嗅ぎまわれ犬
高3のタナミノブエは胸もお尻もやたらでっかく、そしてウエストがキュッキュッとくびれていた。少しガラガラした声で、男としてこういうことを言うのもなんだが、多分中学生、高校生の男子にとって新垣結衣は憧れの象徴であり、その顔を嫌いな学生など100%いないのではないかと思うのだが、そのタナミノブエの顔はその真反対と言ってよかった。
そう、そんなタナミノブエだったが、案外モテて、俺はそれをスタイルのせいであろうと推測するのだが、よくは知らない。タナミノブエは高校卒業後、銀行に就職するらしかった。それはどうやら家に大学に行くだけの費用がなかったらしいというのが、最も信憑性の高い噂だった。そのほとんどの生徒が大学に進学できるだけの進学校に俺はいたから、その高校から卒業後、「銀行」に就職するっていうタナミノブエはなんというか、タバコとか貧困とか、マックとか、裸体、そんなものを不思議と想起させ、ただならぬ雰囲気を醸し出していた。それも「モテる」とう現象の一因だったのかもしれない。
俺は高2だったし、帰宅部でもあったから、タナミノブエを俺は知ってはいたが、接点もなく、タナミノブエは俺を知らないだろうと思っていた。
俺は授業は結構真面目に受けていたが、休み時間は漫画ばかり読んでいたし、そう、帰宅部でもあったし、どうにも目立ちようがない生徒だったし、それはそれで構わないと思うとともに、誰だって中高生、いや大学生になったって社会人になったって、変わらないテーマなのかもしれないが、俺だってご多分に漏れず「モテたい」と思っていた。モテたがっていた。
それは、その「モテたい」は、俺の場合性欲の目覚めから始まっていた。中一だ。風呂場で初めて射精した時には「なんだ! これは?」と思ったし、その仕組みなどを友人を介して知ったとき、オヤジとおふくろがそんなことをしていたっていうことに驚きを禁じ得ないとともに、俺だって早くやってみたいよ、っていうのが、その「モテたい」という気持ちの始点だった。
総じて人がどうして「モテたい」と思うに至ったかっていうことは俺にはわからないが、俺の場合はそうで、友人に聞くと、「いや、やりたいってのと、モテたいっていうのは違う源からきてるね」、と言う友人が多かったので「モテたい」と「やりたい」の初源が一致する俺は多分マジョリティーではなくマイノリティーなのかもしれなかった。
けれど俺はモテるすべを知らなかった。モテるための努力と言えば、毎日風呂に入り身体を清めることと、ミニストップで買った香水らしいものを、家に帰ってカーテンレールにつるした制服に朝吹きかけることと、爪を常に短く切ることと、髪にワックスをつけることだけだった。それにしたって俺にとっては十分すぎるほどポジティブな努力だって思うのだが、友人らは決まって
「お前は帰宅部っていうところが致命的だ」
と言う。そしてオススメのモテるための部活っていうのはサッカー部らしかった。けれど寒い冬でも、わっせわっせと、汗が滴る暑い夏でもわっせわっせとグラウンドを駆け回る、そんなことはまっぴらごめんだったし、俺は断固として帰宅部を貫いた。
そしてそんな風に彼女なんてできることもなく、しかも好きな女の子なども特になく、ただ勉強して漫画を読み、テレビを見て、寝る前に少しネットサーフィンくらいする、そんな生活をなんの疑問もなく続けていたし、まあ、特に何も考えていなかったに限りなく近いっていう風にこの旗が風に揺れるような人生を、旗の揺れも小さく、歩んでいた。そう旗の揺れは少しのモテるための努力に過ぎなかった。
秋の終わり、冬がもうすぐ来るだろうっていうそんな季節だった。うちのおふくろはそんな季節に弱いらしい。更年期のおふくろは枯葉が地面に、カサカサと転がったり、バスの中から弱々しい夕方の景色を見ているとセンチメンタルになるそうだ。そんな時は決まって俺に、奇妙なメールをよこす。昨日、干した洗濯物をベランダから取り込んだのちに、俺によこしたメールはこうだった。
「イチロウ。わたしが悪かった。スズキと言う名字にイチロウじゃあんまりかもしれない。ただ、わたしは若いころ野球が好きだったとだけ言っておきたい。けれどそのスズキイチロウという名前が、もしお前にとって不満なら、どれだけお母さんを責めてもかまわない」
というものだった。
そう確かに俺の名前は「スズキイチロウ」だ。けどおふくろのメールにあるような不満など持ってはいない。別に無精ひげを上手にカットしスクリーンの中に入りたいと思っているわけでもないし、国会議員になってカラ出張をしようとも思っていないし、ギターをかきならせば確かに女にモテそうだとは思うものの、それに向けての「ギターの練習」のレースに必死になって加わろうともおもわない。だから俺は俺の名前、「スズキイチロウ」に不満を持っていないし、そのしゃれっ気の一分もない名前を、「名は体を表す」という言葉とともに、ことさら気に入った名前だって思うわけでもない一方、不満だって持っていなかった。
「スズキ君」
名前を呼ばれて、机の上に置いて読んでいた漫画から目を転じると、教室の入口にタナミノブエが立っていた。少し教室内がざわついているのは、タナミノブエがそこにいるっていうことだけじゃない、多分タナミノブエが真っ赤な口紅をつけているせいだって思う。そしてタナミノブエは皆の注視にも臆さず、俺のところへやって来て、
「ねえ、今週の土曜日空いてる? 渋谷の7thホールで知り合いのバンドがライブをやるんだけど、よかったら一緒に行かない?」
俺はただぼんやりとタナミノブエの赤い唇を眺めていた。しばらくの間だ。そののちに、またしばし酔った。酒など飲んだことがない俺だが、何か得体のしれぬカクテルなんて飲んで、タイタニックの船上で揺らめいているがごとく俺も酔い、揺らめいていた。タイタニックの上で揺らめいている俺だが、もしかしたら俺の人生の旗もこれから大きく、激しく揺らめいていくのではないかという予兆も感じていた。それらの酔いや揺らめきは、「タナミノブエ」とか「渋谷の7thホール」あるとか「知り合いのバンド」とかきらめくようなワードに起因していた。そして酔い、揺らめきながら、それでも俺はただ無言でタナミノブエの唇を眺めているだけだった。タナミノブエは我に返ったように、
「ああ、これ? 昨日買ったんだ。シャネル」
そう言って制服のポケットから口紅を取り出して、俺の机の上に置いた。確かにアルファベットのCを組み合わせた様な、シャネルのロゴマークがついている。それを確認した時、やっと俺の中で、この事態が現実のものであり、とてつもなく間違ってはいけないキーポイントに俺が立たされていることを理解した。
「土曜日、なら、空いてる、けど」
俺はタナミノブエにやっとそう言った。俺は俺の声が声帯ではなく、身体の妙な器官から出ているような気がしながらやっと言った。
タナミノブエは俺の机の上に置いたシャネルの口紅をまた制服のポケットにしまい、
「じゃあ、土曜日ね」
とだけ言うと教室を俺たちの教室を後にした。
その後の教室の空気っていうのはただ単純に「何故だ?」というものだった。それはそうだ。俺にとってだってそれは「何故だ?」というものだった。俺の旗は今震えている。それはこれから起きるタイタニックの大航海の予兆にはためいているわけじゃなかった。「渋谷の7thホール」や「知り合いのバンド」が恐ろしくてならず、怖くて怖くてプルプルと震えていたのだ。旗だけじゃなかった。漫画を読み進めようとマガジンのページをめくろうとしたときに、俺は俺の手が言うことを聞かず、震えていることに今更気がついたのだ。
その後の授業はろくに聞いていなかった。ただ俺は机に教科書を開いて立て、ノートに何回も何回も、しつこくタナミノブエの身体の曲線を正確に摸写しようと必死になっていた。それは数学の時間も地理の時間も、物理の時間もそうして過ごし、それだけでその日の授業は終わり、放課後にマガジンを鞄に詰め込んた。すると漫画サークルに入っているハシモトが、なにか動物的本能でも働かせているうな目つきで、獲物を捕らえようとするように近づいてきて、「おい、一緒に帰ろうぜ」と言うので、俺は何もかもわかっているっていう顔をして「わかってる」と返事をした。
学校の近くの近所の公園だ。初めに公園があってその裏に高層マンションが建ってしまったのか、事情はわからないが、あくまでも一日中陽がささない公園で、人がいることもそうなかったし、学校帰りの生徒だって、この公園に用があるとしたら、ラブレターを渡したり、愛の告白をしたりするだけの、ひっそりした公園だった。そこのベンチに座った俺たちは二人とも手に缶コーヒーのホットを持っていた。
「あれは、なんだ?」
「わかってる。俺にもわからないんだ」
「お前、あのタナミノブエはなんでお前のこと知ってたんだよ?」
「俺にもわからないんだ」
「なんでタナミノブエがお前のことを『知り合いのライブ』とやらに誘うんだ?」
「俺にもわからないんだ」
「なんだよ、わからないってそれだけじゃねえかよ」
「そうなんだ。俺にもわからないんだ。そしてな、俺は今非常に怖い」
「怖い?」
「そうなんだ。これからも休み時間にマガジンやサンデーやジャンプを読んでいられるかとか、家に帰ったら、テレビを見ていられるのかとか、ネットでなにか意味不明の検索をしてしまうんじゃないかとか、とにかく一番の心配は風呂に入ったところで、身体や髪を洗えるのかっていう、そういうもろもろがとても怖いんだ」
「身体や髪が洗えないかあ」
「そうなんだ。なんとなく今の俺の気持ちがわかるだろう? もしくは洗いすぎて身体の皮がめくれそうなんだ。そういう風に言えば」
「ああ、そうかあ」
そのハシモトの言葉の後は二人とも無言で両手に持ったホットの缶コーヒーをずずっと飲むばかりだった。そしてしばらくしてハシモトが突然言う。
「まあ、大丈夫だ。クラスのみんなの『なぜ?』も授業一コマごとに薄められていったからさ、つまり、なんていうのかな、その、専念すればいいって俺は思う」
「専念な。そうか。専念すればいいのか」
「そう、一つことに専念する。人生にも青春にも、それが必要な場面が必ずやってくるものだって俺は漫画を描きながら思うぜ。そしてせっかくだから髪も身体も洗えよな。不潔っていうのは、不潔な女の方が、男の不潔を嫌うっていう原則があるんだ。この世界にはね。世界は広い。それも忘れない方がいい。どうしてかっていうと何かに躓いたときに、世界の広さを知っているのと知っていないのとじゃ、挫折の度合いが違ってくるんだ」
「世界は広い」
ハシモトは缶コーヒーを飲み終えると、マンションの裏のフェンスに投げてみせた。そして、その行為がたてる音をしみじみと聞くような顔をしてしばらくそうしていて、ベンチを立って、
「俺は漫画家になる」
そう言って公園を後にした。俺も残りの温い缶コーヒーを飲み終えると、公園のゴミ箱めがけて投げてみた。こういう場面ではきっと缶コーヒーの缶はゴミ箱に入らないと決まっている俺だ。けれど俺は見事に空き缶をゴミ箱にシュートした。だからって幸先がいいなどとありきたりなことなど思わないのは、多分タナミノブエのシャネルの赤のせいじゃないかって思う。昨日までの俺なら、多分一発で結構遠い距離にあるゴミ箱に空き缶がシュートしたのなら、ロト6が当たるんじゃないかっていう予感くらいは持ったような気もするのだ。でも今は幸先がいいなんてとても思えなかったし、出たのはシュートを見守って、しばらくなにやら考えた後、大きなため息が漏れただけだった。
俺は家に帰ると制服から着替えることもなくベッドにどさっと横になった。そして突然大事なことを思い出した。今日はCSでオカルト特集がある日なのだ。俺はそれを毎週楽しみしている。なぜ忘れていたのかっていうこと自体が不思議だ。でも突然沸き立ったそのオカルト特集に、うまく喜ぶことができなかった。それはもしかしたら俺の心の内を、今日おきた珍事件が大きく占めていたせいかもしれない。知り合いのバンドが渋谷でライブをするっていうタナミノブエ。来年からは銀行で働くタナミノブエ。どういう仕組みなのかよくわからないが、時々長い髪が波打っているタナミノブエ。身体の曲線が完璧にも思えるタナミノブエ。シャネルの赤い口紅を塗るタナミノブエ。
