魔人
最強の魔獣
魔人グラ・ウルーに対抗できるとすれば
それは、王国最強の騎士、アトン・エウロ。彼を置いて他にない
まともに戦えば、まず敗北は必至だから
わざと異能を暴走させる
無差別攻撃になるから
彼ひとりを残して突入部隊は先行する
必勝の策だ
事は予定通りに進んでいる
そのはずだった
それなのに不吉な予感を払えないのは何故だ
騎士たちは、奥歯を噛みしめて叫び出したい気持ちをこらえる
勇者さんは、狐娘たちを安心させるために嘘をついた
「アトンが負けるわけないでしょう……。あとで追いついてくるから、……だから、あなたたちは何も心配しなくてもいい」
彼女は、建前と本音を意識的にすりかえることができる異能持ちだ
勇者さんには、魔人の動きがまったく見えなかった
気付けば騎士たちの半数が宙を舞っていた
あれが魔人なのか……
最強の魔獣と称されるだけのことはある
桁違いだ
だが、アトンなら勝てる
魔人は、彼に近づくこともできない
渦巻く力に触れただけで八つ裂きにされる
勇者さんの“妥当”な予想に、狐娘たちは安心した
しかし、そうではないのだと騎士たちは知っていた
彼らは、魔人の正体について、おおよその見当がついている
だから、つとめて考えないようにしていた
グラ・ウルーは
あの魔人は――
――まるで夢のようだと思った
ずっと
ずっと、このときを待っていた
この邂逅を、誰に感謝すれば良いのかと迷うほどに
アトンは、逸る足をぐっと抑えて歩く
もしも、これが夢なら
昂ぶりを意識した瞬間に
目覚めてしまうのではないかと恐れたからだ
「ようやく会えたな」「この日を」
自分自身の中で感情が完結していたから
吐き出される言葉は文脈が破綻していて
どこまでも端的になる
ゆらりと曲がり角から姿を現したのは
漆黒の四足獣だった
くすぶる輪郭が
網膜に焼きつき、尾をひいて見えた
たてがみが
黒く、炎のように揺らめいている
グラ・ウルーは、馬の魔物だ
とくべつ巨大ということもない
魔物の中では、むしろ小柄な部類だ
足元に落ちる影が、ふつふつと沸き立っている
本体と影の境目はあいまいで
ひづめの音はいっさいしない
足を前後するたびに
四肢を拘束する鎖が擦れ合い
しじまを埋めていく
鎖は、足元の影から伸びていた
彼は、罪人なのだ
魔人は上機嫌だった
鼻歌交じりに、ゆっくりと近づいてくる
その姿が、まばたきをするごとに変じていく
まるで紙芝居でも見ているかのようだった
おちつきなく馬体を左右に揺すっていた魔人と
アトンの視線が、不意にぴたりと重なった
一瞬、きょとんとした魔人が
ぴんと背筋を伸ばして笑った
「は、は、は、は、は、は!」
だらりと両腕を垂らした
馬頭の怪人が
天を仰いで哄笑を上げる
漏れ出でた圧倒的な魔力を
アトンは食い破って前進する
一歩、進むごとに
適応者のくさびから解き放たれた異能が
歓喜の歌を声高らかに叫ぶかのようだった
なんの前触れもなく壁の表面が崩れた
賽の目にえぐりとられた壁材が
雪崩を打って床に散らばる
魔人は笑う
魔力が一層ふかく膨れ上がる
厚みを増した影が沸騰する
ぷちりぷちりと弾けていく
現界したのは、巨鳥と大蛇の影法師だ
※ おれら、集結!
※ ぶるる……!
※ がおー!
※ しゅ~っ!
※ 四人揃って!
※ 都市~ぃっ……あれっ、ひとり足りねえ!
※ てっふぃー!? てっふぃーはどうして来てくれないの!?
わざわざ幻影を投じてくれたお前らが妖精さんの不在を嘆いた
立場は違えど、同じレベルのひとたちのきずなは深いのだ
※ …………
※ 恥ずかしがるなよ! 本当は好きなんだろ!?
※ あの練習の日々を忘れないでっ……!
※ ……仕方のないやつらだ
壁が、天井が、床が
影に塗りつぶされていく
無数の胡蝶が舞った
影で構成された闇の蝶だ
あはは
うふふ……
くすくすと喜色の声が上がった
笑いさざめく少女たちの声は
距離感というものがなく
肝胆を寒からしめる響きがある
魔人は狂ったように笑い続ける
「ちからが、みなぎる! 素晴らしい! 圧倒的だ! なんと美しい……!」
手足を拘束する鎖に
びきびきと亀裂が走る
魔人は、王都襲撃の責を問われて
地下監獄に収容されていた
グラ・ウルーの魔力は、魔軍元帥のそれと同質だ
否、この鎖こそが……
つの付きの魔力、その本性なのだ
地下に囚われた魔人は、つの付きに魔力を徴収されていた
その、いましめが
このとき、ついに
解かれてしまった
魔法を使うということは
制限を開放していくということでもある
使い古された錠前に
どれほどの価値があろうか?
