらいだった。

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