そんなことをオカルト特集を押しのけるようにタナミノブエは俺の中に住みはじめた。そして断固とした推測が浮かんだ。
「タナミノブエは処女じゃない」
そういうまた繰り返すが断固とした推測だ。その根拠は? と聞かれてもうまく答えられないだろうという俺だ。その断固とした推測の後俺はタバコでも買ってみようかな? と思った。そしてその案をすぐにあっさり捨てた。オヤジはヘビースモーカーだったが、数年前に肺気腫になりタバコを止めることに大変苦労していた。
そう、タナミノブエは多分高確率で処女じゃないと思える。それも複数の男性に裸を見せたっていう気さえする。AKBも新垣結衣もオール処女だと信じたい俺だ。けれどタナミノブエは多分処女じゃないのだ。俺はそう思い、タバコを買ってこようかな、と思い、そしてやっぱりやめようと思うという心の変遷の後、妙に冷静になってきた。どうせ処女じゃないタナミノブエだ。俺は処女性をとても大事にするんだ。一人の男に捧げる大事な操。童貞だからこそそう思うのかもしれないが、少し演歌チックなこの思いを共有できる男は中高生に大勢いるだろう。そしてハシモトはどう思うだろう。ハシモトはハシモトオサムという。名は体を表す。確かにハシモトときたらオサムだろう。俺にはそう思える。ハシモトオサム。いい名前じゃねえか。ハシモトオサムがハシモトオサムである由縁はぎゅっとそこにつまっているのだ。つまりそのハシモトオサムという名前に、だ。
俺はポケットからスマホを取り出し、ハシモトにラインをした。
「童貞は処女とやるべきか?」
返事は中々こなかった。きっと一生懸命漫画を描いているのだろう。そう思ったとき、おれはなんだか、いつになく一生懸命ラインをしているなと思ったし、何も考えないで少しのモテる工夫とテレビにインターネットというアホのような生活の中、なんだか今日の俺は妙に考えているなと思えた。そしてそれがなんとなく「一生懸命」な気すらした。
俺はやっと制服から着替え厚手のスウェットとカジュアルパンツっていう恰好で首にマフラーをぐるぐる巻いて、オヤジとおふくろの寝室からベランダに出て座り、スマホを横に置いた。オレンジ色の空の片方に細い月が出ている。安心しろ、地球はどうやら回っているらしい。そう自分に思ってみても、なにか安心できない、オカルト特集を楽しみに、夕飯を食い、風呂に入るっていうことができないような気分だ。当たり前のこと。朝起きたら顔を洗って歯磨きをし、朝飯を食べ学校へ向かう。学校で授業を受ける、帰って夕飯を食い、風呂に入って髪を洗い、身体を洗う。オカルト特集を見て少々ビビる。そういう世界から別な世界に迷い込んでしまった。この今俺のいる世界は、昨日まで俺がいた世界じゃない。そして今俺のいる世界には細い月が浮かび、犬がいる。そう、俺の家の路地に使い古した雑巾みたいなぼろきれのような雑種の犬がリードもつけずに立っている。多分「太郎」か「ジョン」だろう。俺はそう推測する。名は体を表すのだ。そしてスマホが鳴った。ハシモトだ。
「初めては年増がいいだろう」
それを読んでまた犬を目で追うと、路地の角を曲がっていく、ぼさぼさで太いしっぽしか見えなかった。
ご飯だよ! という声に急かされ、ああ、こっちの世界にも母親っていう種族が必ず言う「ご飯だよ!」っていうセリフがあるのだなあと思う。
「イチロウ、オカルト特集見るんでしょ? 早くご飯食べてお風呂入っちゃいなさい」
更年期の母親がそう言って、俺はこっちの世界のそんなありふれたゴミクズみたいにいくらでも落ちている雨に打たれたエロ本のような、そんなセリフに心底ほっとした。
「俺は、オカルト特集は録画してまた別の日に見ようと思って。それよりも相談があるのだが」
そう言うとおふくろもオヤジも笑い出した。
「なにそれ?」
おふくろがオヤジがテーブルにこぼした醤油を、布巾で拭きながら言う。
「色恋だろ。それにかかる服装やそれらをはじめとする金の算段だろ」
「なぜわかる?」
「高2の相談ってうのは、必ずや金で、その高2の金の使い道はたいてい色恋にかかわっているっていうのは古事記にだって書いてあるのさ」
オヤジは高校を出て、しばらく建築資材を運ぶ仕事をしていて、そののちに今の建設関係の会社を立ち上げた。そして事務として働いていたおふくろと結婚をした。その一粒種が俺っていうわけだ。それにしちゃあ、「古事記」なんて高等なことを言う。
「知ってるさ。日本書紀にも書いてあった」
俺はだし巻き卵を箸で取りながら言った。俺はどうしてだか、このおふくろの作るだし巻き卵が妙に好物だ。オヤジは福島の出身で、それとなにか関係があるのかは知らないが、夕食後にはスイーツとフルーツ以外は食べてはいけないという規則を家に押し付けいている。スイーツっていったところで冷蔵庫に入っているチョコレートとか、ヨーグルト、よくてラッキーなときはコーヒーゼリーといったところだ。そしてフルーツっていうのはオヤジの田舎から送られてくる、林檎とか柿、それがなければミカンを剥いて食べるしかない。けれどおふくろにはそこら辺の柔軟性が備わっており、俺が夜中に冷蔵庫を開けて冷蔵庫がピーピーと鳴くのもかまわずに、中をあさっているとおふくろはわかめおにぎりと、だし巻き卵を作ってくれて、その深夜のおにぎりとだし巻き卵っていうのは本当においしいのだ。
「まあ、そこでだ。おふくろ、今日は冷蔵庫にコーヒーゼリーは入ってんのかな? そうか。まあ、ヨーグルトでも構わない。それをだね、食べながら、様々相談にのってほしいと古事記のごとく、日本書紀のごとく、こういう時の高2は親に相談するべきだって思うんだ」
「今、聞こう」
オヤジはそう言った。俺は夕飯を食べながら深夜のわかめおにぎりとだし巻き卵のおいしさについて述懐しながらぼんやりと食事をしている間に、食卓はかたずけられ、湯呑にはお茶が入れられていた。
「オヤジ、どうも俺はデートみたいな、そんなようなことをするかもしれない予定でさ、それっていうのは渋谷のライブに高3の女の子と一緒に行くっていう、そういうデートみたいなものでさ、ところで俺の持っている服っていったらイトーヨーカ堂で買ったセーターとか、ユニクロのデニムとかダウンとかそういうものでさ、まずそこから躓くわけなんだ」
「そういうぜいたく品とかデートにかかる諸費用なんてものはな、親に買ってもらうもんじゃない。情けないことを言うんじゃない。そういうのはな、ラーメン屋でも焼肉屋でもセブンイレブンででもバイトをして買う。そういう種類のもので親が出してやる金じゃない」
「そんなことをオヤジが言うのなら、俺はキャバクラのボーイでもしてタバコを吸ってやる」
「この野郎」
「この野郎」と言ったときのオヤジは多少迫力があった。さすがの建築資材の運び屋で現在建設業の社長だ。
「まあ、冗談だけど」
俺はリラックマの絵が描かれた己の湯呑を覗くと、茶柱が立っていた。
「おい、オヤジ!、茶柱が、俺のお茶に茶柱が立ってるぜ!」
と少し興奮気味に言うとおふくろは手をタオルで拭きながら、俺のリラックマの湯呑を覗き、
「あ、ほんとだ」
と言い、オヤジも
「幸先がいいじゃねえか」
と言う。
「お父さん、いいんじゃない? やっぱりイトーヨーカ堂とユニクロで渋谷のライブハウスっていうのはちょっと残酷かもしれない。だから、いずれ返してもらうっていう約束で服くらいは買ってあげましょうよ」
「すまねえ、おふくろ」
「お前は、どうしてそうイチロウに甘いのかなあ。まあ、いいや、少しくらいなら貸してやる」
「オヤジ、すまない」
俺はもろ手を上がて喜ぶべきなのだろう。けれど喜ぶ気にはなれなかった。いつの間にか周囲で俺の今後の行動をどんどん現在進行形で決められていくような気がしていたからだ。なにか仕組まれているような気がした。首謀者はタナミノブエで、参謀官はオヤジやおふくろっていう風に。今の俺はオヤジの「幸先がいいじゃねえか」という言葉に、ロト6が当たる期待ではなく、タナミノブエとのデートの成功を期待していたし、両親の言葉や態度も以前いた俺の世界とは、少しずれているような気がしていた。毎週あれほど楽しみにしていたオカルト特集も録画でいいと思ったり、ロト6が当たれば、恐ろしい就職などせずに、一生働かないでいいマンションに住めるなあ、なんていう期待すらしない俺に俺の 今の世界の俺はなってしまったのだ。それがハッピーな出来事なのかアンハッピーな出来事なのか、俺には今はわからない。でも一般的高2男子が、デートをするらしいことになり、その服もあつらえてもらえるっていうのは、やっぱりハッピーなことなのだろうか。
そして俺はこうも思う。以前の世界にいた俺だったら、それらの出来事を素直に受け入れ、そして喜べた。けれど今「太郎」だか「ジョン」だかをベランダで見た今の世界にいる俺は、微風にピリリと頬に傷がつくような、そんな小さくて弱くて、臆病な俺に変わっているようなそんな風になっているような気がするのだ。
確かに得たのだろう。けれどそれに引き換えて失ったものだってある。それは今はっきりとそう思う。それっていうのは「安心」だ。得ると安心を失うものなのだろうか? 今の俺には皆目わからない。だいたい、安心をしないで生きてこなかった気もするのだ。いつも安心はそばにあり、それを意識さえしない、そういう種類のものだった。
そして風呂に入って、バスタブに浸かる。そしてバスタブに寄りかかりながら、目を閉じた。すると茶色い、段ボールに似た紙に、スヌーピーや、アルファベットのAとか、様々な、自分自身でもすべては理解できないような緑色の絵などが描かれている図が脳裏に浮かぶ。なぜか俺はそれを離したくなかった。それは決してその茶色い段ボールに描かれた絵やアルファベットが心地よい図であるとかそういう意味ではなかった。離したくないっていう気持ちは「そのままでいつまでもいたい」という気分からだった。そのままでずっといたら俺はどうなるのだろう? きっと体中がふやけて、徐々にちぎれ、湯だったものが水に変わったその中に溶け、水面に浮かぶだろう。ふと「死」を意識した。俺はその瞬間、決して進んではいけない行きどまりの通路に入り込むような気がして、慌てて目を開けた。そして髪も身体も洗わないなんていう想像は全く杞憂だったようで、俺はキチガイのシャンプーと題したいような強烈なシャンプーをし、おふくろ専用と固く言われている、バラ園のボディーソープをあかすりにたっぷりつけて、泡立て死ぬほど背中をごしごしと、かつしつこく洗った。もちろん要所要所も外さずに、だ。
風呂から出ると、台所におふくろがエプロンも外さずにそこにいて、
「大丈夫なの?」
と俺に聞いたが、その「大丈夫」っていうのが何を指すのかわからなかった。けれど俺は「全然OKだ」
そう言ってわかめおにぎりとだし巻き卵は今日はいらないと、付け加えた。
俺は録画して見る予定だったオカルト特集を自分の部屋で結局は見だしてしまった。ぼんやりと幽霊動画を見ながら思う。なんだ。まったくおもしろくない。幽霊がどうしたっていうんだ。今俺の部屋にやけに色が白くて髪が妙に長い白い服を着た女性の幽霊が現れたら、俺はどうするかっていうと、
「あなたはセックスをしたことがありますか?」
「あなたは何回目のデートでセックスをOKしますか?」
その二点をココアでも飲みながら聞いてみたいものだ。
もう以前の俺の世界は瓦解してしまったのかもしれない。それとも保留中で、俺を待っているのだろうか? もし新しい今の世界がそれもまた瓦解した場合、その以前の世界に、俺は戻れるのだろうか? その「安心」があった世界にだ。明日ハシモトに相談してみようと思ったが、もう今の世界に、元のハシモトオサムはいるのだろか?
