婚活アプリで知り合った君。
最初は、少しだけ不安だった。
画面越しの記号のような言葉が、どこまで本当なのか。
けれど、重なる体温と、君の穏やかな微笑みに触れるたび、俺は確信していったんだ。
――この人となら、ちゃんと生きていける、と。
将来を誓い合うようになってからも、俺たちの時間は、驚くほど静かに、清らかに流れていた。
指先を絡めるだけ。
唇を重ねることさえ、あえて避けてきた。
それで、よかったんだ。
君という存在を、心から、大切な人として守りたかったから。
壊さないように。
汚さないように。
まるで壊れやすい硝子細工を扱うように、
慎重に、慎重に触れていた。
久しぶりのデートの日。
最近、何かが、決定的に「違って」いた。
返信の文字に混じる空白。
デートに誘うたび、滑り落ちるように逸らされる時間。
けれど、俺はそれを「忙しさ」という都合のいい皮で包み隠した。
目の前の君は笑っていたし、俺の前では、いつだって無垢に、可愛らしく微笑んでいたから。
居酒屋からの帰り道。
夜の空気は、肌を刺すように冷え込んでいた。
君が俺の袖を、小さく引いた。
「ねぇ――◯◯」
俺は、足を止めた。
心臓が、鼓動を忘れ、嫌な跳ね方をした。
……違う。
それは、俺の名前じゃない。
俺は何も言わなかった。
……喉の奥が固まって、何も言えなかったんだ。
君も、自分のしでかした間違いに気づかない。
何事もなかったかのように、隣で無邪気に笑い続けている。
そのあとの帰り道、君の唇から、
俺の名前が零れ落ちることは、二度となかった。
それからだった。
君のスマートフォンが、
俺を狂わせる心臓みたいに、気になり始めて仕方がなくなったのは。
眠れなくなった。
夜中に何度も、跳ね起きる。
暗闇の中、耳の奥で、あの瞬間がノイズのように繰り返される。
別の男の名前。
俺を呼ぶのと同じ、甘ったるい君の声。
間違いにすら気づかない、あの、残酷なまでに無関心な笑顔。
耐えきれなくなって、病院へ行った。
不眠の相談をして処方されたのは、一時の安らぎを与える睡眠薬。
指先で転がる、無機質な「白」。
その白さが、今の俺には、
嘘と虚飾で塗り固められた、君の「偽りの純潔」に見えた。
……次のデートの日。
個室の居酒屋。
君が、席を立った。
「ちょっと、お手洗い」
数秒。
それだけで、運命を書き換えるには十分だった。
俺はポケットから薬を取り出し、君のグラスの中へ落とした。
しゅわり、と。
透明な酒の中で、白い粉がゆっくり溶けていく。
静かに。
跡形もなく。
戻ってきた君は、俺の視線も知らず、それを一息に飲み干した。
「なんか……急に、眠くなってきちゃった……」
呂律の回らない声。
焦点の合わない瞳が、頼りなく揺れる。
俺は、笑った。
「大丈夫。送るよ」
タクシーを呼び、行き先を告げる。
その場所は、俺の部屋。
君を大切にしたいからと、一度も招き入れることのなかった、俺だけのテリトリー。
君は、ベッドの上で横たわっている。
静かな、規則正しい寝息。
その横で、俺は君のスマートフォンを手に取った。
顔認証。
眠っている君の顔に、冷たい液晶をそっと向ける。
一瞬。
画面が、呼吸をするように静かに開いた。
あっけないほど簡単に、
俺は君の「中身」に侵入した。
……あぁ。
やっぱり、まだ消していなかったんだね。
俺たちの出会いの場所、あの婚活アプリ。
もう必要ないよね、なんて思いながら、
俺の指は、吸い込まれるようにアイコンを叩いた。
通知マーク。
一つ。二つ。三つ。
『次はいつ会える?』
『昨日の君、最高だったよ』
『まだ抱き足りない……はやく会いたい』
……は?
文字が網膜に焼き付き、理解するまでに数秒の空白があった。
メッセージアプリを開けば、そこには――。
複数の男の名前。
同時進行。
俺に送ってきたのと同じ、甘い、毒のような言葉の数々。
俺には、手を繋ぐことさえ躊躇わせていた君が。
「大切にしてほしい」と、清純を演じていた君が。
別の男たちの前では、こんなにも安っぽく、自分を切り売りしていたんだ。
「……あははっ」
乾いた笑いが、喉の奥からせり上がった。
暗い部屋で、スマホの青白い光だけが、俺の顔を幽霊のように照らしている。
俺の何がダメだった?
優しすぎたか?
慎重すぎたか?
違う。
……「自由」という名の毒を、与えすぎていたんだ。
俺は、その場でアプリを削除した。
男たちの連絡先を、一人ずつ、丁寧に、ブロックしていく。
全部。
消去。
君の世界から、俺以外の不純物を、
指先一つで「掃除」してあげる。
「……ダメだよ」
眠っている君の耳元で、熱い吐息とともに囁く。
「これは、アウトだ」
俺は君を選んだ。
この命を、将来を、すべて懸けるほど、君だけを選んだんだ。
だから――
君も、俺を選ばなきゃいけない。
君の首筋に、指先を這わせる。
震えるような、熱い体温。
眠っているだけなのに、俺をこれほどまでに狂わせる。
この部屋には、縄もない。
君を縛る物理的な鎖もない。
でも、そんなもの、もう必要ない。
精神を。
記憶を。
俺という存在なしでは、一秒の呼吸さえままならないという依存を。
逃げられない鎖にすればいい。
俺は、君の財布から身分証を抜き取った。
そのまま、重厚な金庫の中へ放り込み、無機質な金属音とともに鍵をかける。
明日、目を覚ましたとき。
君が最初に見るのは、俺だけだ。
……
君を証明できるのも、この世界で俺だけなんだよ。
「困ったな……」
ベッドの横に腰掛け、君の寝顔をじっと見つめる。
裏切りを知ってもなお、狂おしいほどに愛おしい。
「どうしてやろうか……」
君の耳元に顔を寄せ、空気さえ震わせる低い声で、小さく笑った。
「もう、普通の愛し方じゃ、君を繋ぎ止められないよね」
少しだけ、間を置く。
俺の心臓の音が、君の耳に届くほど近く。
そして――。
「これから教えてあげる」
君の世界が、俺という色だけで満たされる方法を。
ゆっくりと。
逃げ場がなくなるまで。
一生をかけて。