閉ざされていた門は、開いてしまった――
アトンの視界が反転した
「……!」
十数歩ぶんの距離を一瞬で詰められて
投げ飛ばされたのだと理解するよりも早く
彼は、喚声を発していた
数回に分けて力場を踏み、慣性を削らねばならなかった
凄まじいまでの膂力だ
三人の魔獣の中でも、この魔人は別格だった
だから、かろうじて制止したアトンは
目と鼻の先に魔人が佇んでいても驚かなかった
手首を掴まれて、立たされる
王国最強の騎士が、まるで子供扱いだ
不可視の念力は、すでにアトンの制御下にはない
身体がみるみる欠けていくというのに
しかし魔人は、何ら痛痒を覚えていないようだった
貴族が催す舞踏会への参加を余儀なくされるときもあったから
魔獣のステップに合わせて踊ることもできた
アトンには、他者が踊っているのを見れば
たいていは一度でステップを記憶してしまう非凡さがあった
騎士と魔獣が踊る
ふたりは至近距離で笑顔を交わす
両者に共通するにぶい眼光が
貪欲に「お前はおしまいだ」と物語っていた
魔人がささやく
「勘違いしていないといいよな?」
彼は、非力な人間の思い違いを正さねばならないという
じつに魔物らしい義務感に衝き動かされているようだった
「あの日、あの場所で、お前たちを見逃したのは、将来有望だと思ったからだ」
意外な、と言うふうにアトンの片眉が跳ねた
自分のことを覚えているとは思わなかったのだ
その内心を、かすかな仕草から読みとった魔人が
機先を制して言う
「よく覚えているよ」
アトンと、その妹たちは王国の生まれではない
彼らは共和国の出身者で
その国は、十年前に滅び去っている
手を下したのは魔人だ
決定打になったのは、活版印刷の技術だった
おれたちは、およそ千年前に
動物たちと、ある盟約を交わしている
縄張りを譲り受ける
その対価として、致命的な天災から彼らを守るというものだ
行き過ぎた技術は、天災と同じだ
どれだけの森林が消えてなくなることか
だから、あの国を放っておくという選択肢は
おれたちには、なかった
トンちゃんは、お馬さんを恨んでいるのか?
恨んでいるのだろう……
しかし、彼の口から出たのは意外な言葉だった
「恨みごとを言うつもりはない」
目を閉じれば脳裏に浮かぶのは
分かれる直前に記憶に刻み込んだ彼女たちの泣き顔だった
笑顔を見たかったというのは、自分のわがままだろうか?
アトンは、名残りを惜しむようにまぶたを開く
「だが、可愛い妹たちがおびえる」
「可哀相だろう? まだ幼いんだ……」
たったそれだけの理由だった
そして、それが全てだった
彼の妹たちは、全員が兄と同じく異能持ちだ
出力と入力、双方を兼ね備えたアリア家の狐は
身近にいる人間の心を、たやすく変容させる
妹たちが無意識のうちに願っていたから
アトンの人格は、きっと彼女たちの願望から形成されていた
「お前は。グラ・ウルー……」
表情を改めたアトンが言う
かりそめの仮面を脱ぎ去った彼が、次にまとうのは
剥き出しの敵意を塗り固めた戦闘意匠だ
「悪夢そのものだ」
「いいぞ」
グラ・ウルーは認めた
好戦的な魔人が王種に挑まないのは
彼の期待する戦いが、そこにはないからだ
「お前は“恐怖”を糧にする魔物なのだろう?」
「いいぞ。続けろ」
「お前の正体を知る人間は、お前には勝てない。恐れまいとする気持ちが働くからだ」
「では、お前も勝てないということになるな」
「だが、知らねば対策は打てない」
「無敵だな。まるで、おれは」
他人事のように魔人は言った
恐怖を完全に克服できる人間など、ふつうはいないからだ
それは王国最強の騎士とて例外ではない
だから彼は言った
「私は、この世でいちばん幸せな人間だ」
「本当にそうか?」
魔人が舌なめずりをした
一転して攻勢に出たのは
それでも好敵手との出会いを疑っていたからだ
「お前は、本当に勇者が魔王に勝てると信じているのか?」
「お前の妹たちは、勇者と運命をともにするだろう……」
「本当に預けて良かったのか?」
「それは正しい判断だったのか?」
「お前は疑っている……」
“影”を通して見ていたから、魔人は知っている
今代の勇者は――弱い
致命的なまでに聖剣とは相性が悪い