俺が今体験しているのは人物や、その人物の言うことや考えることが、元の世界とは違い、今の世界においては少しずつずれているっていうことだ。きっと今の世界にいる人たちは、本音をぶつけず、目だし帽をかぶりながら、少し優しい言葉や聞きやすい言葉しか言わない世界だ。
オカルト特集は終わり、俺は寝ようとベッドにもぐりこんだ。口の端からよだれが垂れて、それを手で拭ったとき、そういえば俺はタナミノブエに惚れているのだろうか? という初歩的な疑問を持ったが、寝てしまった。
翌日学校へ行ってみると、クラスメイトの中では「何故だ?」が限りなく薄められていたが、タナミノブエの周囲ではそうではないらしかった。タナミノブエの周囲で起こっている「何故だ?」の内容は、昨日シャネルの赤の口紅を塗って俺たちの教室で、「スズキ君」と呼んだ、その時にクラス中に巻き起こった「何故だ?」と本質は変わりなく、なぜよりにもよって、あんな同じ学年でも存在に気がつかないような、成績はそこそこ、スポーツはできない、帰宅部の俺をなぜライブに誘うのか? という点につきるようだった。しつこいようだが、それは俺には皆目わからないし、答えようがない。だから今タナミノブエの周囲でその「何故だ?」は巻き起こり、それをタナミノブエに尋ねる奴が多いのだろうが、タナミノブエはそれについて「秘密」と答えるらしかった。
俺は授業がつまらなかった。昨日まで、タナミノブエが現れるまでは授業を真面目に受けていた。昨日タナミノブエが現れた後の授業ではノートに落書きばかりしていたし、今日の授業は全く面白くもなんともなく、ひたすらにつまらなく、その変化が俺には不思議に思えてならなかった。やはり教師だって、授業だって、昨日までの世界ではなく、今の世界では教師も授業も変質してしまうらしかった。いつもの休み時間とおり、漫画を机の上に広げたが、絵も文字も追う気がしない。俺は仕方なく窓辺に机のあるハシモトの元へ行き、漫画の話をしながら校庭を眺めた。すると「太郎」だか「ジョン」だかが校庭を横切った。
「なあ、ハシモト、得るっていうのはなんだ?」
「富む、っていうことじゃないか?」
「富むっていう代わりに、なにかを失わないのか?」
「富むは増えるっていうことだろう? 失ったら富むっていうことにならないじゃないか」
「じゃあ、俺はそれでいいんだよな」
「何を言ってるんだかわからねえよ」
「なあ、ハシモト、放課後、大宮のルミネに付き合ってくれねえか?」
「断る。自分で勝手に買い物でもしろよ。俺にとって放課後っていうのは貴重なんだ。俺はどうしようもなくなるまでは大学に進学するつもりがない。漫画家でやっていきたいんだ」
俺は富んでいるのはハシモトだと思った。放課後のほとんどすべてを漫画に打ち込める、そんなハシモトが羨ましいと改めて思った。そしてハシモトは得ることを富むと言った。耳障りのいい言葉ではあったけれど、それはハシモトがその時目だし帽をかぶって答えているような気がした。そしてもしかしたら俺は「サトラレ」ではないかと訝った。クラス中の誰もが、もしくは世界中の誰もが、小心でおののく俺の心を読んで、目だし帽をかぶって接し、話しているんじゃないのかと思えるのだ。
俺は自分の席に戻り、その俺が「サトラレ」ではないかという思いつきに、しばし怯えた。俺は昨日読み終えなかったマガジンをまた机の上に広げページをめくった。そうはいっても俺は「サトラレ」の可能性もある。そんな思いが胸に去来しながら、ゆっくりと漫画を堪能できるかというと、もちろんそんなことはなく、びくびくと震える気持ちを押さえながら、漫画を読まないまま最速のスピードでページをめくっていくだけだった。つまり何も考えたくなかったのだ。今机の上にハシモトからよく借りるエロ漫画を置いて、ひそかにエレクトしたら、そのエレクトという現象は世界中にばれてしまうのだ。それはもちろん俺が本当に「サトラレ」なのだとしたらだが。
それにしても、と思う。親に女の子とライブに行くからと借りた金だが、音楽の系統によって着る服も違うんじゃないかと思うのだ。俺は俺からタナミノブエにそのことについて聞くべきなんじゃないかと思いついた。それは何も考えないように最速でマガジンのページをめくっているときに、やっと気づいた考えだった。それはもう誰も当てにできないという気分から始まっていた。みな目だし帽をかぶって当たり障りのないことを言い、俺の言葉を比定する人間などいない。腫れ物のように俺に接するのは、つまり、俺を見ていのに俺がそっちへ目を転じると、俺にもわからないような速さで俺から目を離す。それは多分俺が「サトラレ」だからなんだ。
俺は妙に開きなおった。「サトラレ」である以上、結局のところ筒抜けだ。俺は休み時間にタナミノブエの教室に向かった。俺は親に猫背を直せとよく言われるが、肩で風切るとまではいわないが、猫背にならぬよう、堂々と廊下を歩いた。確かに成績も平凡、スポーツは得意じゃない。彼女がいたことなんてない。帰宅部。思えば何を誇れるのだろう。ただ誇れるのは新垣結衣とは真反対なベクトルにある顔だが、その雰囲気やオーラ、抜群のスタイルでモテるタナミノブエに俺はデートに誘われたんだ。それを誇ろう。そう、誇って廊下を歩こう。休み時間のたまに掃除のモップでエアギターをやったりしている奴らが笑っている廊下を俺は堂々と歩こう。
タナミの教室の入口に立つ。予定では間髪入れず、「タナミ」と呼ぶ予定だったが、さすがに怖気づき、また浪人生のごとく猫背に戻り、
「あの、タナミノブエさんいますか?」
と言ってしまった。もちろん視界にはタナミノブエがいたというのに。タナミノブエはおっぱいをゆさゆさと揺らせながら、俺の元へ来て、
「どうしたの?」
と言う。
「うん。土曜日のライブ、どんな音楽をやるのかなって思って。テクノとブラックじゃ着ていく服が違うだろう?」
「そっか。いつもスズキ君はどんな私服を着てるの?」
「それが、ダウンはユニクロで俺が選んだネイビーのやつなんだけどさ、ほかのは大抵、おふくろが近所のイトーヨーカ堂で買ってくる服とかさ、オヤジのお古とかさ、そういうの着てるから、俺、今日大宮のパルコに行こうと思ってて」
「お父さんのお古っていうのはさすがにちょっとって思うけど、いいんじゃない?ニットにユニクロのデニムとダウンで。だってライブハウスではアウターは脱いじゃうしね」
「なあ、変なこと聞くけど、俺の考えてることっていうのは、タナミにもたいていわかるのか?」
タナミノブエはしばらく笑って
「おおよそはね」
と答えた。
休み時間も終わる。俺はしょんぼりと、来た道とは逆を歩く。そして歩く態度も来た道と逆だ。つまり、猫背にうつむきながら歩いた。タナミノブエが悪いのだ。俺はいつも風呂に浸かるとAKBのヘビーローテーションを歌っていたんだ。昨日は長い時間バスタブに浸かっても、ヘビーローテーションを歌わなかった。そして目を閉じていた。昨日から圧倒的に考えることが増えている。というか俺の今までの、まあ象徴的に言って帰宅部ケーブルテレビ人生においてなんら考えることもなく、すべてが当たり前で、それ故、なにかを追及して考えることもなかったし、無意識だったが安心もあった。それをタナミノブエが大逆転させ、俺を「サトラレ」まで追いやった。でも不思議だ。タナミノブエがすべて悪いと思っても、俺のタナミノブエに対する気持ちは憎しみでもなく、嫌悪でもなく、
「ドキドキさせる、ワクワクさせる、俺を困らせる」っていう存在のままだった。そう、昨日からだ。
次の授業は世界史で俺は授業は聞いていなかったが、世界史の教科書に耽読した。世界の偉人たちはどうやって童貞ではない存在に変わる瞬間が訪れたのだろう。それぞれの偉人に俺は思いを馳せる。なにか世界史の中の人物だけではなく、今も生きている、世界中の人たちが妙に懐かしい。握手をしたいと思うし、なんならハグだってしたい。俺より年下の人間には「頑張れよ」と言いたいし、同年代の人間には「やってやろうぜ」と言いたいし、俺より年上の人たちには「なんだか、懐かしいですね」と言いたい。そして世界中の人をこのグラウンドに集めて、清志郎のように
「愛し合ってるかい?」
と叫んでみたい。人は隣の人を愛さなければいけないのだ。隣に立つ人がどんな人であっても、愛さなければならない。それが世界の決まり事を超え、人々がつながるたった一つの方法なんだ。それに俺は気づいてしまった。そして俺は「サトラレ」の威力を今発揮しようと思いたった。「サトラレ」を逆に利用しようと思ったのだ。おい、聞いてほしい。
「愛し合ってるかい?」
俺は放課後、大宮のルミネで気に入ったセーターをやっと買った。やっとと言っても、そんなにたくさんのショップを練り歩いたわけでもないのだが、服を買うっていう行為に 慣れていない俺にとって、そんな風にショップを覗きまわって、買い物をするっていうのは大変な作業だった。結局買ったのはシップスのグレーの肩にボタンがついているセーターで、あとは黒いスキニーを買った。無難だろうと思って、コンバースのローカットのスニーカーも買った。白だ。けれど妙に俺は落胆していた。親に借りたようなもらったような金で服や靴を買うことを楽しいと思わなければいけないのかもしれないが、なんだか「落胆」という気持ちは抑えることができなかった。セーターを買い、スキニーを買い、スニーカーを買うという過程を踏むごとに妙な落胆に襲われた。けれどその落胆がどこからきているのか俺にはわからなかったし、たいていの人にもわからないことだって思う。ただ妙に生々しかったんだ。初めにシップスのセーターを買ったとき、お金を払ってショップの入口まで店員がショッパーを持って、俺に手渡し、なにやら言っていた時の妙な虚しさ。どうしてそれが虚しいのか俺にもわからない。
ハシモトの理論にのっとって言えば俺は金を払うことで、セーターやスキニー、スニーカーを得たのだから、それは「富む」と言えるのかもしれない。それが俺の気持ちは全く違っていた。俺にとってそういう買い物っていうのは、豊富になり富むということではなく、むしろ削られていくという感覚に近かった。まるでデリヘルデビューした女が、一人目の客を終えたようなそんな気分だった。つまりデリヘルをやって、得たお金で買い物をしまくれば、最終的にはみじめになり、自殺をする。そんな風にだ。
そうか俺は、「みじめ」なんだ。俺はみじめ。そうさせたのは他でもないタナミノブエだ。あいつが俺の安心していることにすら気がつかないぼんやりとした、週に一度のオカルト特集を楽しみに、そんな風に過ごしてきた元の世界から、今の世界に連れてきて、しかも俺を「サトラレ」にまでした。そんな風にタナミノブエは俺を困らせ、悩ませる。安心はどこか遠いところ、俺には届かないそんなところにあって、旗は大きく波打って激しく揺れ、俺の心はプルプルと震えている。
ああ、お腹が空いた。俺がお腹が空きやすい年頃だっていうだけの理由じゃない。困り悩むっていう心の変遷は多分人をお腹を空かせるのだ。俺は大宮の駅構内を抜け、ラーメン屋を探した。たっぷりと油の浮いている、そんなラーメンが食べたかった。俺はグーグルでラーメン屋を探し、「醤油豚骨」のラーメン屋を見つけ、地図を出し向かうと、案外に店の中は空いていて、というか一組の客しかいなかった。その一組みの客とは若い女性と中年のおじさんっていう組み合わせで、若い女性の方は多分すっぴんで眉毛がないんじゃないかっていうほど薄かった。
俺は目当ての醤油豚骨のラーメンとチャーシューのトッピング、それに半炒飯のつけて食券を買った。食券を受け取ったラーメン屋の主人はどうやらラーメン屋でラーメンを作ることにも、ラーメン屋をやっていることにも、生活っていうのをしていくのも、人生そのものにも飽きている、そんな風に無言で俺の食券を受け取った。そんな風な店の主人はこの作業を今まで何回やっただろう? そしてこれから何回この作業をするのだろう? と考えながらラーメンを作っているようで、そして俺の座るカウンターに、また無言でチャーシューがたっぷりの醤油豚骨ラーメンと、半炒飯を無言で置いた。
俺はそれらを「がむしゃらに」食べた。うまいのかまずいのかなんてわかりゃしない。ただがむしゃらにそれらを食べ、たいらげた。そしてグラスに水を注いで飲みながら、こんなことを思っていた。
