2
四対の翼を持つ天使には与えられた名前があった。生まれた瞬間、神に与えられた名前が。
生まれた時から四対の美しく立派な翼を持つ子ども姿の天使を、他の天使たちは『四対の翼様』『四対の天使様』と呼んだ。
名前で呼ぶのは畏れ多い、あなたは特別な存在だからと。神はそのような決まりを作っていないのに。
そう思ったし伝えたが、集まってくる彼らは「畏れ多い」「あなたは特別だ」と言うばかりで、天使は苦言を呈することをやめた。伝えても意味がない、もっと言えば集まってくる天使たちは自分の名前など気にかけていないと諦めた。
集まってくる天使たちは一対の翼が多かったが、二対で計4枚、三対で計6枚の翼を持つ者も時折やって来た。
生まれたばかりの天使が持つ四対の翼、その羽根を抜き取って自分の力とするために。
特別な存在である『四対の翼様』の力を手に入れ、自分の天使としての格を上げる。
神からそんな役目は与えられていない。自分の羽根にそのような力はない。誰が言い出したのかわからないことを妄信してはいけないと言ったが、天使たちはまた「謙遜を」などと言って聞く耳を持たなかった。
天使は諦め、四対ある自分の翼から羽根を何枚、何十、何百枚と毟り取られていく間、その場で静かにしていた。
いくら毟り取られようが、折れるように持っていかれようが、美しく立派な羽根は瞬きの間に新しく生えてくる。羽根を抜かれる瞬間の僅かな痛みなど慣れてしまえば気になるほどでもない。集まって羽根を毟り取っていく天使たちの気が済むまで静かにしていた方が気が楽だった。
彼らが自分を特別な天使だと思っている理由に、ある程度の見当はついていた。
神から与えられた名前がある。翼を四対、計8枚持っている。
その子ども姿の天使が生まれたばかりの頃は、もう『神に名を与えられる』ことは珍しくなっていて、最初から翼を四対持っている天使も存在していなかった。
だから特別だと言われ、敬いながら羽根を毟り取っていく。
神が遠くなってきていた天界で、神の代わりのように扱われる。
優れていると評される容姿や翼の数、他の天使たちが畏れを抱くほどの清浄さをはらむ空気を纏って。
神に与えられた名前ではなく、羽根を毟り取っていく天使たちの呼び名で呼ばれ続けた天使は、
「……僕の……」
名前はなんだったっけと、地上を眺めて呟いた。
◇
生まれた瞬間から変わらない子ども姿の天使は、生まれた瞬間に与えられた名前を、どうしてかいつの間に失っていた。自分も他の天使たちも、『四対の翼様』の名前を忘れていた。
自分の一部が欠けてしまったと気が付き、愕然として、四対ある翼を力なく羽ばたかせて天界を彷徨った。その頃にはもう、誰も自分の羽根を求めていなかった。
そんな彼らは口々に言う。
四対の翼を持つ天使はあなただけ、それだけで十分特別な存在だ。
与えられた名前が無くなっても困ることなどない、あなたは『四対の翼様』なのだから。
羽根を得ても格は上がらず、毟り取る行為に意味が無いと悟り、特別な天使ではないと勝手に落胆していたらしい。
そして神から名前を与えられた天使も『四対の翼様』だけになっていて、失ったならば自分たちに近づいたと親しみさえ覚えているようだった。
天使は彼らの言動や動機より、名前を失った事実に打ちのめされていた。
役目はあるが名を失った天使は、天界を彷徨い飛び、地上へも時折目を向ける。当たり前だが、自分のことなど知らない生物が目に入るだけだった。
そんな所にはないとわかっていて、諦めと共に地上の切れ目、地獄が覗ける場所へと目を向けた。
そうしたら、あの、虚ろな赤い瞳と目が合った。
