「るーだ、つぅーだ、るーだ」
「るーだ、つぅーだ、るーだ」
言って一番ビビったのは多分、目の前のあなたでなくて、言った本人のわたしだけれど、ええぃ、狼狽えるな。
思えばずっと、スイッチに指は掛けてたんだ。押さないだけで、押そうかどうか迷い続けてその親指を、ぷるぷると震えさせながら。
その情けない体たらくを、わたしの中の本能とか、溜まり過ぎたストレスとかが、見兼ねて、後ろから背中をどついただけだ、意表突かれて、思わずどつかれた方のわたし自身は慌てふためいてしまったけど、何という事はない、落ち着け、むしろ、予定通りだ。
初めて見た気がするよ、いつも落ち着き払ったあなたのそんなに素直な驚いた顔。知らなかったでしょう、安く買ったような猫でも時に、引っ掻くこともあること。
タンと、音がして木の床。
高い舞台は暗転して、サキの言葉だけが暗闇にハウリングしたマイクで響く。
「そういうことここでしてさ、いいと思ってるの?」
暗闇、小さく丸く湿った舌が入ってくる。
「バカみたいなことにこだわってる」
がたがたいって、2つ身体が反転する。
あぁそれは。
いってみれば、小一時間ほど前までガッツリ寝てました。より正確に言うならば、枕にヘッドスライディングするような格好で。ということを如実に物語る髪型のままで堂々の一時間半遅れで待ち合わせ場所にやってきたセンを見て多分、痛いけど、いけふくろうの石像を蹴り飛ばしたくなった。でも、そんなわたしの心中、あなたは知ってないでしょう、やたら、女子みたくふりふりした袖のシャツから伸びた細い指でわたしの脇腹をさらりと撫でて、すまんって言うから、怒りや遣る瀬無さは、喧騒に巻き上げられて、人波の斜め上、ガスで上がってしまった、行き場のないヘリウムガスの風船みたく、天井でふわふわしてるんです。
いや、ドーナツなんて食わねぇし!
差し出されたそれに、思わず男口調全開で言ってしまって、しまったと思ったら、センが笑っていて、そんな些細な、救われたような安易な平和。
棋士の光。
緊張してた、初めてあなたの部屋へ行く道中。多分、あなたも緊張してたんだ。今なら分かる。
飲み物買ってこう、コンビニに寄った。全然飲みたくない、つーか飲んだことないのに、何故か、レモンスカッシュ500ミリとか攻めのチョイスをしてしまった自分を、いかん、動転しとる、落ち着け、だがしかし、もうここで、やっぱ変えますとか言えんと、お金を払ってくれるあなたの指を見ていたんです。そうしたら、100円玉をつまむあなたの指。中指を上にして、人差し指を上向きのまま下に入れて2本で挟んで、ピシリと。その手つきがいつもそばで見てた将棋の駒を持つそれと全く同じで、わたし、心底ほっとしたの、あなたは知らないでしょう。
それで、安心し過ぎて泣けてきただけなのに、あなたはわたし以上に驚いて、やっぱやめようとか、ごめんごめん、そういうことじゃなく、笑えて泣けて、言えば言うほど、伝わらなくて、この恋心の持て余し具合。
あなたの焦りとわたしの安心の余った部分をチョキンと切って結んでリボンにしたらば、そりゃ素敵になるはずなんだが。
古ぼけたアパートの、カンカン鳴る階段を途中まで上がったところで、室外置きの洗濯機の陰に黒猫のごとうずくまった君を見つけてしまった月夜の後悔。あや哀れと近づかない方がいいぜ。爪もあるぜ、過去に引っかかれたこともあるはずだぜ、忘れたかな。
近づいた僕を見て、待ってたはずなのに、驚いたような顔で立ち上がる。久しぶりに見た君は、髪がのびていて、ああこんな、大きな目をしていたっけ。細くて、壊れそうで、知らなかったよ、綺麗な人だったんだ。はいなはいなと、なんだろ、舞台の正面を観客の邪魔にならんようにと中腰で通り抜けてく人のように、僕の脇をすり抜けていこうとする、そのニットの水色のセーターの肩。うすい皮膚から盛り上がった骨の隆起、そのあたりの青いおおきな痣。ちょっと待てよ。掴んだ手首から伝わるひんやりした冷気。
その冷たさで、別れてからのち、2人の間に別々に経った時間を知る。
古ぼけたアパートの、コンクリの剥がれかけた細い2F通路にピンと張られて伸びた君の腕。繋がった僕の手。
どうしたの?
ごめんなさい。もう帰る。
その痣、どうした?
・・・・。
まだ、あいつといるの?
・・・・
お願い。今日はこのまま帰らせて。
溜息をついて、ゆるめた隙にすりぬけていく手首。見上げた空に月はみえなくて、カンカンと、錆びた階段の鳴る。
長く続いた試合が突然、ゴール前の反則からのPKであっけない幕切れとなった午後、君は突如言い出す。パチリとテレビを消して。
「もうさ、なんならいっそ、引っ越そうよ」そりゃ青天の霹靂のごとく空から落ちてきたこれ以上ない、名案のごと、人差し指を立て(きらーん)、腰に手を当てて。そのポーズ、実際にする奴初めて見たな。
「それ、夜逃げじゃん」
「ちゃうねん。昼間に堂々と引っ越すんや」
興奮しすぎて大阪弁になってる。ぺりぺりと、繊細な和紙で出来てるような複写紙を何枚も、ぺしりぺしりと、あれだな、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ的な要素でもって、畳に一枚一枚重ねて、随分溜まったもんだと呟くと、ガッと両手で掬って、ばっと出窓に駆け寄ると外へ投げ捨てた。
「わー!!」
バカだろお前。何、借用書、投げ捨ててんだよ!
