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四対の翼を持つ天使と悪魔の王  作者: 山法師


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 堕天する、とは言っても。


「天使の力を失う訳じゃないのも忘れてるのか……」


 五対の翼を力強く羽ばたかせて飛ぶ子どもの天使は、天界からかすかに聞こえてくる叫び声や祈る声に呆れてしまう。

 堕天したら死ぬ、と怯えている誰かの言葉は、あながち間違いでもない。

 天使は老いて死ぬことなどないが、堕天したら地上の生物と同様に死の概念を背負う。


「まぁ、今の天使は、何もなくても死ぬからなぁ」


 地上の上空、遥か上を飛んで地獄を覗ける切れ目に向かいながら、他人事のように呟く。

 堕天したら基本的に天界には行けなくなるので、もう他人事のようなものだった。

 自分のような『昔の天使』なら、堕天して死ぬ可能性はあっても老いたりしない。けれど彼らは自分と違うので、怯えることに多少の理解や同情はする。


「でも」


 今の自分には天使たちより優先することがある。

 五対になった翼の扱いにはすぐに慣れたので、出せるだけの速度を出し、金色の長い髪と白く美しい衣を鋭くなびかせて。

 矢のように飛ぶ子どもの天使が青い瞳で見つめる先、地上の切れ目から響く声。

 嗚咽混じりにすすり泣く幼い声は、恐らく、絶対に。


「君だよね」


 声を抑えて地上の切れ目に飛び込み、速度を落として地獄との境目に降り立つ。


「やっぱり」

「っ!」


 ぽつりと落とした囁き声は思ったより大きく響き、怯えるように肩を揺らした相手は即座に顔を上げ、


「……えっ?」


 間の抜けた声を出し、赤い瞳を何度も瞬かせる。


「千数百年……二千年いってる? 顔は知ってるけど、はじめまして。僕は天使のルシファー。気軽にルーって呼んで。君は?」


 夢を見ているような顔で自分を見つめる子どもの悪魔に名乗り、問いかけ、いつものように片手を上げた。


「あ、僕、さっき堕天したから堕天使のルシファーだった」


 歩み寄りながら思い出したことを付け足して、数歩の距離でしゃがみ込む。

 地獄との境界で座り込み、黒く巨大な皮膜の翼を小さく閉じていた悪魔は、


「え、君、翼、増えて……あ、ぼく、えっと……さ……サタン……」


 おどおどと訊いてきて、躊躇いがちに名乗り、


「──堕天?!」


 裏返った声で叫んだ。


 ◇


「ごめん、そんなに驚くとは思わなかった」


 悪魔が叫んだ拍子に黒く巨大な翼が羽ばたくように大きく動き、悪魔特有の禍々しく淀んだ空気が周囲に広がった。

 天使特有の清浄な空気で自分の周りや地上に漏れそうな『悪魔の空気』を素早く打ち消し、軽く謝る。


「いや、ご、ごめ……ありがと……大丈夫……?」


 サタンと名乗った悪魔は縮こまっていて、両手で自分の翼を押さえつけていた。


「堕天、したんでしょ……? 何か、あったら……死んじゃう……」


 小声で尋ねてくる悪魔は、目の前にいる天使が死ぬ恐怖に怯えているように見えた。


「大丈夫だよ。ちゃんと打ち消したから。堕天したからってそう簡単には死なないよ。地上の物とは作りが違うし」


 相手は巨大だが一対の翼、こちらは力も格も上がった五対の翼。

 それで拮抗しているのだから相手が全力を出したらどうなるか不明だが、この悪魔が全力を出すようには思えない。

 微笑んでみせると「そっか。良かった」と安心した様子で小さく頷いた。


「……君、天使に死んで欲しくないの?」


 首を傾げて尋ねる。

 昔から時折思っていたが、悪魔らしくない悪魔だと改めて感じていた。

 悪魔は天使と敵対関係にある。

 残忍で残虐な性質を持つ悪魔は地上を苦しめ、天界を苦しめ、世界の崩壊を望んでいる。

 求めるままに壊し続けるのが悪魔の本性だと伝え聞いている。昔の天使たちから、今の天使たちも同じことを言う。

 神は悪魔について何も言わない。神とはそういう存在だ。