天界の端に立つ『四対の翼様』の背後では、広大な天界を端から端まで彷徨い飛んだ結果の、清浄な空気が天界中に満ちていた。他の天使たちは畏れや敬意などを込めて遠くから頭を下げていたが、そんなことはどうでも良かった。
驚いたように目を瞬かせて自分の青い瞳を見つめ返す悪魔が──自分と同じように子どもの姿をしている悪魔が。
地上を通り越して天に目を向けていたこともだが、あんなに虚ろな眼差しをしていたことが気になった。
どこか呆然とこちらを見つめる子ども姿の悪魔に「見えているよ」と口の動きで伝え、手を振ってみる。
さらに驚いたらしい悪魔は目を見開き、少しだけ手を上げたかと思うと引っ込め、翼を羽ばたかせて。揺らめく闇の奥、地獄の底へと消えてしまった。
「……あの、翼」
悪魔の背中にある一対の、皮膜を思わせる羽根のない翼がとても巨大で、闇に紛れるだろう黒さで、悪魔らしい禍々しさを放っていると思い至ったのは、子ども姿の悪魔が奥に消えてしばらくしてからだった。
名前を失くした天使は何度か地上の切れ目に目をやり、そのうちに時々姿を見せる──地上を越して天を見上げる『あの悪魔』と顔を合わせるようになる。
最初は虚ろな赤い瞳が驚きに変わり、逃げるように姿を消していた悪魔だったが、次第に待ち望むような眼差しへと変化し、いつしか天使の方が待っている側になっていた。
翼を見えないようにしたほうが怖がられないらしいとわかってからは、四対ある立派で美しい翼をなるべく小さく閉じるようにした。長い金色の髪も同じ理由でまとめ持ち、垂らさないようにした。
◇
今の天界、地上に降り立つ天使は、名を名乗る者や二対以上の翼を持つ者も多い。だが、自分で名乗り始めた名前、どれかが偽物の翼である、どちらも珍しくはなくなった。
神から与えられるはずの役目も、同様に。
天界から神が居なくなったと言われて久しい。
生まれてくる天使は誰も名を与えられず、役目を与えられず。好き勝手に翼を増やして名を名乗り、各々好き勝手に自分で決めた『役目』を果たす。そしていつの間にか『成長』していくようにもなった。
『未だに子どもの四対の翼様』と呆れ混じりに呼ばれる天使は、名前は失ったが役目は失っていない。
生まれた時、神に与えられた役目。
──愛されよ。
天使に、周囲に、神に愛されよ。
神から与えられた役目は果たし続けている。
自分に呆れを向ける天使たちは、同時に敬愛と畏怖を向けてもくる。そして最近、居なくなった神の代わりにと、妙な役目を押し付けてきた。
「天使の長って、何?」
地上を眺め、担がされた『役目』の名を口にしてみる。
おかしさがこみ上げ、天使は肩と翼を震わせて笑いを噛み殺す。
天使に格はあっても明確な序列はない。天使の頂点、天使の長なんて、意味も響きもおかしかった。
気を取り直し、四対の翼全てを軽く羽ばたかせて周囲を清浄な空気で満たす。いつもの姿勢になり、地上、その切れ目の奥に青い瞳を向ける。
太陽が完全に沈み、しばらくして。
姿を見せ、顔を上げたその子と目が合い、いつものように片手を上げかけ、止まる。
顔見知りになって千年はとっくに過ぎただろう、自分と同じ子どもの姿をしている悪魔。
子どもの容姿でも悪魔らしい禍々しさを放つその子の赤い瞳が、以前のような虚ろな眼差しになっていて。
その上、つい先ほどまでそうしていたと一目瞭然な、泣き腫らした目元を目にして。
こちらが何か言う前に両手を力なく持ち上げ、一生懸命に笑顔を見せようとして失敗し、歪んだ表情になったその子の目に涙が浮かぶ。
「ちょっ、君!」
思わず声を上げてしまったのは、毒々しいほど豪華な服でその子が顔を乱暴に拭い、そのまま逃げるように姿を消してしまったから。
頭から渦を巻いて生える2本の太いツノは禍々しく鈍色に輝き、黒く巨大な翼もいつもより禍々しく思えた。