「ラーメンを作るとか、ラーメン屋をやるとか、生活とか、人生、これに飽きちゃおしまいだぜ。俺は以前は疑問すらなく飽きなかったんだ。でも、なんていうか俺は何かを得てなにかを知ってしまったんだ。それからというもの大抵のものに、そう、オカルト特集とかそういうもの。授業やサンデーやマガジンやジャンプ、そういうものになんていうか、気持ちがたいして向かなくなってしまったんだ。ご主人ももしかしたら、なにかに困ったり悩んだりしているのかもしれにない。でもラーメンを作ることに飽きてしまったら、そしたらどうなるかっていうと、とても汚いドブネズミのように、自分でも自分をみじめだって思うようなそんな風になってしまうのさ。多分だけどドブネズミっていうのは自分が『みじめ』だってことに気がついているって思うんだ」
俺はそこまでぼんやりと片手に冷たい水の入ったグラスを持ちながら、そんなセリフを夢想し、残った水を一気にごくりと飲んで、店を後にしが、やはり店主は「ありがとうございました」とすら言わなかった。もともと客商売には向かない、不愛想な人間なのかもしれないのに、大宮駅に向かっている最中の強く冷たいすさぶく風に、死とあの店主を近くに想像したし、その想像は俺が死ぬことだっていくらでもというか、必ず、そんなことが 起こるのだと洗面器にはった冷たい水を頭からかぶるみたいに思った。
暖かい電車に揺られ、俺の家に帰った。部屋にどさっとショッパーたちを置く。よくてユニクロ、たいていはおふくろが買ってくるイトーヨーカ堂の服を着ている俺だ。そんなシップスだの、名前くらいは知っていた、そんなショップで買った服や靴をなぜかショッパーから取り出して眺めてみようとも思わない。俺は俺の部屋のベッドの脇、置かれたショッパーと反対の方向を向いてベッドに寝転び、眠ってしまった。そのことにもしおふくろが気づいたらきっと怒るだだろう。俺はユニクロのダウンを着たまま、エアコンもつけたままふとんもかけず、寝てしまったからだ。
「ご飯だよ!」
というおふくろの言葉に目が覚めた。それはもしかしたら、今も確かに持っている一種の安心なのかもしれないと、起きてエアコンのリモコンを探しながら思った。遠い未来は俺には想像できないが、以前いた世界にもおふくろの「ご飯だよ!」はあったし今の世界にもある。どんな世界にも、おふくろっていう存在が叫ぶ「ご飯だよ!」は確実にあるのだとしたら、それはなんて幸福で、安心なのだろうと思える。もしかしたら「確実」っていうのは安心の第一条件なのかもしれない。
「俺は大宮でラーメンと半炒飯を食べてきたから、そうは食えないと思うけどさ」
と言いながら箸を取り、大いに食べた。その日のメニューが唐揚げだったっていうこととも関係がある。そしてポテトサラダと味噌汁とお新香だった。
「今日どんなの買ってきたの?」
「あーあ」
「なにそれ?」
「つまり、あーあっていうわけなんだ」
「服を買ったりしたんでしょ? それがなんで『あーあ』なわけよ」
オヤジも言う。
「あーあ」
どうやら、今日オヤジはパチンコでおおいに負けたらしい。それゆえのおふくろに対する小遣いの相談を、飛んできたサッカーボールを瞬時に蹴り返されるように断られたっていうことらしいのだ。
「ねえ、イチロウ、その買ってきたっていう服、見せてよ」
「そうだな、見せろよ」
「別にいいけどさ、俺ってやつは本当にもうみじめだよ」
俺は部屋から3つのショッパーを持ってきた。お袋が中の包装を開ける。
「わー、いいじゃない。なんていうの? こういうの。きれいめっていうのかな?」
「イチロウ、でかしたじゃねえか。かっこいいぞ」
俺は一緒に暮らす家族の俺が買ってきた服を見ながら、空気が一気に華やぎ、沸き立つのを感じると、確かに唐揚げとポテトサラダでお腹がいっぱいの俺だが、なにか心が満タンになるような、そんなお腹がいっぱいになって、テレビをつけていたらいつの間にか寝ていたっていう風な幸福を感じた。そうそんなことは別に俺の家に限ったことではないし、俺だけの現象じゃない。ただそんなお腹がいっぱいになってつけっぱなしのテレビが流れる中眠ってしまうっていう、空き缶やメビウスの空箱みたいにいくらでもあることで、俺はまた思うのだ。
「愛し合てあってるかい?」
愛し合うのは難しいようでとても簡単なことのようにも思える、。それはとても不思議な現象なのに、俺のオヤジとおふくろはおふくろがオヤジに小遣いの追加を許さなくても、愛し合っているっていう奇跡が家にだってある。一見奇跡のように見えるものだっていくらでもあるんだ。奇跡とはそんなありふれたもので、そしてもしかしたら奇跡は奇跡を連続して呼ぶのかもしれない。
「今はみじめじゃなくなったよ」
俺がそう言うと、おふくろは
「何をさっきから、みじめだとかみじめじゃないとか。病気にでもなったんじゃない」
と言って笑う。俺はそう、確かに病気だ。「サトラレ」だ。でも本当にそうなのだろうか? タナミノブエは俺の考えていることがたいがいはわかるらしい。やっぱり俺は「サトラレ」なのだろうか? ラーメン屋の店主を思い出す。俺はあの時落胆していて虚しくて、みじめだった。それが店主に伝染したのだろうか? 店主も落胆し虚しく、そしてみじめに思ったのだろうか? 大いにあり得ることだ。だって、あの店主は不愛想にもほどがある。いらっしゃいませもありがとうございましたくらいも言わなかった。
俺はやおら立ち上がり、自分の部屋に戻り、エアコンをつけてパジャマとパンツを取り出し、階下へ降り、
「俺は清めたいと思う」
とおふくろにバスタオルを要求しながら立ったままで言い、オヤジは
「好きにしてくれ」
と言った。俺はバスタブに浸かると、今日はなんとしてでもヘビーローテーションを歌ってやろうと意気込んだ。大声で歌うことによって、俺が「サトラレ」であるのか、それとも別に「サトラレ」などではないのか、そんな疑問を払拭し、そんなことはどうでもいいという結論を出し、身体中を清めることで、フレッシュに風呂から出てきたいと思ったのだ。
それなのにヘビーローテーションの歌いだしから、心細い弱々しい声しか出なかったし、最後までなんてとても歌えなかった。しかもバスタブに頭までざぶんとつかり、顔を出し、髪がびしょ濡れだっていうのに、髪だって身体だって、洗う気がしなかった。ハシモト。俺は俺の予言通りになったのさ。髪や身体を洗うっていう己からのアクション。それが今できないでいる。ハシモト? どうしたらいいんだ俺は。
そんな風に日々は過ぎていった。風呂に入って髪や身体だって翌日からは洗うことができた。そして俺の疑問、俺は「サトラレ」なのかそうじゃないのかっていう初めは猛烈だった難問、俺の苦悩の初源だったが、それもどうでもよくなり、俺の一番の心の中枢は、この異世界にどうふるまえば休み時間に漫画を読めるようになるのだろうか? ということに移っていった。相変わらずサンデーやマガジン、ジャンプは読むことができず、パラパラとページをめくっただけで諦め、たいていは窓際の席、ハシモトと話すことが多かった。
「ハシモト、お前さ、漫画を描いてるわけだろ。そこでさ、なんていうの? グランプリっていうか、コンクールっていうか、公募みたいなものに応募したこととかってあるのか?」
「何回もやってるよ」
「じゃあ、今漫画家って名乗れないとしたら、それは落ちたからなんだろう?」
「俺はもう漫画家だよ」
「そうなのか?」
「確かに一等賞なんてとったことはない。でもそれは見る目がないやつが見たからだ。俺はもう漫画家だ」
「じゃあ、童貞でも童貞と名乗らなくてもいいのか?」
「そこに一生懸命さがあればいいんじゃないのか」
「何にたいして一生懸命になればいいんだよ」
「お前、以前よりうるせえな。俺だってわからない。でも人が必死になったとき、それになったって言いきっていいと思うんだ」
「ふーん」
俺は何回も「ふーん」を繰り返しながら、自分の席に戻った。ハシモト。俺にはよくわからない。でもハシモトが漫画家だっていうことは、なんとなくわかった。けど俺の質問に答ええているだろうか? 俺にはよくわからなかった。俺は席に座ってサンデーの上に肩肘をつけ顎を乗せ、目を閉じた。目の前には白い塀がある。それは少し引いてみると、そこだけが白い塀なのではなくて、その路地、その横の路地、その向こうの路地、すべてが白い塀なのだ。昼間だ。おそらく夏。みなエアコンをつけ部屋にいるのだろう。もしかしたら大勢の人たちが高校野球を見ているのかもしれない。俺はもっと引いてその街を全体を見ようとする。俺はだいぶ引いた。するとその街は白くて高い壁でできていた。家々は屋根こそ変化はあるが、外観は高くて白い塀のみで、のっぺらぼうに見える。そこの角を犬が横切った。おそらく「太郎」か「ジョン」だ。相変わらず使い古したぼろ雑巾みたいな犬だ。ぼさぼさのしっぽが太い。そしてその「太郎」か「ジョン」が路地を曲がり、しっぽだけになったとき、チャイムが鳴り俺は目を開けた。
土曜日がとうとうやって来てしまった。俺は昨夜なかなか寝付けず、男ならたいていやることをやって、やっと眠った。目覚ましは風呂に入ることも考慮に入れて8時にセットしたのだが、それより早く、30分以上早く起きてしまった。俺は今までは服に無頓着な方で、どういう服がいいとか、こういう服を着たいとか、そんなことを思わずにきたから、イトーヨーカ堂であったり、オヤジのお古であったり、ユニクロであったりしたのだが、昨夜遅く思い立ってクローゼットをあさったら、グレーのダッフルコートを見つけた。いつそれを着ていたのかもよくわからないのだが、とにかくそれはあって、着てみると別に窮屈だっていう感じもなく、ダウンを止めてこのコートにしようと思ったのだ。昨夜そのダッフルコートをカーテンレールにつるして寝て、さっき俺はトイレを済ませ、ホットコーヒーを飲みながらぼんやりとそのダッフルコートを眺めていた。
風呂に入るためにセットした8時だというのに、9時近くになっても俺は風呂に入ろうとしなかった。ただ2杯目のホットコーヒーを飲みながら、ダッフルコートを眺めていただけだ。風呂ならとっくに追い炊きし、四一度に設定してある。
おふくろがベランダで向かいの中島さんと話してる。寒いとか、早くあったかくならないかとか、洗濯日和だとかそんなつまらない、内容があるようでないような話だ。得てしてそういうやり取りはおふくろとかそんな存在が話す時、耳触りがよいものだ。俺はそれを桜の蜜をついばむスズメの鳴き声のように聞こえていた。そして俺はやっと風呂に入ろうと立ちあがった。着替えはベッドの横に畳んで用意した。つまりシップスのセーターとか黒いスキニーとかだ。昨夜もパンツを取り替えたが、また取り替えようと思った。これもユニクロ製だが、そんなことはどうでもいいことだ。付け加えるなら靴下も五百円でユニクロで買ったものだ。
昨日の夕方、俺は美容院に行った。たいてい夏だって壁に取り付けられている水色の扇風機が回る、オヤジも行っている床屋に行っていたのだが、俺は満を持して美容委へと脚を踏み入れた。
「今日はどんな風になさいますか?」
というスタイリストの問いに、俺は参った。俺はとりあえず、美容院に行けば、問題は解決されるとなにか思い込んでいて、どんな風って言われても困ってしまうのだ。
「あのー、全体いい感じで」
俺自身、そんなこと言われたって困るだろうとは思った。でも俺の頭の中はどこまで行ってもノープランだった。そして様々なオプション、SPトリートメントとか、ヘッドスパとか、そんなものもすべて了解してしまって、俺の心のおののきは、ただ「頼む!」の一言に尽きるのだ。
「こういう感じでいかがでしょうか? お客様の髪の量や、髪の質、スタイルにピッタリだと思うのですが」
スタイリストはヘアカタを見せながらそう提案する。
「待ってました!」
俺の思いはそれだ。どうでもいいのだ。なんとなくおしゃれっぽくなりたくてここまで来たのだ。そうSPトリートメントもヘッドスパも言われるがままに受け入れた俺。しつこいようだが、もう「頼む!」という気分でしか、今の俺はないんだ。
髪を切ってもらいながら、渡されたヘアカタを見ていた。俺がそうなるっていう予定の髪型のモデルは金髪の外人だった。ふうん。俺がこんな風になるのかねえ。ただそんな気分だった。そして髪も切りおわりシャンプーもSPトリートメントも終わり、ヘッドスパも終わると、そのスタイリストとはなにやら手に泡を乗せて俺の髪につけてから、またドライヤーを使い始めた。若くてちょっと可愛い背の低い女の子がやって来て
「ご自分でセットなさる時、濡れた髪を根元だけ乾かして、全体にこのワックスムースを散らすようにセットなさると、簡単にご自分でも再現できますよ」
というのでまあ、可愛いしなということもあり、それも買うと答えた。