 言葉に詰まったように固まり、我に返って周囲を見回す子どもの悪魔は、どう見ても怯えている。

 この子はいつも、何かに怯えている。


「大丈夫。この場にいるのは僕らだけだ」


 不安そうな赤い瞳に微笑み、「大丈夫だよ」と言葉を重ねる。

 自分より強い悪魔に従わされているのだろうか。

 疑問に思って。

 この子より強い悪魔なんて、存在するのだろうか。

 より強い疑問を抱いた時。


「……その、天使、みんなは、わからない……天使は残酷で、色々なものを惑わすって……他の悪魔から、教わった……」


 顔を俯けて言われたそれに、悪魔は天使のことをそう教わるのかと、別の世界を見た気分になる。


「……でも、君には、死んで欲しくない……残酷とか、惑わすとか……教わった天使と、違うし……」


 こちらは残酷なつもりも惑わしたつもりもないので、「うん」と相槌を打つ。


「けど、ぼく……王様だから……悪魔の、王、だから……」


 悪魔には序列があるのか。王は頂点を意味するはずで、そぐわない気もするがこの子に相応しいとも思った。

 悪魔への理解を深めていた天使の耳に、


「──悪魔の王には、殺さねばならない天使がいる」


 独白めいた幼い声が届く。

 何度も聞かされ、耳にこびりついた言葉を復唱しているような、温度も色もない声だった。

 けれどそれはすぐに涙声に変わり、悪魔は俯いたまま続ける。


「絶対、殺さなきゃいけない、天使……どんな形ででも、殺さないと……悪魔が、滅ぼされるって……教わってる、から……悪魔の王が、果たす、使命だからって……」

「……それ、どんな天使? 殺さなきゃ滅ぼされるの、本当に絶対?」


 必死に伝えてくれる子どもの悪魔は、やりたくないと全身で訴えている。

 悪魔の王であるこの子が、悪魔らしくないとはいえ『使命』を嫌がるほどの天使。

 まっすぐ見つめる天使に気付いていないのか、


「ぼく、生まれた瞬間から、悪魔の王だった」


 幼子姿の悪魔は俯き加減に涙声で話していく。


「悪魔の王が生まれるのは、その天使が生まれてる証拠なんだって」


 世界の均衡が崩れ、悪魔の時代が終わるかもしれない暗示。

 悪魔が弱体化する中、天使だけは力を保ち続け、対抗するように強大な力を持つ悪魔の王が生まれる。

 残酷で、相手を惑わし、大きな力を有する天使。打ち勝つための使命を負っている『悪魔の王』でも、強大な力を持つ天使の前に斃れるかもしれない。

 なぜならば。


「その天使は、神に愛されている」


 泣きかけていた声は虚ろなものに変わっていて、幼子を思わせる悪魔は完全に俯いていた。


「その天使を殺さないと、神が近くにいる天使に押し負けて悪魔は滅びる。その天使を殺したら、……悪魔の王は神に殺されるけど、他の悪魔は滅ぼされない。世界の均衡も元に戻る」


 その話はどうなんだろうと、天使は疑問を抱く。

 全体的にどうなんだろう。


「……君は、違うよね? 神に愛されている天使じゃないよね?」


 祈るように訊かれ、


「神に愛されている天使は僕だよ」


 あっさりと返す。

 弾かれたように顔を上げた悪魔に、


「神から与えられる天使の役目は重複しないんだ。だから、君が殺さなきゃいけないの、僕だけだね」


 天使は微笑みを見せた。

 赤い瞳を見開いて呆然と自分を見つめる子ども姿の悪魔に、子ども姿の天使は青い瞳を柔らかく細めて笑みを深める。


「悪魔が滅びるかどうかより、君が使命を果たせないと面倒が起こりそうだよね」


 立ち上がった天使は躊躇いなく悪魔の手を取り、闇が揺らめく地獄へ歩いていく。

 悪魔の手を握った瞬間から鈍い痛みが体に染み込んできたが、天使の力で抑え込み、緩和させる。あちらは突然の行動に狼狽えているらしく、


「まっ、待ってよ!」


 声は上げたが、ついて来てくれた。


「待ってってば! 死んじゃうよ、君が死んじゃう! ここは地上に近いけど! ぼくがずっと居たせいで最下層並みの炎になってるんだ! 生き物なら、堕天した天使でも、たぶんあっという間に──」

