フリージアの瞬き
フリージアは、夏、咲かない。
わたしがその女に出会ったのは、ようやく寒さを抜け、幾分乾いた風が穏やかに頬をかすめ出した夏の頃だった。
家督を継いだばかりの父が、社交界の季節に向けて緊張の面持ちでいることを多く目にしていたことを覚えている。
その年の冬は他に類のない、いつまでも厳しいものだった。青く瑞々しい季節の到来は遅く、思えば夏も始まろうかというときにまで、領地の北には雪の名残があったほどだ。本来、春に芽吹くであろう若葉も、大地にやっと顔を出したかと気付いたときには、すぐに勢いをなくしては次の芽を見せるといった風情であった。
それでも、空ばかりは、いよいよ青く夏であることを告げていた。
「少し厚手のものにしておきましょう。こちらの夜もまだ肌寒いでしょうから」
夜会のためのコートを手に取りながら、父の傍らに添う母がつぶやいた。
わたしといえば、初めて訪れた土地に慣れぬ感情を持て余し、父のために甲斐甲斐しく動く母のそばにまとわりついてばかりだった。
「まあ、もう十一にもなるというのに落ち着きのないこと」
母はそう、わたしをたしなめた。
お部屋にばかり居ないで、お外で遊んでいらっしゃいな――。
手にしていたコートを衣装棚に置き、母はやや屈んでわたしの目を見た。
彼女は平生、そうだった。わたしがもっとずっと小さな頃から、目の高さを合わせて話す。
だが、そう――、その頃はそのことに、何ともいえない居心地の悪さを感じるようになっていたのだ。
だからこのときも、母のその姿にとたんにバツが悪くなり、ふいと顔を背けてしまった。誰に何ともつかない苛立ちを抱えたまま、わたしは屋敷を抜け出したのだった。
どのくらい、ふてくされた気持ちをもって歩いていただろう。気づくとわたしは、湖の畔に来ていた。そこから程近く、古びた石造りの城館の塔が、湖の林の奥にのぞいていた。
わたしは振り返ってもと来た道を見た。自分が滞在する屋敷ではない、とそう確認したわたしは、その城館に興味を覚えた。急に走りたくなったわたしは、そこから駆け出した。駆けて、駆けて城館を目指した。
――と、いきなり林から視界がひらけて、目に飛び込んできたのは、一面の、黄色だった。
言葉もなかったように思う。ただ呆けて、その景色に見入った。すると後ろから、声がした。
――フリージアよ。
驚いて振り返ったわたしに構うことなく、その声の主は佇んでいた。
――綺麗でしょう。フリージアというの。
そのときの彼女の顔を、わたしは生涯、忘れることはできない。
ただ穏やかに、あるがままを見つめている。そんな瞳だった。それはどこか遠いような、けれどもすべてを包み込むようなやさしさをもった表情だった。
それからわたしは、毎日その場所へ行った。
彼女といろんな話をした。
フリージアに吹き抜ける風は、わたしが初めて知る穏やかさだった。葉がゆれる音。葉に落ちる花の影。その、どれもが。
どうしてここにいるの、とわたしは彼女に問うた。
フリージアを咲かせたかったの、と彼女は言った。
なぜ、と問うた。
大切なひとがいたから、と彼女は言った。
毎日出掛けるようになったわたしに、母はいつも訊いた。
“今日は、どこへいくの? ハンカチーフは要る?”
そんなもの、いらないよ、母さま。
そう言ったとき、ふいに父がわたしを見た。父はなぜだか、とてもやさしくわたしを見ていた。傍らで母は、傷ついたような顔をしていた。
微笑んだ父の若い容が、室内に差す幾筋もの光に重なった。
父は立ち上がって、母の肩を抱いてわたしに言った。
気をつけて行っておいでと。
母はなにも、言わなかった。
風が野に、一面に渡った。その女はフリージアのなかに佇んでいた。
その女は、わたしに笑った。夏の陽が、差していた。
――大切なひとって、だれ? わたしはそう訊いた。
――来年もくる? わたしはまた訊いた。
その女は、どこか遠くをみるように言った。
ほんとうはね、フリージアは、夏、咲かないの――。
もう、その女は来なかった。
やがて時代は、黒い渦にのまれていった。国と国、民と民は、土と血のなかでぶつかりあい、泥のようにくずれ、わたしが過ごした領地も、いつしか名は消えた。どれほど神を呪ったかわからない。どれほど、己を呪ったか知れない。怒りは血に染み、獣の猛りのように奔流となり身の内を駆け巡る。
地を裂き、岩を砕き、海を割るように。
だがいつしか、諦観にも目を瞑り、身を焼く炎も朽ち果てる。
戦争も郷愁も、すべては過ぎた。
過ぎたはずだ。
あのときの父の微笑みも、母の傷ついたような顔も、すべては無に帰す。
わたしには、なにも残らない。
そしてフリージアは咲く。夏ではない季節に。
フリージアは、夏、咲かない。
遠き日を思うものは、遠き日へかえるのだろうか。
野に佇むひとと過ごした瞬きの時間、わたしはなにを、手にしたのだろう。
遠き、遠き日にみた、フリージア。
あの、夏の日に、出逢った。
貴女はフリージア
フリージアの瞬き――。