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不眠セイレーンの子守唄

作者: 雨流し

 唄。海。クジラ。

 それが私たちの全て。


 南東からこちらに向かってくる大きな船が一隻。おそらく捕鯨船。仲間の一頭が私にすり寄った。


「わかってる。今回は私に任せて」


 こっそりと海からでて様子をうかがう。水面から出てしまった自分の黄色から濃いオレンジにグラデーションになっている尾びれが目立ってバレないかひやりとする。結った黒い髪が顔にくっついてうっとしいが変にここで身じろぎはできない。

 船の近くの岩礁に身を隠しながらも、声は届くように大きく息を吸った。


 私たちセイレーンはずっとずっと昔からクジラたちと共に海で過ごしてきた。クジラは唄う。それは私たちセイレーンが唄を教えたから。それが彼らの言葉となり、セイレーンとクジラを結びつける大きな役割を担った。セイレーンは人魚の中でも唄で様々なものに影響を与える能力を持つ怪異であり、その歌声は当然のごとく個々で違うために与える影響の種類も多様だ。ただそもそも私たちは数が少ない上に、唄うこと以外は無力で身体的にも脆弱。自分よりも小さなウツボに噛みつかれただけで衰弱するし、イソギンチャクの毒にも勝てない。クラゲ、タコ、イカも割と脅威だし、ましてや海の生態系の頂上くらいのサメなんて出会っただけで死を確信する。怪異なのだからそこらの魚類相手に対しては唄えば何とかなる、なんてことはまあない。私たちの唄は基本的に直接的な害を与えるものでは無い。少しだけ風向きが変わるとか、クジラたちの唄を遠くまで届けるとか、そんなもの。我ながらなんとも情けない。生まれたばかりのウミガメの方が生存率が高い気がする。私たち、セイレーンだけならば。

 セイレーンはクジラに唄を教えた。その代わりに、あらゆる海の脅威から庇護してもらうことを頼んだ。セイレーンたちはクジラの群れととともにいる。例えサメであってもクジラ相手には手を出しては来ないし、たいていの生き物はクジラたちが尾を水面にたたきつけるのを見ただけで逃げ出していく。そしてクジラの寿命は海の生き物の中でもかなり長い。私たちセイレーンは怪異だからか、身に危険が及ぶことがなければかなりの年月を存在する。だからだろうか、両者ゆったりとしたこの関係は結構うまくいっていた。はずだった。


 クジラに敵が全くいないわけではない。そりゃあ、天敵だっている。けれど、ここ最近で最も私たちが危険視しているのは人間だった。

 大昔から人間はクジラを食料としようと何度も海へ出て無謀にもクジラたちに挑んでいた。被害に遭って狩られてしまった子もいたけれど、ここ最近のはその比ではない。昔よりずっと大きくて重たい銛が何本も打ち込まれてくるし、網を使われそうになったこともある。クジラたちが執拗に狙わられ続けるのを見て、私たちセイレーンも頼ってばかりではいけないと思い腹を括った。本来人前に出るべきではない怪異だけれど、クジラたちと共に人間に対抗することにした。


「ゼーラ、ありがとう。あの人間たち、みんな眠っちゃたみたい。今のうちに早くどっか行こう」

「そうね。多分、もって半日だし」


 私の唄は子守唄。聞いた者の眠気を誘い、夢に招き入れる。なんていったら聞こえがいいけれど、本当にただの子守唄。眠気は確かに誘えるようだけれど、聞いた瞬間に昏倒するとか一生起きないとかそんな効果は無い。せいぜいなんとなく眠くなって寝つきが良くなるだけ。でも、こんなものでも常に疲弊している船乗りたちには有効で、この方法で捕鯨船をすり抜けている。

 それでもひょんなことでセイレーンたちは死んでしまうし、嵐に会ってはぐれたクジラは狩られてしまうしで、昔はとても大きかった群れも随分小さくなってしまった。クジラ、セイレーン合わせても私が最年長とかいうふざけた状態になっている。

 ずっと看取ってきた。人間に投げ込まれた銛で血を流しながらも逃がしてくれたクジラたち。少し群れから離れただけで、サメに胴を食い破られていたセイレーン。他にも海にいる別の怪異だったりと仲間の死因をあげればきりがない。

 もう、疲れてしまった。どうして皆、私だけを置いていったのだろう。ひどい死に方をしたいわけではないけれど、死んでいく仲間をただただ見続けていくのは辛く、空しかった。仲間が死んだ日は決まって、その仲間の死にざまを繰り返し夢で見せられた。何度も何度も。仲間が死んでいくのに、それをただ何もせず見ているしかない無力な私を、さらにその後ろから眺めている夢をずっと繰り返し見ていた。

 だから、ある時から眠ることをやめた。眠ってまた夢を見て、死んでいった仲間と何もできないまま終わる自分を見ることに耐えられなかった。幸いにも、セイレーンという怪異の特性なのか私自身の唄に由来する能力なのかは知らないが、全く眠らなくても特に支障はなかった。むしろ仲間が寝ているときに見張りができるから、こっちの方が都合がいいとすら思った。

 けれど、眠らないと仲間に心配をかけるし無性に泥のように意識を飛ばして眠りたくなることもある。だから格好だけは眠るのだけれど、結局眠ることを辞めた日から私は寝ることができなくなった。そんな日は、こっそりと群れから離れて水面から顔を出して月を見ていた。しかし、月と言ってもそういう時に限っていつも新月で、空にない黒々とした月を虚ろに見上げていた。


