【超短編小説】カメオ出演の女
地下鉄の風は独特の匂いと湿度で吹きつけて、ホームに立つ人たちの底に溜まった疲労とか倦怠とかをかき混ぜていく。
自分の中でかき混ぜられたそれは、ドレッシングとかスノードームみたいに全身へ広がる。
がおんがおんと音を立てて電車が走り去るのを視界の端で捉えていた。
目の前には女がいる。
何もかも十人並みの、しかしほんの少し綺麗な女だ。
この女の綺麗さは、たぶん陽が昇る直前の消えかけた蝋燭の火なのだと思った。
「ホテル、行きませんか」
おれはまだ値段の付かないその女が無性に欲しくなった。
その女を抱くなら今だし、抱かないのなら永遠に抱かない。
走り去った電車の引き風で、腐肉の様な湿った埃の臭いが肺を満たす。
まるで胸の中に花が咲くようだ。
その白い顔をしたその女に見覚えは無かったが、何となく自分の上司の様な気がした。
明確な事は分からない。
自分の仕事も役職も分からなかった。
名前すら曖昧だった。
アンタは誰だ?それを知りたい。
女の目はおれを見ているようでいて、そのずっと後ろを見ているようでもあった。
目線は合っているようですれ違っている。
おれも女の後ろの方へと視線を伸ばした。
「私ね、この仕事と並行して、ソープランドでも働くことにしたの」
薄いくちびるで喋る女の声に聴き覚えは無い。
「そうですか」
答えた自分の言葉も薄皮に包まれたみたいに聞こえる。
アンタは誰で、おれは何だ?
地下鉄の駅は湿気と埃の混ざった独特の臭いで満たされている。
きっとあの暗い地下道の奥には、大きなラフレシアが咲いている。
そんな気がした。
女はその花を見ているのか?おれの後ろ、地下鉄の線路が敷かれた暗い地下道の奥に咲く、大きな赤い花を。
「どこのお店ですか」
訊かないのもご挨拶だろう。
女に出した社交辞令は愛想笑いに熨斗紙をつけて送り返された。
「高級店だよ、意外かも知れないけど」
既に訓練された感のある笑顔が笑う。
「良いと思いますよ」
上司であると認識している女が大衆店勤務は厭だと思った。
それは存在理由の曖昧な自分の為かも知れない。
女が、おれを見た。
「お店の事は訊いても、指輪については訊かないんだね」
凍った枝のように青白く細い指に光る、金色の指輪を見せながら女は呟いた。
呟いたと言うには明確に聞かせる目的のある声だった。
その声は独特の匂いと湿度でおれをかき混ぜる。
おれの中で埃が舞い上がって、きらきらと光りながら、また沈殿していく。
「あんまり、関係無いですから」
関係が無い。それがソープランドなら尚更だ。
指輪をつけたままと言うオプションだってあるだろう。
そこにある価値が本物かどうかは問われない空間だ。
セーラー服、スクール水着、ナース服。
いつ誰が着ても構わない。
名前だってどうでも良いように。
アンタが、誰かもわからないように。
「そっか」
女は俯いた。
薄く笑っていた気がする。
やがて擦り減っていくその女は、地下鉄駅で青白い光を放ちながらこちらを見た。
ゆっくりと顔を近づけて唇を重ねると女は爆発四散した。
やっと目が合った時には、女の馘の上に大きなラフレシアが咲いていた。