「大丈夫」


 地獄への縁で振り向きざま、慌てる悪魔の言葉を断ち切り、


「僕は神に愛されてるから」


 天使は笑顔で断言する。

 言葉を失っている悪魔の前で、振り返る拍子に広がった長い金髪と美しい衣の裾、広げて羽ばたかせた五対の真っ白な翼に、地獄の炎が燃え移る。

 一応と悪魔の手を離すと、固まっていた悪魔が悲鳴を上げた。


「やだ! 嫌だよ! 君が死んじゃう!」


 大丈夫だと何度言っても、子ども姿の悪魔は赤い瞳から涙を流して「嫌だ」と首を振る。長い黒髪を振り乱し、黒く巨大な翼を荒々しく不器用に動かす。

 人間の子どもが駄々をこねる様を見ているようだった。


「誰も殺したくないのに! 悪魔も天使も! 悪魔は誰も方法を教えてくれないんだ! 悪魔と敵対する天使が教えてくれるとも思えない! そうなったら、もう──神に祈るしかないじゃないか!」


 やっぱり、と思った。

 虚ろな眼差しで天を仰いでいたのは、神を望んでいたからだ。


「君と目が合った時! 聞いた通りの天使の姿で! しかも背中に真っ白で立派な翼が四対もあって! まさかって思って! 怖くなって逃げたんだ!」


 そうだよね、と頷いた。

 こちらの様子が見えているのかいないのか、顔を歪める悪魔は泣きながら言葉を続ける。


「っ、でもっ……! 君は、見た目以外、聞いてた天使と違って……、ぼく、を」


 幼い悪魔は震える声で「ぼくを」と繰り返す。


「ぼくを、遠ざけないでいてくれた」


 悪魔だからといって遠ざけず、殺そうとすることもなく。


「見放さないでくれた。会いに来てくれて、待っていてくれて」


 独りにしないでくれた、と心細そうに言われる。


「だから、君が死んじゃったら……!」

「大事な友達を独りにしない」


 地獄の炎に全身を包まれ、狭まっていく天使の視界に、呆けた悪魔の顔が見えた。

 ともだち、と口を動かす様子が見えた気がした。

 闇に揺らめく地獄の炎はとても熱く、同時にとても冷たい。

 凍えそうな熱と痛みで意識が朦朧とし、世界が遠くなっていく。

 これが『死』か、と実感する天使は、気合いで笑みを作った。


「安心してよ。言ったでしょ、僕は神に愛されてる。僕の大事な友達を悲しませるなんていう『僕が悲しむこと』を神が赦す訳がない」


 だから信じて、と笑顔で言う。


「僕の言葉を信じて。神に祈って」


 ずっとそうしてきたように。


「友達を自分のところに戻してって、祈ってて」


 目の前に居る『友達』が息を呑んだ、ような。


「戻ってきたら君のこと、もっと教えてね」


 僕も教えるし、君と話したいことが沢山あるから。

 その言葉は声になったかどうか。

 天使の意識はふつりと途切れた。

 地獄の炎に灼かれても形を保っていた小さな体と五対の翼があっけなく崩れる瞬間を見た、小さな悪魔は、


「……もど、して」


 喘ぐように口を動かす。


「……戻して、返して」


 怯えたように小さく震える声は、次第にはっきりとした声になっていく。


「ぼくの友達を返して! 戻して!」


 自分が悲しむことになったら。


「ぼくの友達が悲しむんだ!」


 だから、この子を。


「こんな(もの)に負けないくらい強くして、ぼくの所にすぐに返して!」


 強い意志を持った幼い叫び声は、いくらか地獄の闇に呑まれ。

 残りすべては地上の空を昇って天に届き──突き抜けるほど響き渡った。




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