 ♦


 その日も新月だった。眠りたいくせに眠れないからまた水面へと一人泳いでいると、不意に泣き声が聞こえた。しかも思いっきり泣いているものでは無く、必死に押し殺しているような。私の仲間は全員、クジラもセイレーンもいつものところにいるから知っている奴じゃない。けれどなあ。クジラ、セイレーンに関わらず小さい子の面倒をずっと見ていたからかその泣き声を放置することができなかった。

 泣き声は小さいけれど海面に行くほどはっきり聞こえてくる。真っ黒で視界の悪い夜の海の中でもわずかに揺蕩う尾びれが見えた。同属の子が泣いているのかと、つい警戒を緩めてその尾びれの持ち主がいる小島の入り江に近付き砂浜までそのまま体を出してしまった。

 目の前には予想通り、急に現れた私を見てきょとんと大きな目を見開きながらも涙を流す人魚の子供がいた。ふわふわとした白と黒が混じった長い髪に、黒い瞳の稚魚だった。髪が完全に乾いていることから、長い間ここにいたことが分かった。ずっと泣いていたんだろうか。とりあえず挨拶は、と思ったところで厄介なことに気づく。この子の下半身は人魚のそれではあったが、私のような魚類のものでは無く、黒に特徴的な白い模様を持ったシャチの尾だった。

 クジラにも例外的な天敵がいるといったが、それがシャチだ。クジラを上回る圧倒的な遊泳速度とサメよりも大きな巨体に生えた牙ともいえる歯。過去に何度か襲われかけて恐ろしい目に遭ったことを思い出す。そのシャチの人魚型の怪異が目の前にいる。このまま逃げ帰って仲間のところに連れていくわけにもいかない。しかしこのままだと普通に私が喰われるのでは。でも子供はずっと泣いていて。

 そこまで一息に考えて、悩んで、私は。


「お前も、眠れないの」


 シャチの子供に手を伸ばした。

 浅い波間で尾びれを遊ばせながら隣に並ぶ。大きな目にとどまっていた涙を拭ってやると、先ほどの驚きの感情が薄れてきたのか、またはらはらと涙を流し始めた。


「この辺り、誰もいないから声を出しても平気よ」


 うぐ、と泣きたいけれどうまく泣けない子供の声が聞こえた。


「なら、おいで。お前を隠してあげる。裏の月からも、海からも」


 少し強引だとは思ったけれど、子供を胸に抱き寄せて背中を軽くたたいてやる。


「気に入らなかったら、あとで私を食べてもいいから。泣ききったら、きっと眠れるわ」


 しゃくりあげる子供の声を隠すように、私は唄った。


 ♦


「よく寝てたわね」

「う……」


 私が唄うとシャチの子供は私に縋って泣いて、そのまま唐突にこてんと眠ってしまった。横にしてあげようかとも思ったのだが子供が私に抱き着く力がかなり強くて正直動けなかった。本当に寝てるのか何度も確かめたがやっぱり寝てはいて、はがそうとするたびに締め付けが強くなるので中身を砕かれる前に諦めた。

 今は目が覚めて私の胸に顔をうずめている状態に気づいた子供があわあわと頬を染めているのを眺めている。恥ずかしいなら離れればいいのに、それはしないらしい。


「抱きしめられるの好きなの?」

「あう……」

「それとも、やわらかいのが好きなの?」

「ううう……」


 呻くばかりでいつまでも離さないからぎゅっと抱きしめ返すと、うぷ、と顔が胸に埋まってもう首まで赤くなっていた。


「エロガキ」


 耳元でそう言ってやれば、バッと離れてむすっとしながらもぷるぷると震えていた。ダメだ、良いおもちゃを見つけてしまったかもしれない。口元を隠しながらもくすくすと堪えきれずに笑っていると、むすりと不満げな顔で抗議の意なのか尾びれをびたんびたんと波打ち際に打ち付けていた。

 気づけば子どもの後ろの水平線から陽光が漏れた。このままこの子で遊んでいてもいいけれど、もう夜が明ける。


「子守唄はお気に召したかしら?どう?私を食べる?」


 柔らかい頬をするりと撫でながら先ほどのようにわざと耳元で囁いてやれば、また顔を赤くしてぶんぶんと激しく首を横に振った。反応が初心で面白くて可愛いなこの子。


「そう。じゃあ、私はもう行くわね」

 

 いい加減仲間の元へ戻ろうと泳ぎ出した時、いきなりそれ以上進めなくなった。というか身動きが取れなくなった。その原因は明確で、先ほどの子供が私の腰に後ろからしがみついていた。流石、子供と言えどシャチの力は強いな。ご丁寧に尾びれまで巻き付けて、本当に動けない。仕方ないから、唯一自由な口を動かすことにした。


「どうしたの。まだ足りなかった?エロガ」

「カヴァリア!」


 照れ隠しでやけになった声に振り返ると案の定可愛らしく怒っているが、思いのほか鋭い目で睨まれていてびくりとする。やはりこの大海の生態系頂点と言われるだけはあるらしい。子供だから、敵意はないようだからと甘く見ていた。


「あんたの、名前も。教えて」

「教えないっていたら」

「……噛む」


 ふはっと、思わず吹き出してしまった。そこは食べるじゃないのね。不満げな空気が後ろからひしひしと伝わってきて、もうおかしい。


「いいわよ。どこを噛みたいの?首?腕?それともお前の好きな胸?」


 うう、とうめき声なのか泣き言なのかわからない声が聞こえ、水中でも熱い頬が背中にくっついたのがわかる。必死に慣れない脅しをしてみたら思っていた切り返しが来ないわ、揶揄わられるわでどうせまた顔を赤くしているのだろう。仕方ないなあ、子供には弱いのよね。


「ゼーラよ」


 きゅっと抱き着く力が強まった。下位の怪異の名前を知れただけでそんなに嬉しいか?


