死闘の幕開け
ちょこんと後ろ足でボールを押し出した子狸が駆け上がっていく
キックオフした選手は、連続してボールに触ってはいけない
そのくらいのルールは、アレイシアンも知っていた
置き去りにされたボールを確保しながら、各選手の配置を記憶と照合する
「お嬢!」
早くも単独行動に走った子狸にパスを要求されたが、無視して自陣の骨のひとに戻した
見たところ、あの骨がいちばん司令塔に適している
感情は、記憶のしおりだ
激情と共にある記憶を、人間は簡単には忘れない
強く印象に残った出来事を忘れまいとする働きは、生きていく上で有利につながる
この感情を制御することで、アリア家の人間は特定の記憶を抽出し、意識的に強化できる
子狸さんが長年の歳月を費やして獲得した繊細なボールタッチを
アレイシアンは、ひと目で模倣した
制御が完全ではないから、かすかに心情が宿る
人生、何があるかわからない
勇者として旅立つ前、あらゆる事態を想定したつもりではあったが
まさか魔物たちと一緒にボールを追いかけることになるとは露ほども考えなかった
想像力が貧困なのだと言われれば認めるしかない
しかし腑に落ちないものが残るのは何故だろう
不思議だ
どこで歯車が狂ったのかと言えば、それは子狸を拾った瞬間なのだと断言できる
連れて行っても損はないと思ったのに
気付けば、ずいぶんと遠回りをしてしまったような……
ゴールは、どこにあるのだろう?
それすら、いまのアレイシアンにはわからない――
てっきり、結界で競技場を再現するのかと思っていた
試合がはじまって、そうではないのだと新鮮な驚きを覚えた
ツッコむべきなのだろうか
魔物たちは何も言わない
ちらちらと、こちらを見てくる
ためしに無視してみると、彼らは迂遠な表現でルールの見直しを訴えた
「ゴールねぇわ~辛ぇわ~」
「ボールがライン割ると、どうなるんだっけ? あれっ、ラインどこだろ……?」
「スタメンどうする? イレブンって言うくらいだから十一人だよな?」
「お前ら、安心しろ」
アレイシアンも、だんだんわかってきた
魔物たちは、管理人の返答を期待するとき、三行で間を置く
この、根拠のない自信に満ちあふれたレスポンスが子狸の発言だ
「ボールがあれば、そこがおれたちの戦場だ」
「…………」
魔物たちはぴたりと押し黙った
「2アウト! しまっていこう!」
二本指を立てて檄を飛ばした骨のひとにはルールの混濁が見られる
しかし挙動に不審な点はない
素早く視線を左右に走らせた
頼りになるのは、都市級の魔物だ
レベル4の魔物が軍団級ではなく都市級と呼ばれるのは、突出したフィジカルの高さによるものだ
人間のディフェンダーが束になろうとも、都市級を潰すことはできない
期待を込めて振り返ると、頼りになるレベル4が魔軍元帥を中心に集まっている
「ヒュペスは」
「騎士団を連れて行ったまま、戻ってこないわ」
「よう、つの付きぃ……」
「グラ・ウルー! あなた、封印を……?」
「どうかな? そうだ、試してみればいい。その身で味わえば、嫌が応にも、な……」
「……お前は、たしかに強い。最強と評されるだけのことはある。
だが、このおれに対しても同じように振る舞えるとは思わないほうがいい」
最強の魔獣と称されるお馬さんが隔絶した存在であるならば、そもそも囚われることはなかっただろう
魔軍元帥つの付きと魔人グラ・ウルーは対立関係にある
距離を置いて睨み合う両者が魔力を放ったのは、ほぼ同時だった
都市級の魔物が持つ「魔力」は、戦意の放出と同義だ
人間で言うところの殺気に近い
放つぶんにはコントロールできるが、抑えるのは難しい
だが、魔力を完全に抑制し制御できる都市級が一人だけいる
それが、つの付きだ
正面からぶつかり合えば相殺されるだけだから、不可視の力が性質の衝突を避けてうねる
――屈したのは魔人のほうだった
つの付きの魔力は、加重の性質を持つ
大多数を束縛し圧倒する魔人の魔力は、それゆえに対個人へと注げる上限が低くなる