だから俺は朝ぶろに入るしかなかった。朝シャンプーだけをするなんてことはできそうにない俺だ。家の洗面台は一応シャワーがついていて、そこでシャンプーだけをすることは可能なのだろうが、いっそのこと朝ぶろに入ってしまいたいと思って、四一度に設定した。今もバスタブの中の湯は律儀に四一度を保とうと必死なのだろう。冷めては慌てて急いで沸かし、を繰り返しているのかもしれない。俺は小さなテーブルに置かれたコーヒーカップを持って、降りていき、
「おふくろ、バスタオル」
と言うと、おふくろはまた笑って、
「わたしだったら、一回目でOKしないけどね」
と言って水色のバスタオルを洗面所の洗濯機の上に置いた。俺が風呂の中に入っていき、ざぶーんとお湯に浸かる音を響かせると、おふくろは洗面所にやってきて、
「なにかを始めるとき、その始めるときっていうのは必ずピリリとした緊張があるもんだよ。それが当たり前なんだ。イチロウは病気っていうわけじゃないんだよ」
ありがたい言葉だった。ありがとう、おふくろ。そう思うべきなんだっていうことはわかってる。けれど俺は、なにか打ち消したく、そのおふくろの言葉に返事をする代わりに、風呂の窓を開けたまま、青空を見ながら身体は熱く、空気は冷たくという中で、ただでっかい声で「ヘビーローテーション」を歌うっていう態度だった。かなりでっかい声で歌い始めたヘビーローテーションだったが、徐々に尻すぼみになり、最後は詩の朗読をしているみたいになってしまった。でも俺はその時かなり真剣にどうしても歌いきってやるっていう気持ちが胸のうちにあった。小さい声になろうと朗読になろうと。やりきろう。そう思っていたんだ。そして俺のまだ短い過去を思い返してみても、歌いきってやろうとか、やりきろうとか、そんな気持ちになったことなどあったのかなかったのか、思い出せすらしない。
風呂から出て、美容師のアドバイス通り、髪の根元を乾かしてワックスムースとやらを塗りたくって、洗面所に映る自分の顔を見た。変なものだなと思う。俺の顔を自分で見るっていうことなんて、そうはない気がする。デートと言っていいのか? ハシモト。俺はデートに行くから、こんな風に俺の顔を洗面所に写して見ているのか? ハシモト。今頃は寝てるんだろう。昨夜頑張って漫画を描いたんだろうな。
俺はオヤジのビールジョッキにポカリを満タンに入れ、部屋に運んだ。そして裸のままでポカリを飲んだ。するとすぐに身体は冷え始め、俺は今日着ていくべき戦闘服に着替えるか、もしくはさっき脱いだパジャマをもう一回着るか、もしくは部屋着を着るかっていう、3択を迫られた。今は十時二十八分だ。俺はパジャマを選んだ。パジャマを着てベッドにもぐった。だってタナミノブエとの約束の時間は、午後六時だったからだ。
俺は待ち合わせの時間に遅れることなく、渋谷のモアイ像前に着いた。
「スズキ君、スズキ君!」
そのガラガラした声に俺はタナミノブエを探した。一瞬わからなかった。タナミノブエはメイクをしていて、くるくると巻いた髪をアップにしていた。俺はタナミノブエに近づいていき、その姿を見ると、ベージュのチェスターコートを着ていて、靴は黒いポインテッドトゥパンプスを履いていた。タイツではなく黒いストッキングだった。その大人っぽいタナミノブエに俺はたじろいだ。なにを話していいのかもわからなければ、どんな態度をとればいいのかもわからない。ただ俺の口は勝手に動き、
「学校にいるときより、随分大人っぽいね」
「そうかな。でもメイクとか服装で女っていくらでも変わるもんね」
「そうなんだなあ」
「スズキ君こそ、なんだか今日の服装とか髪型とか、すごくかっこいいよ」
「そうかな。昨日美容院に行ってさ。俺、今まで床屋でさ。オヤジと一緒の。そう、子供のころから行ってるようなさ、壁に扇風機がついてるようなそんな床屋で髪の毛切って、学校に行くときはなんとなく、ドラッグストアで買ったワックスをつけたりさ、そんなんだったから、タナミさんが恥ずかしいような俺じゃ、行けないって思ってさ。朝風呂に入ったんだ。まあ、また寝たんだけどね」
なんだか俺は何を言ってるんだ? という気分と、俺は今しゃべっているのかな? という妙な気分に陥った。でもこれらはすべて現実なのだっていうことだけは俺にもわかっていた。
「ライブまで時間があるから腹ごしらえでもしない? マックとロッテリアだったらどっちが好き?」
「今日ラインで、なんかおいしそうなココアが来てた。あと抹茶ラテとかいうのも。マックだよ。マックにしないか?」
「いいね、抹茶ラテ。おいしそう」
マックに着くと、タナミノブエはパンプスの音を響かせながら階段を三階までどんどん上っていく。三階は喫煙コーナーだ。
「タナミさんってタバコ吸うの?」
「最近本数増えちゃった。でも別にやめようとも思ってないの。学校では吸わないけどね」
俺はダブルチーズとポテトのLのセットに、ココアにし、タナミノブエはフィッシュバーガーをセットにせずに、抹茶ラテをつけた。
「タナミさんって案外小食なんだな」
「わたしが十分育ってるからそう思うんでしょう」
そういってタナミノブエは笑う。
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
「わたしの好物は唐揚げ。女子によく聞かれる質問なの。好物は? って」
「俺も唐揚げは大好きだ。でもさ、俺よくわからないんだよな。なんでタナミさんが俺をライブに誘ってくれたのか。休み時間はサンデーやマガジン、ジャンプを読んで帰宅部の俺をさ」
「誰に聞かれても『秘密』って答えてたけど、本当言うとね、」
と一回言葉を切って抹茶ラテを飲み、
「スズキ君ってさ、お昼休みにいつも食べ終わったお弁当箱と箸と箸入れを、水道でざっと洗ってるじゃない。そういうのっていうのはね、例えばスズキ君の場合お母さんだとして、とっても助かるのよ。わたし中学生の弟がいて、お弁当を作ってるの。だからそういうのってすごく助かるっていうことがよくわかるの。それでねっていうわけ」
俺はやっと落ち着いた。俺が「サトラレ」ではないと思えた。でも今ゴールしたわけじゃない。スタートに立ったばかりなのだ。
「今日やる、知り合いのバンドっていうのは?」
「うん。それが昔の彼氏がいたバンド。今はいないけどね。でも今だに誘われることも多くて。それで付き合ってもらいたかったんだ」
俺はタナミノブエが処女ではないという確信とともに、それがどうしたという気持ちに突然切り替わった。まあ、タナミノブエがハシモトの言う、年増っていうわけじゃないが、未経験VS未経験よりも未経験VS経験者の方が勝手がいいだろうという、自分本位な考えも少し浮かんだ。それは確かにタナミノブエへの純粋な思慕ではないし、今目の前にいる、黒い身体にフィットしたワンピースを着ている、メイクをするとこんなにきれいなんだなあっていう、タナミノブエに対する純粋な気持ちではないのは俺も意識はできる。
マックを出るとき、タナミノブエはさっさトレーをかたずけ、俺のトレーもさっさと受け取ったかと思うとさっさと片付け、そしてさっさと出口へ向かう。そのさっさと行われたトレーの片付けのとき俺はタナミノブエがとてもいい香りがするのに気がついた。俺は並んでマックから出るとき、
「タナミさん、いい香りだね。まるでベビーパウダーみたいだ」
「あ、これ? これシャネルの5番。いい香りだって言ってくれてうれしいな」
タナミノブエはいつそんな癖を身に着けたのだろう。俺にはタナミノブエはいつでも急いでいるように見える。今だって周りを見渡したくなるような、夜の散歩に適しているような、そんな渋谷の坂道を早いスピードで歩いていく。タナミノブエのシャネルの5番の香りは俺まで届かない。けっこうな坂道だ。それをパンプスを履いて俺のずっと先を早足で歩く。俺はタナミノブエのマックのトレーをさっさと片付け、そして今、坂道を早足で歩くタナミノブエになぜか「アンラッキー」とか「不幸」とか、そんなものを感じてしまう。もしかしたら本当は、タナミノブエの前には冒険と言ってもいいような茫漠たる未来が待っているのかもしれないのに、シャネルやそういった急いだ感じは、俺にはとても小さなアパートを今、連想させた。タナミノブエは今、その背中で俺に何を感じさせようとしているのだろうか? いや、ただ単に急いでいて、背中で表現するなにも持っていないのだろう。
タナミノブエは脚もきれいなんだな。そうまた俺は気がつく。程よく筋肉がつき、その上にうっすらと脂肪のついたとてもきれいな脚。なんだか俺はいつも遅れて気がつくような気がする。そうタナミノブエのスタイルの良さは多分貧困からくるのだろう。タナミノブエの家族構成なんて知らないが、さっき聞いたように弟がいるらしい。中学生だ。タナミノブエは朝、その弟と自分の弁当を作らなければならないのだろう。とても急いで。時に弁当を早く作ることできたら、多分タナミノブエは、洗面所で髪の毛をくるくると巻くのだろう。だってシャネルじゃなくてもいいわけだ。口紅も香水も。けれど毎朝弁当を作らなければならないタナミノブエにとってはやっぱりシャネルなんだろう。
会場の外に立つタナミノブエはいろんな人と話していた。その中にあの「太郎」か「ジョン」がいた。タナミノブエは挨拶をしたりとかそういうのをたくさんの人たちに繰り返している。そう、今朝おふくろがベランダでスズメみたいにピーピー鳴いていた、それとそれほど違わない会話だ。その中でもタナミノブエはぬきんでて若かった。周囲の人たちはだいたいが30代かよくて20代後半に見える。それでもタナミノブエは臆さない。俺はタナミノブエにやっと追いついて、その中に入ることもなく、ただ立っていた。そしてまた思っていた。自分よりだいぶオトナな人間と臆することなく話せるっていうのは、それは恵まれ、豊富な人間か、または少なく貧しい人間、そのどちらかだっていうことだ。俺は特別豊富でもない。けれど多分タナミノブエは本当の貧困を味わった時期があるかもしくは今貧困なのかどちらかだ。
タナミノブエが会場へと階段を上っていく。俺もすぐ後に上る。そしてライブハウス入口で2500円を払う。1ドリンク付きだ。それは前もってタナミノブエに聞かされていた。そしてそれを聞いてからいまだに俺は悩んでいる。「1ドリンク」。それを俺は怯えていたんだ。俺はハシモトに相談済みだった。ハシモトは「ジンライム」がいいんじゃないかと言っていた。そういうハシモトだってジンライムを飲んだことがないらしい。けれど俺たちが共通してファンのRCの曲、「雨上がりの夜空に」という曲にジンライムは出てくる。よっての「ジンライム」だ。ハシモトはビールはやめておいた方がいい、とアドバイスしてくれた。大変苦くて、それをおいしいと思えるまでには最低でも半年はかかる、というのがハシモトのアドバイスで、ハシモトはそれは誰もが陥りやすい罠だと説明してくれた。
タナミノブエはカウンターで
「ビール」
と言った。そして俺は
「ビール」
と言ってしまった。そうだ、人生ノリっていうやつだってあるだろう。それに近いなにかが俺にタナミノブエの「ビール」というノリやリズムに乗って、俺も「ビール」と言ってしまったのだろうと思う。すまないハシモト。せっかくのアドバイスだったが。
座っている人はまだまばらだ。俺たちは前の方のパイプいすに座って、ビールを静かに飲んでいた。もちろんライブ会場には常に何らかの音楽が流れていた。けれど俺は妙な静けさを感じていたんだ。そして安堵していた。タナミノブエもコートを脱いでいたし、俺もダッフルコートを脱いで膝の上に置いていた。そしてしばらく黙ってビールを飲む。そして俺はとても安心したんだ。もしかしたらタナミノブエが俺に俺を「サトラレ」ではないと教えてくれたせいかもしれない。タナミノブエは直截に「スズキ君はサトラレじゃないよ」と言ってくれたわけではない。ただ物腰や話し方、表情、そういうものを総動員して俺の心を静かにし、安心させてくれる。タナミノブエはそういう女だった。
一回席を外したタナミノブエは戻ってくると、小さなガラスの容器に入ったナッツを持っていた。
「ビール飲みながら、これでも食べようよ」
そういって俺の方にナッツを差し出す。俺も食べた。その差し出した手も、ビール飲みながら、これでも食べようよという言葉も、その表情だって、俺にはなんていうか、とても優しい保母さんに見えたんだ。俺が本当に4歳の子供でタナミノブエが優しい保母さんだったのなら、きっと俺は抱き付いていただろう。そう、そのシャネルの5番、ベビーパウダーのような香りの中に。
