北斗七星の女
夏なのでホラーサスペンスを!
夕方になっても街はまだ暑かった。昼間の殺人太陽はもう地球の裏側に落ちたというのに、茹だるような熱気は相変わらずで、ジーッという油蝉の鳴き声が気怠さに拍車をかけている。
(たしか、32歳のOLだったか)
男は信号の前で立ち止まると、スマホでマッチングアプリを開いた。喫茶店のケーキと、後ろ姿が映った写真だけが載ったプロフィール。名前の欄には「ショウコ(32)」と記載されている。
(メッセージしかやり取りしてないが、まぁ会ってみないことにはな)
男は時間を確認する。ショウコとの待ち合わせは18時。このまま向かえば十分間に合うだろう。
信号が青に変わる。横断歩道を渡りながら、男はぼんやりと元カノたちのことを思い出した。
(一番長い女で1年か。今回はもう少し保つといいが)
原因はわかっている。愛がどうのという話ではない。要は、金銭の問題だった。
(愛さえあれば、と思えりゃいいんだがね。これに関しちゃしょうがない)
思えば、最初に付き合った女が悪かった。頼んでもいないのに「好きだから」とやたら貢いでくる。拒む理由もないと受け取っているうちに、随分な額になっていた。
結局その女とは半年で別れたが、 あの時覚えた全能感は男の恋愛観を歪めるに十分だった。
(恋愛も楽しめて、金ももらえる。こんなうまい話があるとはね)
都合のよすぎる、夢のような話だ。しかし、自分にはそれができる。そう気づいてから、男にとって恋愛と金銭は一体となった。金だけもらえればいいわけではない。愛さえあれば、というのも少し違う。どちらが欠けても満たされない。文字通り両者はORではなく、ANDの関係だった。
(貢いでくれるから好きなのかもわからんけどね。まぁそんなのは鶏卵の話でしかないからな)
「お兄さん、カッコいいすね!ホストとか興味あります?お兄さんなら速攻指名とれますよ!」
待ち合わせの場所に向かっていると、馴れ馴れしい声と共に若い男が飛び出してきた。どうやらホストの勧誘らしい。
(興味ね…昔はあったが)
目の前に突き出されたチラシを一瞥しながら、男は若い時分を思い出す。自分のこの性質はホストに向いているのではと思い、何度か見学に行ったことがあったのだ。
(まぁ結論向いてなかった。好きでもない女とニコニコ会話するのは苦痛すぎる)
「ありがとうございます。嬉しいですが、遠慮しますよ…女性と話すのは苦手で」
「なに、あんなのテクですよ!基本がわかればすぐ慣れますから…」
懲りずに追い縋ってくる声に微笑みだけ返すと、男は再び歩き出した。
(不特定多数の女と色恋するってのも性に合わないしな。浮気は良くない)
目の前の1人を本気で愛し、愛される。その証として金銭を受け取る。それが男のポリシーだった。
(一途がモットーだからな。これまでもそうだ。付き合った3人とも…)
男は過去の女たちを思い返す。
(1人目があんな貢ぎ女じゃなきゃあな…学生のくせにどっからあんな大金持ってこれたんだか)
おそらくまっとうな稼ぎではなかったのだろうが、金策について男が深く尋ねることはなかった。
(手段なんざどうでもいい。結局最後は金も愛も尽きちまったから、所詮その程度だったな)
雑居ビルを抜けると、人通りが少し少なくなった。男はおろし立ての靴をコツコツと鳴らしながら、回想とともに歩き続ける。
(2人目は…整形顔だったことしか覚えてないや。なんであんなのと付き合ったんだか…まぁ金払いはよかったよな)
ルッキズムの時代とはいえ、顔面にメスを入れた女と付き合っていたとは、思い出しても悍ましい。
(やれ目頭がどうの両顎がどうのと、いつもSNSで喚いてたな。そのくせ、虫歯ができても歯医者は怖いとか抜かして行かないんだから、バカの極みとしか言いようがねぇよ)
口の端に冷笑を浮かべながら、男は次の女を思い出す。
(3人目は…)
(あんまいい思い出はないな)
記憶の中に女の、北斗七星のように並んだ胸元の黒子が浮かび上がる。過去最長の交際、そして過去最高金額を貢いでくれた女。文句なしに愛しい女だった。しかし、それだけに代償も大きかった。