目には見えない鎖に四肢を拘束され、しかし最強の魔獣は笑った
「ちょうどいいハンデだ」
「だが、そのハンデゆえにお前は囚われたのだ。何故、過ちを繰り返す……?」
黒騎士の声には、学ぼうとしない者への嘲りがある
「人間はそうではない。対策を練り、不足を補おうとする。それが、おれは悔しい」
魔物は、多くの面で人間を上回る
魔物たちが人間のように勤勉であったなら、敗退はありえなかっただろう
妖精の女王ですら見誤った魔軍元帥の真の恐ろしさは、改革者としての一面にある
だが、改革には意識を変える時間が必要不可欠だった
肩にしがみつくパートナーのコアラさんですら、黒騎士の考えには賛同しきれていない
「……無駄よ、ジェル。人間とは生まれ持ったものが違いすぎる」
彼女は、妖精属の姫だ
王座にもっとも近いとされる彼女だから、才能の残酷さを知っている
笹の葉を見つけられないコアラは、飢えて死ぬしかないということだ
いまにも飛び掛かろうとしている魔人を、鎌首をもたげた大蛇が制した
「それくらいにしておけ、グラ・ウルー」
「ちっ……。リジルか」
お馬さんは、口の達者な蛇さんを苦手としている
「無礼ではないか。元帥殿がそうあるのは、われわれの総意によるものだ。その場に居なかったから、というのは通らん……。
お前が気ままに食べ歩きできるのは、忠実に働いてくれる部下たちが居てこそなのだぞ……」
蛇の王、ズィ・リジルは愛される魔獣を目指している
本能の赴くまま威を振るうグラ・ウルーは、彼の対抗馬たりえなかった
首の後ろに生えている小さな羽が、ぱたぱたと動いている
蛇の王、ズィ・リジルはクリーンなイメージを大切にしたい
だが、表向きの性格を裏切るように、その身に宿る凶暴な魔力が意味するものとは何なのか
子狸バスターの魔力は、加重
グラ・ウルーの魔力は、威圧
魔鳥ヒュペスの魔力は、和解
性質の違いは、そのまま性格の違いに通じる
一考の余地はあるだろう
うだうだと小芝居に興じている魔王軍幹部に、骨のひとは物悲しいものを感じる
のこのこと戻ってきた子狸さんが、より悲しさを助長するかのようだった
「ご苦労、レベル4の諸君。ああ、吾輩のことは気にしないでくれたまえ。名乗るほどのものではないが……まあ、魔王とでも名乗っておこうか」
まだ諦めていなかったのか……
しかし事実、管理人さんは魔王と言えなくもない
たび重なる主張で薄っぺらくなってしまったに過ぎず――
本質は別のところにある
小芝居を交えてトップ下についた子狸さんが、ぎらりと眼光を鋭くする
素早く反転し、前足を下げた
「骨のひと!」
足元にパスを要求しているようだ
その要求に、すかさず骨のひとは応える
勇者さんに睨まれたが、これは生態観察の一環だ
学問の一分野と言ってもいい
骨のひとに芽生えた知的好奇心を、咎める権利は勇者さんにはない
子狸さんはフリーだった
問題視されていないと考えるのは早計だ
あるいは、そのキラーパスを警戒するあまり、マークが手薄になったと見るべきではないか?
きれいにパスが通る
司令塔としての役割を期待されている子狸さんであったが――
過去、とある試合で開始早々に単独突破を図った骨のひとは
記者会見で、より確実な方法があったのではないかと問われて、このように返したことがある
「最初のワンタッチで、その日の調子がわかるときもあります。あのとき、僕にとってのベストがそうだった……それだけの話ですね」
そして、このときの子狸さんも同じ心境だったに違いない
ポンポコ選手は、こきゅーとすにて述懐した……
後ろ足にボールが吸い付くようだった、と
その感触におののく
胸中を満たしたのは戸惑いと、かすかな高揚だ
「ついに吸盤が?」
「子狸さん」
「子狸さん、超進化は自重して下さい」
「――いける!」
魔物たちの懇願が、右から左へと零れ落ちていくかのようだった
ところてんみたいに押し出されたパスでつなぐという基本戦略がきらめく
顔面を覆った歩くひとの両手から滴るものは歓喜ゆえにか?
