恐怖
ビチャ、ビチャ。
不快な音が聞こえる。
その音は、まるで死神が這いずりながら俺に向かってきているようにも聞こえた。
このろくでもないモノを聞かせている正体は、だいだい想像がつく。
先ほどの妖怪なのだろう、それ以上は知らない、知りたくもない。
逃げなくてはいけないだろう、そう脳みそも言っている。
しかし、俺の足は怖気ついている、膝も狂ったように笑っていた。
"アレ"を意識した瞬間だった、体が言う事を聞かない、きいちゃいない。
恐怖が俺を包む、暖かいとはお世辞にも言えない、だんだんと脳みそも侵食されていく。
もう何も考えない方が良いのではないか、もう動かない方が楽ではないか、抵抗など馬鹿げている。
そうか、恐怖とは平等ではないのか。
また、だった。
人間が迷い込んできた。
それは恐怖を孕んでいて、とても苦しそうだった。
だから、私が、食べた。
最近、多すぎるような気がする。
元は、と言えば、私も人間だったのだ。
しかも、今の外の世界にいたはずだった。
もうそんな昔の事はよくは分からないが、あの時の恐怖はよく覚えている。
断片的に見える、灰色の箱。
その上は、空に届きそうなほどに高い。
何を思ったか、その箱の淵に立つワタシ。
なんの葛藤も戸惑いも躊躇いもなく落ちる。
ただそこに、恐怖はあった。
その恐怖の最後の慈悲なのか、世界が歪んだ、とても気持ちが悪かった。
ただそれだけを覚えている。
しかし、これだけでもわかる恐怖は不平等なのだ。
恐怖は、不平等で、横暴で、乱暴で、広くて、深くて、浅くて、狭くて、散乱して、整って、優しくて、暖かくて、不快で、綺麗で、優雅で、醜いのだ。
そして、とても、美味しい。
さあさあ、もう一人の人間。
貴方が落とされた 、恐怖という底なし沼、貴方ごと枯れさせてあげましょう。
私はすべてを救う。
奴が来た、来やがった。
さっきの小太りを引きずる、もう枯れたのか、あの死神はいなかったが、十分不快だ。
奴の表情は、快楽の果てを通りすぎていた。
狂っている、狂気、狂喜、すべてに当てはまるのでは無いか。
「迷子? 恐怖に取り込まれそうよ」
口は聞けるのか、第一印象はその程度の事だった。
頭が回らない、洒落た事など言えなかった。
「フフ、苦しそうだわ。かわいそう、楽にしてあげるわ」
ずぞぞ、奴の手が俺の肩にかかる。
冷たい。
カツン、音がした、気持ちがいい、いや気持ち悪い。
黒い、くそ何も見えやしない、死に様すら看取れない。
煩い、煩わしい、なんだまるで暴風に絡まれたみたいだ。
「なに、これ、やだ、やめて、やめろ、いやだ」
奴の声が聞こえる、何だか知らぬが嫌がっている、ざまあみろ。
少しづつ音が小さくなる、奴の顔が見えてくる、本当に嫌がっていただけなのか、くそったれ。
「フフ、フフフ、アハハハハ」
静かに笑う。
「感情を力にする程度の能力。 て、ところかしら。 いいわ、いいわ。 気に入ったわ」
何を言っているんだ、俺に能力があるってのか。
確かに、その時、恐怖という水はすべて渇れていた、男を中心に。