「ゼーラ。また来て。待ってるから」


 そして一緒に眠って。

 背中に押し付けられてくぐもった声に、一瞬息が詰まった。


「……いいわ。新月の夜に、会いに行ってあげる」

「うん」


 子供の腕が離れたのと同時に水を蹴って振り返らずに泳いだ。

 お願いと、聞こえた気がした。

  

 ♦


「リアちゃーん」

「うっさい!変な呼び方するなって!カヴァリア!」

「知ってるって。だからリアちゃん。なーに?ちゃんと約束通りに寝かしつけに来てあげたのに、お姉さんに会えて嬉しくないの?」

「うぐ」


 あ、否定はしないんだ。私に会えて嬉しいわけだ。ふーん。口元を押さえて笑いをこらえながら子供の顔を覗き込むと、ぷいとそっぽを向かれた。それでも顔は赤いのバレてるけど。


「ほら、また抱っこしてあげるからきなー」

「……あんまり、メスに抱き着くのは良くないと思う……僕、オスだし」

「へー。意外とちゃんとしてるのね。前回はずっと抱き着いてたエロガキのくせに」

「う!る!さ!い!」

「はいはい。そんなにいい子ならもう寝なさーい」


 ぷくっと頬を膨らませて怒りながら尾びれをびたんびたんと打ち付けている駄々っ子を適当に宥めすかす。この子、気に喰わないことがあると尾びれに感情が出るのね。わかりやす。

 初めて会った前回と同じ小島のさらに小さな波打ち際で、子供を寝かせ、自分も隣に横になった。相変わらずふわふわの髪を梳いてあげながら唄うと、シャチの子はまたぐすぐすと泣き出してしまった。おかしいわね。私の唄には子守唄の作用はあっても、泣くように感情を動かすものではないのだけれど。ぎゅっと固く自分の手を握って泣いている様子に、今まで世話をしてきた子たちを思い出す。自分を押し殺して、うまく泣けない子はいつも苦しそうで、そのたびに今みたいに私が寝かしつけながら泣き方を教えていたっけ。その子たちも、もう死んでしまっていないけれど。


「おいで。力を抜いて、息をして。自分の中身だけに耳を傾けて。お前はどうしたい。悲しい、辛い、寂しい、泣きたい。どんな感情だっていいから、ここですべて吐いてしまいなさい」


 結局、また抱きかかえる格好になってしまったが子供は声を抑えることを辞めて、泣いて、泣き続けて、そしてようやく眠ったようだった。

 もともとこの子供の眠りは浅いようで、朝までに何度か苦しそうにしながら目覚めかけていた。そのたびに唄うと、また穏やかな寝息を立てて深く意識が潜っていく。私が眠れることはそもそもないのだけれど、安心した顔で眠る子を見ていると、少しは私の中の罪悪感や寂寥感なんて抱えていてもいいのかわからない澱のようなものが薄れていくような気がした。


「私は抱き枕としては合格をもらえたみたいで嬉しいわ。この上ない名誉ね」

「……」

「リアちゃーん」

「……」

「エロガキ」

「違う!」


 はいはいと、適当にまたまた私に抱き着いた格好で目覚めて顔を真っ赤にしてる子供をあやす。目元の隈は消えていないな。この子、私が寝かしつけていないときは本当に全く眠れていないんじゃ。

 そこまで考えて、頭を振って浮かんだ考えを霧散させた。天敵にそこまでする義理はないか。


「よく眠れたようで何よりよ。じゃあね。私はもう行くから」


 と、海に潜る前に今度は捕まった。誰にって、シャチの子に。腰にがっしりをしがみついている。


「お前は胸が好きなのかと思っていたけれど、ウエストの方が好きだったりする?」

「僕を変態扱いするな!」


 まあ、変態も何もこのくらいの子の興味ってそんな感じだと思っただけだけど。この子がわざとやってるわけじゃないことはわかって、こちらも煽って遊んでるし。というか、そもそも同属の前では泣けなくて初対面の私に縋るほどの行き場のない感情を抱えてるこの子には、その他のものに興味を持つ精神的余裕なんてきっとない。


「で。なーに。唄のリクエスト?」


 それくらいは聞いてあげると、そう聞いただけなのに、子供はぽかんと口を開けている。いや、お前が引き留めておいてなんだその反応は。そして、小さい口からのぞく歯の鋭いこと。定期的に本能的な恐怖を思い出させてくるな。