ライブが始まった。俺にはどんなジャンルの曲なのかよくわからなかったけれど、もしかしたら人生初のビールに酔っていて、もしかしたら隣のタナミノブエの香りに酔っていて、もしかしたら、その俺も真似をする会場の揺れに酔っていたのかもしれなくて、安心からきているのかもしれないが、まるでこのライブ会場が俺を包む胎内で、そのなかでコートも脱いで身体も軽く、ゆっくりと揺れているような気分だった。そしてもしかしたら「安心」には必ずしも「確実」を必要としないのかもしれいな、と思った。
ライブは終わってもタナミノブエはなかなか帰れないらしかった。次々と話しかけてくる人たちがいて、その人たちに挨拶をしたり、「お久しぶりです」なんて言って、もう一杯のビールを注文していた。
「タナミさん、今日やけにかわいい男の子連れてるね。新しい彼氏?」
「その予定なんだけどねえ」
俺はただビールの少し残っているグラスをみながら、少し明るくなったライブハウスの中のパイプいすに座って、その言葉を聞き、俺は反芻した。その予定、その予定、予定、予定、予定、予定、予定、っていう風にだ。
今まで、例えばハシモトが「漫画家になる」っていう風な、確固たる目標とか「なにものかになる」っていう目標すら持っていなかった俺だ。俺はただ、高校を卒業したらおそらく大学に行くんだろうし、大学を卒業したら、どっかに就職して働くんだろうなあっていう、それだけのなにもないっちゃなにもないそんな未来しか考えなかったし、それを風呂の中でそうだ、大学に行ってそこを卒業したら就職してやろう! というようなそれすら明確に意識していなかった。サンデーやマガジン、ジャンプの中の登場人物のように波乱万丈な冒険をしようとも思っていなかった。その漫画の一コマ一コマに俺の顔を見ることもなかったし、想像すらしなかった。そんな俺にさっきのタナミノブエの「その予定」という言葉は俺には刺激的過ぎた。それは俺の人生の予定になかった、それこそ「なにものかになる」っていう風に俺は感じた。暗い井戸の底に座っている俺の目をペンライトが射るような、そんな言葉だった。とてもまぶしい。目を開けていられない。
タナミノブエは俺の先陣を切って歩く。また早足だ。俺も少し急ぎ気味にタナミノブエを追いかける。俺はひたすらタナミノブエの脚と、その足が履くパンプスだけを目で追って歩いていた。
そして俺は突然気づいた。渋谷のかの有名なホテル街。俺とタナミノブエはそこにいて、タナミノブエは俺を待っているのか、ガードレールに座るようにしてタバコに火をつけていた。酔っ払ったおじさんが通る。タナミノブエに声をかける。タナミノブエは慣れた風に、一瞬でそいつをやりすごす。おじさんは
「かっこつけた女!」
と大声で言って、振り返り振り返り先へ行く。俺もやっと追いつき、タナミノブエが寄りかかるガードレールに座って、タナミノブエにタバコを一本もらって吸ってみる。タバコっていうのはこんなものか、大したものじゃない、そう思う。ビールだってどうということもなかった。タバコだってこんなものだ。初めての時は緊張するとおふくろは言ったが、俺は今のところ難なくクリアできている。
「明日、予定ある?」
「ないよ」
「じゃあ、泊っちゃう?」
「そうしよう」
俺はきっぱりと言った。振り回されがちだった、流されがちだった、決定に従順にしたがうだけだった、どうでもよかった、そんな俺が「そうしよう」と言った。
ホテルに入ると、タナミノブエはお風呂入っちゃいなよと言うので、従順に従った。俺は決めていたのだ。運命や流れや、人、そう、時には両親、それらには抗う。けれどタナミノブエには従順でいようと。
俺は今日一日、朝からを回顧して、不思議な気持ちになった。なかなか風呂に入れなかった。それはどうしてなのだろう。よく覚えていないが、このカーテンレールにつる下げたダッフルコートをコーヒーをちびちび飲みながら、どのくらいの時間を過ごしたのだろう。確か俺は7時半ころ起きたじゃなかったっけ? そしてまた寝た。朝風呂に入って髪をセットしたが、それからまた寝てしまった。それによるヘアスタイルの乱れっていうのはそう致命的でもなかったみたいだ。
俺は身体を洗い、髪を洗って、タナミノブエが湯をはってくれたバスタブにジャンプして入った。少し着地は乱れたが、転んだわけじゃない。そうだ、俺はこれからの人生をこう思おう。
「少し着地は乱れたが、転んだわけじゃない」
っていう風に。
風呂からバスタオルを腰に巻いて出てくると、タナミノブエはさっさと服を脱いで、さっさと風呂に消えていった。
乱れた着地ではあったが、そう、俺は転んだわけじゃなかったんだ。俺はベッドに横になり、枕もとのパネルを操作してみると、いろんな風に照明が変わっていく。そしてさっき思った「転んじゃいない」という気持ちが俺を奮い立たせる。タナミノブエが初めてじゃなかろうと、俺が童貞だろうと、そんなことはどうでもいいことだ。しばらくドライヤーの音が聞こえる。そのドライヤーの音は時報に似ていた。電話で時報を聞き、時計をセットする。今セットするべきなにかはないが、それでもそのドライヤーの音は時報に聞こえる。俺は何かをセットしようとしているのだろうか? 時報のタイミングで何かを始めようと思っているのだろうか? そのタイミングを迎えたとき、俺は今の俺から次の俺に変わるとでもいうのか?
ドライヤーの音はとうとう止まった。タナミノブエはすっぴんでピンク色のバスローブを着ていた。そしてベッドの上、俺の横に腹ばいで横たわる。俺はマックで飯を食ったときから気がついていた。タナミノブエは真っ赤なマニキュアを塗っていた。その細い爪で、細いタバコに火をつけ、俺にも一本タバコを渡し、赤い爪で火をつけてくれた。
そして冷蔵庫からビールを一缶取り出し、
「スズキ君はどうする?」
と聞くので、そこは俺も虚勢を張らず、
「コーラでいいよ」
と答えた。
そしてタナミノブエは灰皿に置いた先が少し灰になっているタバコを手に取り、ビールをごくごく飲みながら、タバコを吸い続ける。
俺はこれは男っていう、圧倒的に女よりふがいない存在にとって、人生最大の目標なんじゃないかって思えた。タナミノブエは腹這いになったまま話し出す。
「あのね、わたしの実のお父さんっていうのがさ、とにかくギャンブル中毒でね、普通のさ、アイフルとかアコムとかそういうの、限度額いっぱいまで借りちゃってさ、仕事もしないでスロットばっかりやってたのね。それでね、ある日帰るなり泣くの。『俺は借りちゃいけないところから借りちまった』ってね。そうそう、闇金よね。それでもね、不思議とお母さんはお父さんのこと責めないの。いつも言うの。『お父さんはかわいそう』ってね。でもそうなのかな? 仕事もせずスロットばっかりやって、闇金にまで手を出すお父さんて、可愛そうなのかな? でね、私小5で生理がきたの。そう、初潮っていうやつ。でもね、お母さんに生理用品を買ってくれって言っても、そんなお金はうちにはありませんって言うの。その時初めて思ったのかもしれない。わたしにはお母さんもお父さんもいらないって。そう大丈夫。きっといらないって。わたしはね三兄弟なの。弟と妹がいる。弟は中2で妹は小6。妹も今年生理になってね、わたしにはなかったこと、でもわたしが妹に絶対にしてあげたかったこと、そして多分妹にしたら迷惑なこと。お赤飯を炊いたのね。そして妹と弟と夕飯にお赤飯を食べたのね。そうしたら妹がうつむいたままポロポロ涙をこぼすの。わたし初潮がきたっていう証のお赤飯が恥ずかしいんだろうと思って、黙ってた。弟もなぜか黙ってお赤飯を口に運んでた。するとね涙を拭きもせず、妹が言うの。『わたしの家族はいい家族』そう言って泣くの。そしたら弟も泣きだしてね、弟も言うの。『俺の家族はいい家族』。そしてね、とうとうわたしまで泣いちゃった。そうそう、お父さんとお母さんはね、わたしが小6の時に一緒にどっかへ行っちゃった。それからは3人で暮らしてる。でもね、そういう境遇っていろんなこと諦めなきゃならないって思うでしょう? でもわたしは諦めなかった。高校だって奨学金で入ったし、そうね、来年から銀行へ就職するのも別に諦めたわけじゃない。お金をもらって広い世間を見たかった。それにはお金が必要だってなぜか思った。大学に行かないからって限定されるっていう風にも思わなかった。わたしの足でもって限定なんて蹴とばしてやるって思ってる。縦にも横にも広い世界を持ってやるって思ってる。シャネル? うん。どのくらいからだろう? 初めて化粧品を買うならシャネルって決めてた。お金持ちには笑われるかもしれないって思うけど、わたしにとってシャネルっていうのは、とっても意味のあるものだった。なんて言っていいか分からないな。そうね、とってもみすぼらしいアーティストが武道館っていう武器を使って輝くようなね。そうだな、一人の若者が仮面ライダーに変身できるようなね。そういうツールだって思ってた。でもそれを手にするにはお金が必要だった。そんなお金はうちにはないもの。だから高1の時からバイトをしてる。花の工場なんだ。レーンにね、ひとまとめにされた花束が運ばれてくるのね、それを急いで紙で包むっていうだけの作業。でも最初は難しかったな」
俺はそこまで聞くと、乱暴にタナミノブエを仰向けにさせ、びっくりしたような顔をしたタナミノブエにキスをし、この世の中にはこんなにもきれいでかわいくて、優しい女の子がいるんだなと、こんなにも、こんんなにも、こんなにも、と心の内で叫びながら、枕もとに置かれたタバコの灰皿が煙をたてていることもどうでもよくて、タナミさんを抱いた。
やはり俺の「モテたい」という気持ちと「やりたい」という気持ちの初源は同一なのだろうか? 俺はすっぴんでバスローブを着たタナミノブエがどうであろうと世界で一番きれいでかわいくて、優しい子だって思った。その瞬間に欲情の発作に襲われた。多分俺は童貞の紛失とともに初恋を環椎させたのだろう。
目の前にはまた真っ赤なマニキュアと細いタバコ、細いタバコの先からたなびく煙が俺の、いや、男のロマンが凝縮されて詰まっている。そう、これを男のロマンと呼ばずしてなんと呼べばいいのだろう。
「真心が詰まってないのよね」
男のロマンにライブハウスで飲んだビール以上に酔っている俺は一瞬「?」でしかなかった。
「つまりさ、スズキ君のセックスっていうのは、真心が詰まっていないセックスなのよ。それっていうのはわたしへの純粋な恋後ことか言っているわけじゃなくって、つまりセックスに対する真心が詰まってないっていうわけ」
「ごめん。乱暴だったかな」
「それはそれとして。でもね、セックスっていうのは真心がこもっていなければなんら気持ちよくないのね」
「なるほど」
なにが、「なるほど」なのか俺にもわからない。俺は「男のロマン」に酔って、さっきまでユニクロのパンツ一丁でいたが、なんだかもう服を着てしまいたいような気分になった。そうシップスのセーター、黒いスキニーだ。靴下だって履きたい。それもユニクロ製500円だ。部屋の中は暖房が効きすぎている。けど守られたかったんだ。
すると突然左の奥歯が痛みだした。ずきずきでもなければどーんどーんでもないんだ。ずっきーんずっきーんとでもいったような、口も開けられないような痛みなんだ。俺は仕方なく、ベッドにタナミノブエとは反対の方向を向いて横になった。俺は死ぬのか。初恋の環椎とともに一瞬でそれは瓦解した。そして俺はもう死ぬのだろうか。死ぬっていうのは大げさではない。本当に死んでしまうような痛みなんだ。俺の目から涙がこぼれ、横を向いていたから、涙は横に、下に、流れていった。それをタナミノブエは覗き込み、
「あれ? 泣いてるの?」
と聞く。見ればわかることだろう。
「やだ、スズキ君って、だっさ」
俺の初恋は、本当に環椎したわけではなく、「だっさ」で終了した。歯の痛みは口がきけるほどではなかったが、少し収まった。けれど本当の涙が出そうになって、そして引いていく。失恋で男は泣くというが、それがマジョリティーだとしたら俺はマイノリティーだ。そして今も思う。タナミノブエ。お前は俺を「だっさ」と表現した。けれどそんな風に表現されたって、俺はお前をきれいでかわいくて、優しい子っていう気持ちに何の変化もないぜ。そしてまたも俺は気付くのだ。また一歩遅れて。俺は欲情に促されるようにタナミノブエに惚れたわけじゃない。あの教室でタナミノブエの唇に塗られたシャネルを眺めていた時から、きちんと俺はタナミノブエに惚れていて、それゆえに苦悶し、もだえていたっていうことに。
まだ、深夜一時過ぎだ。それなのにもし窓を開けてみたら、もう白々と夜は明けていて、このホテルの窓のそばの電線に止まっているカラスがいて、すでに鳴いているような気がするのだ。タナミノブエは寝息をたてはじめた。今まで急がなくてはならない人生を歩んできたのだろう。だから急いで寝なくてはならないのだろう。俺はスマホを取り出し、ハシモトに