立ちふさがる人型の動きが、手に取るようにわかった
鋭く切り込んだ子狸が、ボールを支点に回る
あっさりと抜き去る、その足元にボールは、なかった
「なにぃ……?」
世界でも屈指の販売実績を持つ子狸選手
快挙を成し遂げたのは、期待の一年生ハロゥ・ロウ選手
素晴らしい俊足だ
浮き足立つ骨のひと、見えるひとをごぼう抜き
「ばかな、あの子狸さんが」
「ボールを奪われた、だと……?」
歩くひとの檄が飛ぶ
「うろたえるな!」
彼女も見た目に反した俊足の持ち主だ
フィジカルの強さにも定評がある
激しく競り合う
「人型は三機! パワー&スピード、テクニック、その他、それぞれ得意分野がある!」
わざわざ同じ土俵に立つ必要はないということだ
ここは、やはり先輩としての貫禄か
ボールを奪取した歩くひとがフィールドを駆け上がる
余裕を取り戻した怨霊種の術師担当が追随する
「ふっ、三人でようやく一人前ということか」
「……どうして、いちいち自虐的な発言をするの?」
回遊魚が空気を求めてあえぐように
魔物たちはツッコミどころを用意せずにはいられない
バウマフ家の痛烈なパスが、受け手に過酷なノルマを要求するからだ
それでも、羽のひとや歩くひとは最後まで職務に忠実であろうとした
これは、子狸さんが管理人として未熟であること
あるいは捨てきれない甘さを残していたことを意味する
(致命的な失言を避けるという意識を持つ管理人は珍しい。相対的に評価するなら子狸さんは天才と称しても誤りではない。つまり天才であると断言しても良い筈だ)
子狸さんと勇者さんは似ている――
ついに同列視されてしまった少女が、こきゅーとす上で厳しく批判した
「どこが似ていると言うの。ぜんぜん似てない」
だが、歴然とした事実である
同じ哺乳類であることも見逃せない
さらに魔物たちは、二人の身長がそう大きくは違わない点に着目した
箇条書きで列挙されていく共通点に、子狸さんが目を見張った
「おれには、妹がいた……?」
「いたら、もう少し早く気付くでしょ!」
勇者さんは、子狸さんの聡明さを高く評価しているようだ
「第一、わたしのほうが年上なんだから――」
「……?」
道中、お誕生日会を催す機会に恵まれなかったため、二人の認識には隔たりがある
何を以ってして勇者さんがお姉さんぶっているのかは不明だが
じつは子狸さんが年上だ
そして、このポンポコさんは意外と上下関係に厳しい
「お嬢は、何かとおれに敬語を“要求”するね」
さいきんはもう諦めていたことを、不意打ちで蒸し返してくる
忘れているようで、じつは覚えている
覚えているようで、じつは別のことを考えている
新しく覚えた単語を駆使する発展性を持つ――
これがバウマフの血だ
「でもね、お嬢。おれはこう思うんだ。学校に、貴族も平民もないんじゃないかな……?」
王国貴族は、初代国王に仕えた人間たちの末裔だ
平民が貴族になることは決してない
必然的に、人口比率は圧倒的に貴族が下回る
同年代の知り合いが少ないアレイシアンだから
対等に付き合える友人は、きっと得難い財産になる
子狸さんの深遠な計らいであったが、大前提として級友ではないことに悲劇がある
思えば、勇者さんが
不登校児ではないと明言したことはなかった
魔物たちですら、それを怠った
――盲点だった
初等教育は国民に課された義務であるということ
その事実が、子狸さんに幻のクラスメイトを幻視させたのではあるまいか
すべては、ちょっとしたボタンの掛け違いだった
惜しかった……
あまりの惜しさに、魔物たちは落涙したのである
勇者は、この気遣いができるポンポコさんの将来が心配でならない
「いちから全部、教えないとだめなの……?」
「そうかもしれない……けど、それだけじゃないさ。失って得るものもある」
ふわりとした主張に、先行きの暗さを見る
まずは、返答に窮すると口当たりの良いことを言いはじめる癖からだ
いや、それでは根本的な解決にならない
真っ先に正すべきは、過保護な教育者たちだ
ぽよよん、よん、よん……
ふるえる青いのが、今ふたたび知性を捨て去る決断を下した
名残りを惜しむように響く残滓が、彼らの罪を洗い流すかのようだった
試合は、まだ序盤だ
両チーム共に切り札を温存している
「…………」
後方で待機していた鬼のひとたちが、ひそかに視線を交わした
彼らは、オフサイドトラップの名手だ
TANUKI.Nの守備の要でもある
しかし、手の内は知られていると見るべきだった
ならば、相手の裏をつく――
放課後、彼らがミドルシュートの練習をしていたことを誰も知らない
いま、そうだったらいいなと思ったからだ
眠れる小人たちが、いま動き出す