「次も、来てくれるの」

「お前が来いって言ったくせに」


 と、からかうための続く言葉を探して、やめた。子供の顔があまりにも苦しそうで、嬉しそうで。


「お前がそれで眠れるなら、また唄ってあげる」


 笑った子供の顔は、今にも泣きそうだった。


 ♦


「リアちゃーん」

「だから、ゼーラ。それ恥ずかしいって」


 先に横になってとんとんと横をたたけば、文句を言いながらも子供はすぐに隣にこてんと寝転がった。もう何回目だろうか。シャチの子の誰もいない孤島での寝かしつけは新月のたびに行われ、そのたびに子供が泣くことは減っていった。今では唄うとすぐに眠ってしまい、朝まで実に心地よさそうにしている。天敵のくせに素直で可愛いものだ。ただ散々からかって煽ったせいで、あっちも私をいなすようになってしまったのは解せない。そこは初心なままの方が可愛かったのに。

 今夜もこの子がゆっくり安心して眠れるように唄おうとしたとき、待ってと声がかけられる。


「夜更かししたいの?悪い子になったものねー」


 くすくすといつもの調子でからかうと思いのほか真剣な目で、でもどこか昏く陰った様子で子供はこちらを見ていた。


「ゼーラは僕がなんで泣いてたのか聞かないよね」

「聞いてほしいなら、聞いてあげるけど。話して、お前は楽になるの?」

「わからない、けど。ゼーラに話したいから、聞いて……お願い」


 曰く。子供には母がいた。それはもちろん生き物としては当然のことではあるが、怪異となると少し違ってくる。例としては私たちセイレーン。セイレーンは海の唄から生まれる。それは海流の轟音、生き物たちの泡となる呼吸、水面のさざめき、そして私たちとクジラの唄から。怪異とはそういった自然発生的な種が多い。けれど、シャチの怪異は生物よりの生態のようだった。だから、母親というものがいるらしい。

 話を戻そう。子の母は人間に殺された。ただの船乗りだと油断した。しかしその船は、捕鯨船でクジラを仕留めるほどの装備を持っていた。気づいたときにはクジラをも仕留める大きな銛が母親を深く貫いていた。子の力では自力で身動きがとれなくなった母を助けることも、動かすこともできない。ましてや、捕鯨船からの銛にすでに貫かれている。銛は母親に深く突き刺さったままで抜くことはできなかった。船に引き上げられていく母に逃げろと言われ、子は母の血の匂いの残る海をそれこそ溺れそうになりながら泳いでここの近海まで来たという。それからは合流できた仲間と身を潜めているそうだ。しかし、合流した仲間からは散々罵倒されたという。どうして助けなかった。人間ごときになぜ後れを取った。子どもであっても、海の覇者でなければならないというのに。そもそも母親は何をしていた。等々。間違ってもつい今しがた母親を亡くした子にかける言葉ではないだろうに。だから、この子は泣けなくなった。母が死んで、悲しくて寂しくて苦しいのに、共にいるはずの仲間がそれを許さない。絶対的な生態系の頂点としての自覚を子供に強いてくる。実に理不尽だ。

 子は続けた。眠ると死んだ母の夢を見ると。見たこともない凶器に貫かれて、海からずるずると無理やりにひっぱりあげられ、そのたびに刺さった銛が内臓を抉り苦悶の声と共に血が流れていく。そしてそれを何もできない自分が見ていて、夢を見るたびに母を助けられなかった弱い自分に耐えられなくて苦しくて泣きそうになると。けれど泣くことは許されないから、眠らないようにしている。

 どこかで聞いたことのあるような感情の吐露を他人ごとのように聞いていた。そうでないと、私が泣いてしまいそうだから。

 私にこの話をしたとき、子供はもう泣いてはいなかった。隈もよくよく見れば薄くなっていた。


「一緒にいてくれて、唄ってくれて、ありがとう。ゼーラ」


 もう、この子は乗り越えたんだ。私はもう必要ないかもしれない。


 ♦


 かなり長いこといたこの海域にも、なんだかきな臭い動きが出てきた。捕鯨船もそうだが、行き来する船の数が多すぎる。そして大きく、見るたびに見たこともない船が往来している。人間が何か大きいことをやろうとしている。ここはもう、安全とは言えない。移動するときが来た。


 仲間にどうにか頼み込んで、移動は今夜の新月まで待ってもらうことができた。つまりは、あの子供と会うのも今夜が最後になるだろう。前に思いついては即却下した案を、餞別として持っていくことにした。入り江には、ちゃぷちゃぷと楽しそうに尾びれを遊ばせている子供がいた。


「リアちゃんおいでー」

「はいはい」


 もう全てを諦めた顔で、でも素直に隣にくっついて横になる子供に名残惜しさを覚える。こんなに懐かれるとはなー。というかは、私がこんなに可愛がってしまうとは、誤算だった。仲間の世話は当然してきたけれど、別れがつらくて眠らなくなってからは群れの中でも少しずつ距離を取るようにしていたのだけれど。でも、この子とも、今夜が最後だから。


「あのさ。ゼーラって眠ってないよね」

「そんなことはないけれど。お前の抱き枕としてちゃんと一緒に寝てるわよ」

「嘘」


 起き上がった子供に両手を掴まれる。


「どうして眠らないの。いつも僕だけ眠ってる。眠れないのってすごくつらいんだよ。なのになんで」


 ああ。この子の泣きそうな顔は久々に見たな。


「僕がシャチだから、一緒は嫌だった?」

「……違うわ。誰かがいなくなる夢を、もう見たくなかっただけよ」


 子どもが目を見開いて固まった隙に、腕から逃げ出して息を吸う。


「ごめんなさい。ここにはもう来られない。今夜が最後。でもちゃんと寝かせてあげるから」

「待って、唄わないで!」


 子供の悲痛な制止に耳を塞いで空気を震わすと、一節もしないうちに子供の目が眠たげになっていく。お前はもう私が唄わなくても眠れるでしょう。でも。


「お前の種族は強い。そして長命でしょう。だから、また誰かを看取ることもあるかも知れない。その時に、もし眠れなくなったらこれを開けて。私の唄を、あげるから」


 私の唄を閉じ込めたオルゴール。これがこの先のこの子の助けになればいい。母の死を自力で乗り越えたこの子には必要ないかもしれない。だから、これは餞別というよりも私の未練。私の代わりにこの子に寄り添ってあげて。