あの子は間違いなく悪魔だ。
天使と敵対関係にある悪魔だ。
それでも、と天使は考えてしまう。
どうして行ってしまったのか。どうして泣いていたのか。
あの子が戻ってくる様子はない。天使は地獄が覗ける地上の切れ目に目を向けたまま姿勢を変えてその場に座り、四対ある大きく立派で美しい真っ白な翼を力いっぱい、打ち付けるように羽ばたかせた。
苛立ちにも似た感情を抑えるためだった。
天使が持つ清浄な空気が広大な天界に行き渡り、天界にいる天使たち、地上に降りている天使たちもその場で膝を折り、頭を下げる。
まるで、神に祈るように。神を崇めて縋るように。
「君は」
四対の翼を持つ天使は、僅かに震える声で囁くように言う。
「君は、なんで」
そもそもどうして、最初に出会った時、虚ろな目で天を見上げていたのか。
自分は君のことを、何一つ知らない。
あちらもそうだろう、千年以上顔を合わせている天使がどんな天使か知らない。
出会った時には既に『神に与えられた』名前を失っていたことも。
ただ、二つ。分かることがある。
あの子も自分も、容姿が変わっていない。
こちらは天使であり続け、あちらは悪魔であり続けている。
天使が昔から知っている悪魔は、あの子だけになっていた。地獄から地上に出てくる最近の悪魔は、他の天使たちと同じように『死ぬ』という。
神が居なくなった、消えたと言い出した天使たちは『成長』を止められず、老いた先の死を受け入れるしかなかった。
死にたくないと泣く、死を受け入れてじっと息を潜める、動ける間にと天界や地上で好き勝手に動く。
その姿はまるで地上の生物──最近特に数を増やしている、人間のようだった。
おかげで昔からの見知った天使も残らず死を迎え、昔を知らない新顔の天使しか居ない。
神を知らない天使しか存在しない。
「馬鹿だよね」
天使が生まれるのは生物として『生まれる』のではなく、神によって天使として『存在する』のに。
神が居なくなったのではなく、天使が神を感じられなくなっただけだ。
神を遠く感じ、神を信じなくなり、自分たちの『生き方』を否定した時点で、彼らは天使でいられなくなる。
神の代わりとして讃えられる『四対の翼様』は『天使の長』という妙な役目を持たされた。
「そんな僕も、馬鹿だろうね」
悪魔や地獄が天使や天界と似ているかなんて、考えたことなどなかった。
天使は天使で、悪魔は悪魔だ。
けれど悪魔も老いたり死ぬことなどないと、昔を知る天使は知っている。
あの子も自分と似たような立場なら。
自分だけが孤独な状況にあるなら。
全くの見当違いだとしても。
「泣いてた理由くらい、教えてよ」
言ってから、気付く。さっき自分の声が震えていたのは、悲しかったからだと。
あの子のことを何も知らない、そんな自分が酷く滑稽に思えてならない。
名前を失った天使が神に与えられた役目は、一つだけ。
愛されよ。
天使に、周囲に、神に──愛されよ。
『周囲』は地上を、地獄も含めて良いだろう。
地獄を含めるならば、地獄に棲む悪魔も含まれる。
間違っていたら罰を下されるだけだ。
愛されよという役目を果たすためには、知ってもらわないといけない。
君のことを何も知らないのだと、知ってもらわないと。
「役目を果たすため、地上に降ります。個体としての理由が強いですが、今さらですよね」
地獄を覗ける地上の切れ目に目を向けたまま、天使は淡く微笑んだ。
神に向けて。まだ泣いているかもしれないあの子に向けて。
そうして、四対ある大きく立派で美しい翼を広げた天使は、
「長様? 何を?」
天界から地上に降りようとした直前、遠くにいる天使に訝しげに声をかけられ、動きを止めた。