「残念な結果になった」
とラインをして、服に着替えてベッドに横になり、またスマホで渋谷からの始発を調べた。
朝方飲み過ぎの男たちが集まるラーメン屋があった。俺は腹が減っていて、その店に入った。担々麺を注文した。俺は口にしたラーメンが立てる湯気が顔にあたってあたたかく、そのあたたかさに、今度は本当の涙が出てしまった。俺は惚れていたんだ。なんだ。俺はありふれた、女に振られて泣く、マジョリティーじゃねえか。
ラーメンを食べ終えて外に出て駅へ向かうと、早朝だが結構な人が駅に向かっていて、その中にぼろきれの雑巾みたいな犬が混じっていた。「太郎」か「ジョン」だろう。
俺はコンビニでメビウスを買った。初めて自分で買ったタバコだった。俺は部屋にもどり、マライカで買った灰皿でタバコを吸ってみた。だからどうだっていう風にも思わない。それなのに、次のタバコに火をつけてしまう。そしてまた次も。そしてなくなるとまたコンビニへ行った。帰るとハシモトから着信があった。コーヒーを入れタバコに火をつけてかけなおす。
「おい! お前、茶色い犬知らねえか? いや俺だって変なこと言ってるってわかってるんだ。でもさ、なんだか雑種みたいな茶色い犬がさ、俺の部屋から出ていかないんだよ。餌でも釣ってみたんだけどさ。俺がなんか変なこと言ってるのはわかってて言うだけなんだけどさ、今からお前のとこに行ってもいいか?なんかそんな気分なんだよ」
「お断りだね。今俺は寛いでいる最中なんだ」
「じゃあ、なんでこの犬はいるんだ?」
「見たことなら数回ある」
「お前、童貞じゃなくなってから薄情になったなあ」
そうじゃない。薄情になったわけじゃない。ただ、怖いものが増えただけだ。
だって惚れた女に最終的に「だっさ」ととどめを刺されて、死を考えない男なんてこの世にいるのだろうか? 俺は自殺を考えた。けれどできなかった。自殺を考えて、思い直すっていうことがこの世にあるとは思えない。本当に死にたいと思ったときに、それを思いとどませるような現実や事柄なんてあるはずがなく、でも死ねないのは、その死への渇望に情熱が足りない。激烈な情熱が湧いてこない、それだけのことだ。
俺はタバコを吸いながら気がついたことがある。タナミノブエが貧乏だったっていうことだ。俺はそうじゃなかった。欲しいものは手の届く範囲にあったし、手の届かない範疇にあるものに、手をのばそうとしなかった。そして大抵の人間が、特に俺の世代あたりはそういう風に過ごし育ったんだと思う。そう、だからハングリー精神などないし、どうしても欲しいなにかっていうのもない。少しだけ手を伸ばせば手に入るからだ。どうしてもあのセーターが欲しいから残業するっていうそういう精神は持ち合わせていないのだ。けれどタナミノブエにはハングリー精神があった。それは生理用品という、とても必要でなくては困るもの、とても必要なものさえ手に入らない、そんな風に育ったからだ。そしてシャネルを欲しがる。タナミノブエはシャネルを買うために花束を包むバイトをしているのだ。手に入れられないものは欲しがらない、その群衆の中に埋もれ、必死で息をしようと、爪先立って顔を上げているのだ。シャネルの口紅とマニキュアと香水を手に入れるために働くタナミノブエはいるのだ。そして銀行に就職する。きっと将来のマイホームの夢なども見ているのだろう。俺たちは将来のマイホームなんてあまりにも遠すぎるし、リアリティーがない。けれど多分タナミノブエにそれはがあるのだ。
それ以降はなんのやる気もなかった。ただ、漫画だけは読めるようになった。というか読みすぎなほど読んだ。ハシモトはその「漫画を読む病気」を早く治せよ。と言ってくれた。久しぶりになにか心が動いた気がした。授業も真剣に受けたが、頭には何も入ってこなかった。ただ国語の授業中、俺は国語の教科書に耽溺した。失恋。失恋のとき、男はどうやって、どんな風に立ち直っていくのか、それをくまなく探していたのだ。国語の教科書には、何らかのメッセージが表現されていたが、その表現についていけるほど俺には体力が残っていなかった。休み時間も漫画を読んだし、家に帰ってからも漫画を読んだ。友達と遊ぶどころか、ラインが来ても返事をしなかったし、口もきかなかった。漫画はもともと好きだった俺だ。こんなにもいつも漫画を読める俺を幸福だと思おうとした。けれどとっくに気づいていた。タナミノブエは廊下ですれ違っても俺の方を見ようとしなかった。俺は本当は
「おう! 久しぶり!」
っていうような言葉をかけてみたかった。
そういえば漫画を読んでいるが、確かに読んでいるのに、何も頭に入っていない気がする。なにもかも上の空なのだ。ハシモトの言う、「漫画を読む病気」とは漫画を読むことを強制されているような気がするっていう、それが病気なのかもしれない。
空を見れば必ず曇天。必ずだ。雨が降るわけでもないし、たなびく洗濯物にお似合いの晴天でもない。つまり俺の見る空は雨でもないし、太陽も照らさない。有益ではない曇天ばかりを眺めている気がする。
大学受験の日がやってきた。一応先生の言うとおり、第一希望、第二希望、第三希望と受験しなければならなかったが、俺はその三日全部、渋谷で過ごした。俺は、タバコを吸うようになっていて、オヤジに嫌味をさんざん言われてもタバコをやめる気はなかった。マックで煙草を漫画を読みながら数本吸うと、代々木まで歩いた日もあった。その日はフリーマーケットが開かれていて、誰かと口をきくのが嫌だったから、服を買うわけでもなく、コミュニケーションを取るわけでもなく、その間を塗って歩いていた。
誰かにわかってもらいたいなど思わなかった。わかられたら急いで消えてしまいたい。わかってなんか欲しくない。
自分をみじめだと思った。けれどそれを以前のように「タナミノブエのせいだ」って思うほどにはもう俺は子供じゃなくなっていた。
当然大学に受かるわけがなかった。俺はもう誰とも友達になりたくなかったし、誰とも知り合いたくなかった。それでよかった。しゃべるという行為は不安を必ず伴うし、誰にも、そうだ、コンビニのレジ以外では誰にも話しかけられたくなかった。
俺だって薄々気づいていた。俺は多分死んでいる。けれど死ねないという足かせ、それは湧き上がる情熱と、高いテンション、それがないという足かせで、その足かせががあるから死ねないだけで、本当は死んでいる。もしかしたらそういう「育ち」なのかもしれなかった。
親は心配したが、俺はもう大学に行く気はないのだと説明し、近所のセブンイレブンでバイトをはじめた。年がら年中行っているセブンだ。なにをやるかっていうことだって少しは把握しているような気がしていた。難なく深夜のコンビニ店員になれた俺は、寡黙に仕事をした。
俺はタナミノブエとの一件のあったあと、明日、どこかに出かけるっていうとき、必ず部屋に荷物を用意するようになっていた。俺が主に使うバッグは三つあって、その時々の、荷物の大きさによって、バッグも選んだ。そしてバッグの中に詰めていく。ハンカチ、ティッシュ、歯磨き粉と歯ブラシ、バンドエイド、ウエットディシュ、家の鍵、パスモ、正露丸、ロキソニンだ。これらのものはバッグの大きさにかかわらず、バッグに入れたものだ。そしてなにか羽織るかもしれなければ、さらに大きなバッグが必要になる。
オヤジが、仕事前に飯を食う、俺に向かって、言った。
「なあ、お前さ、車の免許をとって、車を持ちたいとか思わないのかよ」
いつの間にか静かな家になったなとオヤジの言葉を聞きながら思う。リビングではなにかバラエティーをやっていて、時折笑いが混じる。俺は顔を上げて
「別に。思わないけど」
と言いながらオヤジの顔を見たとき、オヤジがなにか、へつらうような顔をしていることに気がついた。
そしてその仕事へ行く前に必ず行う儀式があった。俺はあのタナミノブエとの別れの後、歯医者に行ったのだが、レントゲンをとってもどこも異常がないっていうことで特に治療もなかったし、痛み止めももらえなかった。俺はセブンで働きだすようになってから、ロキソニンを飲むようになった。だって虫歯がないというのに、あの時、とても大切なあの時、俺は涙を流すほど歯が痛んだんだ。俺はセブンで働きながら涙を流すのはまっぴらだった。セブンに行く1時間前には必ず、ロキソニンを1錠飲んで準備した。
寡黙であり真面目に働く深夜のコンビニ店員。今の俺はそれだった。俺は何も見えなかった。いつもバイトで組むクニマツ君も透明なら、深夜に運ばれてくるパンやおにぎりを所定の位置に並べていても、そこには何もないような気がしていた。不思議なことだが、その一方で、クニマツ君の少しあるニキビはビビッドで、パンもそう、お菓子もそう、店にあるものみなビビッドに俺を襲うかのように見えるのだ。客はたいていほしいものを持ってきて金を払い、またおでんを買ったり、ホットスナックやドーナッツを買う客もいた。そいつらは俺の世界にいない人間だった。そいつら自身に俺がいないように。その関係性はとても心地よい関係性だった。
けれど俺はへまはしたくなかった。クビになるのは怖かった。あくまでも受け身でよく、なにもない、そう、死んでいるのと変わらないように同じように働いて、帰りに少しおまけをしてもらってビールを一本買い、タバコも買って、家に帰る。俺にはそれがちょうどいいように思えた。ただ俺は酒を飲みすぎたりはしなかった。自分を失うことを快感とするような、人生からの一瞬のずれ。それを俺は嫌った。そんな姑息な真似をしなければならないのなら、いっそ死んだ方がいいっていう思いが、その「思い」だけが俺を「生」の世界へつないでいるのかもしれなかった。そしてそれには情熱は必要ではなかった。ただの判断に過ぎなかった。
たいていの相棒はクニマツ君で、クニマツ君は働き始めたのも一緒だったし、それなりに話すこともあったが、最近朝、エナジードリンクを買って飲むことが増えた。それを少し俺は鈍いのか、
「クニマツ君、なんで最近エナジードリンクばっかり飲んでるの? 研究?」
と声をかけたら、
「スズキさんにはわかんないんだろうなあ。朝俺は時にエナジードリンクを飲む理由っていうのが」
「具合でも悪いのかよ。それともなんか用でもあってオールするの?」
「ずっと聞いてほしいって思ってたのにそれですかあ。俺はねそう、オールしなけりゃならない理由があるんですよ」
「何?」
「女です」
「えっ、女? クニマツ君に女?」
「馬鹿にしないで下さいよ。スズキさんは童貞じゃないと思うけど、俺は童貞です。女も処女でさあ。うまくいくかわからないけど、最善を尽くそうと今、デートに行ってるんです。俺には何回目のデートでホテルに誘っていいのかわからないんだ。童貞らしい童貞の苦悶。彼女は学生だから昼間に寝ないでデートっていうわけ」
「接近戦は近そう?」
「わかりません。ところでスズキさんは処女とやったことありますか?」
「処女はいいぞ。他を知らないんだから。でも勇気ある勇者であれば、熟練した女でもいい」
「そうっすかね」
「熟練した女は」
俺はロキソニンを飲んでいるのに、涙が出そうになった。そしてやっと
「熟練した女は、母性があるから」
とまで何とか言った。
そんなことを言いながらパンを並べていたら、客がきた。俺はいつになく高い声で「いらっしゃいませ」と言えた。女の話がしたくてたまらないクニマツ君がほほえましかった。俺のような失敗はするなよと、俺の経験をクニマツ君に言えるほど、俺は生きているわけじゃない。
ハシモトから久しぶりに電話があった。
「飲まねえか」
っていう俺たちも少し大人になったなあって感じさせるような、誘い方だった。そしてそのハシモトの言い方はなんというか熟練を感じさせるものだった。
俺たちは笑笑で落ち合った。「とりあえず生中」っていうオーダーの慣れにも驚かされた。
「お前さ、あの時からどうなっちゃったんだ? 誰とも口をきかなくなったし、大学もあれ、本当に落ちたのか?」
「落ちたから行かなかった」
「ほら、やっぱり。行けなかったんじゃないんだろう。行かなかったんだろう」
「いいじゃねえか」
「ところでさ、俺、漫画家デビューできたんだ」
「なんだ。めでてえな。よかったなあ」
「何食う?」
「俺唐揚げと焼き鳥とシシャモ」
「じゃあ、サラダとか俺が適当に注文するわ」
運ばれてきた料理をお互い笑顔で囲む。おいしいものを目の前にはさんで笑顔でいられるっていうことは本当の幸福の姿だ。