 オルゴールを今にも眠りそうな子供の近くにおいて、潜ろうとすると今までにない力で腕を引かれた。それこそ、砂浜まで引きずられるほどの。当然こんなことをする奴は、シャチの子供以外にいないのだけれどあの子はもう眠りかけていたのに、と振り返って唖然とする。子供は私を掴んだ手と逆の腕で自分の腕を思いっきり握って絞めつけていた。それこそ、爪が肉を抉って血が出るほどに。痛みで眠気を殺していた。


「すぐにやめなさい。そんなことしてまで、私を引き止めなくてもお前はもう眠れるから」

「やだ」

「反抗期にも限度があるでしょう。いいから両方の手を放して」

「そしたらゼーラがいなくなっちゃう!」

「……いつかはみんないなくなるのよ。お願いだから、聞きわけて」

「ゼーラはもう誰かがいなくなるのが嫌なんだよね、寂しいんだよね」

「違う」

「一人になっていくのが怖かったんだよね」

「……違うから、もう。離して」


 これ以上は耐えられない。優しいこの子にあんなこと口走らなければよかった。


「僕と番になって。ゼーラ。絶対に、ずっと一緒にいるから」

 

 僕が貴女を看取るから。

 顔を真っ赤にして力の加減も忘れてギリギリと腕を締め付けてくるこの生意気な子が愛しくて仕方がない。この子なりに頑張って紡いでくれた言葉なのだろう。けれど、そんなことはまずもって不可能だ。シャチだとしても、私の腕の中に収まるような小さい子にクジラやこの子の母でも太刀打ちできない人間の相手なんてさせられない。だからと言って、この子を私の群れに連れていくことも、私がこの子の群れに行くことも無理だ。被食者と捕食者、生態系の上と下。それが本来の関係性なのだから。

 けれどもしかしたらと。そう思ってしまったことがこの子に申し訳ない。なにより嬉しいと思ってしまった自分がどうしようもない。この子はこの子で長らえてくれればいい。私なんて荷物があったらこの海ではもう自由に泳げない。それにきっと、この子は母親への憧憬と恋慕が混ざってしまっている。きっともっと大きくなれば、私のことなんて忘れるし眼中にすら入らないだろう。それでいい。

 少しからかいすぎたかなーと反省しつつも逃げるためにはよく回る口を動かすしかない。


「マセガキ」

「はあ!?」

「そういうのは、せめて私の尾びれより大きくなってから言うことね。でも、それでもお前が本気で私を口説いているのなら」


 するりと近づいて、わざとリップ音を立てて子供の頬に口づけた。案の定、頬を染めるどころではなく赤くなって固まった。その隙に、子供の両腕を外してやる。


「大人になってから、もう一度私を口説いて見なさいな。そしたら続きをしてあげる」


 トントンと私の唇を軽く撫でるように見せつけてやれば、呻きながら視線を彷徨わせるから面白くなってもっとからかいたくなるけれど、それよりも罪悪感が押し寄せる。


「だから、ごめんなさい」


 またこの子が自身を痛めることがないように強引に抱き込んで、耳元で直接唄を吹き込んだ。

 こてんと眠ってしまった子の腕の手当てをして、髪を整えてやる。今夜はいつものように穏やかな寝顔は拝めなかった。掴まれた手首にはくっきりと赤黒い痕ができていた。それくらいまでに必死だったのかと目が覚めた後のこの子を思いため息をつく。今まで別れは全て死別だったからか、別れ方の正解がわからない。この子が今後、健やかであれるようにと思っていたのだけれど、とんだ失敗をしてしまった。

 気づけば朝が近くなっていた。急いで海に潜る。振り返りたいし、起きるまでそばにいたいしで正直未練は有り余っているが、じくじくと痛む手首を見るとあの子にしてしまったことを自覚する。群れに戻るまで、痛む手首をわざと自分でもきつく掴んで泳いでいた。

 どうか、あの子がこの夜が終わっても眠れますように。


 ♦


 あれから何度も海域を移動した。けれど、もう安全地帯なんてものはどこにもなかった。どこへ行っても捕鯨船の影が見えるし、積んでいる銛も以前とは違う。人間が打ち込むものではなく何か大きな筒のようなものから何本も、何度も、より獲物を逃がさないよう改良された凶器が仲間のクジラを貫いた。そして何故かどこへ行ってもすぐに居場所がバレてしまう。深海に居ればいいとは言うが、クジラとてずっと潜っているわけにもいかない。呼吸のために海上に出る必要がある。そしてそこを待ち伏せたかのように狙われる。クジラが群れから減っていけば、当然私たちセイレーンの庇護者も少なくなる。海流で視界が悪い時、夜の気配にのまれた時。気づけば一人、また一人と、セイレーンも姿を消していった。海中に血の匂いを残して。