(まさか、死ぬとはねぇ)
男は、彼女の名前が載った新聞記事を思い出す。ビルからの飛び降り自殺。見出しにはそう書いてあった。幸い遺書に男の名前はなく、刑事責任を問われる事態にはならずに済んだのだが。
(結婚したいなんて言い出さなきゃあな。なんで女はすぐ結婚とか言うんだろうな)
結婚をやんわりと濁したあたりから雲行きが怪しくなり、徐々に金額も減っていった。金銭が減れば、愛情も減る。両者は互いに補えるものではなく、何かで代替できるものでもない。そのうち、男から連絡を取ることはなくなり、その存在すら忘れかけていた頃、彼女の訃報を知ったのだった。
(何も死ななくても。まぁ大事にならなくてよかった)
男が足を止める。目当てのビルはこの辺だ。マップと見比べながら、男はキョロキョロと辺りを見回す。
(あぁ、あれかな)
目的地のビルが目に入る。男がその方向へ向かおうとしたとき、肩に小さな衝撃が走った。
「きゃっ…」
「おっと…」
思わず視線を向けると、小柄な女がよろめきながら立っていた。どうやらぶつかってしまったらしい。
「ちょっと…!」
「すみません…お怪我はないですか」
苛立った表情でキッと見上げる女に、男は優しく声をかける。申し訳なさげに眉を寄せて見つめると女の頬がぽっと染まった。
「あ…い、いえ!全然、あたしの方こそ前見てなくて…」
「ならよかった。気をつけてください、ここは道が狭いから」
「は、はい…!」
女が甘く蕩けた目で男を見上げる。
(うん、顔は好みだ。ただ、若すぎるか)
男は口元だけで微笑むと、女から離れた。
(いつもの音も、聞こえないしな)
名残惜しそうに見つめる女を後にして、男はビルへと向かう。
(恋をすると耳の中でなぁ…音がするんだ。硬貨がぶつかり合うような…)
大量の硬貨を一箇所に集める時のような、ジャラジャラとした音。相手を見極める嗅覚なのか、恋に落ちた時、男の耳の奥ではいつもその音が鳴り響くのだった。
(今日の女も、聴こえるといいが)
男はわずかな期待を胸に、ビルへと入っていった。
◇
「はじめまして、ショウコさんですね」
メッセージにあった特徴を頼りにそれらしい女に声をかける。ショウコ、と呼びかけられた女は少し目を上げると、ペコリと頭を下げた。
「お会いできて嬉しいです。それにしても今日は暑いですね…」
ショウコはマスクをしていた。長い前髪が目元を覆っていて、表情も杳として知れない。
「もう何か頼まれましたか」
「コーヒーを…」
蚊の鳴くような声でショウコが答える。
「じゃあ、僕もそれを…」
男もコーヒーを頼む。ショウコは黙ったまま俯いていた。
「何かデザートとか…」
「いえ…」
「カフェ巡りが趣味とのことですが…」
「まぁ少し…」
(変わった女だ)
コーヒーが運ばれてきた。が、ショウコはマスクを外したくないのか、一切口をつけない。目も当てられないほどの醜女なのか、それとも顔に傷でもあるのか…
(まぁ美醜はいい。美人が皆タイプとも限らないしな。それよりも…)
男の口角がわずかに上がる。
(聴こえる。ジャラジャラとうるさいほどに…)
耳の奥で硬貨が雪崩を打っていた。これほどまでの音は久しぶりだ。男は口の中でくつくつと笑いながら、ショウコを愛しげに見つめた。
「あの、」
ショウコが小さな声で切り出す。
「はい?」
「このあと、屋上に行きたいのですけれど…」
「屋上ですか」
聞き返す男に、ショウコはこくりと頷く。
「今日は花火が上がると聞きましたから…」
「あぁ、たしかに。屋上からなら見れるかもしれませんね。行きましょうか」
男はそう言って笑うと、わずかに残ったコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
◇
「花火の音が遠くに聞こえますね。曇っててはっきりは見えないけど…」
屋上には数人の人がいた。皆花火目当てなのか、同じ方角を眺めている。
ショウコはなおもしゃべらなかった。仕方なしに男が話しかける。
「ショウコさんは花火お好きですか。よければいつか夏祭りでも…」
「本当に覚えてらっしゃらないのね」
「え?」