「チミ」ぴしりとさきほど天井に向けられていた、人差し指の指先をこちらへ振り向けると、「いささか、びびり過ぎだぜ。そんなじゃ、人生という海は、渡ってはゆけないぜ」
それ聞いて俺は叫んだね、ああ、柄になく、何年ぶりかな、こんな躊躇なく誰かに叫べたの。
「つーか、お前の借金だろ!!」
そんなこと、気にすんなよ、フッ。
フッ、じゃねーわ。肩に乗った手を払いのける。
ダメだこいつはと、だしりと仰向けになった四畳半。見上げれば、カカと笑う君。出窓のレースから差し込む光を弾いて、短い髪が綺麗だ。目を畳に転じれば、泥だらけ、土から出たばかりみたいな健康そうな2本の足が、スカートへ向けて橋脚のようにすっくとのびてる。
こいつと生きていくのか、俺は。
「おい」
「なんよ?」
「一緒に生きてくかよ?」
「わたしは、はなからそのつもりだぜ。君の覚悟を待ってる」
偉そうに言って君は笑うのに、握りしめた拳がわずか、震えていて、そっと僕は手を伸ばす。
今日は決闘だ、と君が言うから勇んで行ったら、いつもの喫茶店でチェックのドレスで君はぽそぽそパスタをあれだな、きっとケチャップが飛ばないようになんだろうけど、随分おとなしめに食べているから、気勢がそがれてしまった。
なんだよ、話って。決闘どこいった?
だってそんなふうに大げさに言わないと、来てくれないと思ったなんて、俺ひとり、呼び出すのにそんなセンセーショナルな惹句、使わなくても行くぜ、君に会う為ならば。俺のその、覚悟や恋情を、君はいささか見くびってる。
で、何なの話って。
「代わりに俺がつきそい?彼は行ってくれないの?」
「だって逃げちゃったから」
「逃げちゃったって・・・・」
見返す君は悄然とした表情。長い伏せたまつげのカールの先に、午後遅い太陽の光がとまってる。
「それは探そうよ。俺も手伝うから」
君は小さく頷いたけれど、何もしゃべらない。
「だって、どうせ、うん・・・また殴ったりされるから。いんだ、もう」
いきなり言い切って、猛然と残りのパスタを食べ始める。
ここしかありませんでした、悪いですが、見にくいかもしれませんけれど、的な、天井近い棚の窪みにやや斜めって設置されたテレビから、世界で頻発するテロのニュースが流れてる。まくしたてるフランス語に被さって、世界が手をつないでテロの脅威に…。えーフランスは戦争状態に入りました…そうですか、では、言っていいですか。この日本の小さな町の小さな喫茶店でも、悲劇は起きてるんだよ、目の前で。笑っちゃうほど些細かもしれないけれど、本人にとっちゃ重大なこと。
笑えないよな、大上段に振り上げた剣の振り落としどころを常に僕ら見失って、まぁあれだ、あははと照れ笑いで誤魔化してそんなこと、なかったようにまた日常に戻っていく。誰もがチキンだけれど、チキンはチキンだとしてもだ、目の前でシュンと女の子がしてたら立ち上がるべきなんじゃないのか、チキンの短い羽でも羽は羽だろ、飛べるはず、2人分は無理かな、でも無理は承知で。そんなこと、多分10秒くらいの間にぐるぐる思って出てきた言葉がこれかよ。
「それは殴り返しにいくべきだ、断じて」
世界や警察が助けてくれないなら、自分で、自分達でやるしかないだろ。
この世界の片隅で、いつだって僕らは泣き寝入りするしかなくて、小さな悔しさや悲しさは積み重なっていくけれど、いつか反旗ひるがえせよ、いつかじゃない、そりゃ今だ。
「いいよいいよ、そんな物騒な、大丈夫だから、わたしは」
「やられっぱなしで、パスタなんぞ、もそもそ食っとる場合か!」
いきなり怒鳴った僕に、びっくりして、君は絶句してたけれど、笑い出す。なのに、すうと涙が流れる。笑って泣いてるんだ。そんな、我慢したのか、怒りや不安や悔しさ。笑うたび、ふわふわゆれる長きまつげ、そうだ、死んだように伏せられているより、そのほうがずっといい。ずっと君に似合ってる。
これが長く続いたお話のはじまりの、おわりの話だ。
そんなふうに始まる、古い絵本。本棚代わりの木のボックスに立てかけてある。
るーだ、つぅーだ、るーだ。
またはじまったよ、なんなの、それ。
機嫌の良い時に君が口ずさむ、鼻歌よりも短い、意味不明なフレーズ。抑揚があって、最初のるーだはちょっと低く、つぅーだでワントーン上がって、そのままるーだに続く、矢印で示すと、下上上、みたいな感じ。聞いても秘密ーと笑って教えてくれない。
長らく謎だったそれが分かったのは、初めて君の部屋で夜を過ごしたあとの朝、ブランケットに濡れた猫のようにくるまったまま君が薄目をあけてくちずさむ、例のフレーズ。
るーだ、つぅーだ、るーだ。
幸せそうに、恥ずかしそうに、小声で、赤らんだ頬が可愛くて、そっと近寄った僕に、なんなのそれは、寄るな寄るなと足で蹴ってくる。
君のiphoneから流れる古いミスチルのアルバム。
イントロが今始まる。(終)
世界に溢れる、彼や彼女の「始まりの物語」に、どうか幸あれと、そんなことを思いながら書きました。