凍て付かせた感情が、宝剣の発達を阻害してしまうからだ
アトンがため息をついた
彼は、出し抜けにこう言った
「彼には謝罪しなければならないな……」
それから重心を落とし、魔人の手を掴むと
先ほどのお返しだとばかりに投げを打った
彼は、悪夢の住人を実体として捉えることができた
守るべきものがあるとき
ひとは恐怖に立ち向かうことができるからだ
アトンは言った
「アレイシアンさまは、変わった。私は、変われただろうか?……十年前のあの日から」
戦力差は絶望的だ
空中で身をひねって着地した魔人が
従えるのは、五人の人影……
幼い少女の姿をしていた
よく似た姉妹だ
似ている、という次元ですらなかった
ひとりの人間の成長途上を見ているかのようだ
彼女たちは、アトンを見つめて口々に言う
「兄だ」
「兄がいるよ、姉」
「兄、眠い」
「兄、お腹へった」
「兄、ひま」
そう来るだろうと予期していて
なお、アトンの表情が苦渋にゆがんだ
「私は、……僕は、騎士になったよ……」
妹たちは、兄の言葉を無視した
「馬」
「えっ」
一身に注目を浴びたお馬さんがびくっとした
五人姉妹の自分を見る目が
幼い頃の子狸さんを彷彿とさせるものだったからだ
「っ……!」
妹たちの関心を集めている魔人に
トンちゃんは嫉妬した
胸が痛んで仕方なかった
これが魔人の策略だとわかっていても
妹たちに嫌われてしまったら
自分の人生は無意味なものに成り下がるのではないかと恐れた
お馬さんとトンちゃんが
壮絶な育児合戦に身を投じた頃……
勇者さんは、謁見の間に辿りつこうとしていた
魔人の襲撃に晒された騎士たちは
一向に目覚める様子がない
開放レベル4の打撃を受けたのだ
人間が扱える範囲の治癒魔法では回復の見込みがない
視線の先にそびえるのは巨大な扉だ
肩にとまっている妖精さんが制止するひまもなかった
迷わず宝剣を起動した勇者さんが
放つ光刃で扉を切り刻んでいく
彼女の視界に飛び込んできたのは
漆黒の武装に身を包んだ常夜の騎士と
扇状に布陣した十二人の骸骨戦士だ
魔軍元帥
つの付き――
その姿を目にしたとき、勇者さんの中で何かが切れた
「つの付きぃーっ!」
黒雲号を飛び降りると同時に
掌中の宝剣を握りつぶす
光の粒子が舞う
荒れ狂う感情の赴くまま片手を突き出すと
十数もの宝剣が乱れ飛んだ
黒騎士は、火の宝剣を床に突き立てたまま微動だにしない
躍り出た骸骨戦士たちが、一斉に宝剣のレプリカを顕現した
彼らは円を描くように魔剣を振るい、高速で飛翔する光剣を叩き落とした
恐ろしいまでの剣の冴えだ
前進する精鋭たちに、魔軍元帥が言葉少なに告げる
「勇者には手出しするな」
「はっ」
短く答えた骸骨戦士たちが、魔火の剣を片手に散開する
騎士たちの相手は、彼らがつとめるということだ
因縁の対決がはじまる――
登場人物紹介
・魔人
最強の魔獣と名高い悪夢の化身。
本名は「グラ・ウルー」。人間たちの基準で言えば「エルメノゥグラ・ウルー」ということになる。
戦闘時には半馬半人の姿をとる。
魔物たちからは「馬のひと」「お馬さん」「馬人」と呼ばれる。
旅シリーズでは、降板を想定して「魔人」と称される。
小兵でありながら、獣人種を上回るパワーとスピードを持つ。限りなく王種に近い存在だ。
広範囲に及ぶ魔力は、蛇さんほど攻撃的なものではないが、多人数の詠唱を封じ込めることができる。
あまりにも強すぎるため、濡れ衣を着せられて投獄されることが多い。
歴史上、このお馬さんに打ち勝った人間は八代目勇者しかいない。
異常な勝率により、第九次討伐戦争では降板させられるも、子狸編にてめでたく復帰。
王都襲撃の濡れ衣を着せられて地下に幽閉される。
冤罪は晴れたのだろうか? 出所してきて、王国最強の騎士と相まみえる。
その正体は悪夢そのもの。影を自在に操り、人間たちの恐怖を糧に際限なく成長するという特性を持つ。
設定上、好戦的ということになっているが、ふだんは穏和なひとである。
人間たちの夢の中に出張してお告げの真似事をすることも。
武勇伝が凄まじすぎるためか、人間たちからはさじを投げられている。
そして、そのことを少し寂しいと思っている。