ショウコの声が男の言葉を遮る。先ほどまでとは打って変わった明瞭な声に、思わず男はショウコを見た。
黒い目が男をじっと見つめていた。別人のような視線に思わず身が固くなる。ショウコはしばらく男の反応を眺めた後、すっとマスクを外した。
ショウコの白い顔が薄闇に浮かび上がる。
「あ…あれ?どこかで…?」
額に張り付いた黒い髪。その下に浮かぶ黒い瞳。鼻先。薄い唇。それらが男の記憶のどこかにひっかかって、思わず言葉がつかえる。
ショウコは男の反応を一通り味わうと、口元に笑みを浮かべて言った。
「生前お会いしました。あなたに3840万貢ぎ、捨てられ、命を絶った鏡子でございます」
女がシャツのボタンを外す。開かれた胸元には、北斗七星の黒子がきれいに並んでいた。
「へ…?ま、まってください…冗談は…」
男がぎこちなく笑う。白い胸元に光る北斗七星が男の目を奪い、青白くなった唇を小刻みに震わせた。
(ありえない…鏡子は死んだ、死んだんだ。それは俺も確認してる、間違いない)
間違いないんだ……男はそう頭の中で繰り返しながら女を見る。間違いない。鏡子は確かに死んだ。ならば、この目の前の女は誰だ。この北斗七星はなんだ。
(まて、遺体までは見ていない…死んでなかったのか?いや、そんなはずは……)
思考がぐるぐる渦巻く。そんな男の心を見透かすように目の前の女は微笑んだ。
「ちゃんと死にましたよ。ただ、魂までは死にきれず、あの世から戻ってきたのです。あなたが私のことを悼み、悪行を悔い、心を入れ替えていたら還る予定でした。でも…」
女が一度言葉を切る。そして悲しげに目を伏せると、細い声で続けた。
「………残念です」
「ま、まってくれ、ちがう、ちがうから…話を……」
男の額に滲む汗がギラギラと光る。女は狼狽する男をなおも悲しげに見つめながら微笑んだ。その顔はマネキンのようにつるりとしていた。
「ひっ…ゆるしてくれ、悪かった、もうしない、か、金も返す!だから頼む、頼むから…」
女が笑みを浮かべながら近づいてくる。背丈は男の肩あたりまでしかないのに、その影は男の頭からつま先まで丸呑みにできるほどに大きく、暗かった。胸元の北斗七星が男に迫る。鏡子だ。これは間違いなく鏡子なのだ。鏡子があの世から還ってきたのだ。歯がガチガチと鳴って、うまく呂律が回らない。女から逃げるように後退りすると、腰のあたりに屋上の柵が当たった。
「バカは死んでも治らない。なんて言いますけれど、死んでしまっては治ったか知る由もないですよね。でもいいんです。悪性は治らない。鏡子も戻らない。なら、もう仕方ないですよね」
「へ…?戻らないって、」
「さようなら」
女はそう言うと、グッと顔を近づけた。反射的に男が後ろにのけぞる。男の身体を支えていた柵がグシャリと歪んだ。
「あっ」
男が小さく声を上げる。腐りかけた柵は男の体重でみるみるひしゃげ、ついに根本から折れた。男の目が驚いて、一瞬ギョロリと後ろを見る。そしてそのまま宙に放り出されると、真っ逆様に地上へと落下した。
遠くで花火が鳴る。ビルの下が騒がしくなった。騒ぎに気づいた屋上の数名が壊れた柵の周りに集まる。気づけば、女は屋上から消えていた。
◇
パトカーと救急車のサイレンが鳴り響く喧騒をするりと抜けると、女は鞄からハンカチを取り出した。そしてそれを胸元の北斗七星に当てると、汚れを拭うように強く擦った。黒い点がよれて、白い肌に薄く広がる。何度か擦ると、北斗七星は完全に消え、女の白い胸元だけがつるりと光った。
女はハンカチをしまうと、代わりにパスケースを取り出し、中に挟まれたプリクラを見つめた。そこには笑顔の鏡子と、隣で目を細めて笑う友人…春子が映っていた。
「バカな男。よく考えれば、死んだ女が目の前に現れることなんてあり得ないでしょうに。鏡子はなんであんなバカな男に…まぁもう言ってもしょうがないね」
春子はそう吐き捨てると、電話を一通かける。
「あ、お世話になっております。はい…先日施術いただいた…えぇ、おかげさまで。ところで、すみません…せっかく施術いただいたところ恐縮なのですが、顔を戻してほしくて…はい…金額はまぁいくらでも…はい…はい…」