「俺はさ、酒は飲む。俺セブンの深夜のバイトしてるだろ? 帰って一本だけビールを飲むんだ。タバコを吸いながら、漫画を読みながらね。そして歯を磨いて寝る。今はそういう生活を送っていて、そこに何の不満もないんだ」
「ふーん」
「お前みたいなさ、なにかを目指して頑張るっつーの羨ましいって高校の時は思ってた。でも今はそれほど羨ましいって思っていない。俺の生活の方が荒波も立たないし旗も大きく揺れない。一番ブルブル旗が震えていた時はもうとっくに過ぎた。そしてそれらをもういやになった。だから、旗を震わすような、心の内を震わすようなそんな出来事が起きるリスクを最小限にしたいと思ってる。そうして過ごしてる」
「つまんなくないのかよ」
「つまらないより怖い方が俺は怖い」
「俺は俺のもてる情熱をみんな漫画に捧げてきた。そうして今がある。お前の情熱はどこに行くんだ?」
「情熱なんて持ってみたって、それを注ぎ込んだって、失敗はあるだろう? お前はなん回も失敗を繰り返してもいい、そういう作業を続けてきたんだろう? でも俺は注ぎ込んだら歯が痛みだしたんだ。そして今、熱くなって服を一枚一枚脱いでいくような情熱が湧いたとしたら、俺は多分生きられないだろう」
「歯? なんだ? 情熱と歯って?」
「そう、笑い事じゃないんだ。歯だ」
「そしてさ、俺は今女の偉大さを知っているんだ」
「俺もだよ。女っていうのは弱いんだか強いんだかわからない。偉大だよなあ。たいていの女が持ってる母性っていうのもさあ」
その後はグダグダと最近読んだ漫画の話とか、ハシモトの女事情が以外にも結構乱れている話とかに驚いてみたり、そんな話をして過ごし、お互い大いに食欲を見せつけあったが、俺は酒を途中で飲むのをやめた。
「なんだよ。もっと飲もうぜ」
「俺は俺を失うような、そんな姑息な真似はしたくないんだ」
「全く。旧友と飲んでもよ。つまんねえ奴」
帰り際、ハシモトは結構酔っているようにも見えたが、俺に最後にこう言った。
「鎖なんて食いちぎって、地面を嗅ぎながら探し回るんだ。時々太陽や月を見上げてね。泣いてるんじゃねえぞ」
ハシモトはとうとう「漫画家」になったのか。俺はといえば「セブンの深夜の店員」になった。それを、ハシモトが漫画家になれたっていうように、俺は「なれた」っていう風には言えない気がした。そして俺の人生に「なれた」という出来事や事件がなくても全くかまわないし、そんなことは避けたいとも思った。そんな旗が今更、童貞でもあるまいし、ぶるぶる震える高校生のような、起伏や揺れはまっぴらごめんだった。そして今知っているのはセックスとは一人でするものだということのみだ。
そして一年が過ぎたころ、夕方起きて、パンを食べ、歯磨きをしながら洗面台に映る俺の顔を見ていたら、髪に一本白髪が混じっているのを発見した。いやな予感がした。それは厄介な客だっている。無理難題を言う威張った奴もいる。酔っぱらいもいる。でもその日のいやな予感は妙に大きかった。なにかとても致命的な出来事が起こるんじゃないかっていう、そんな予感だった。俺はいつもの日常にそんなことが起きるのはまっぴらだった。俺は寡黙なコンビニ店員だ。
俺の顔を見ているとそのいやな予感はとても大きなものとなった。そして俺の顔っている俺の顔はこうだったっけ? って思うほど、その日の俺の顔はおかしなものだった。
俺は一本だけ、とオヤジのビールを開けた。目の前のなにもかも何ら変わらないし、いやな予感だってそのままだ。そしてもう一本、もう一本と空けていく。飲みながら俺は思う。俺は飲んで自分をだまそうなって思っちゃいない。自分じゃなくなろうなんてことも思っちゃいない。ただいやな予感を追い払おうと飲んでいるのだし、別に酒に酔ってもいない。ただ俺の上に低くあるずしりとした曇天を、晴天にはできなくても、その鬱陶しい曇天が、少し上の方に上ってくれればいいだけだと思いながら、次々とビールを空けていただけだ。
俺はいつもの儀式通りロキソニンを飲んだ。するとその一錠でその箱は空になった。俺は念のためとロキソニンのもう一箱を開けた。もう一錠飲んだ。これで持ち直したかと、また洗面所に向かって、鏡の前に立った。洗面台の灯りをつける。ニキビができている。そして見慣れない顔だ。その顔はまるでキチガイピエロが配っている風船のようで、その水色の風船はどんどん膨らんでいく。俺はこのまま破裂しちまえと願いながら、そうやって洗面台を見ている。それなのにその風船は破裂しない。どんどん大きくなっていくだけだ。俺の周囲は拡散した空気でできている。それなのにその中心にいる俺が、いつまでたっても風船をかぶっている。その風船はいつまでも強固らしく、破裂しないから俺はいる。拡散していかないのだ。拡散するためにはたくさん酒を飲むこと? まだ足りないのだろうか? 多分ロキソニンだ。それしかないのだ。俺はロキソニンを飲む。そうすることで深夜のコンビニ店員という立場を失わず、生きていながら本当は死んでいるという姿を貫くつもりだ。
思い出したくないこと、でもたまに思い出してしまうこと。あの時のタナミノブエはきれいだった。かわいかった。優しかった。もう一錠飲む。のんきに漫画を読み、テレビを見ていたあの頃に戻りたい。もしかしたら今も呑気なのかもしれないが、それは苦しみを伴うのんきだ。タナミノブエではないが、俺は最近切羽詰まっている。そして急いでいる。吸っているタバコは真ん中らへんで灰皿につぶし、また次の煙草に火をつける。赤いネイル。細いタバコ。俺は更に一錠飲む。外に出ると必ず傷はセットなんだろう? だったら俺は外に出る気なんてないし、しゃべりたくもないんだ。そこには必ずウソが混じってる。それは必ずなんだ。俺はそんなことを思いながらロキソニンを飲んでいく。まだだ。まだ足りない。コンビニの店員として、歯が痛みだし、口がきけなくなっては困るのだ。そう、準備は周到に。ハンカチ、ティッシュ、歯磨き粉と歯ブラシ、バンドエイド、ウエットディシュ、家の鍵、パスモ、正露丸、ロキソニンだ。そして周到に周到を重ねても、まだ足りない気がしてる。古典の教科書を忘れて、古典の授業を受けるのは不便だからだ。コンビニの仕事が終れば帰ってビールを一本飲んで、タバコを吸い漫画を読む。眠くなれば眠る。眠れなければ、オヤジのビールを借りる。いつの頃からか俺の部屋は、足の踏み場もないほど汚くなった。俺は部屋の隅、角に座って、弁当やサンドウィッチ、おにぎりを食べる。店でもらえるのだ。いつしか、それらの出るごみを捨てなくなったし、ビールの空き瓶だって、ごろごろ転がっている。脱いだ服も乱雑に投げ散らかされているし、あの時のシップスのセーターだってスキニーだって、どこにあるのかわからないし、見つけたくないっていうのが正直な気持ちだ。いろんなものを捨て、いろんなものを引き換えにして今の俺になった。それでいいのか? それでいいのか?
気づくと開けたロキソニンは空になっていた。俺はトイレを催し、立ち上がろうとしたが、ふらつく。けれど何とかトイレにたどり着き、便器に座ると同時に、下血した。血が一気に出た。尋常じゃない血の量だった。止まらない血は困ってしまうほどだった。トイレの中はほぼ血で満タンになった。俺はふらふらしながら血でぐしょぐしょになったパンツも履かず、トイレのドアを開けた。
おふくろが気づいたらしい。そして救急車を呼んだ。俺は意識がないというのに、
「おふくろ、俺今日仕事休む」
と言ったらしい。深夜に意識が戻るとオヤジもおふくろもいて、俺が目を開け、呂律も回らぬ口で
「ああ、腹減った」
と言ったら、
「お前、ほんっとアホだな」
そう言ってオヤジは笑い、おふくろも笑った。
「しばらく入院みたいだぞ。明日の老人が食べるような 病院食の夢でも見ながら、今は眠っておけ」
オヤジはそう言っておふくろは
「漫画ばっかり読んでるからあほになるのよ」
と言った。
「明日、また来るぞ」
不思議なことに、今更気がついたことがある。大学に行ったって不安だし、知人や友人を作っても、コミュニケーションをとってもそこには必ず不安が付きまとう。それならばいっそ、部屋を出たくない。漫画だけ読めればいい。俺はただ不安の大きさに比例するようなにロキソニンを飲んでいった。それはもしかしたら悲劇ではないのかもしれない。もしかしたら喜劇なのかもしれない。そのことに今気づくのだ。
朝になり、流動食と言う朝食。武士履くわねどと、悪くねえ。でもご飯をもっと盛ってくれなどと思って笑いたくなる。頭の上のブラインドに等間隔でまぶしいほどではないが、光が通っていくのに気がついた。俺は出たら、この光の意味を確かめようと思っていた。
そして退院の日が来た。午前中に迎えにきたオヤジとおふくろは、俺がマメ大福をむしゃむしゃ食べている最中にやってきた。心配をかける息子がむしゃむしゃとマメ大福を、元気いっぱいに食べていると、親っていうのは腹が立つらしく、
「おまえ、禁煙」
と切って捨てた。そして俺が俺のいた病室のブラインドから等間隔に見える光はなんなんだ、とオヤジとおふくろに聞くが、わからないと言う。
「オヤジ、あと会計と薬だけなんだろう? 俺、先に帰ってもいいか?」
「いい加減にしろよ。全部お前の巻いた種なんだぞ。だいたいなんであんなにたくさんロキソニンを飲んだんだ?」
「うまく言えないけど、つまり不安を消すためだったんだ」
「あのな、たいていの女の子がよくよく見るととてもかわいいんだ。覚えておけ」
俺は今度は黄な粉がまぶされたおはぎを買い、それを牛乳を飲みながらむしゃむしゃ食べた。そしてオヤジとおふくろ、俺の3人で外へ出るとあっぱれな晴天だった。
「おふくろ、今日洗濯したのか?」
「当たり前。あんたの布団と枕も干しといたわよ」
「ありがとうな」
俺は親に「ありがとう」なんていう言葉を言ったことがあるだろうか。風呂に入るとき、「おふくろ、バスタオル」と言ってそれを手渡されても、礼など言ったことはなかった。俺は甘え過ぎていた。手に入るっていうことに慣れ過ぎていた。探そう。欲しがろう。求めよう。
「オヤジ、金貸してくれねえか? 今度ばっかりはちゃんと返すからさ」
「何が欲しいんだ?」
「うん、免許を取って車に乗りたいんだ。どこに行きたいっていうのでもない。でも運転して、どこまでも走っていけば、なにか拾ってみたり、話してみたり、見つけてみたりっていうことがあるんだろう?」
俺が病院の後ろの方にぐるっと回り、俺のいた病室辺りの外をくまなく見てみたが、光の正体はそのときはわからなかった。でもいつかわかるに決まってる。それは俺が探し、欲しがり、求めるからだ。目の前を「太郎」か「ジョン」が堂々と通っていく。そして俺の目の前を通り過ぎるとき、その大きくそのぼさぼさで太い尻尾を振って見せた。「太郎」か「ジョン」に会うのもこれが最後なのだろう。太郎はその嗅覚でもって、またへんてこなドラマを探し、遠くに行ってしまうのだろう。なにかっていうことはわからない。どうしてっていうことは、薄々わかっているような気もする。あのタナミノブエとの徹底的な別離の後、俺はとても狭い、俺の身体にはとても小さすぎる、そんな押し入れのような暗くて湿った場所に、カビ臭いその中に、俺はコンパクトに入っていたかったのだろう。そしてその中が暗く、静かであれば俺はそれでよかったのだろう。俺の1クール目は一応拍手喝采のもととはいえないが、無事終えたのだ。とても静かにそれは終わった。それが残したのは食欲だった。
家の玄関にはピーちゃんというセキセイインコがいる。俺が帰ると、ケージの壁に張り付いて、しばらく騒いでいる。そして俺は餌を交換した。するとピーちゃんはまるでむきになるように必死に餌を食べている。そして俺には伝わった。一生懸命生きるということをピーちゃんはその必死で食べる姿、旺盛な食欲で表現している。俺はしばし感動に浸った。そしてピーちゃんに
「俺だって、食欲ならピーちゃんに負けないぞ」
と言ってみた。ピーちゃんは一回顔を上げ俺を見て、もう一回餌に食らいつき、また頭を上げて俺を見る。俺はアディダスの靴を脱いで思った。
なにか変わるのかもしれない。そしてなにも変わらないのかもしれない。次のドラマの中では、俺は多分白い車を運転しているだろう。車体に細かい傷は無数にある。けれどあくまでも真っ白な車だ。鎖を千切って、嗅ぎまわる。そう、ハシモトもそう言った。俺は曇天にばかり気を取られがちだが、今日は美しい晴天だっていうことにも気がついた。そう空はいつも曇天っていうわけじゃない。雨が降るならその雨を受け、そして晴天なのなら、陽光に目を細めよう。
そう少し着地は乱れたが、転んだわけじゃない。そしてそれは俺だけじゃなくって、多くの人に助けられ気づいたことなんだ。