 捕鯨船はそれからも増え続け、それと同時に捕鯨船よりも大きくまた違う武装をした船も多く見るようになった。何が起きているのか、海の中からはわからない。ただ、人間も何かを成長させ続けている。

 生き残った皆、疲れていた。だからだろう、突然仲間のセイレーンの一人の叫び声が聞こえた。その子は網にからめとられ身動きが取れなくなってしまっていた。最近は空から何かが落ちてきて海の中でも外でも爆音と強烈な光をともなって爆ぜていく。巻き込まれた生き物は息絶え、海中には淀んだ何かが滞留し、爆ぜた飛来物は粉々になって落ちてくる。そのせいで海の中自体がめちゃくちゃになって視界もおかしくなって、目の前で誰かが罠に嵌るまで捕鯨の網に気づけなかった。よく見ると何隻もの船に囲まれ網で囲い込まれようとしていた。網が閉じる前にと泳げば出口に向かって何本も銛が打ち込まれる。もう、人間の前に出る出ないの話ではなくなった。残っているセイレーン全員で海上に出て唄う。一人は風向きを変える唄を、もう一人はクジラを鼓舞する唄を、私は眠りの唄を。けれど、いくら風向きが変わっても、錨をすでにおろしているのか船が以前より重いのか、全く動かない。勢いづいたクジラが閉じかけている網の囲いを突破しようとしても爆音とともに打ち出される銛に何頭も貫かれて沈んでいく。

 そして、ぱん。と聞きなれない音がした。と思ったら、一人のセイレーンが胸から血を流して息絶えていた。人間の興奮した雄叫びが聞こえる。その人間たちは、細長い筒状の何かを持っていた。あれは、何。銛ではない。水中であんなものは見たことがない。でもきっと、あれが今セイレーンを殺した。また、ぱん。と音がした。もう一人のセイレーンが沈んだ。おぞましい歓声が聞こえる。興奮と熱狂のせいなのか、打ち出される銛の轟音のせいなのか、私の唄は誰にも届いていない。

 残ったクジラたちはせめて子供だけでも逃がそうと、銛を打ち込まれながらも船にぶつかっていったり、網を無理やり通ろうとしたり、私に賭けて盾となって銛ではない何かを撃ち込まれながらも庇ってくれたりと懸命に対抗した。せめて私の唄が届けば、助かるかもしれないのにと縋るような思いで喉が潰れて血を吐くまで唄い続けた。 

 人間たちが眠ったのは全てのクジラを殺し尽くした後だった。その安堵感と銛を打ち出すことをやめたから轟音が止み眠ったのだろうが、私の唄が効くには遅すぎた。私以外は皆、死に絶えた。仲間の死体と船の上で倒れ伏す人間で静まり返った海の色は、赤だった。


 ああ。もう疲れた。もういい。クジラたちが網の上にのしかかって軋ませたおかげで網からでることはできた。感謝をする相手はもう死んでいて何を言うでもないけれど。重なる死体から流れる血を纏いながらのろのろとあてもなく泳いだ。また生き残ってしまった。どうして、皆先に逝ってしまう。看取るのはもうたくさんだというのに。

 どれくらい、どこを泳いだのかはわからない。ただ眠りたかった。目を閉じて眠ってもう二度と目が覚めなければいいのにと、そう思って茫洋とした頭で泳いでいたら突然尾びれに激痛が走った。

 痛い。痛い。痛い。

 見ると細い銛で尾びれが貫かれていた。気づかぬうちに海面すれすれを泳いで船に近づいてしまったらしい。しまったと思ったときには網で海中から引きずりあげられていた。


『見ろ!本当に人魚だ!』

『さっきの奴らが言ってたことは本当らしいな。あいつらは二人?撃っちまったらしいが』

『どうする?捌くか?』

『いや、捌くよりいい使い道があるだろ。人魚だぞ』


 何を言っているのかわからないが人間たちが興奮しているのはわかった。いや、だからといってなんだ。もうどうでもいいか。クジラもセイレーンも仲間は皆殺されてしまった。体を刺されるとこんなに痛かったのか。そんなことも知らなくて、さぞ辛い思いをしたであろう仲間に会いたくて、謝りたくてたまらない。喉も潰れてもう唄えない。ここまで死に損なっておいてこれ以上生きたいとは思わない。


 見上げた空は新月の夜だった。

 ああでも。ただ。あのシャチの子がどうか、今夜も眠れていますように。

 そう昏い月に祈って、目を閉じた。


 ガゴンと鈍い音とともに大きく船が揺らいだ。人間たちが騒ぎ出す。うるさいな、もう私は眠りたいのに。

 ガゴン、ガゴン。ああ。うるさいうるさい。仕方なしに目を開けると真っ黒い大きな背びれが海面から見えた。サメかと思って本能的に身を強張らせるが、違う。サメにしては大きすぎる。もっと性質が悪いもの、クジラの天敵。シャチだった。

 ぶつかってきたシャチは撃ち込まれる捕鯨船の銛を器用にかわしながら船にぶつかり続ける。そして、バゴンというひときわ大きい音がして船が転覆した。海中に落ち、助けを求め怯える人間たちを容赦なくシャチが噛み殺していった。また赤いな。私も多分、ああやって喰われるのだろう。まだ網の中だし尾びれは刺されてるし。なんてすべてがどうでもよくなった頭で見ているとシャチがゆっくりとこちらに近づいてきた。よくよく見ると、かなり大きい。流石にクジラの中でも最大と呼ばれるものには届かないが、平均的なクジラの大きさくらいはある。こんな奴がいたのか。

 シャチは網をたやすく噛み切ってさらに近くに寄ってきた。この距離なら手が触れられるじゃない。いや。今更逃げるも何もないか。もう、いい。

 しかし、このシャチ何故かなかなか私を食べない。ん?と謎の時間の後、本当に何を思ったのか知らないが、背びれを器用に私に引っ掛けて泳ぎ出した。待て待て、どこに行くつもり。そして何してる。子供にでも食わせる気か、とも思ったが、拉致られた先に着いたのは海中からしか辿り着けない洞窟だった。洞窟の上は外へと開いているようで、新月の空が見えた。陸地に座らされ周りを見たが、このシャチ以外はいない。何か見覚えのあるものを見た気がするが、それは気にしないことにして。本当になんなんだ。

 さらにおかしいことがまだある。くいくいと私の髪を弄ってきたり、きゅいきゅいと鳴きながらすり寄ってきたりと、なぜか懐かれている気がする。困惑しかない。

 何がしたいのかと尋ねようとして、喉に激痛が走る。そうだ、もう声が出ないんだった。喉を押さえて目を硬くつむり痛みに耐えていると、横から知らない声が聞こえた。


「もしかして、声が出ない?ああ、尾びれも痛めていたか。手当てをするからもう少し我慢して」


 思わず声がした方を見ると、白に黒が混じった柔らかそうな長い髪の男性型の人魚がいた。心配そうにこちらを気にかけてくるが、時折大きな口からちらつく歯にびくりとする。この感覚前にもあったような気がする。というか、シャチの怪異はシャチの形態と人魚の形態、両方になれるのか。初めて知った。


「ゼーラ?ゼーラ?」


 ぼーっと考えを巡らしていたら、至近距離で名前を呼ばれていた。なんで、知って。

 なんて。なんとなくわかってはいた。ここに着いた時に大切にされていたとわかるオルゴールを見つけてから気づいてはいたけれど、もし違っていたらと思うと怖くて。襲われて奪われていたらとか、死骸の中から拾われたのかも、とか。あの子までいなくなっているなんて思いたくなくて。必死に予防線を張っていたし、もう最悪な考えしか浮かばなくて。それに、あんなに小さかった子がこんなに成長しているなんて思わないじゃない。私の前では眠れないと泣いてばかりでいたのに。

 ちゃんと、生きていてくれた。


 リア。

 口の動きだけだったが、それでも伝わったようでシャチの美丈夫は目を細め穏やかに笑って声もなく泣く私をずっと抱きしめていた。


 ♦


 目が覚めた。

 は?とあり得ない状況に混乱する。目が覚めたってなんだ。私は眠れないはずで、眠らなくてもいいのになんで。いや、本当に眠ったの?でも頭は今までにないほどすっきりしていて、とまで考えてまた別のことに気づいた。重い。

 何がって、私の上にあいつがのしかかってるからだ。人魚型だからシャチの時ほどの巨体ではないが、それにしたってこいつ成長しすぎだろう。私の倍はないか?


「ゼーラ?起きた?」


 嬉しそうにすり寄ってくるこのでかいのどうしよう。遠い目をして日が登った空を見ていると、それが不満だったらしく頭を掴まれて無理やり視線を合わせてきた。誰だ、こいつに力技を教えたの。


「あんた、昨日はずっと泣いて、泣きつかれて眠っちゃったんだよ」


 前の俺みたい、とくすくす笑われる。うるさいな、と一応は一睨みするが全く響いてない。


「ゼーラを見つける前に通った海域で何頭ものクジラとセイレーンの死体を見たよ……あんたの仲間だと思う。だから、急いで血の匂いを追いかけたらあんたも殺されかけてて、今度は間に合ってよかった……」

  

 安堵だろうため息と共に抱きしめられるが、素直に助けてくれたことを感謝することはできなかった。

 ああ。そうだ。皆殺されて、また私だけ。もう誰も看取りたくないと思っていたのに結局こうなる。死ぬならば、私も一緒が良かったのに、どうして。


「泣いていいって教えてくれたのはあんただよ。ゼーラが泣き止むまで、泣き止んでも、一緒にいるから、どうか投げやりにならないで。俺はずっとあんたに会いたかった。眠れない俺に唄ってくれたようにあんたにも眠れる居場所を作りたかった」


 私に都合のいいことばかり言ってくる腕の中が酷く優しくて、今まで押し込めていた感情が決壊する。本当は仲間が死んでしまうたびに泣きたかった。みっともなくとも亡骸に縋って謝りたかった。でも海はそんな猶予なんて許してはくれない。血が流れたらすぐに離れないともっと恐ろしいものが来て、また仲間を殺していく。何もできなくてごめんなさい。見捨てるしかなくてごめんなさい。せめて、あなたたちが眠れるように唄いたかった。けれど、もう唄えない。リアにも唄ってあげられない。それに、私の唄なんてはなから誰にも届いていなかった。それがこの有様だ。


「声が出なくても、ゼーラの唄は俺が全部覚えてる。それに、クジラやセイレーンほどじゃないけれど、シャチも唄うんだよ。だから、今度は俺が貴女に唄うから」


 だから、一緒に眠って。


 ♦


「顔色もだいぶ良くなったね。尾びれの傷も治ってきたし。でもここから出るのはダメだから」


 リアに助けられてからずっと同じ洞窟にいる。シャチが本当に唄えるなんて思わなかったけれど、リアの唄は私には良く効いた。テノールが心地よいリアの唄を最後まで聞けたためしがないけれど、夢を見ることもなく気づけば朝であいつに抱き枕にされているのがここ最近の現状だった。唄はもう無理だけれど、リアがあのオルゴールを本当に大事にしてくれていたみたいで、それがひどく嬉しくて、ならまあいいかな。もうあの子は私がいなくても眠れるのだから。

 いつまでもあいつの世話になるのも悪いし、もうここを出ようか。

 あいつは今、出ているからこの隙に行ってしまおう。相変わらず別れの仕方がわからないな、私は。

 久々に尾びれを思いきり動かしてみたけれど大丈夫そうで、とぷんと海中に潜った。この海中洞窟、連れてこられた時も思ったが迷路見たくなっている。たしかこっちか、と適当に泳ぎ出したら案の定迷子になった。まあ、時間をかければ出られるかと振り返ると特大サイズのシャチが眼前にいた。思わず固まるが、襲わずになんか不満げに小突いてくるからリアだろう。シャチの形態だとリアなのかどうかの区別がつかない。そもそも何故あの巨体で音も気配もなく泳げるの。出口、と口だけで聞くと案内してくれるそうなので背びれに掴まってついていく。が、また元の場所に戻ってきていた。私出口って言ったんだけど。


「出ちゃダメって言ったよね」


 普段のこいつから聞かない低音が発せられてやらかしたらしいことを察した。尾びれまで陸にあげられて洞窟の壁に追い込まれる。背中の壁と、左右を塞ぐこいつの腕と垂らしている髪で視界が埋まる。


「ゼーラ、ちゃんと言わないとあんたは逃げるからもう一度言うよ。俺と番になって。俺はずっと貴女といる。もう誰も貴女に看取らせることはしない。万が一、俺が先にゼーラより先に死ぬようなことになりそうなら、真っ先に貴女を食べてあげるから。一緒にいて。逃げないで」


 正面から口説かれて顔が熱い。リアが近い。やっぱり逃げたい。でも距離をとるにはこいつに囲われてるし、マセガキだーって揶揄って躱そうにも声は出ないし。待って、そもそもこいつの感情って恋慕じゃなくて母親と混ざってるんじゃ。


「ゼーラを母や姉のように見たことはないから。最初から、貴女が好きだよ。いい加減わかってくれないかなあ……ねえ。約束通り、もう一度貴女を口説きに来たよ……あれからずっと探して、ようやく会えた。どうか、頷いて」


 顔の熱が収まらない。死ぬ間際にもこいつのことを考えていた時点でダメだったんだろうな。子供の頃から必死に私を引き留めて気にかけて、ここまで成長して惚れさせるなんてずるいじゃない。

 強くなってくれたのだろう。私たちにとって恐怖の塊でしかない捕鯨船をものともしないくらいに。私の為だと自惚れてもいいだろうか。どこかで生きていてくれれば、眠れるようになってくれればいいと思っていたけれど、本当は一緒に居たかった。私の唄で安らいで眠ってくれたあの子とは離れたくなくて、あの手首の痛みをこれまで忘れたことはなかった。

 もしもの時は食べるとまで言ってくれるなんて、ずっと見送ってきた側からすればこれ以上なく嬉しかった。

 ゆっくりとうつむいてた顔をあげれば、そいつはひどく穏やかで悲し気な顔をしていた。こいつは死別の辛さも、置いていかれる側の感情も、泣けない痛みも眠れない苦しみも全部知っている。その上で、私のために言葉を選んでいる。

 どうしようもなく、好きだと思った。やっぱり色々と手遅れだった。

 目を逸らしながらもゆっくりと頷くと、今度は泣きそうに笑うあいつに抱きしめられる。今更だけど、記憶の中の小さかった子に口説かれて惚れてしまい抱きしめられているという背徳感に耐えられなくなる。無理。ダメ。なんとなくだけどこいつの母親に謝りたい。というか絶対に謝らないといけない気がする。とりあえず離れようと身じろぎしていると抱きしめる力が強くなった。待て、中身が潰れる。


「どこ行くの。また逃げるの?」


 こいつの沸点低すぎないか。こんな子だったっけ。不満なときははっきり不満だと、尾びれと顔に出ていたから元々こうだったけ。それに力が伴うと厄介この上ないな。情操教育もっとしておけばよかった。いや、そもそも二度と会う気はなかったんだけど。


「今、何か変なこと考えてるよね。というかゼーラ。約束したこと覚えてる?覚えてなくても俺が覚えてるから構わないけど。本当いたいけな子供の俺に酷いことしてくれたよね。あんな逃げ方されて許すわけないよね。それに、あんたに性癖歪められた責任もとって欲しい。もう番なのだからあんたは俺と一緒にいて。クジラは良くてシャチはダメとか今更言わないよね」


 さっきまでのめしょめしょしたお前はどこ行ったんだ、可愛くないと詰りたくなる。が、凄まれながらも妖艶に微笑まれて唇をトントンと撫でられる。

 誰だ、こんな誘惑の仕方こいつに教えた奴。


「続き。してくれるんでしょう?」


 そんなの、忘れたわ。






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